サマータイム 東京の夏がこんなに暑いだなんて聞いていない。
最近の蓮はずっと拗ねたような気持ちでいる。リビングの固い床にごろんと寝転がる。ちょうどエアコンの風がいちばんあたる場所だ。そこにふて寝よろしく、手足を伸ばして伏している。行儀がわるいのは承知の上。頬を寄せたら、ひんやりとした感触があって割と気持ちがいいのだ。こまめに掃除されているフローリングに寝そべるのにはぜんぜん抵抗がない。
このところの蓮の行動に、一緒に暮らすアルゴナビスの皆からは注意が飛んでくる。いわく、そんなところで寝転がるのはやめなよ、体が痛くなるからせめてソファで寝なよ、冷房で喉を痛めるよ、などなど。
皆、やさしいひとたちばかりだ。純粋に蓮を心配してくれることくらいわかっているが、諭されるほど気持ちはどんどん頑なになってしまう。ほっといて、と突っぱねたくなってしまうのだ。
「だって暑いの無理……」
不機嫌を押さえ込むことができず、口に出してしまった。くちびるをとがらせている。出身である函館で生活していたときはさほど、暑さについて意識したことはなかった。冬の寒さや降雪については閉口していたものの、今のように拗ねることはしない、だって仕方ないことだから。けれども、七月に入ってからは暑すぎて、我慢の限界がきてしまった。
床でうだうだと転がっていると、ちゃっちゃっとかわいい音が近づいてくる。蓮のつまさきにふわっとする毛の感触。ぽんちゃんだ。
「ぽんちゃん、こっちにおいで」
蓮が体を起こして両手を広げると、ぽんちゃんはとことこと近づいてくる。抱きあげると「きゅわん!」と鳴いた。夏は毛が抜けてボリュームが抑え気味だが、それでもふかふかの気持ちのいい毛並みだ。だっこするとぽんちゃんの体温がじわっと伝わってくる。ふかふかの体は夏には不向きなはずだ。蓮よりもはるかに暑いだろうに、ぽんちゃんは毎日ごきげんに過ごしている。途端にへそを曲げている自分が恥ずかしくなってきて、のろのろと立ち上がる。せめてソファに座ろうと思ったのだった。
背もたれに体を預けて、膝の上にぽんちゃんを座らせていた。頭や顎のあたりをなでると機嫌よく尻尾をふっている。そのうち、こてんと転がってお腹を見せてくれるので、遠慮なく触れた。ふわふわの毛並みを堪能しつつ、蓮はぽんちゃんに話しかけている。
「ねえぽんちゃん、この暑いのっていつ終わるのかなあ」
「わん!」
「七月でこれなら、八月ってもっと暑いよね……。いやだなあ……。ぽんちゃんもそう思うよね?」
「きゅわん!」
我ながら、しょうもない愚痴だ。けれども反応してもらえるのは嬉しい。ぽんちゃんは蓮の話の内容はわかっていないと思うが、名前を呼ばれたのはわかるようで返事をしてくれるのだろう。愚痴なんて聞かせたくないのに、このときばかりはとまらなかった。気持ちがくさくさしてしまう。
「……夏って全然たのしくない」
「えー、そうかなあ。楽しいこといろいろとあるじゃん」
――後ろから声が聞こえてきて、ぎょっとした。
びっくりするあまり、蓮はソファから飛び上がりそうになっていた。ばっくんばっくんとうるさく鳴る心臓をなだめつつ、そろそろと振り返れば声の主である万浬が立っている。
「あ、万浬、おかえりなさい」
「ただいま。あー、外、めちゃくちゃ暑かったあ」
手で顔をぱたぱたとあおぐしぐさをしている。もう片方の手に大きめの紙袋を持っていて、買い物でもしてきたんだろうか。
万浬はソファにどさっと荷物を置くと、キッチンへと向かう。冷蔵庫を開閉する音が聞こえたと思えば、両手にグラスを持ってすぐに戻って隣に座る。ひとつを「はい、蓮くん」と渡してくる。麦茶だ。ありがたく受け取れば、グラスの中の氷がからんからんと涼しく鳴った。口をつけるとよく冷えていておいしい。あっという間に飲み切ってしまった。万浬も同じように思ったようで、隣でほっと息をついている。落ち着いたらしく、蓮の膝の上のぽんちゃんに手を伸ばす。頭を撫でてひとしきり構ってから、蓮の方を向いた。
「ところで蓮くん。さっきはなに? 夏は楽しくないって?」
「う、うん。まあ……」
さっきの愚痴を蒸し返されるとは思っていなかった。かっこうわるいところを見られてしまったから、ばつがわるい。ごまかすように、手元の空のグラスを回した。意味もなくまだ溶け切っていない氷の音を立てる。からころからころ。
「別に文句言いたいわけじゃなくてさ、蓮くんはそうなんだあって思っただけ。……俺は、夏は結構好きだよ。稼ぎ時だし、祭りもイベントいっぱいあって楽しいし」
万浬は普段から活動的だ。暑くなったからといってそれは変わらない。やや日焼けをしてきた顔はほがらかに笑っていて、たしかに満喫しているようだ。でも。
「毎日暑すぎだよ……」
「めちゃくちゃ嫌そうな顔するじゃん……。まあそれには同意するけどさ」
むうっと口をとがらせていたら苦笑されてしまった。あんまりにも子供じみていたかもしれない。そんな蓮をよそに、しばらくの間、万浬はなにやら考えていたようだった。やがて、かれは空になったふたつのグラスを持つと立ち上がった。キッチンまで戻してくると「ちょっと待っててね」と言い、ソファに置いていた紙袋をつかんでリビングから出て行った。
はて、なんなのだろう。
首をかしげてしまったが、待っててと言われた以上、待つしかない。――時間にして五分か十分程度だろうか。おまたせ、と汗まみれの顔をした万浬が、リビングに勢いよく入ってくる。目をぱちぱちと瞬かせてしまった。万浬はずんずんと蓮に近づいてきて、膝の上のぽんちゃんを抱き上げた。もう片方の手を蓮に差し出してくるので、深く考えずに手を取ってしまう。掴んだかれの手はじんわりと熱い。
「……万浬?」
「蓮くん。せっかくだから、夏の楽しいことしない?」
え、なに、どういうこと。そう言った疑問を口にする前に、さっさと玄関まで引っ張られてしまった。
家を一歩出た途端、熱風と呼んでさしつかえない空気が体中にまとわりついてくる。
暑い。
蝉がうるさい。世界があかるくてまぶしくてしかたない、目をすがめてしまった。ぎらぎらとした光が肌をちくちくちりちりと刺してきて痛い。一歩、また一歩と進むたびに汗がふきだしてくる。自分のこめかみを汗が伝っていく感触が気持ち悪い。
げんなりしつつも、万浬の手を離すタイミングを失ってしまった。連れられてやってきたのはシェアハウスの裏手にある庭だ。庭と呼ぶにはずいぶんとせまい。以前は洗濯物干し場や駐輪場として使われていた場所だったのだろう。今は太陽の向きが変わって日かげを作っている。
今まで、あまり庭に出入りしたことのない蓮だったのだが、それでもそれには気がついた。外の蛇口からホースが伸びている。目でたどっていくと、ホースの先端が浸かっているのは。
「ちっちゃいプールだ……?」
「へへへ〜、びっくりした?」
ぽかんとしている蓮を見て、万浬ははしゃいだように笑う。
庭には丸い形のプールがある。子供用のビニールプールより少し大きめだ。ぽんちゃんが数匹入っても余裕があるくらい。水面はゆれて、たぷん、ちゃぷちゃぷと波打っている。
蓮は近寄って手をひたしてみた、ひやんと冷えた水がここちいい。こんなに暑い日だから特にそう思うのだろう。
万浬は蓮の隣にしゃがむ。水で遊ぶように手でちゃぱちゃぱとしぶきを飛ばして、そして。
「じゃあ、蓮くんにぽんちゃん、水遊びしよっか」
同じ学部の友達に犬を飼っている子がいるんだよ。この間、このところ暑いからぽんちゃんが夏バテしないか心配だって話をしたらさあ、だったら水遊びはどうかって言われたんだ。友達の家に、使っていない犬用のプールがあるから安く譲ってくれるって言われて。せっかく買ったけど、友達の家の犬、どうも水浴びがあんまり好きじゃなかったみたいでさ。
「あ、今日、万浬が出かけてたのって、このプールを引き取りに行くため?」
「そうだよ。譲ってもらって正解だったなあ、折りたたみで準備も簡単だったし。……ぽんちゃんも気に入ってくれたみたいだしさ。ねー、ぽんちゃん」
「きゅわん!」
げんきなお返事だ。鳴き声からも楽しそうなのがわかってほほえましい。
さきほど、ぽんちゃんをプールに入れてみれば、最初は戸惑っていたがすっかり慣れたようだ。プールの中を行ったり来たりしたり、蓮や万浬の足の上に乗ったりとせわしない。
「……でも、ぽんちゃんのプールなのに、僕らも入っちゃってよかったのかなあ」
最初はプールに足だけをつけていたのに、暑さに耐えきれなくなってしまった。なし崩しに腰まで浸かってしまっている。ふたりとも、Tシャツにハーフパンツと楽な格好をしていたから、あまり抵抗がなかった。
「いいんだよ、暑いんだから。気にしない気にしない」
気になってたずねてみれば、あっさりとした返事だ。気にしないというならそうしよう。ちらっと横目で見やれば、万浬はずいぶんほっとしたような顔をしている。ひんやりしていて心地いいのだろう。蓮だって同じだ。
万浬は小さなじょうろを手に取ると、プールの水をくみ、ぽんちゃんに向かってかける。ほら、雨が降ってきたよ、と、ふざけたように言う。蓮も手ですくってぱしゃぱしゃと水を飛ばした。水を浴びたぽんちゃんは嬉しそうにはねている。濡れた体をふるわせて、蓮と万浬に遠慮もせずに水しぶきを飛ばしてくる。その度にふたりとも、わあっと声をあげてはしゃいでしまった。
(なんか、たのしいかも……)
たのしくない、なんて口にしてしまったが今や心変わりをしていた。常に日が照っていて、あつくるしい風は吹くものの水に浸かっているせいか、さっきよりもいくぶん過ごしやすい。ほんのりとした涼しさとぽんちゃんのかわいさを堪能しているところが大きいからだろう。
それが露骨に顔に出ていたのかもしれない。万浬はくすくすと笑いだした。
「万浬、なあに?」
「いやあ、ぽんちゃんだけじゃなくて、蓮くんも楽しそうだし気持ちよさそうだなあって思って」
図星だ。我ながらずいぶん素直に頷いてしまっていたが、取り繕ったって仕方ない。そんな蓮の様子に、万浬はほっと胸を撫で下ろしたようだった。
「よかったあ。ちょっと強引に連れ出しちゃったかなあって、すこし心配だったんだよね」
そう言って、万浬は足元にいるぽんちゃんを構いはじめた。楽しげに、濡れた毛を洗うようにわしゃわしゃといじっていれば、ぽんちゃんがぷるぷると体をふる。水しぶきが万浬の顔めがけてかかる、わあっと声をあげてのけぞったと思えば、かれはびしょ濡れになった顔を向けてきた。
「もー、顔びしゃびしゃ」
文句を言うような口調で、けれども愉快げに笑う。けらけらと、あんまりにも明るく笑っているから、蓮もつられてしまった。おたがいに顔を見合わせて笑っていたら、やがて万浬が、
「ね、蓮くん、夏は楽しいこともあるでしょ?」
「そうだね。……万浬の言うとおりかも」
暑くてうんざりするのはしょうじきな気持ちではあるけれど、それでも万浬の言うことも間違いではないのだと思う。その方がきっとわくわくするのだろうから。それから、蓮は手を伸ばす。水しぶきをあびて、まだ濡れている万浬の頬に指で触れてみた。ひやりとしたしずくと体温がまざっていて、不思議な熱が宿っている。
指さきで夏を感じていた。