「ちちうえ」
愛らしい呼び掛けに椅子の背凭れから体を浮かし、部屋の入口を振り返る。ひょっこりと書斎に顔を出した小さな我が子に相好を崩し、バッキンガムは開いていたパソコンを閉じた。
せっかくの休日だというのに無粋な仕事相手のせいで家族と過ごす時間が削られてしまった。悲しませるかもしれないと心を痛めながら「今日はあまり遊べないんだ」と伝えると、子らは意外にも平然としていて、寂しげな様子もなく、泣いてもくれず、「そっかぁ、おしごとがんばってね」と素っ気なさすら感じられる励ましをくれるだけだった。
窓の外ばかり見ていて、視線も合わない。
早くも親離れか、反抗期かと動悸が激しくなったが、どうやらこの数日の間に降り積もった雪にすっかり心を奪われていたらしい。
母である半身に「おそといきたい」とねだる姿に別れを告げて書斎にこもっていても、二つのはしゃいだ声が家の端に位置する部屋にまで届いてきた。夢中になりすぎて父の存在など忘れてしまったのではないかと不安になるほどの楽しげなものだった。
きちんと父を覚えていた子は飛び跳ねるようにちょこちょこと歩み寄ってくる。椅子に掛けたまま抱き上げて膝に乗せると、半身によく似た顔が嬉しそうに笑んだ。
「あのね、ゆきだままつくったらね、つめたくなっちゃった」
指先が赤く染った両手を左右の頬に押し付けられ、あまりの冷たさに思わず眉を寄せる。
「手袋はきちんとしていたんだろう?」
「びしょびしょになっちゃった!」
「随分と夢中になって遊んだな」
落とさないよう片方の腕でしっかり背を抱き、もう一方でまとめて子の手を包み込む。
「ちちうえはあったかいねぇ」
ぬくもりを分け与えていると、子は熱い湯に全身浸かったかのような満足気な声を出した。それからいそいそと膝から降り、部屋を出ていってしまった。
***
「父上」
つぎに顔を見せた上の子に呼びかけられ、バッキンガムは背後の椅子を動かして机から離れた。今しがたメッセージのやり取りを済ませたパソコンの電源を落とし、リビングへ戻るところだった。仕事相手に番号を渡しているスマートフォンの着信音も消した。一日の半分以上は過ぎてしまったが、これからの時間は家族のために費やすのだ。
狭い部屋の中ほどで自分に似た子と向き合うと、小さな下の子よりも幾らか大きな、けれどまだまだ幼い子どもの柔らかい手が、バッキンガムの右手をぎゅうっと掴んだ。
「雪だるま作ってたら冷たくなったんだ」
ひえた指先に苦い笑みがこぼれる。
「お前も手袋を濡らしたのか」
「ううん、さいしょから使ってない。母上は付けろっていったけど、あんなのしてたら雪がうまく丸められないじゃないか。マフラーも邪魔だったから外したし。たくさん着たら動けない」
「風邪をひくぞ」
「平気だよ、暑かったもん」
家の中は暖かく保たれているため普段から着衣の数は少ないが、雪にはしゃぎすぎて体がほてっているせいか、今は薄いシャツが一枚のみだった。
言葉に嘘はないだろう。下の子にしたようにぬくもりを分けようと抱き寄せた体はほかほかとしていて、冷たいのは指だけだ。汗をかいたのか、撫で付けてやった前髪が少し湿っていた。今は暑くても、じきに冷えてくる。このままでいては、本当に風邪を引いてしまう。
「もう雪遊びはしまいだな。着替えた方がいい」
「えー……。お仕事は? まだやる?」
「いいや、そちらもしまいだ。今度は父と遊んでくれ」
「いいけど。もっと早く終わってくれればよかったのに」
子は容赦ない一言を放つと、返す言葉もなく眉尻を下げる父を気にすることなく、手を握ったり開いたりしながら「あったかくなった」といって部屋を出ていってしまった。
***
「リチャード」
階段を上がっていく上の子を見守る半身に声をかけると、振り向いた顔はふんわりと微笑をみせた。
暖かそうな厚手のカーディガンを羽織っているが、頬は白く、いつもより血色が悪い。子らと共に屋外にいたせいで身体が冷えてしまったのだろう。指の先まですっぽりと袖に隠し、腕を組んでいる。
「もう済んだのか?」
「ああ。すまん、子守りをあんた一人に任せてしまったな」
「かまわん。見ていただけだからな」
「だが寒かっただろう?」
両手で頬を包み込むと、思った通りの冷たさだった。
リチャードはカーディガンの腕でバッキンガムの腰を抱くと、手のひらのぬくもりに目を閉じてほうっと息をついた。
「こども達ほどではない。あいつら、素手で雪なんて触って……まったく……」
ため息をこぼす唇も寒そうで、親指の腹でなぞってあたためる。だがリチャードには不快だったようで、ふた色の瞳が含みを持ってバッキンガムを見あげた。
無言で顎を上向ける仕草に気付き、口付けを送る。何度か繰り返すと、血色の戻った唇が緩く弧を描いた。
「小さいリチャードもヘンリーも、俺の元にきたぞ。手が冷たくなった、と言ってな」
「あぁ、俺が行けと言ったんだ。この家でいちばん暖かいのはお前だからな」
「そんなことはないだろう。暖炉の方が……」
「いいや、お前だ」
「リ……、ッ!?」
突如として襲いかかってきた凍てつくような感覚に、バッキンガムは身体を硬直させて目を見開いた。
セーターの内側、薄い肌着を掻い潜り、素肌に氷を押し付けられている。わけがわからず目の前のリチャードを縋るように見つめるが、半身は心配する素振りもなく楽しげに目を細めるのみだった。
腰に触れていた氷が背中を這い上がり、脇腹に触れる。全身に鳥肌が立ち、急激に熱が奪われていく。
「リチャード……ッ!」
「お前は本当に暖かいな」
しみじみとした声で、氷の正体がリチャードの両手であることは直ぐに理解できた。理解はできたが、振り払うことはできない。逃れたい苦痛だとしても、愛する半身を引き剥がすなど不可能だ。
「何故こんなに冷えている……」
「あの子たちにせがまれて俺も雪だるまを作ったからな」
「あんたもか……」
「お前がいたら、こんなに冷えなかった。俺たちを放っておいたんだ、少しくらい我慢しろ。家族を暖めるのはお前の役目だろう?」
「もちろんだ。だが、これは……いや、なんでもない。そうだな。俺はあんたの、家族のものだ……」
仕事に奪われていた時間を思い、神妙に頷く。
今は辛くとも、しばらく経てば熱が移るだろう。僅かな間だ。この程度のことで、半身として、夫として、父としての名誉が保たれるのならば容易いものだ。
きつく抱きしめると、肩に額を擦り付けたリチャードの忍び笑いが漏れ聞こえてきた。
階上からは騒がしい足音が響いてくる。上の子にはバッキンガムが促したが、半身にも言いつけられていたのか。子らは着替えを取りに上がっていたのだろう。すぐに下まで降りてくるかと待っていると、足音はふいにぴたりと止まり、代わりに「わぁ……あつあつね」と驚く純真な声が耳に届いた。