【まぁ、いいか。】◇◇◇◇
強い風が上げる耳障りな悲鳴が枯木の隙間を通り抜け、テントにばたばたと雪の塊が打ち付けられた。この様子では、まだ当分は足止めを食らうだろう。
「じゃ、おやすみ!」
ここは寒冷群島のキャンプの中。ホットミルクの香りが立ち込めるテントの中、そして、大人が二人収まるには、ちょっと小さすぎる毛布の中。
一方的に言い放って数秒と経たないうちに、イブキはすぅすぅと子供のような寝息を立てて、夢の世界へ旅立ってしまった。
人の気も、知らないで。
◇◇◇◇
珍しくタイミングが合ったので連れ立って狩りに出てきたはいいが、ターゲットを発見するより先に天候が崩れ始め、あれよあれよと言う間に猛吹雪になってしまった。なんとか視界を失う前にキャンプへ引き返すことはできたものの、吹雪は勢いを増す一方、狩りを再開できる見込みはまるで立たない。仕方がないので、私達は早期の再出発を早々に諦め、嵐が過ぎ去るまでテントに籠城することに決めたのだった。
「あああぁ~、さっむ……とんだ災難だわ、ったく」
しっかり着込んだカガチ装備の外套を脱いでこびりついた雪を落とし、帽子に詰め込んでいた髪を丁寧に伸ばす。不機嫌ながらも、私はようやく解放感と安堵で一息ついた。
「いやぁー死ぬかと思ったねぇ! まぁでも、たまには良いよねこういうのも。非日常~って感じでさ」
普段は頭装備を使わないイブキも、今日はさすがに頭のてっぺんから足までウルク装備だ。そのファー部分に絡んだ雪を、バッサバッサと遠慮なく払い落としている。彼女の周囲はあっという間に雪まみれになり、私の眉間にまた皺が寄った。
「良くないわよ……はぁ。ミルクでもあっためようかしら。あんた達も飲む?」
「いるニャ! 早よくれニャ、凍えて死んでしまうニャ~!」
「クゥン」
「ワフッ」
気持ちを切り替えようと思ってそう提案すると、イブキよりも先に、揃って鼻水を垂らしたオトモ達――私のガルク・アオイと、イブキのオトモであるカガミ・カシワが、一斉に沸き立った。奇跡の生還劇の功労者達である。彼らがいてくれなければ、今頃私達はみんなまとめてカチコチの氷像になって、寒冷群島の観光名所にでもなっていただろう。
「飲むー! ハチミツミルクー! わたしスパイスちょっと持ってるよ、これも入れようよ」
「……やるじゃない。見た目に依らずそういうトコはしっかりしてるわよね、あんた」
「えへへ、備えあれば憂いなしってね。うりゃーっ」
「ちょっと! 入れすぎ!」
長期戦を覚悟して持ち込める物は全て引きずり込んだので、テントの中は普段よりも狭かった。普段ならキャンプの外で見張りをしてくれるアオイやカシワも、今日ばかりはテントにしまっておかなければ、後で呪われても文句が言えない。
イブキやカガミがちょっとはしゃぐだけでも肩はぶつかるし物はひっくり返るし、何もしていなくても押しくらまんじゅう状態。早くこの騒々しいお子ちゃま達を静めなければ、おちおち休んでもいられなさそうだ。
「できたわよ。はい、ちゃんと両手で持って。両手でよ、分かった?」
「分かってるよぉ、すーぐそうやって子供扱いするー!」
「は? 子供ニャ」
「そうね。理解あるオトモを持って幸せ者ね、イブキ」
「キーッ!」
ミルクを並々と注いだコップを先に手渡し、癇癪を起こしかけるイブキの動きを封じた。先手必勝、計画通り。オトモ達も思い思いに湯気を立てるミルクと見つめ合い、鼻先を近付けて浮き足立っている。彼らには少し熱すぎただろうか。まあでも、ぬるいよりはいいだろう。
ようやく落ち着いて腰を下ろしたイブキと肩を並べて、ゆっくりコップへ口付ける。端をふうふうと念入りに冷まして、一口、二口。
「……ふぃー」
「……はぁ……生き返る……」
喉から胃へと熱々のホットミルクが流れ落ち、凍りついた全身に多幸感が満ちていく。二人してうっとりと吐いた溜息からは、まず少し入れすぎたスパイス、それから甘いミルクとハチミツの香りがふわりと漂った。
「辛すぎるかと思ったけどちょうどよかったね。あったまるぅ~」
「結果論でしょ。こんな時じゃなきゃ辛すぎなのは変わんないわよ」
「いいじゃん、こんな時なんだから」
イブキのおめでたさには呆れるばかりだが、まぁ、言っている事は間違ってはいない。ピリッと舌を痺れさせたスパイスは身体を内側からじんわりと温め、寒さと疲労で強張った筋肉を心地好く解してくれる。調子に乗って適当にぶち込んだだけのものを「よくやった」と誉めてやるのは癪なので、それは言わないのだけれど。
身体と気持ちが緩んだ途端、仄かな眠気を覚えた。まだ狩猟そのものは始められてすらいないのに、この極寒の中で右往左往する間に、随分と体力を消耗してしまったらしい。今はミルクのお陰で少し身体が火照っているくらいだが、そんな気休めの効果がすぐに消えてしまうのは分かりきっている。テントの外を吹き荒れる激しい風雪の音に耳を傾ければ、いずれまた寒さに震える羽目になるのだろうと、少し気が重くなった。
イブキに勘づかれないよう、小さく欠伸を噛み殺す。が、ばっちり見られてしまった。こういう時のイブキはやたら目敏いのだ。イブキはコップに残ったミルクを景気よく飲み干すと、一つ大きな背伸びをして、くすっと笑いながら言った。
「寝よっかぁ。起きててもする事ないもんね」
至極まともな提案にホッとすると同時に、ほんの少しだけムッとした。この大人子供に気を遣われるのは、未だにどうも気に入らない。しかし、状況を考えればそうする他ないので、反論する理由が見当たらない。
「……そうね。お先にどうぞ、私まだかかるから」
私は渋々、中身がたっぷり残った自分のコップを示してそう返した。イブキと違って猫舌な私は、沸騰寸前まで温めたミルクを一気飲みするなんて芸当はできない。それに、いくらその道のプロが設営した安全安全なキャンプ内に居るとは言え、テントをバタバタと叩き続ける暴風雪の中で呑気に寝こけられるほど、私の神経は図太くはないのだ。寒いし。
「ぴぃ……」
「ぷすぅ」
「はいはい、アオイとカシワも今日はお疲れ様。休んでていいわよ」
私達を背中に乗せて奔走してくれたガルク達にそこらの毛布をまとめて引っ被せ、上からぽんぽんと撫でてやる。仲良く寄り添って身体を横たえていた二頭のガルクは、ハンター達の匂いが染み付いた粗末な毛布のぬくもりに眠気を誘われたようで、やがて毛布の下から二頭分の静かな寝息が聞こえてきた。
私は元より眠りの浅い性分、一晩眠れないくらいどうということはない。夜遊びに精を出していればそんな日はいくらでもある。イブキを寝かせておいて静かに身体を休められれば十分だ。
しかし、イブキはどうやら、それでは不満らしい。
「それ飲んだら、ミドリさんも寝る?」
キャンプの備品箱から予備の毛布を引っ張り出しながら、ちびちびとミルクを啜る私の手元を妙に気にするイブキ。早く片付けろと言われているようで落ち着かない。
「……気が向けばね」
「えー、寝ないの?」
「だから先に寝てていいって言ってるじゃない」
「一緒に寝ようよ。寒いもん」
「あ?」
私は自分の耳を疑った。今、コイツは何と?
「別々に寝るよりさ、くっついて寝る方があったかいじゃない?」
私の耳は特に何も間違っていなかったようだ。イブキはさも当然のようにそう宣い、「何か問題でも?」とばかりに目をくりんと丸くして小首を傾げる。具合が悪くなってきた。
「……断る」
「なんで」
「なんではこっちの台詞でしょうよ。何が悲しくてあんたと添い寝しなきゃいけないワケ? 冗談じゃないわ」
「寝る時に寒いのって結構悲しいと思うけど」
「そういう話をしてんじゃないっての。大体、火の番が要るじゃない。これ消したら全員凍死よ、分かってんの?」
テント内に設置された簡易囲炉裏を指差し、私は思いきり眉をひん曲げた。この小さな炎が私達二人と三匹の儚い命を守っているのは厳然たる事実。異論を差し挟む余地などないはずだ。
「むぅ……」
ド正論に論破され、さすがのイブキも口を尖らせて黙りこくってしまった。私の勝ち。私は不満げにしょぼくれたイブキをフンと鼻で笑い、悠々とコップを傾けて勝利のミルクを味わった。――つもりだった、のだが。
「火の番ならボクがやるから、ミドリさんも寝たらいいニャよ」
「……へ?」
「ボク、カシワに乗っかってる間はしっかり寝てたのニャ。こんな事もあろうかと思ってニャ」
思わぬ所から現れたドヤ顔のダークホース、もといダークアイルー。カガミはいかにも「我が先見の明を讃えよ」と言わんばかりに、ふくふくのネコカガチ装備に包まれた胸をドヤッと張った。要は寝ていただけのくせに。
「どんな神経してたらあの吹雪の中で寝れるのよ……嘘でしょ……?」
「ほんとニャ。その証拠にほら、今もボクの瞳は爛々と輝いているニャ」
「悪いけど見えないわ、目が細すぎて」
「ニャッ」
「さっすがカガミ! 頼りになるぅ!」
その声にハッとして顔を上げれば、イブキが毛布を掲げてキラッキラの笑顔を撒き散らしていた。私に対してはまだ何も言っていないが、「さあ、では寝ましょう」と、明らかに顔で喋っている。言葉を発していなくてもやかましいのはイブキの才能の一つだ。もちろん誉めてるワケじゃない。
「昼行性の人間はとっととミルク飲んでとっとと寝るニャ。あ、狭いからあっちに寄ってニャ、できるだけ端に」
「あいにく私は夜行性よ」
「でもさっき眠そうにしてたじゃん」
「ヴッ」
そこについては返す言葉がない。見られていたので。
状況的には二対一、そして彼らは揃って妙に頑固。旗色は、極めて悪かった。
そして、更に追い討ち。私がちんまりと座っていたスペースに、カガミがせっせと自分やガルク達の武具を寄せ集め始めたのである。曰く「手入れをするから」とのこと。カガミもイブキに負けず劣らずの気狂いアイルーだが、オトモとしてはベテランなので、この辺りは抜け目がないのだ。
三匹分ともなれば結構な嵩がある。それを避け、既にぐっすり眠りこけているガルク入り毛布だるまも避けながら、どんどん隅へ追いやられていく哀れな私。あれよあれよと言う間に、毛布をマントのように背負い、腕を広げて私を待ち構えているイブキの懐へ、ほぼ密着する羽目になった。
「よっしゃあ! 捕まえた!」
当然イブキは大喜びで、まだミルク入りのコップを握ったままの私を、がばっと毛布で包み込んだ。
「ちょっ馬鹿! 溢すじゃない!」
「もう大分冷めてるでしょ? 早く飲んじゃいなよ、溢すよ」
「だからそう言ってんでしょうが! ……あー、もう……」
なんならもうちょっと溢れている。イブキの装備の胸元に飲まれたミルクの小さな染みを憎々しげに見つめつつ、私は体内の酸素を全て吐き切る勢いで溜息をついた。
「分かったわよ、寝ればいいんでしょ寝れば!」
「そう!」
「……はぁ……」
私はイブキの腕を軽く振り払い、あと数口分ほど残っていたコップのミルクをきゅうっと飲み干した。確かにイブキの言う通り、喧々諤々やっている間にミルクは随分とぬるくなっていて、口から胃へ抵抗なくするすると落ちていった。
「この面子では私のペースで物事が進むわけがない」という現実の把握と受容を経て、私は大人の対応へと舵を切った。そりゃあイラつきはするけれど、どれだけ怒ったところでイブキが突然マトモになるわけでもなし、どうせこの狭いテントの中で身を寄せ合って難が去るのを待つしかできないことに変わりはないのだ。だったら、波風は立てないに越したことはない。
ホットミルクをゆっくり楽しむのは、この子を寝かしつけてからにしよう。もう一杯作れるくらいは残っていたはずだし、さっきのは少し辛すぎたし。諦めた私は空になったコップを枕元へ置き、イブキに誘われるままに、渋々毛布でくるまれて固い床に身を横たえた。
イブキと、向き合う形で。
「ねぇ。私、反対向いて寝たいんだけど」
さっきからイブキに背中を向けるべく寝返りを試みてはいるのだが、肩や腰をガッツリ捕まえられていて、ころんと半回転することすらできないのだ。
「こっち向いてる方があったかくない?」
「人の顔が目の前にあると落ち着かないのよ」
「うそぉ? ミドリさん、いつも知らない人と一緒に寝てるのに」
「それとこれとは別」
「何が違うんだかなぁ。んー」
イブキの大きな瞳が、何かを考えるようにくるりんとどこか遠くを見た。――少し首を伸ばせば容易くキスできる距離で。この状況で落ち着いて眠れという方が無理だろう。これは私が神経質なせいではないと、声を大にして主張したい。
しかし、その主張をする時間は、残念ながら与えられなった。
「ほいっ」
「」
視界から突然イブキの顔のどアップが消え、真っ暗になり、顔全体がふわりと柔らかい感触に包まれた。
イブキがずりっと自分の身体を上へずらして、私の頭を胸元に抱きかかえたから、である。
「これでよし、っと。じゃ、おやすみ!」
「いや『よし』じゃないわよ! ちょっとイブキ、離しなさ」
「すぴーっ」
「……寝……寝た……」
僅か数秒の出来事。
イブキに腕枕をされ、胸に顔を埋め込まれて呆然とする私の背中に、カガミから更なる絶望の宣告が投げつけられた。
「そうなったら多少のことでは起きんニャよ。この寝息は熟睡モードニャ」
かちゃかちゃと装備を手入れする音に混じるカガミの声は至極落ち着いている。淀みなく行われる整備の音と気配から察するに、彼の視線は手元にある装備に注がれていて、こちらのことは見てもいない様子である。
私は直感的に「信頼に値する」と判断した。つまりイブキは本当に、このまま気が済むまで爆睡するということだ。私の頭を後生大事に抱え込んで、抱き枕のように抱き締めて。
「……イブキ、ねぇ、イブキ」
声をかける。起きない。
ふかふかのウルク装備の上から、脇腹をつねってみる。起きない。
往生際悪く、顎に軽い頭突きをしてみる。起きない。私にしがみついている腕もピクリとも動かない。
カガミの言葉と私の直感が正しかったことが証明され、私はイブキの胸に向かって、この世の終わりのような溜息を吐いた。
心なしか仰向け気味に寝そべったイブキの肩口に、頭を乗せているような形。私の長い髪が下敷きになっている、このままでは縒れてしまう。ごそごそと身動ぎして髪の束を安全な所へ避難させたが、それでもイブキは気持ち良さそうに眠りこけている。
何とも羨ましいことだ。私は頭上から降ってくるイブキの規則的な寝息が気になって、装備の上からでも額に伝わってくる微かな心音が気になって――眠くなってきた。おや?
ふと気付けば、テントの外で荒れ狂う風の音も、毛布とイブキの腕に阻まれて大分小さくなった。ホットミルクで温まった身体は二人分の体温がこもった毛布に包まれて、起きていた時よりも更にぬくもりを増している。両手や足の爪先がほこほこと温かい。まるで、入眠直前の子供のように。
「……?」
背後で何かが蠢く気配を感じた。ちらりとそちらの様子を窺えば、どうやら先に寝ていたはずのアオイが、隣の毛布から器用に頭だけをこちらの毛布へ潜り込ませ、何やらごそごそしているらしいことが分かった。何だろう。主人の非常事態を察して助けにきてくれたのだろうか。
「アオイ?」
首はイブキに固定されて動かせないので声だけかけると、アオイは更に首をにゅっと伸ばし、ちょうど私の腰のくびれた部分に、ぽすんと顎を乗せた。
「……ふすーーっ」
普段めったに聞くことのない、力の抜けた長い長い鼻息。それを満足げに吐き切ったアオイは、そのまま私の腰の上で再び安らかな寝息を立て始めた。
日頃は忠実なオトモとして私の睡眠時も外部の見張り役を勤めてくれているアオイが、自ら望んでこんな体勢での共寝を求めてくることはない。けれど、ガルクが己の急所たる顎を人の身体に預けるのは、その人間を心から信頼しており、かつ、その相手に甘えている時だ。それを知っている私は不覚にも少しキュンとして、「重いから顎をどけろ」などという無粋なことは言えなくなってしまった。
背中側には、私に全幅の信頼を置いて身体を預けてくれるアオイ。前には、私の頭を抱いて至極幸せそうに、無防備な寝顔を晒しているイブキ。私は完全に身体の自由を失い、目を閉じる以外にできる事がなくなってしまった。
暇さえあれば男に抱かれ、時には女を抱いて夜を過ごすことが多い私にとって、人肌の温もりに触れながら眠りに落ちるのは、ありふれた日常の一コマでしかない。けれど、今のこれは、そういうものとは明らかに違う。
彼女達が私の身体に与える重みやぬくもりには、私を害する意図はもちろん、不埒な接触を望む下心の類いも、当然ながら一切ない。私達はこの嵐の中で、ただただ互いの温かさだけを持ち寄って、安心しきっている。
そう。認めたくはないが……私も、安らいでいる。
――こんな風に眠るのなんて、どれくらいぶりだったかしら。
全方位を安堵の空気に包まれながら、私は眠気に蕩けた頭で、漠然とそんな事を考えた。
でも、そこまで。カガミに守られた焚き火が時折鳴らす細いパチパチという音が、徐々に遠くなっていく。意識の最後に小さく息を吸ったら、規則正しく膨らんでは萎むイブキの胸から、ミルクの優しい香りがした。