IKL幻覚雨クリ小説④(終) ――空を飛べるか?――
アメヒコのその問いに、空気がぴり、と凍り付いた。
「……空を飛べるか、なんて、変なことを聞くんだね。人が空を飛んでるところ、見たことあるの?」
ソラはからかうような口ぶりで、アメヒコからの質問をかわした。
「いや、ないな」
「だろうね。僕も、人が空飛んでるところは見たことないよ」
嘘ではない。が、真実でもなかった。
ただ少なくとも今は秘密を打ち明ける必要性を感じない。
「ていうか、なんでいきなりそんな話?僕別に、空想の話で盛り上がりたくて来たわけじゃないんだけど」
クリスさんの話とか、氷結をどうするかとか、そういう話をするべきじゃない?と促すが、アメヒコは窓の外の、どこか遠くをみたまま、うわごとのようなことを話し続ける。
「海をな……見せてやりたいんだ」
「はあ?」
空飛ぶ次は、海ときた。今日のアメヒコはどこかおかしい。クリスの仕事をかわりにやって、疲れがでてしまったのだろうか。
「海って、おとぎ話に出てくるアレでしょ?アメヒコさんもしかして、本の世界に囚われちゃったの?」
だんだんとアメヒコと話していることにうんざりしてきたソラは、立ち上がってはひざの汚れを払った。正直言ってもう帰りたい。来るんじゃなかった、とすら思い始めていた。
「言っただろう、海は、ファンタジーじゃないと。……俺もこの目で見たことがあるわけじゃないが」
「そりゃそうだよ。僕たちの世界の果ては、氷の壁だよ。海なんてもの、見たことあるわけがない。だいたい、もし仮にその海が存在していたとして、もうとっくに凍り付いているでしょ」
「そうとも限らない」
アメヒコは、手に持っている本をぱらぱらとめくった。
「ここを見てくれ」
アメヒコは本を開くと、ソラに見せつけるように前に出した。
ソラはあまり気乗りしなかったが、しかたがなく歩み寄り、それを眺めた。古い言葉で書かれているため読みにくいが、「氷」と「海」という単語はすぐに見て取れた。
「大昔、人が生まれるよりさらに昔、大地だけでなく、海までもが凍り付いてしまった時代があったという説がある」
「凍ってるんじゃん」
思わずつっこみの手が入る。
「まあ聞け。だがそれも、凍っていたのは表面だけで、海中、表面より深いところは、凍りつくことはなかっただろうという話だ。どうやら、海は元々凍りにくい性質らしい。それも、最も凍っていたときでこのレベルということは、今この段階では、海はさほど凍っていないかもしれない」
アメヒコは熱心に話す。
つまり、今もまだこの世界のどこかに、凍り付くことなく、昔の姿を保ったままの海が、存在しているかもしれない、ということだ。
「なるほどね。まあ、それも一理ある……かもしれない。でも、それがなんだっていうの」
今もどこかに海があることと、自分が空を飛べること。いったい何の関係があるのか……と考えたところで、ソラはハッと気が付いた。
「まさか、僕に飛んで、海まで行けっていうの?」
「ああ。それも、ただ一人で行くんじゃない。……あいつを、連れて行ってほしい」
「あいつってまさか、クリスさんのこと!?何考えてるのさ」
ソラは思わずアメヒコに詰め寄った。調子が悪い、力も満足に使えない、そんな状態のクリスを連れ出して、あるかどうかもわからない遥か遠くに連れていくだなんて、正気の沙汰とは思えない。
「ねえ、ちょっと。何か言いなよ」
ソラは思わず、アメヒコの襟に掴みかかっていた。衝動的な怒りで、手が震えている。
「……すまない。ただの俺のわがままだ。……もう先が長くないあいつの……望みを叶えてやりたい」
胸倉を掴まれているアメヒコは、抵抗もせず、目を伏せた。
「望みって……クリスさんの?クリスさん、そんなに海に行きたがってるの?」
「ああ。最近ずっと、海に行きたいって言っててな。おそらく、毎日のように夢に見てる。……寝言まで海だからな」
アメヒコは、弱弱しく瞼を閉じ、今にも泣き出しそうな声で笑った。
ソラは何も言えず、口を噤んだ。おそらくアメヒコは、毎日毎日クリスを見てきたからこそ、その思いの強さがわかるのだろう。
ソラは、手を緩めて降ろすと、深く息を吸い、そして吐き出した。
「……十日」
「……ん?」
「十日ちょうだい。……人を連れて飛んだことなんてないから、練習の時間が欲しい」
ソラの言葉に、アメヒコは目を見開いた。
「お前、それって……」
「感謝してよね?まあ、アメヒコさんじゃなくてクリスさんのためだけど」
そう言うと、ソラは人差し指を唇に当て、にやりと笑った。
「ああ……ありがとう」
そのアメヒコの言葉は、かすれて声になっていなかった。
*****
それから十日の間、なんとか周りに気取られぬように、それでいてクリスが力の使い過ぎで伏せってしまわぬように、気を回すのはアメヒコの仕事だった。
これは誰にも知られてはならない秘密の計画だ。秘密が漏れた段階で、全てが台無しになる。そのため、この計画を知っているのは、アメヒコ、ソラ、そして早い段階で計画を共有されたクリスの三人だけだった。
最初にクリスに計画を打ち明けた時は、「本当に、海に行かせてくださるのですか!?」と大きな声を上げてしまったので、思わずクリスの口を全力で抑えてしまった。
そして、ソラがこの計画のために飛行の訓練をしていると伝えると、クリスは感激しきりだった。
「明日からのおつとめも、頑張れるような気がします」とはしゃぐクリスに、「体調を崩したら計画も無しだからな」と言うと、「そんな……」と眉を下げていた。そんなクリスも可愛い、と思わず表情が緩んでしまったのは、仕方がないと思う。
融解の祈りはその後も続けられたが、クリスが無理なく続けられる時間は、日増しに短くなっていった。最近では、氷の侵食に関する陳情は謁見では聞かないことにした。すると、謁見の数がものの見事に減ったため、アメヒコも自身の業務に集中できるようになっていった。とは言え、やはり氷の侵食は加速を続けているため、その対応策でてんやわんや、というのは免れないのだが。
計画実行の前日、アメヒコ宛てにソラから手紙が届いた。中身は万が一他人が見ても大丈夫なように内容はぼかされていたが、「明日の夜、決行しよう」という内容に相違なかった。
アメヒコはクリスと顔を見合わせ、笑顔で頷き合った。
そして迎えた、決行の日。
計画は、夜中のうちに出発し、夜明けまでに帰ってくるというものだ。
夜では海の姿が十分に拝めない、とクリスは不満げだったが、人に見つかる危険性も高いためそこは譲れなかった。
クリスは、冷たい風が吹き込むのも厭わず、寝室の窓を開け放していた。
「こうすれば、ソラが来た時にすぐ気づけるでしょう?」
よほど楽しみにしているのか、クリスはそう言って笑った。
約束の時間まで、あと少し。緊張で表情が固くなるアメヒコに、クリスはそっともたれかかった。
「ど、どうした?」
「いえ。幸せだな、と」
クリスはそう言いながら、焦るアメヒコの手をそっと握った。
「もし今夜私の命が潰えても……私自身に悔いはありません」
「おい、縁起でもないこと言うな」
思わずクリスの顔を見ると、クリスはふっと微笑み、アメヒコの頬に口付けをした。
「……は」
突然の口付けに驚いたアメヒコは、クリスに握られていない方の手で、その頬に触れた。なんだか頬が熱くなっているような気すらする。
「ありがとうございます、アメヒコ。貴方に出会えて、本当に良かった」
「なんだ、改まって」
「いえ、ただ、言いたくなって」
それはまるで別れを惜しむようで、アメヒコの心の中の不安を搔き立てていく。
「……アメヒコ。一つ、お願いがあるのですが」
「なんだ」
「私の名前を、呼んでくださいませんか」
「は?……なんだって、突然」
「だって、貴方、人の名前を呼ぶの、苦手でしょう?私、あなたから名前で呼んでもらった覚えがあまりなくて」
「そんなの……」
いくらだって呼んでやる、と言いたいが、確かに名前を呼ぶのは苦手だった。いつも、お前さん、とか、あいつ、でごまかしていた。
だが、そこまで言われて応えられないというのも、極まりが悪い。
「く……」
「く?」
「く……」
何故だろう。何のことはない、ただの名前なのに、それを口にするのがどうにも照れくさい。
アメヒコは、クリス、というたった三文字を言えずに苦戦していた。その時。
「クリスさん」
窓の外から、ソラの声が聞こえた。
クリスが振り向くと、ふよふよと宙を舞う、ソラの姿があった。みれば、もこもことした服に、雪の結晶がついてきらきらと輝いている。背中に担いでいるのはソリだろうか、まるで亀の甲羅のようで愛らしい。
「お待たせしました。僕はいつでも行けるけど、クリスさんはどう?」
「はい、私も大丈夫です」
クリスはぱっと立ち上がると、ソファにかけていた外套を身にまとい、窓へ駆け寄った。
そしてくるりと振り返ると、「いってきます、アメヒコ」と微笑んだ。
アメヒコにはその表情が、泣きそうに見えて、どうしても抱きしめたくなった。しかし、クリスは既にバルコニーに出て、ソラの持ってきたソリに腰を降ろすところだった。
「じゃあアメヒコさん、いってくるね。クリスさんのことは任せて」
クリスの後ろに腰かけたソラは、アメヒコに小さく手を振ると、小声で風の力の詠唱を始めた。
「天高く、神の息吹よ、舞い上がり、どこまでも、我を彼方へ導かん」
ソラがそう言うと、ソリはゆっくりと上昇し、あっという間にアメヒコの手の届かないところまでのぼっていってしまった。
アメヒコは、そのソリが見えなくなるまでずっと、バルコニーで立ち尽くしていた。
「本当に、空を飛んでいるんですね……!」
感動しているクリスは、きょろきょろと辺りを見渡している。中つ国の中でもひときわ背の高い建物である鐘塔すら下に見える。あんな形状をしていたのか、と、不思議な感動を覚えた。
「ふふ。まあ、空を飛べるのは風の力ならではだよね。確認だけど、寒くはない?」
「ええ。しっかり着込んできたので大丈夫ですよ」
「そう。もし耐えきれなくなったら、少し地表に近づくから言ってね。上空よりはまだマシなはずだから」
ソラはそう言いながら、ソリに張ったロープを手繰ってはバランスを調整していた。
「……じゃあ早速、海を探しにいこうか。方角はどっちに向かえば良い?」
「ここからならば……そうですね。南西の方角へ向かってみるのはいかがでしょうか」
「南西だね。了解。じゃあ、飛ばしていくよ!――我らが神の息吹よ、南西へと路を開かん!」
ソラの言葉が合図となり、ソリはどんどんとスピードを上げ、目的地へと進んでいった。
上空の世界は、まるでこの世のものでは無いようだった。
いつもは遥か上に見上げていた曇は、手で触れられそうなほど近くを流れている。
夜空に瞬く星々も、何も邪魔するものがなく、まるで星空に包まれているかのようだ。
「空というのは、こんなにも美しかったのですね」
「でしょう?今までは僕だけの秘密の場所だったんだけど、クリスさんにもわかってもらえて嬉しいよ」
「秘密にしたくなるのもわかります」
クリスがふと下をみると、一面の氷がどこまでも広がっていた。
いずれは、アイスキングダムの国々も、このように凍り付いてしまうのだろうか。そう思うと、心が痛んだ。
「ねえ、クリスさん。良ければ、海の話も聞かせてくれない?」
「海の話……良いのですか?」
「うん。いつまでも景色が変わらないのも退屈でしょう?クリスさんの好きな話してくれていいよ」
そう言うと、クリスは嬉しそうに礼を言った。
それではまず、海の定義から始めましょうか、と語り始めたクリスの笑顔を、ソラは嬉しそうに眺めていた。
「それでは次は、海洋生物の中でも特に大型の哺乳類についてですが……」
「あ。クリスさん、ちょっと待って」
クリスが海に住まう生物の中でもメジャーなものについて解説をしている頃、ソラの視界に映る景色が変わった。
一面の氷で覆われていた陸地が終わりを告げ、風に揺れて水が揺れているような、そんな細かな反射が広がり始めていた。
「もしかして……あれが、海……?」
ソラは、ソリの高度を少しずつ下げていき、海のすぐそばへと進んでいった。
「なんだか、不思議なにおいがするね……もしかして、海のにおいなのかな」
ソリから身を乗り出すようにして、ソラは眼下に広がる海を眺めた。
「ねえ、クリスさ……どうしたの?」
一向に反応が無いのを不思議に思ったソラがクリスの顔を覗き込んだ。すると、月明かりに照らされたクリスの頬には、涙が流れていた。
「ちょっと、どうして泣いてるの?大丈夫?」
ソリを操っているソラは、クリスの涙を拭うことができない。もどかしさに顔をゆがめた。
「ええ。あの。大丈夫、です。……まさか本当に、こうして海を見られるとは……感動、してしまって」
喋るごとに、クリスの涙は溢れて止まらなくなってしまった。
「ああ、もう。泣かないで。……でも、良かったね、クリスさん。僕、海が本当にあるか半信半疑だったけど、……本当にあったんだ、海って」
「はい……、はい……!」
感極まっているクリスは、愛おしそうに海を眺めては涙をこぼしていた。
そのクリスの様子に、ソラは自分まで嬉しくなってしまった。ここまでソリを飛ばしてきた甲斐があった、とホッとしている。
「もっと……近づきたい」
ふと、そんな声が聞こえたような気がした。
もう少しソリを下げようか、と提案しようとしたその時、ソリがぐらりと揺れた。
「!?」
いきなりのことでバランスをくずしたソラは、ロープを強く握りしめ、風の力の出力を上げた。見れば、目の前のクリスがソリの上で立ち上がっていた。
「ちょっとクリスさん!危ないよ!」
いきなり何を、とクリスを見ていると、クリスはソリから海へと飛び降りようとした。
「か、風の防壁!」
ソラは咄嗟に風の力を使い、ソリの周囲に風の膜を作り上げた。
「クリスさん!」
思わず声を荒げるが、クリスはうらめしそうにソラを見た。
「ソラ……邪魔をしないでいただけますか」
「何を言ってるの。今いったい、何しようとした?」
「海に……入ろうと」
「バカ言わないで!クリスさん、自分で言ったよね、海はとても広くて深いって。そんなところに入ったら、沈んで死んじゃうでしょ!?」
ソラは、これまでにない程激昂していた。クリスは、落ち込んだ表情で、風の膜の向こうに見える海を眺めていた。
「私は……それで構いません」
「……っ!」
「どうせもう、私の水の力はほぼ残っておりません。生きていても、王としてお役に立てない。それに、残り僅かの力が無くなれば、どうせ死んでしまう運命。ならば……幼いころからずっと夢に見ていた、海に抱かれて死にたいのです」
「でも……、でも!だったら!もう王はできませんって言って、退位したらいいじゃない!皆そうしてるよ。僕の兄さんだって、アメヒコさんの叔母さんだってそうだった!」
「ですが、私には継承者がいません。簡単に退位できるとも……」
クリスはため息をついた。
それはそうだ。ソラもよくわかっている。中つ国や北の国だけじゃない。アイスキングダム全体で、ここ数年水の力を持つ子供は生まれていないのだ。もしほんの少しでも水の力を持って生まれてくる子がいれば、クリスも安心して王の座を退けられていただろうに。
「でも……そうかもしれないけど、……だけど!アメヒコさんだって、ほかの皆だって、クリスさんの帰りを待ってるんだよ!急にいなくなったりしたら、絶対に悲しむよ……」
「アメヒコ……」
クリスの瞳が揺れた。いつも一緒だった、相棒のような存在。ソラが初めて二人に会った時には既に共にいた、かけがえのない相手。
それを悲しませることを、優しいクリスならよしとしないだろう。……そう思ったのだが。
「……もう、別れは済ませました」
予想を裏切り、クリスは首を振った。
「本当に……?あのアメヒコさんの様子、そうとは思えないけど」
「……どうか、許してください、ソラ。……お願いします」
クリスは、祈るように、ソラに頭を下げた。
「ちょっと、クリスさん……困るよ、そんな……頭なんて、下げないでよ」
それでも、クリスは頭を上げなかった。どうしても、今ここで、海に入るのだという意思が伝わってくる。
「ソラ……」
「……ダメ。やっぱり、認められない。北の国の王として、グランドキングを見殺しにはできない」
ソラはソリのロープを引っ張り、再び陸地へと移動させようと風の力を操った。
「ソラ!」
クリスは、ソラの両腕を掴んだ。
「クリスさん、手を放して。……この操縦結構繊細なんだから」
「ソラ。……ここで私が死んでも、あなたにもアメヒコにも、責任がかからないよう、書き置きを残してあります」
「え?」
「私の寝室の、ベッドサイドの引き出しの中に。それがあれば、どんな証拠があったとしても、あなた方は罪に問われません。ですが、もし私を無理に連れ帰ったら、私はもう金輪際、あなたと口を聞きません」
「ちょっと、勝手が過ぎるよ」
「承知の上です」
クリスは口をきゅっと結んだ。
「この意思を曲げるつもりはありません」
ソラは、クリスの目をじっと見つめた。何を言っても、どうやっても、もう帰るつもりは無いのだと理解した。
(このクリスさんの意思を、果たしてアメヒコさんは理解していたのだろうか)
にらみ合いは、数分にわたって続いた。どちらも引くつもりはなかった。
次第に、空が明るくなり始めた。
「え、噓でしょ、もう夜明けなの。帰らなくちゃ……」
計画では、夜のうちに出発し、夜明け前に帰ってくることになっていた。
しかし、今から戻っても夜明け前には間に合わないことは決定してしまっている。
ソラは、明るくなり始めた方向に目を向けた。
海の縁が赤く染まり、少しずつ太陽が登ってきている。ソラは思わずため息をついた。
「すごい……綺麗……」
「ええ、そうでしょう。これを日の出……というのです」
「日の出、かあ」
ソラはクリスの顔をちらりと盗み見た。オレンジ色の光に照らされているクリスの表情は、とても穏やかで、瞳はすっかり凪いでいた。
クリスは、海に映る日の出の光に、すっかりとらわれてしまっている。
そんなクリスの姿を美しいと、ソラは思ってしまった。
はあ、と、ソラは深いため息をついた。
「……負けたよ。僕の負け」
「ソラ……?」
「海、入ってもいいよ。近くまでついてあげるから」
ソラがそう言うと、クリスは「ありがとうございます!」と破顔させた。
これから死ぬって人の顔じゃないよ、とソラは内心思ったが、何も言わずに、ソリを下降させた。
もう、手を伸ばせば海に触れられるくらいの距離にきている。きっとこれが、クリスと共にいられる最後の瞬間なのだろう。
(ごめんね、アメヒコさん。クリスさん、連れて帰れそうにないや)
「ソラ、ありがとうございました。このご恩、死んでも忘れません」
クリスはそっと頭を下げ、「貴方の未来に、幸運がありますように」と微笑んだかと思えば、そのまま、ベッドへ寝転がるように、背中から綺麗に海へと飛び込んだ。まるで、いつもそうしていたかのように、自然な流れだった。
ソラは、しばらくの間、クリスの入っていった海を眺めていた。
もしかしたら、という期待が、無かったと言ったら嘘になる。
しかし、何分待っても上がってくる気配はなかった。
(ああ、本当に、ここで全部終わりにするつもりだったんだ)
そう思うと、涙が溢れて止まらなくなった。
「クリスさんのばか。ばか、ばか」
ソラは、ソリをそっと滑らせた。もう誰に気を遣う必要もない。ただ、衝動のままに、全速力で、北東の方角へと飛行を始めた。風の音だけが、ソラを慰めてくれる唯一の存在だった。
*****
ぽこ、ぽこ。 こぽこぽこぽ。
ぶく、ぶく。 ごぽ。
どく、どく、どく。
泡の音、水の音、鳴動する心臓の音。
すべてがまざりあい、不思議と心を落ち着かせるひとつの音楽となる。
絵画のような、美しい世界。
群れをなし、銀色に輝く沢山の魚。
体の大きな哺乳類。
悠然と泳ぐウミガメはとても優雅で力強い。
何度も夢に見た世界が、今目の前に広がっている。
(いえ、海の中で目を開けていられるはずはありませんから、きっとこれも夢なのでしょう)
あるいは、死後の世界というものか。
どちらでも構わなかった。
ただ、ずっと焦がれていた海で、最期の時を迎えられるのが。
そして、あまりに身の丈にあわなかった大きな責務から解き放たれるのが。
とても嬉しくて仕方なかった。
(そうだ、最後の機会だ。もっと、海の中をよく見てみよう)
そう思ったクリスは、体をひねらせ、海の中を泳ぎ始めた。
まるで昔からそうしていたかのように、体は自由に海を舞う。
数えきれないほどの魚とふれあい、ともに泳ぐ。
前後左右、上でも下でも、どこへだって行ける。
どんどん下に潜っていくと、光がとどかず暗くなっていく。
はずなのに、何故かとても眩しく感じられる。
何かが光っている。
ひどく興味を惹かれたクリスは、その光に向かって泳ぎ続けた。
手を伸ばすが、なかなか届かない。それでも、その光が欲しくて、泳ぎ続けた。
深い深い、海の底へ。どこまでも。
そうしてたどり着いたその先で、ようやくクリスの指は光に届いた。
光は指先から腕へ、そして体へと伝わっていき、目を開けていられないほど眩く、そして大きくなった。
体が熱い。胸が高鳴る。いったいどうしてしまったのだろう。
そしてその時、クリスは体の奥底から、誰かの声が聞こえるような気がした。
「この時を、ずっとずっと待ってたよ」
*****
アイスキングダムは、中つ国。
王城の中の、グランドキングの寝室のバルコニーで、アメヒコは、空を見つめて立ち尽くしていた。手には、クリスのサインが書かれた書状。書き置きと言われるものがあった。
夜明け前に帰ってくると言っていた二人は、朝になっても帰ってこない。
アメヒコは、計画が失敗に終わったと悟った。
海が見つからなかったか、あるいは方角を見失ったか。
どちらにせよ、グランドキングと北の王二人の不在の後始末をつけなければならない。
ふう、と息を漏らしながら、手元の書き置きに視線を落とした。
「王位を返上し、人として生きる。探さないでください、ね……」
これをいつ用意したのかは不明だが、少なくとも、今回の計画で、城を出て戻らない意思があったことは、なんとなく察することができた。
「……なんで、何も言ってくれなかったんだ」
クリスの残した書き置きを持つ手が震える。
何度も話す機会はあった。二人きりで過ごした時間も。数えきれないほど。
それでも、最後に過ごしたあの瞬間だけ、いやに別れを感じるもので。
アメヒコは、戸惑いを拭えないままでいた。
もう間もなく、グランドキングの朝の融解の祈りの時間だ。
クリスが寝室から出てこないことで心配した騎士が、部屋の中へ来るだろう。
ここにいてはまずい。そう、わかっているつもりなのに、アメヒコはそこから動くことができなかった。クリスが戻らない可能性について、直視したくなかった。
アメヒコは再び、二人が消えていった空の彼方に目をやった。
と、その時だった。先程見送ったソリが、かなりの速さでこのバルコニーに向かってくるのが見えた、と思った瞬間に、アメヒコの隣へ姿を現した。
「戻っ……なっ?」
戻ったか、と声をかけようとしたが、そこにいるのはソラただ一人だった。
「おい、あいつはどうした、振り落してきちまったのか?」
アメヒコは困惑の声をソラに投げかけた。
「……クリスさんは、戻ってこない。……ごめん。僕には、止められなかった」
アメヒコは、そこで全てを察した。
「……海は、ちゃんと、あったんだな」
「……うん」
「それで、海に入りたがったと」
「……うん」
「そうしたら、戻ってくるはずが、ないもんな」
「……ごめん」
「お前さんが謝ることじゃない。……あいつが一度決めたらなかなか曲げないのは、良く知ってる」
アメヒコは、深く息を吐き、その場に座り込んだ。
長かった。
自分が王になってから、十五年以上。初めて会った時から数えたら、二十年以上が経過している。
それだけの歳月を、この王城で過ごした。
共に過ごした時間が長ければ長いだけ、別れは身を裂くような痛みを伴う。それも、初めて出会ったあの日から、アメヒコはクリスに心奪われていたのだ。悲しい、なんていう言葉で片付けられるほど、簡単なものじゃなかった。
アメヒコは、クリスの笑顔を思い出すだけで、みっともなくも涙が溢れそうになった。
「情けねえな……」
アメヒコが俯いたその瞬間、寝室に人の気配を感じた。クリスの騎士が、部屋に入ろうとしているようだ。
ソラは思わずアメヒコを連れて、鐘塔の上へ退避した。
「ごめん、急に」
「いや、助かった……だが」
「うん。解決にはなってないよね。どうしよう、これから」
二人は鐘塔の上に座り込み、頭を抱えた。もう間もなく、融解の祈りの時間が訪れる。
もう、クリスはいない。その中で、滅びゆくこの世界で、最期を迎えなければならない。
ソラは遠い目で空の向こうを眺めた。と、その時。
「なんだ、あれ……」
「ん?」
「いや、あれ……あれ、なんだろ」
ソラが指をさす先を見ると、何か大きな物体が迫ってきているように見えた。それはまるで、大きな水の塊のようだった。
どどどど、と音を立てて、それは移動してくる。
「え、待って待って、本当に何!?」
「知らねえ、初めて見た」
呆然と鐘塔の上に立ち尽くす二人は、その水の塊に目を奪われた。
否、水の塊、ではない。
その上に立つ人物に、だ。
「アメヒコ!ソラ!」
二人は、自分の目を疑った。そこにいるのは、まごうことなき、アイスキングダムの連合の王、グランドキング・クリスそのものだったのだから。
「クリスさん!?」
クリスは、鐘塔の上までくると、その水の塊から足を離した。
「クリス!」
アメヒコは思わず、降りてくるクリスを受け止め、強く抱きしめた。
「アメヒコ……!」
クリスもまた、アメヒコを強く抱きしめ返した。
先程までクリスが乗っていた水の塊は、そのままの姿で街の上を漂っている。
「いったい、何が起こってるの!?」
ソラの叫びをかき消すように、祈りの鐘の音が響いた。
「朝のおつとめには、間に合ったでしょうか」
アメヒコの腕の中で、クリスがそうはにかんだ。
「ああ、そうだな」
アメヒコは嬉しそうに、腕の中のクリスの存在を確かめるように、さらに強く、クリスを抱きしめた。
「ふふ、苦しいですよ、アメヒコ」
クリスはそう言って体をよじると、そのままの姿で止まっていた水の塊に向かって、「海へお戻りください」と声をかけた。
その合図を待っていたかのように、その水は流れるように、もと来た方角へと消えていった。
その光景を、ソラはただ呆然と見ていることしかできなかった。
*****
いったい何がどうしてこうなったか、ちゃんと説明してもらいますからね!
と、怒り顔のソラに見下ろされ、はい、と応えたクリスが打ち明けた内容は、概ねこういうことだった。
クリスはあの時、本当に死ぬつもりで海に入った。
しかし、海の中で、本来であれば持ち合わせていたにも関わらず目覚めていなかった「海の力」が、海に触れることによって開放された。
これにより、もはや枯渇寸前だった「力」の総量が跳ねあがり、水の力もこれまで通り、否これまで以上に使えることが判明した。
ならば、今ここで死ぬ必要はない、と、海からここへ帰ってきたというわけだった。
そんなことってあるの?と眉間にしわを寄せているのはソラだ。
「だってそんなの、聞いたことない」
「ええ、私もです」
クリスもうんうんと頷いている。
「ですが、前から海のことを考えると力が湧いてくるような気がしていたのです。それが、本物の海に触れたらこの通り、信じられないほど元気になりまして。きっと私の力の源は、海だったのでしょう」
ソラはまだ納得がいっていないようだったが、それでもやはりクリスが元気な状態で戻ってきてくれたことはうれしかった。
「うーんまあ、そうだね。とりあえず、クリスさんが帰ってきてくれたから、もうそれでいいかな」
ソラはもはや、考えることを放棄しようとしていた。一晩中力を使いっぱなしだったのだ。疲労も限界地点まできている。
「そういや俺も眠い」
「今日は一日、お休みにしてしまいましょうか」
「グランドキング権限ってやつ?」
「そんなものはありませんが、まあ、たまには休みも必要ですから」
クリスたち三人は、鐘塔からクリスの寝室のバルコニーまで再度飛んだ。
そのまま寝室へ入ろうとすると、部屋の中で泣きながらクリスを探す騎士がいた。
騎士は、クリスの姿を見つけると、その場にうずくまって良かった、と声を上げて泣いていた。
思わず駆け寄り背中をさするクリスと、「ほらね?」と言わんばかりのソラ。アメヒコも、「もう大丈夫だから持ち場に戻んな」と騎士に声をかけた。
一度に三人もの王に囲まれた騎士は恐縮しきりだったが、そこでやっと、本当に戻ってきたのだなと実感をする三人であった。
「あー疲れた。少しここで仮眠してもいい?」
「ええ。ここのベッドは大きいですから、気兼ねなくどうぞ」
「じゃあ、遠慮なく」
「アメヒコさんは自分の寝室いきなよねー」
「無理だ」
そうやってわちゃわちゃと話しているうちに、三人はあっという間にうとうとと眠りの淵へ足を踏み入れ始めていた。
「ああ……眠る前に……言いたいことが」
「んん、なんですか」
アメヒコの口から、既に半分寝ているような不明瞭な声が漏れる。
「おかえり……クリス」
「クリスさん、おかえりなさい」
左右から挟まれるようにおかえりと言われたクリスは「ただいまもどりました」と、ふにゃりと笑った。
それから少しも経たないうちに、三人は仲良く、一つのベッドで眠りに落ちたのだった。
*****
それは氷に囲まれし世界。多くのものが凍り付き、命あるものと共存する世界。
その中でも人が住まう地域に、人は国と、その国々の集まる連合を作り上げた。
名を「アイスキングダム」といい、多くの人が、今も幸せに暮らしている。
おわり