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    仁川にかわ

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    仁川にかわ

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    #ブラネロ
    branello

    かなしいから泣いている ──ああ、最悪だ。
     ネロは目の前に立ち尽くす人物を視界に認め、胸中で呟いた。
     咄嗟に顔を背けども既に瞳から止めどなく溢れる涙は見られている。鼻を鳴らすのも、赤く腫れた瞼も、隠しようがない。止まれ、と思えば思うほど次々に雫が頬を伝い言葉もまともに紡げない。言い訳もままならず、また、最悪だ、と繰り返した。
     深夜は二時も回り、子供はもちろん大人も就寝している時間帯。酒飲みはバーに赴いて夜通し酒を舐めているかもしれないが何もなくこの廊下を歩く者などいないだなんて油断したネロが間違っていた。
     裾が土埃に汚れているところを見ると、厄災の傷で飛ばされて戻ってきたところなのだろう。こんな状況でなければ災難だなと笑うことができたが、今はタイミングの悪さに舌打ちを漏らしそうだ。
     立ち尽くす人物、つまりブラッドリーは近すぎも遠すぎもしない距離でぽかんと口を開けている。何とも間抜けな面だ。何ともない態度で通り過ぎてくれたらよかったのに、変に立ち止まってしまったせいで身動きが取れない。ぽろぽろとみっともなく泣いている姿など見られたくないのに、大きな目でしっかりと捉えられている。そんなに珍しいか、と問い詰めたくなるが、ああ、確かに珍しいかもしれない。過去ブラッドリーが数えきれないほど瀕死で帰ってきたときも、届かない言葉が惨めで情けなくて泣くことなどできなかったからだ。この男の前では、一度だって泣いたことなどない。
     さぞかし哀れだろう。大粒の涙を流し、顔を歪めて唇を噛んでいる様は。消え去ってしまいたい。逃げ出したい。それなのに、ブラッドリーの視線で磔にされたように動けない。
    「……ど、うした、よ。それは」
     普段の調子も遠く、やや吃りながらやっとブラッドリーが口を開いた。それ、とは拭えど拭えど乾かない涙のことだ。ネロはひくつく喉を必死に抑えて言葉少なに答えた。
    「……呪い」
     嘘は言っていない。昼の任務で呪いを受けた。賢者や子供たちを庇うあまり己のことに手が回らなかった。他の者が呪われるより良かったけれど、非常に面倒なものであることに違いない。それ自体は大したものではなく専門家であるファウストも危険なものではないと言っていたが解呪の手段がないと眉を下げていた。時間経過で解けるものらしいし、こちらの不手際であるのだからファウストがそんな顔をする必要はない、と笑ってみせたがこうした事態に陥ると厄介な呪いにかかったものだと気落ちする。気落ちして、やはりまた泣けてきた。
     曰く、感情が増幅する呪い。元々任務先が人を寄せ付けないために呪いの気配が渦巻いていた森だったがために適任であるファウストの属する東の国が担当することになっていた。細心の注意を払っていたが魔法植物が吐き出した霧をまともに浴びてしまいこの始末。感情は感情でも負の感情を肥大化させ長引かせるというもの。故に、マイナス思考なネロにとっては実に効果のある呪いだった。
     直後は大したことがなかったが、一人になるとどうしても思考が増える。夜もふけると、更に。庇われた賢者や子供たちに余計な心配をかけてしまったこと。気を遣わせてしまったこと。先生役であるが歳下であるファウストにも迷惑をかけてしまったこと。それらがぐるぐると渦巻いて涙となって現れた。
     普段ならばこんなことにはならない。それはそうだ。何故ならそういう効果だからである。けれどもその事実を認識しても上手く切り替えができず、感情をコントロールすることは困難だった。
     泣いてしまうことにまた自己嫌悪が重なってより止まらない。胸がじくじくと痛んで止まない。制御できない感情に苛立つ。
     彼らは優しいから、ネロを思い遣ってくれていることは理解している。だからこそ、それをきちんと受け止められずに嫌悪感に変えている己に腹が立つ。呪いのせいだとはわかっていても、根本はネロの感情だ。そういうことさえ考えなければ、なんてことないはずなのに。そうあれない自分が嫌で堪らない。
     一度落ちてしまえば、やり場のない悲哀が過去を悪戯に掘り返してくる。よせばいいのにコレクションされた後悔を、痛みを、わざわざ目の前に突きつけてくる。思い出さなければいいだけだ。そうわかっていても自分ではどうしようもない。
     泣いているのは、呪いのせいだ。間違いではないが、正解でもない。結局のところ受けた者に依るのだから。けれど、そういうことにしておきたかった。こんな惨めな姿をまともに見られたくなかった。仕方のないことだとして流されたかった。
     腫れた目元が重たく、蒸したタオルでも乗せようと外に出たのが間違いだった。一人きり部屋に篭るべきだった。そうしていれば、ブラッドリーに見つかることもなかった。どうしてか、他の誰に見つかるよりもブラッドリーの前で泣くことが一等避けたかった。
    「あー……っと、ネロ。お前の部屋、行っていいか?」
     気まずそうにブラッドリーが言う。自室のある階ではなくこの階に来たということは、飯でもねだりに来たのだろう。だが、今は満足に振る舞えそうにない。気を紛らわすための料理はしたくない。それに、一人になりたかった。だから、声には出さず首を振る。断られたブラッドリーはそれでも退かず、つま先で床を叩いてはネクタイを引っ張ったり弾いたりしていた。
     お前はこんな風に揺れる男じゃないだろう。ネロは無責任に非難する。たかだか一人の男、たかだか取るに足らぬ料理屋にどうしてそうも慌てるのだ。いつも通りスマートに、賢く、その場をいなせばいい。こんなにっちもさっちも行かぬことになる前に、とっとと過ぎ去ればいい話だ。こんな、ブラッドリーでは理解できない感情に縛られる男に首を突っ込まずに、適当に放ってくれたらいい。
     それなのに、ブラッドリーはつかつかと近寄りネロの腕を取る。水を掬うように、拾い上げる。おずおずと指を当てて、噛み締めた唇を慰る。さながら、脆いシャボン玉に触れる子供じみた仕草だった。
    「あんま、口噛むな」
     まるで心配しているかのようだ。跡のつきかけた唇にそっと触れられると、強張っていた体から力が抜けていく。
     戸惑っている、のかもしれない。だって、今までこんな風にされたことなんてない。幼子をあやす、みたいな。そんなこと。本当に小さかった頃でさえ、そういった扱いを受けた覚えがない。
     ゆったりと腕を引かれると、そのままに体が勝手に従う。放っておいて、一人にして、頭の中ではそう訴えるけれどもっと奥底の隠された心は、独りになることを恐れていた。昏く冷たく澱んだ海へ沈みゆくことを怖がっていた。誰にも知られぬよう、ひっそりと蹲っていたい気持ち。ひび割れる胸を癒してほしい気持ち。どちらも本物だからどちらにもなれない。
     ブラッドリーが手を引くから。そんな理由だけを言い訳に、なすがまま着いていく。灯りもつけていない部屋に二人足を踏み入れる。ぱたん、と扉が閉まると空間が断絶されたように思えた。魔法舎じゃないどこか。今までいた場所と違う何か。ブラッドリーとネロではない別の人物になったかのごとく、意識がふわふわと浮いていた。
     現実味がない。夢の中に漂っている気分だ。手も足も、己のものであると思えない。心も、体も。感じたことのない言い得ない感覚がそうさせている。柔く握られた掌だったり、まだ残る唇の記憶だったり。頬を濡らす感触だけがこれを現実だと証明していた。
    「泣くな。ああ、いや、違う……泣いててもいい、から……我慢すんな」
     手が解かれたと思えば、遠慮がちに抱きしめられた。今度こそ驚愕する。動けなくなる。心情的にも、身体的にも。拘束する腕の力は強くないけれど、背を撫でる手の温かさに、抗い難い心地よさを感じていた。
    「何も、聞かねえから。何も言わなくていい」
     一定のテンポでとんとん、とんとん、と肩を叩く。時折思い出したように頭を撫でる。シャツに涙が滲むのも厭わず、ブラッドリーは隙間なくネロを抱いていた。
     自分とは違う体温。その揺り籠に揺られて、甘えが顔を出す。もっと、だなんて願っても許されるのだろうか。少しだけ、ほんの少しだけ、自ら頬を擦り寄せる。ぴくり、小さくブラッドリーの体が反応して、回された腕の力がより強まった。
    「今日は、畑みてえなところに飛ばされてよ。俺様が上から落っこちてきたもんだからその辺のジジイが腰抜かしてな。そんでまあ、腰抜かしちまったもんだから小屋まで連れてってやって。そしたら、礼に、つってその畑のもん寄越して」
    「……うん」
    「なんか、芋みてえなやつ。キッチンに置いてきた。明日にでも使ったらいい。ジジイが言うには甘いらしいから、小せえのも喜ぶだろ」
     ブラッドリーは、日記を諳んじるように語る。穴が空いて、冷たい風の吹く隙間を埋めていく。普段通りを装いすぎて反対に違和感のある語り口で、今日の出来事を話す。合間に相槌未満の声を挟んで、耳を澄ませていた。低く落ち着いた声音はひどく心地よく、波立った水面を静める。
     ネロのために用意された言葉たちは、五線譜のない子守唄によく似ていた。柔い胸に突き刺さった楔を溶かして、傷口を庇う。らしくない不器用さで注がれる情は、慣れぬものなのにいとも簡単に馴染んでいく。
     その頃には嗚咽を堪えることもなくなり、まさかこの男がこんな風な姿を見せるとは、と他人事のように感じていた。
     ネロが落ち着きを取り戻したと察したブラッドリーは、体を離して濡れたままの瞼を指先で拭う。射抜くピンクスピネルは常になくこちらをしかと見つめていた。
    「お前にそういう顔されると、どうしたらいいかわからなくなる」
     整った眉を曲げて、ブラッドリーは呟いた。自信に満ちた声でなく、威風堂々とした態度でもなく。夜の片隅に落とされた枯葉が、風に吹かれるように。
    「……きっと、俺も何度も泣かせてきたんだろうな」
     否、と否定しかけて、ふと立ち止まる。
     空気さえ凍る北の大地では、涙も出なかった。凍えて、震えて、唇を噛むことしか出来なかった。
     慟哭を寝床に吸わせ、軋む心臓を抑えつけ、ただ嘆く。相棒の顔を保てない己の不甲斐なさに、消えぬよう消えぬよう祈れど強風に煽られる炎に、近づきすぎて焼け焦げてしまった枯れた心に。
     あれは、泣いていたのだろうか。
    「見られたかねえんだろうなってのはわかってたよ。けど、見えないところで泣かれるよりずっといい」
    「……面倒だろ。こんなの。あんた、いかにも慣れてなさそうだったし」
    「慣れねえよ。お前が泣いたとこなんか見たことなかった。どうやったら泣かせずにすむのかもわかんねえのに、慣れるもんか」
     泣きたくなんかなかった。昔も、今も。頑丈に蓋をして押し込めた感情が流れ出ていってしまうようで。割れて穴の空いた器を目の当たりにするみたいで。受け止めきれない己を嫌でも自覚するしかないから。
     与えられる信頼。向けられる親愛。全部持っていたいのに、取りこぼしてしまう。それが嫌だった。
     ブラッドリーは残酷だ。魔法舎で出会った心優しい魔法使いたちと違って。なのに、どうして、同じものをくれるのだろう。非情さを持っていながら、どうして情を与えるのだろう。どうして、いつだって、温もりを教えてくれるのだろうか。こんなものを知らずにいたらもっと楽でいられた。知ってしまったから、苦しくなった。まだ百年前に置いてきた体温を覚えているから、この胸にもたれたくなる。
     もたれてしまえば。
     張り巡らされた蜘蛛の糸、それにかかった小さな虫のように。逃げられなくなる。逃げたくなくなる。捧げることでこの身を満たしたくなる。食われると、朽ちると知って尚、またあの日々を繰り返すのだろうか。
     それは。
    「──ッ!」
     腕の中から抜け出そうとして、阻まれた。苦しいくらい締め付けられて息が詰まる。溺れそうなほど熱が伝わるのに、あっさりと解放されて呆気に取られた。感じた熱は一瞬で、名残もない。
     一歩、ブラッドリーが後ろへ下がる。つま先一つ分の距離。まだ灯の付けられていない暗がりではモノトーンの髪色に表情は隠れてしまった。
    「お前はどうしたい?」
     ブラッドリーが、呟く。瞼は閉じられて、煌々と眩しい瞳の色も見えない。
    「手放したかねえけど、お前が望むなら止めない。けど、お前が望むなら、好きなだけそばにいてやる」
     揺らぐ、揺らぐ。蠢く、蠢く。胎の中を、心が暴れ回る。やはり、ブラッドリーは、残酷だ。
     ネロは決断ができないから、天秤に乗せられたどちらも選びきれないから、裏切ることになったのに。
     粘ついた感情の海があぶくを立てて決壊する。防波堤を無視して濁流する。栓は既に呪いが壊した。溢れて、汚してこの心臓を濡らすのは一体名を何と言うのだろう。
     自分で何かを選ぶのは苦手だった。選ぶということは切り捨てるということ。捨てた先をいつまでも目で追ってしまうから、結局抱える荷物が多くなるだけだ。だから流されることを望んだ。こちらの意思など無視して引っ張られることを好んだ。それはネロが犯してきた怠惰の罪だ。
     怠惰であったから、いつしか背に負うものが重たすぎて潰れた。自業自得だ。そして、それすらも他者に是非を委ねた。許さないで、と。どうか、裁いてくれ、と。きっと、ネロはブラッドリーに殺されたかった。
     平穏を願ってその手から離れた。離して欲しくなんかなかった。呆れるほどそばにいたかった。苦しくて息ができないから忘れたかった。どれもこれもネロのわがままだ。
     数多ある気持ちの中、唯一名前がわかるものがある。
     嫌悪だ。誰に対してって、己に対して。
    「……っ、ぅ、う」
     ああ嫌だ。また涙が落ちてきた。止めよう止めようとしても止まらない。不細工な鳴き声を殺そうとして、噛んだ唇から血が滲む。
     ブラッドリーは、呆れただろうか。未だ変われないネロのことを。無様で薄汚れた男のことを。そう思うと、目頭が余計に熱くなった。
    「ああ、くそっ! そうじゃねえ、落ち着けって、ネロ!」
    「ぁ、……ブラッ、ド?」
    「悪かった。俺が悪かったよ。わかった、もうお前が嫌っつっても俺ァ離さねえからな。いいな?」
     前方に体ごと引かれたかと思えば、二人してベッドに座っていた。ネロはブラッドリーの膝に乗り上げる形になっている。おっかなびっくり手探りだった先程とは違い、がしがしと乱暴に頭をかき混ぜられる。
    「俺が勝手に決めるんじゃ、意味がねえと思った。……けど、お前を泣かせたいわけじゃない」
     そう言って、びしゃびしゃに濡れた頬にキスをする。まるで親が子を慰める情景を思わせた。
    「いや、じゃ、ないのか。こんな、面倒なこと」
    「嫌なわけあるか。面倒なことも、鬱陶しいことも、ネロならなんだっていい。お前だから、全部許す」
     お前だから。
     その台詞に単純に喜びを見出せるほどもう若くも幼くもなかった。相棒の座は自ら捨てた。寄せられた信頼も期待も裏切った。もうブラッドリーとは何も関係のないただのネロに、そんな言葉をかけるほどの価値があるとは到底思えない。
     自分で自分のことを大切に思えないから、そんな風に優しくされると、どうしたらいいかわからない。罪悪感が芽生える。後ろめたさに襲われる。騙している気にさえなる。
     お前の思うネロは、どんな形をしていた?
     今も、同じ形に見えるか?
     鏡を見てもわからない。ぶれてぼやける輪郭は定まった試しがない。どれがネロで、何がネロなのか。
    「なんか、またややこしいこと考えてんな? もっとシンプルでいい。俺はお前を気に入ってんだよ。好きなんだ。だから、こうしてる」
    「……もう、あんたのものでも、ないのに? 俺は、もう昔のままでいられないのに」
    「あのなあ。情ってのは理屈じゃねえんだ。そりゃ最初は飯がうめえだとか居心地がいいだとかそんなんがあったけどよ、今更てめえがどうなろうとなかったことにはならないのさ」
    「だから……だから、何だってんだ」
    「好きになっちまったもんはしょうがねえ。惚れたもん負けって奴だよ」
     ため息と同時に、顎がつむじに乗せられる気配がした。ブラッドリーがくるくると眼下にある毛先で遊んで、首筋に落ちる。重力のままに肩口に頭を押しつけて、言葉を反芻していた。
     理屈じゃなく、シンプルに。
     ネロの脳内は出口があるのかもわからない迷路のようで、そうしろと命じられてもはいそうですかとはいかない。入り口で躓いて、同じところをぐるぐると回り続ける。──と、いうか、だ。
    「……ん?」
    「うん?」
    「惚れ……何だって?」
    「あー……」
    「ブラッド」
    「悪ィ。口が滑った」
    「!?」
     ブラッドリーは露骨に目を逸らした。思わず顔つきが険しくもなる。口が滑ったとは何だ。どういう意味だ。言葉の綾というやつなのか、それとも。その先を考えて自滅した。
    「ばかじゃねえの……」
     シンプルに飲み込めと言ったのはそちらであるというのに、更に思考の入り口を詰まらせるようなことを言ってどうしろと。このままでは一生出口に辿り着けそうもない。六百年かけてもクリアできず終いの迷路は難解化を極めていた。
     だんまりを決め込むつもりなのか、ブラッドリーは口を開かない。なのに、掌はそのままネロの背に触れたままだから片もつかない。布を隔てて胸板に共鳴する鼓動も、脈動も、声なき言葉だ。けれどもはっきりと声を聞かなければ何もわからない。四方八方塞がれて、右往左往とするばかり。
     少しずつ、壁を切り崩していく。未だ離されないこの体の意味だとか。今更、に含まれた理由だとか。
     だんだん飲み下す事柄に足場が乱れてきて、不安になってブラッドリーを見上げた。そうすると、困り果てたのを前面に押し出してようやっと目が合う。
    「……あんたは、さ。俺にどうして欲しいの」
    「要求があった方が楽か?」
    「まあ……楽、だよ。それこそ、今更じゃねえか。今更、惚れた腫れただの、何だのって。今更考える気にもなんねえよ」
    「考えろよそこは」
    「だってさ。俺の中ではあんたが一番なんだ。ブラッドが、一番重たい。どんな感情より……どんな関係より、重たくて。他のどれとも同じじゃないから、何て表したらいいか見当もつかない」
     あの頃はそれしか知らなかったから、これがきっと愛なんだと思った。憎悪より醜い執着じみたものを抱いて、愛なんかじゃないと否定した。仮初の、空虚な平穏の中で。無理矢理に押し込めた忘却の中で、やはりあれは愛などではなかったと確信した。逃げてしまうくらいなら、忘れてしまうくらいならば、こんなものは。
     魔法舎で生活していくうちに親愛を得た。友愛を得た。それらはブラッドリーへ抱いていたものとは全く別物だった。
     誰かを心の底から深く恨んだのも、憎んだのもあれっきり。身を滅ぼすほど想ったのも、あれきりだ。
     愛だ恋だと浮つく感情であるならば、血錆に塗れた足枷を解き放ってくれてもいいのに。そうしてくれないから、きっと違う。
     じゃあ何なのかって、知るものか。ネロの心を育てたのはブラッドリーだ。水をやるだけやって、咲いた花に名もつけずに、いつしか枯れた根を今も持て余している。そのブラッドリーが何か求めるならば、まだこの枯れた花にも行先があろう。
    「……なあネロ。それはとびっきりの口説き文句ってやつか?」
    「ち……ッ、げえ、だろ。多分」
     しかしブラッドリーは事もあろうか真面目な顔をしてとんでもないことを言い出した。ひっくり返りそうになる喉を必死で抑える。口説いたつもりなど微塵もない。どこをどう聞けばそんな風に捉えられるのだ。
     ブラッドリーがネロの顎を掬う。キスをする一歩手前のワンシーン。これこそ、まるで口説かれているみたいだ。
    「つまり、ネロにとって、俺様が一番で特別で唯一だって事だろ?」
     違うか、と問われて、返事ができなかった。
     一番で特別で唯一。ネロの中に存在するそれは、喜も哀も引っくるめて、確かに寸分違わずブラッドリーの輪郭を作っていた。
     認めようと認めまいと、どちらにせよ変わらぬ事実であり真実。違わない。その通りだ。拾われた日から、ブラッドリーが撃ち抜いたネロの胸には、ブラッドリーでしか埋められない銃創がある。懇切丁寧に開けられた穴は、歪な形をしているから他の誰かじゃ隙間が空いて風が吹く。
     新しく考えるまでもなく、改めて考えるまでもなく。忘れたくても忘れられないから、捨てたくても捨てられなかったから引きずるしかなかった現実だ。
     それならば迷路を抜け出すまでもなく目に見えてわかる。既に、知っている。
    「けど、あんたに釣り合うようなもんじゃないよ。もっと汚いし、醜い」
    「馬鹿だな。いい男ってのはンな狭量じゃねえよ。全身全霊で俺を想う奴を、汚ねえから醜いからって切り捨てたりするもんか」
    「……いい男、って、自分で言うのかよ」
     尊大な台詞とは裏腹に、静かで、繊細で、温かな声だった。からかい混じりに混ぜっ返すが、言葉尻が震えていたのは誤魔化せない。
     ブラッドリーは、また、そうやってネロを拾い上げる。
     このまま埋もれていくのだと、誰にも知られず死にゆくのだと諦めた体を、心を。雪の中から掘り出して、手を取るのだ。
     これは過去の再演か、それとも。書き換えられた脚本ならば、また新しい結末が待つのだろうか。
     これは、期待?
     飽きもせず期待してしまうことへの、絶望?
     それでも夢見ようとする愚かさへの、嘲笑か?
     ネロは目の前の男を持て余している。ずっとだ。何が正解で何が過ちか。全て失くしてからでないと気付けない。だから、今この手に与えられたものを失うまでは、この瞬間の正誤は暴かれない。
     誰か導いて欲しい。正しい方へ。平坦な道へ。けれどもその依存が、怠惰が地獄への道筋だともう理解していた。
    「ブラッド」
     なので、理屈より理性より欲望を優先させた。腹の奥で渦巻く憂いを吐き出せないから、たとえ間違いでも過ちでも構わないと本能が叫んでいる。これは呪いのせいだから、と言い訳をして。
     何を選んだって答え合わせは幕引きの後になるなら、今だけは。今夜だけは。甘美な罠にかかっていたい。
    「明日、肉でもなんでも好きなもん作ってやるから。その……もう一回、だけ。強く、抱きしめて」
     自分としてはかなり勇気を出して羞恥に塗れながら言ってみたのだが。ブラッドリーはありありと呆れた顔をしていた。瞬間激しく後悔してやっぱり今のナシ、と取り消そうとするも、懇願通り強く強く抱きしめられて何も口にできない。
     そっと、髪をすく。長い指が、髪に絡んですり抜ける。かさついた掌が頭を撫でる。ああ、抗えない。痛いくらいに心地いい。訳もわからず、ツン、と鼻の奥が染みた。
    「肉は食いてえけどよ、別に、何もなくたっていい。ただ、乞えばいい。いつだって叶えてやるさ」
    「……でも」
    「ああ、そうだな。そっちのがお前が楽だってんなら、そうする。『山盛りのフライドチキンが食いたい』、ってな」
     先回って、ブラッドリーが遮った。
     思えば、彼はネロに欲しがることを覚えさせたがった。生きたいと、死んで欲しくないと、そう願うことを教えた。無欲な人間は盗賊に向かないから。欲望も飼い慣らせないままでは北では生きていけないから。
     北から離れ、東で生き、盗賊業からも足を洗えば、無欲は命取りにはならない。だからだろうか。等価交換でなければ欲しがれないネロをブラッドリーは許した。だけれど、施しなど与えるもの与えられるも嫌いだろうに、ネロが差し出す対価を必要ないと言う。突き返された対価を捨てる先などない。それすらもわかって、受け取るふりをしてくれる。さあこれで取引成立だ、と。ままごとじみたやりとりを良しとする。
     きっと、全て見透かされているのだ。本当は無我夢中でがむしゃらにブラッドリーを求めたい。それなのに己に価値を見出せないから奪えもしない。その二つを、どちらとも見通されている。
     こんな雁字搦めの厄介で面倒な男に、惚れているなどと抜かすのだ、この男は。
    「……物好きだね、あんたも」
     心臓を、細い糸できゅう、と締め付けられる感覚がした。心の奥、がらんどうの薄暗い部屋にポツンとある燭台。小さな蝋燭に火を灯され、燃えて、熱くなる。ちりちり、じりじりと。溶け出した蝋が流れるように、目尻から雫がまた溢れた。
     途端にブラッドリーは慌て出した。落ち着き払った様子はどこへやら、ばたばたと忙しなく手を動かす。その変わり様が可笑しくて、小さく笑った。
    「な、なんで泣く。まだ何も言ってねえぞ、おい」
    「ははっ……いや、違うよ。悲しくて泣いてるんじゃない」
     だって、涙はこんなにも温かい。
     笑って、少し迷って、片腕だけを回してコートの背を握った。まだ困惑気味のブラッドリーは、小さく息を吐いて、それから力尽くで隙間なく抱き寄せた。どれだけ近付こうと一つになれやしないことなど、理解している。理解しているから、離れがたい。
     明日の朝までには消える夢だ。
     二人は東の料理屋と、北の魔法使い。それだけ。ただそれだけ。
     だから明日の朝までは、許されたい。
     愛し愛しと言う心を黙するには、まだ、泣きやめそうになかった。
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    SPOILERイベスト読了!ブラネロ妄想込み感想!最高でした。スカーフのエピソードからの今回の…クロエの大きな一歩、そしてクロエを見守り、そっと支えるラスティカの気配。優しくて繊細なヒースと、元気で前向きなルチルがクロエに寄り添うような、素敵なお話でした。

    そして何より、特筆したいのはリケの腕を振り解けないボスですよね…なんだかんだ言いつつ、ちっちゃいの、に甘いボスとても好きです。
    リケが、お勤めを最後まで果たさせるために、なのかもしれませんがブラと最後まで一緒にいたみたいなのがとてもニコニコしました。
    「帰ったらネロにもチョコをあげるんです!」と目をキラキラさせて言っているリケを眩しそうにみて、無造作に頭を撫でて「そうかよ」ってほんの少し柔らかい微笑みを浮かべるブラ。
    そんな表情をみて少し考えてから、きらきら真っ直ぐな目でリケが「ブラッドリーも一緒に渡しましょう!」て言うよね…どきっとしつつ、なんで俺様が、っていうブラに「きっとネロも喜びます。日頃たくさんおいしいものを作ってもらっているのだから、お祭りの夜くらい感謝を伝えてもいいでしょう?」って正論を突きつけるリケいませんか?
    ボス、リケの言葉に背中を押されて、深夜、ネロの部屋に 523

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