手の中の月 月があかるい。
鈴鳴支部の屋上から、荒船はふかい青色の空を見る。浮かぶ月はおおきく、清らかにしろくひかっていて不思議。さえざえと冷えているようにも、ほんのりと熱をおびているようにも見えていた。
月は夜空にゆがみのない円を描く。荒船に、イーグレットのスコープのレンズを思い出させる。自分にとっては馴染みぶかいものだが、情緒がないと言われてしまえばそうかもしれない。
ぼんやりと眺めてしまう、きれいなものだと感心してもいる。もとから月や星をじっくりと見る趣味はないから、余計にそう思ってしまうのだろう。きっかけを作ったのは村上だ。ちらりと横を見やれば、村上の横顔が目に入る。かれの精悍な顔つき。
「……でっかいなあ」
荒船の隣で、まじめな顔で月を見ていた村上が言う。ぽつんとつぶやかれた言葉はずいぶんと率直で気取っていなくて、おとなっぽい横顔とそぐわない。なんだか面白く感じた。そうだな、と笑いまじりに頷いていた。
荒船がこうして月を見ているのは村上が教えてくれたからだ。月が出ているって。
――今日は昼から鈴鳴支部に遊びにきていた。村上からさそわれたのだった。
「前に、荒船と一緒に見た映画がすごくよかったから、また面白い映画があったら教えてほしい」
かれにそう言われたら、しょうじき悪い気はしない。約束の日、荒船はいそいそとお気に入りの映画のディスクを持って、鈴鳴支部を訪れた。ようこそ、と出迎えられて、村上の自室に通される。挨拶もそこそこにさっそく映画を鑑賞しはじめていた。
「……お、もうこんな時間か」
映画は二時間弱で見終わったが、そのあとに、のんびりと感想を話して過ごした。そこから話題はころころといろんなところへ転がっていってしまう。気がつけば窓の外がうす暗い。すっかり日も暮れていた。時間はどんなときだって流れるスピードはひとしいはずだが、たのしい時はひときわ過ぎるのがはやい。またたきにもちかい。村上と過ごす時間をたのしいと感じるおのれのこころの、裏付けのようにも感じて、ちょっとだけ照れくさくなってしまった。
たくさん話をしていたから喉がからからだ。持参した飲み物はとっくに飲み切ってしまっている。荒船の「喉渇いたな」と言うひとりごとを聞いたのか村上が立ち上がる。飲み物取ってくる、と部屋を出たものの、すぐに戻ってきた。うっかりしていた、と言いたげに指で頬を掻いている。
「冷蔵庫になにも無いの忘れてた。そとで買ってくる」
村上は財布を掴む。一緒に行くかと尋ねてみたものの、かれは、
「いや、本当にすぐそこなんだ。自販機で買ってくるだけだから」
と、手をひらひらとさせた。かろやかにかれが部屋を出て行ったあと、ひとり残された荒船は室内をなんとなしに眺める。何度か来たことはあるが、いつも部屋は片付いて整然としている。きっちりしているなあと思っていたら、かれはぱたぱたと足音をさせて戻ってきた。ほんの数分、手持ち無沙汰になる前に戻ってきてくれた。誇張なしに本当にすぐそこ、だったようだ。
「鋼、おかえり。ありがとな」
荒船は、買ってきてもらったお茶のペットボトルを受け取る。蓋を開けて口をつければ冷たくてほっと落ち着く。半分まで飲んだところで、しばらく黙っていた村上が口を開いた。どうやら荒船がひとごこちつくのをまっていたらしい。
「荒船、この後ちょっといいか」
「いいけど……、なんだ?」
「まあ、いいから」
急に、はっきりしない物言いをする村上に荒船は少々戸惑ったものの、ふかくは考えずに立ち上がった。かれのやることなら何も心配はいらないだろう、という信用もある。荒船はかれについていくことにした。部屋を出る。
てっきり鈴鳴支部の外に出るのかと思っていたが、予想に反して階段をのぼっていく。古めかしい、ぶあつい鉄製のドアが開かれれば蝶番のきしむ音がひびいた。
「屋上?」
「荒船はここまで来たことなかったよな。こっちの方が見やすいだろうから……」
何が? 荒船は首を傾げつつ、村上に続いて、屋上のうすくらがりに一歩踏み出した。鼻先を少しだけ冷えた風がかすめる。季節は春先で、日中はあたたかいが夜にはほんのすこし冬の名残が残っていた。寒さに肩をすくめたとき。
「荒船、月が出てる」
村上を見た、空に向かって伸びている指、その先。たどっていけば、あかるくて大きな月が出ている。
「さっき、飲み物買いに行ったときに気がついてさ。今日の月、いつもより明るいし、でかいなあって思って」
「……そう言われてみたらそうかも」
普段から気にしているわけでもないが、確かに、記憶のなかではもうすこしささやかな大きさだった、ように思う。村上が言うならきっとそうなのだろうという補正も入っているかもしれない。
「がんばったら掴めそうじゃないか?」
村上が手を伸ばす。手をむすんでひらいて、荒船の前でとじた手を開いて、なんにもない手のひらを見せてくる。その、おどけたような仕草がどこかしら浮かれたようにも見える。いいことでもあったのだろうか。わからないが、機嫌がいいならいいことだ。かれがうれしいなら自分だってそう。
言いたいことはわかる。同意すると、かれはうれしそうに目をほそめた。それから村上は、
「荒船にも見せたくて」
「いや、俺が帰るときに見るだろ」
「それはそうだけど。……すぐ荒船に教えたかったし、一緒に見たかったから」
「それは……」
なんと言ったらいいのかわからない。浮かれた調子からかわって、今度はまじめそうな目で荒船を見るから、居心地がわるい。にげるように空を見上げた。
月はきれいだ。
しろくて清らかな光がふりそそぐ。くらいけれどあかるい世界。そこにふたりで並んで月を見ている。不思議なほど静かに感じた。ふたりそろって、話すことを忘れてしまっている。
どのくらいたったのだろう、きっと数分、もっと短かったとは思う。ぐう、と自分の腹の鳴る音がして、荒船は我にかえる。お互いに顔を見合わせた。村上はしばらくこらえていたようだが、我慢しきれなくなって、ふふっと小さく笑う。荒船もつられて笑ってしまった。
「……鋼、かげうらで飯食わないか?」
「いいな」
にこっと村上は笑う。あかるくて好きな笑顔だった。
建物の中へ戻ろうとして、荒船はふと足を止める。
夜空を見上げる。月はまだそこにあってかがやいている。さきほどの村上の真似をして、手を伸ばしてみた。手のひらを握りしめる。虚空を掴んだって手のひらにはなんにもありはしない、だけど。
「鋼」
かれに向かって手を差し伸べた。村上はびっくりしたような顔をするが、おずおずと手がかさなる。かたくて、自分と似たような大きさの手だ。やさしいあたたかさはじんわりと伝わってきていた。荒船の体温と混ざっていく。
手の中には月はない。けれどもかわりにたいせつなものが手の中にはあった。