瞼裏の憧憬 Dが物言わぬ姿となり、二日が経った。色素の薄い柔らかな髪が、閉じたままの白い目元に掛かっている。傍に腰を下ろすロジェールは、グローブを外した手の甲でそっと血の気の引いた頬を撫でた。
――死んだわけではない。円卓のベッドに横たわる体は小さく上下していたし、触れれば僅かに温かかった。眠っている。彼は丸二日、昏々と、深い眠りに沈んでいる。細く長い溜息と共に、尖り帽に垂れる輝石が揺れた。
切っ掛けは二日前の地下墓での出来事だった。狭い通路でインプとやりあっていたあの日。罠を挟んで牽制しあっていたが、悪鬼の投げたガラス片が近くの石像を倒し、カチリと嫌な音を鳴らした。予想外に発射された数多の槍は敵を殲滅し、残った数本がロジェールに迫る。それをDが咄嗟にかばったのだ。矢程度なら鎧で防げたが、生憎と地下墓の守りは甘くない。
一目でわかる致命傷にロジェールは恐れ、叫び、涙した。大丈夫だから落ち着け、とDが撤退を促すが、ロジェールの気持ちは昂るまま。なぜ、どうして、自分をかばって大怪我をして、なおもこちらの心配ができるのか。Dの顔には乱れるロジェールへの疑問符がありありと浮かんでいたが、彼からすればDの行動こそ理解できなかった。安全な場所まで退避したら礼より先に怒鳴らねば。そう思いながら走っていたが、結局、最寄りの祝福へ逃げ込んだと同時にDが意識を失うのだった。
「すまないね、眠りに関する情報は持っていないんだ……役に立つか分からないけれど、これをあげよう。貴方にはいつもよくしてもらっているからね」
放浪の商人がカサついた細い指でつまみ上げたのは、トリーナのスイレンだ。ロジェールは感謝と共に受け取り、会釈をして商人の元を去る。彼は一向に目を覚まさないDにできることを求め、情報収集へ出ていた。だが、魔術師ひとりでは探索範囲も限られる。大した収穫の得られない行為に意味があるのか無力さに自己嫌悪しつつも、ロジェールはずっと足を動かしていた。
「おお、戻ったかロジェール!」
すっかり日が暮れてから円卓に戻れば、ネフェリに声を掛けられる。彼女はにこりと笑顔を見せてから、溌溂と、なんてことのないように言った。
「Dが探していたぞ。今は一階にいるんじゃあないかな」
ロジェールの心臓が高く跳ねる。ようやく起きたのかという安堵と、胸に引っかかる違和感。喜ばしいことであるし、原因不明の深い眠りなら目覚めの原理が謎に満ちていてもおかしくはない。しかし、どうにも腑に落ちないものがあった。
逸る気持ちを抑えながら階段を一段飛ばしで降りていく。広いホールに出たところで、待ちわびた低音に呼び止められた。
「ロジェール」
果たして、Dはそこにいた。いつもの金と銀の混じる特徴的な鎧を着込んでいるし、背格好も同じで、帯刀の癖も普段通りだが――何かが、違う。
ロジェールは念のため、ぎゅっと星見の杖を握りしめた。彼は平静を装っているが……自分に、敵意がある。
「……もしかして、貴方がデヴィンさんですか」
「デヴィンでいい。最低限の目はあるようだな」
静かに名乗る男は、ロジェールを寝室へ誘った。D――デヴィンの兄であるダリアンの眠る部屋にである。拒否権など最初から存在しない。ロジェールは緊張に身を固くしたまま彼に続いた。
ベッドの上には、今朝と同様に深々と沈んだままのダリアンが横たわっている。金色の指が彼の頬に触れ、鎧越しの体温を確認し、ゆっくりと離れていった。
「滅多にないが、ダリアンはまとまった数日を俺に明け渡すことがある。今回は受けた傷が悪かった。それが原因だろう」
Dという双児の特異性について、ロジェールはダリアンから少しだけ聞いていた。弟について語る兄の顔。遠く届かぬ目交いに、焼け付く痛みを感じたのを鮮明に覚えている。今自分の前にいるのは、ダリアンに心の底から愛されている彼の弟、デヴィン。
「ごめんなさい、私がもっと……上手くやれていれば」
「全くもってその通りだ」
デヴィンが振り返り、勢いよくロジェールを壁に押しつける。ゴン! と鈍い音が鳴り、次いでバサバサと本が落ちていった。頭をぶつけた衝撃で異端帽が飛んだが、デヴィンには些事。
「お前は兄と共に在りながらダリアンに酷い怪我を負わせた! せめて無防備な兄の傍に居てやろうとも思わないのか!」
鎧の奥に隠すつもりのない嫉妬が燃えている。二人は共に在れないのだから、デヴィンの怒りは最も。ロジェールは彼の憎悪を甘受するが、それだけで終わらない。
彼は軋む肩を無理に動かし、右手を二人の間に差し込む。そこにつままれていたのは、トリーナのスイレンだった。
「円卓は不戦の約定が結ばれているので安全なはずです。でしたらジッと隣で目覚めを祈るよりも、できることを探す方が賢明ではありませんか?」
ロジェールの力強い言葉に、薄い花びらが揺れる。彼は痛みに顔を歪めてはいたが、己に向けられる殺意の切っ先に怯えてはいなかった。しばらく花越しに兜を見つめ続けていれば、次第に肩へ掛かる力が弱まっていく。
「賛同していただけるなら手伝ってほしいことがあるのですが」
「……いいだろう。言ってみろ」
デヴィンの返答に、ロジェールは初めて柔和な笑みを浮かべた。
「カーリアの書院へ同行してほしいのです」
◇ ◇ ◇ ◇
寝泊まりできるところがあるから、とロジェールは野営の道具を鞄に詰めていた。対するデヴィンは身軽である。ダリアンは元々荷物を貯めこまないし、用心棒に必要なのは武具と手入れの品くらいだ。
「探し出す書物の目途はつけているのか」
見上げた書院の入口から察するに、中は想像以上の広さに違いない。デヴィンの小さな不安に返されたのは、風のように軽い言葉。
「いえ? それっぽいものを全部集めます。私はあまり戦闘には役立ちませんから、頼りにしていますよ」
「…………」
デヴィンにとってロジェールと、すなわち魔術師と関わるのはこれが初めてである。彼は今更ながら魔術師の探求心の一片を見た。ただ本を探すだけなのに野営の準備をするのは確かに不思議だったのだ。
「うふふ、その感じ、本当にダリアンそっくり。ほら、行きますよ」
ロジェールは口元に手を当て上品に笑い、さっさと建物へ入ってしまう。何だか出会いと立場が逆転していないか。もやもやとしつつも、デヴィンも慌てて後を追った。
扉をくぐり、一歩。早速鋭いつぶてが足元に刺さる。粛然とした犯しがたい外観とは相対し、館内は賑やかなものだった。端々に佇む敵意を持った魔術師や貴人。物陰に手招くロジェールへ身を寄せれば、彼は怜悧な声で述べた。
「最初に目指すポイントはあの階段です。寄りたい本棚は前方右から二つ目と、四つ目。加えて奥の壁に面したところも見たいですね」
「……貴人が三名に魔術師が二名。自衛くらいはしてくれ」
「もちろんです。では行きましょう!」
軽やかなステップでロジェールが駆けだす。デヴィンが瞬きをする間には、もうロジェールの周りに四本の輝剣が浮いていた。露払いを頼んでおきながら騎士より前に出るとは何事か。遺憾に思いながら、デヴィンも負けじと飛び出す。
細長い刺剣を流れるように払い道を拓くロジェール。一番近い本棚にたどり着いた彼は素早く視線を走らせ、ひょいひょいと二冊取り出した。そして棚の隙間に足を掛け上に飛び乗り、二つ隣の本棚へ体を滑らせる。翻ったマントにつぶてが掠ったがお構いなしだった。それでまた、一冊増やす。
デヴィンは素直に舌を巻いていた。軽い身のこなしもそうだし、本を探す片手間で魔術の応酬もこなしている。そも探索のスピードが異常だ。何を基準にしているのか分からないが、彼はこの短時間でもう五冊を鞄に詰め込んでいる。進路を掃除し指定の階段で合流を果たすが、戦闘には役立たないと言っていた魔術師は汗のひとつもかいていない。
「次はあの大きな本棚を目指します。私は壁面の棚を全部見ながら向かいますので、道中よろしくおねがいしますね」
返答を聞くより先に、また飛び出していく。今度は貴人が二名に魔術師が四名。吹き抜けになっており、高いところから詠唱する輝石頭に聖律の刃を放ちながらデヴィンも後を追った。
それから、時間にしてほんのわずか。先行していたロジェールが、目の前で急に踵を返す。
「デヴィン、こちらへ!」
大きなステップで飛んできた彼に、強い力で壁際へと引きずり込まれる。刹那、先ほどまで自分のいたところに降り注ぐ数多のつぶて。明らかに他の魔術とは質の違うそれにロジェールを見れば、彼もまたデヴィンを見上げていた。
特徴的な帽子に遮られ隠れがちな瞳が、今はしっかりと見える。祝福を失い褪せているはずなのに煌めきを放つ二つの石は、デヴィンの心をよく揺さぶった。
「う~ん、面倒な人がいますね……仕方がありません。次のポイントまで走り抜けましょう。嫌でしょうけど、少し我慢してくださいね」
何を、と問いかけるより先に左手を取られる。そのまま直進するので離れないよう付いていくしかない。再び上空に多量の魔力を感じるが、凌げそうな場所は見当たらなかった。自分を引き連れたからには策があるに違いない。ロジェールの出方をうかがっていれば、いよいよつぶてが降り注ぎ始めた。しかし彼は退避せず、真っ正直に大きな本棚を目指す。
これでは――と思ったところで、先導する男が高く杖を掲げた。瞬間、真上のつぶてが消えている。それどころか、代わりに見慣れた輝剣が周りに展開されていた。
「しばらくこれで進みます! 上の対応で手一杯ですので、他は全部任せますよ。私の傍にいてくださいね!」
……魔術師とはこうもアグレッシブなものだろうか。だからこそダリアンが心を許しているのかと、デヴィンは掴まれるがままの手を静かに握り返す。
連携しながらしばらく進めば、ようやく静穏な空間に辿り着いた。人気もなければ、奥まった部屋なので先ほどの魔力も届かない。
繋いでいた手を離せば、勇猛な魔術師は早速目星を付けた本棚に駆け寄っていった。素早い手付きで書物を回収しているが、今までよりも引き抜かれる冊数が多い。目当ての書棚なのだろうか。ロジェールに近づきながら棚に並ぶ背表紙を眺めるが、専門外で内容はさっぱり分からなかった。
そもそも、彼は書院の構造に詳しすぎる。関係者を疑うレベルだ。問おうか、どうしようか。煮え切らない迷いは、デヴィンの警戒心を音もなく奪っていた。
「――デヴィン!」
数歩先のロジェールが血相を変えて向かってくる。次の瞬間、デヴィンはロジェールに突き飛ばされていた。
「ぁぐっ…!」
突然のことに目を白黒させながら顔を上げれば、壁から生えた無数の白い手に拘束されるロジェールの姿が飛び込んでくる。考えるより先に体が動き、一息のうちに異形を根元から切り落としていた。
醜くのたうつ手は粒子となって消え、掴まれていたロジェールが放り出される。デヴィンは咄嗟に彼を抱えたが、想像よりも細く軽い体躯にぎょっとした。女のようだとは思わないが、魔術師とはかくも薄いものなのか。恐れに近い感情が胸に満ちたあたりで、腕の中の男が柔らかい声を上げる。
「良かった、貴方が無事で」
ほとびた目付きで見上げてくる姿は手折れそうなまでに弱々しく、先ほどまでの精彩が嘘みたいだった。にわかにデヴィンの血が沸騰する。
「ダリアンを悲しませるな!」
腕に力を入れればロジェールの顔が歪むが、デヴィンは気にしなかった。ダリアンはロジェールのことを大切に思っている。だから彼が己の体をぞんざいに扱うのを許せなかったのだ。
しかしそれは、ロジェールにとっても同じ。
「貴方が傷ついたってダリアンは悲しみます。私と違って貴方は……彼の、無二の、弟なのですから……」
互いの息遣いが分かるほど近いのに、しぼんでいく声は大切なところを聞き逃しかねないくらい小さかった。煮え滾っていた血潮が急速に冷めていく。己を映す翠の瞳からは煌めきが消え、靄がかった闇が落ちていた。
……なぜ、こいつは。ダリアンにすら見せたことのない顔を、俺に見せる。
デヴィンは他者の機微に敏感ではないが、それでも気付く。自分がロジェールの、暗く煤けた不可侵領域を犯してしまったことに。
「……助けてもらったのに怒鳴ってすまない」
「いえ、私も白い手について先に伝えておくべきでした。すみません。貴方こそ助けてくださってありがとう」
デヴィンがロジェールを立たせれば、すっかり影は消え去っていた。
……調子が出ないし、居心地も悪い。苦し紛れにどんどん増えていく書物を持とうかと提案するも、あっさり断られてしまう。
「もう少しで今日の探索を切り上げますので大丈夫! さ、行きましょう。目途をつけている寝床には、ベッドもあるんですよ」
華やかなフリルのついた、柔らかい手触りのグローブが差し出される。またあのよくわからない芸当をやるのか。デヴィンはロジェールの手を、今度は初めから強く握った。
襲来するつぶてや貴人をいなし、踊り場をひとつ、ふたつ。
「ふふ、デヴィン、次の目的地はどこだと思いますか」
しばらく進んだところでロジェールが問う。悪戯っぽく笑っているので何か理由があるはずだが、皆目見当がつかない。遠くに続く長い階段を見上げれば、ロジェールが首を振り、剣士にしてはしなやかな指で目の前の本棚をつつく。
「正解はね、ここです、ここ」
「……はあ?」
「この本棚、手前にちょっとずらしてください。貴方の力なら簡単でしょう?」
確かに他の物より小さく、書物も少ない。言われるがままに動かせば、人ひとり通れるくらいの小さな扉が現れた。
「秘密の部屋ってやつです」
立てた指を唇に当てて、にやりと悪い笑みを浮かべている。そのまま勝手知ったる、という風にロジェールは中へ入っていった。やはり書院について詳しすぎる。デヴィンは訝ったが、聞いたところで答えの返ってくる雰囲気ではない。
無言で後ろに続けば、こじんまりとした居住空間が広がっていた。先に聞いていたベッドがひとつに、ソファがひとつ。取っ手の付いた燭台に、書き物のできる机まで。
「今夜はここで明かします。私は持ってきた書物を漁るので、貴方は好きに過ごしてください。といっても、この部屋の中でね」
「……ん」
大量の本を抱えたロジェールが、小さな机の前を陣取った。デヴィンはダリアンの目を通して知っている。こうなったロジェールは、しばらく自分の世界に入ってしまうということを。
……好きに過ごしてください、と言われても。デヴィンは振る舞いに悩みながら、とりあえず武具の手入れをすることにした。剣を置き、鎧を全て脱いでしまう。砥石と油を含ませた紙を準備し、丁寧な手付きで取り掛かった。丁寧に、とはいえ、手慣れた作業はあっという間に終わってしまう。手持ち無沙汰の彼はロジェールの得物にも目をやるが、見るからに繊細な刺剣は、とてもじゃないが手に余る業物だった。
こういう時、兄はどうしていただろう。書き物をしたり、祈りを捧げていたっけな。デヴィンは拠り所とする黄金の樹木へ祈ろうとしたが、窓もなく、非常に入り組んでいる書院内では方角がわからない。ここに導きの光は一筋も差し込まないのだと気付いた彼は、小さくため息を吐いた。
「デヴィン、デヴィン」
ぼうっとしていたら、ロジェールから声を掛けられる。
「終わったのか?」
「いえ、全然。私はソファで続きを読みますから、貴方はベッドへどうぞ。明日はもっと上層へ向かいますから、先に寝てください。頼りにしていますよ、デヴィン」
星でも弾けていそうな美しいウインクが甘い音色と共に飛ばされる。女ならイチコロだが、生憎。デヴィンは鼻を鳴らし、白けた顔を見せる。
「あまり遅くなるなよ……」
きっと彼は、早く寝ろという助言など聞かない。調べ物を手伝いたいのは山々だったが、この短時間で既に書き上げられているレポートの束が自分では足手まといになることを悠々と語っていた。分業が大事だと己に言い聞かせ、素直にベッドへ向かう。
……兄なら、最後まで意地を通してロジェールに付き合うだろうか。それとも、無理やり寝かしつけるだろうか。自分はダリアンではないから、そのどちらもできないけれど。
デヴィンは毛布に潜り込み、ソファに背を向け丸まった。ぱらり、ぱらり、紙の擦れる音がする。本当にこのまま眠ってもいいのか。悶々とするが、かといって為すべき事も分からない。それに実の所、兄との旅の話を聞きたいという欲もあった。ロジェールは自分の知らないダリアンのことを多く知っている。
――いや、駄目だ。兄について語る、一番の信頼を受ける相棒の顔。そんなものを見て、己を律せるわけがなかった。やはり明日のために今日を寂として終えるのが最善らしい。無理やり心を空にして目を閉じていれば、彼は次第に浅い眠りへと落ちていった。
「……?」
這うような低い音がデヴィンを起こしたのは、それからしばらくしてである。ロジェールがまだ起きているのだろうか。ソファを見れば、毛布に包まれ横たわる男の姿。寝ているように思えるが、どうやら音の発生源は彼だ。
デヴィンは静々とベッドから降り、ゆっくりとロジェールに近づく。燭台の火が消えているから、遠くからでは彼の顔はよく見えない。
「……に……ぇ…」
「ロジェール、起きているのか?」
「あ、に……う、え……」
あにうえ。兄上。デヴィンの心臓がどくりと跳ねた。
「兄、上。おやめ……くだ、さ…」
寝言。覗き込めば、先ほど女ならイチコロだと思った綺麗な顔が歪んでいた。眉間には深い皺が寄り、強ばった頬とは対照的に口元はだらしなく垂れている。薄ら汗をかき引きつった浅い呼吸を繰り返す姿は、魘されていると表現する他ない。夢見が悪いのか。そも、ロジェールに兄、とは。
「いや、です。やめて、だめ、兄上…っ」
短く低い、切羽詰まった声。明らかに苦しんでいた。毛布がもぞもぞと動いたかと思えば、軽く背を丸めた痩躯が己を抱きしめ震えている。
――酷く、腹が立った。
「おい、馬鹿、起きろ、今すぐに」
デヴィンはロジェールから毛布を無理やり剥ぎ取り、細い両肩を力いっぱい揺さぶる。汗に濡れる体がびくんと跳ねたが、覚醒には至らない。デヴィンは舌打ちを響かせてから、大きく息を吸った。
「ロジェール!!」
「あっ……!? はっ……あ、兄上、……いや、D。D……!」
ロジェールは目を見開くが、慄然と色を失っている。苛立つ男を見上げる茫然自失の瞳に心は在らず、まだ深いところにいるようだった。
何なのだこいつは。なぜあれだけ共にいる兄に見せたことのない顔をそう何度も俺には見せる!
デヴィンは焦りに長い金糸をバサバサと揺らす。今できることは何だ?
兄ならどうするかと記憶を手繰り寄せるが、彼らの旅の中に闇へ溺れるロジェールの姿などなかった。
であれば、己で考えねばならぬ。
「……ロジェール」
デヴィンは両肩を掴んでいた手を、深呼吸してからそろりと背へ滑らせた。回した腕にぎゅっと力を入れ強く抱きしめれば、小刻みな震えと淡い熱が感じられる。
ああ、クソ!
デヴィンはかさついた唇を小麦色の耳に寄せ、深く深く吹き込み落とす。
「俺はお前の兄ではない。Dだ。ダリアンの弟の、デヴィンだ!」
「はぁっ……はっ……D…、」
薄い体はまだ強張っている。デヴィンは静かに光を分け与え続けた。いくら固かろうが、おびただしいまでの情を前に蕩けぬものなど。次第に整っていくロジェールの息に、デヴィンは後押しとばかり首元に鼻を擦り寄せた。互いの呼吸音が場を支配する。
「……! デ、デヴィン! わ、私、すみません!」
正気を取り戻したロジェールが、腕の中でにわかに暴れだした。己の失態と現状を把握したのだろう。だが体格も体勢も不利で、何より戒めの主にその気が無いのだから、一片の勝機すらあるはずもなく。
「デヴィン、貴方のこと間違えてすみません。でも、離してください……」
「いい。このままだ」
先ほどとは質の違う唸り声が上がる。
「頑固なところもダリアンそっくり?」
デヴィンは返事の代わりに腕の力を強めた。もがくような抵抗はしばらく続いたが、はたと彼の体が弛緩する。諦めたか、何らかの折り合いをつけたか。それとも、ようやく気を許してくれたか。デヴィンは腕の中が大人しくなったのをしっかりと確認してから、ロジェールの耳へ流し込む。
「ロジェール。俺と同衾しろ」
「…………はっ!? えっ!?」
瞬きのうちに薄い体を担ぎ上げる。肩に布を掛けるように持ち運べば、食うための獲物を狩った気分。
「ねぇ、デヴィン! 同衾!? 同衾って言いました!?」
「言ったがそれがどうした」
「どうもしますけど!? 待って待ってまずいですって、ダリアンに怒られる私……!」
「……まあ、そうだな」
ロジェールをベッドに下ろせば、折角柔らかくしてやったのにまたガチガチに固まっていた。
「ほら、毛布。奥に詰めてくれ」
「あわわ……」
同じベッドに乗り上げれば思い出したように抵抗されるが、丸腰の魔術師が暴れたところで些事である。ロジェールをぐいと奥に押しやり、横抱きにして、毛布で自分とひとまとめにした。
顔を下げれば、煌めく翠の輝石が二つ。ヒビも入らぬほど硬いはずのそれが、熱に潤み、脆く揺らいでいる。怯え震えているくせ、俺に砕かれたがっていた。
――そんな顔するの、はじめてだろ。
「……眠れるまで抱いてやる。夢見が悪かった時、ダリアンに同じことをしてもらった」
見ていられなくて、艶やかな濃髪を胸に押し付ける。
「あっ……同衾って、そういう……」
抱いた体がまた柔らかくなった。待っていれば、健康的な色をした腕が遠慮がちに回される。嫌ではない暖かさだった。
「……優しいのですね。貴方も、ダリアンも」
「俺はともかく、ダリアンは素晴らしい兄で――あ、」
兄上。
彼はロジェールの寝言を思い出し、失言を悟った。分かりやすい呻きにロジェールが声を出して笑う。
「うふふ、聞かれてしまいましたね。貴方の大切なお兄さんには内緒にしておいてください」
「……悪い」
「……あのね、今から言うことも、彼には秘密。デヴィンにだけ教えてあげます」
デヴィンは抱いた頭に視線をやるが、ぎゅっと押し付けられるばかりで、彼の瞳が向けられることはなかった。
粛々と待っていれば、やがてくぐもった声が浮かぶ。小さく弱々しいそれは、しかしはっきりとデヴィンの耳に届いた。
「私、貴方に嫉妬していたんです」
想像だにしていなかった言葉に、デヴィンは思わず身を硬くした。緊張に、ごくりと唾を飲む。今、ロジェールは、何と。彼の告白は滔々と続く。
「貴方からすればダリアンと旅をしておいて何を、と思うでしょう。それでも、私、羨ましいんです。ダリアンを兄に持つ、貴方のことが」
胸元が酷く熱い。デヴィンの体は、秘め切れぬ激情を迸らせる静かな声に焼かれていた。
「だから、心の底から願っているんです。貴方たち兄弟の幸せを。私は私にできることを頑張りますから……明日も、頼りにしていますよ、デヴィン。貴方が来てくれて本当に良かった」
回される腕に力が入る。それは縋るためではなく、立ち上がるためのものだった。デヴィンも同じだけの情熱でロジェールを抱き返す。
「……寝るぞ。魘されるようだったら俺が叩き起こす。ここにいるのは……弟だけ、だから」
それきりロジェールは返事を寄越さなかった。穏やかな寝息を確認したデヴィンも、夜に落ちていく。それは先ほどよりもずっとずっと、すっきりとした眠りだった。
翌朝は慌ただしいものだった。というのも、起きて早々デヴィンが兄の覚醒が近いことを感じ取ったからである。
上層の探索は中止し、二人は書院から速やかに引き上げた。万が一探索中にデヴィンが眠ってしまっては、ロジェールの手には負えない。
「貴方のおかげで素敵な時間を過ごせました」
湖畔を見下ろす丘で、ロジェールが眦を下げて笑った。そこに影はひとつもなく、しかし昨夜を夢とするのはあまりにも惜しい。まあ、目撃者がいるので言い逃れはできないのだが。
「……ダリアンを頼む」
「地下へ戻るのですか」
デヴィンが武具を押し付ける。さっさと出発しようとすれば、腕を掴まれた。なんだと問えば、ロジェールが鞄を漁り始める。
いささかして現れたのは、上品なグローブに恭しくつままれたトリーナのスイレン。
「聖女トリーナの眠りは優しいものだそうです。お守りにどうぞ」
「……優しい眠りが必要なのはお前ではないのか」
「私はしばらくダリアンをお借りしますから!」
素直に花を受け取れば、それは、先宵の甘い香りがした。
◇ ◇ ◇ ◇
「ただいま、D」
円卓に戻ったロジェールは、まっすぐにダリアンの元へ向かった。寝室に足を踏み入れれば、先ほど別れた男と瓜二つの顔がベッドに沈んでいる。彼はまだ眠っているが、明けは近いらしい。預かった武具を置きダリアンの側へ腰掛ければ、穏やかな寝顔が見える。
昨夜のうちに集めた資料を半分程度読み込んだが、未だ彼らの眠りに関する手がかりはない。しかし、書院へ赴いたことは決して無駄ではなかった。
「――……ん」
「D!」
細く長い睫毛が震え、薄氷の光が現れる。三日と半日ぶりに見えたそれは、何よりも貴い遥か月のようだった。彼はゆっくりと身を起こし、緩く頭を振る。
いつものダリアンだ。さらさらとした金糸が跳ねるのを追っていれば、掠れた声が掛かる。
「……世話になったようだ」
意識は既に確からしく、こちらを見据える瞳も普段の鋭さが戻っていた。ロジェールは安堵にふわりと微笑む。
「体調はいかがですか。何でも仰ってください」
「ロジェール。俺と同衾しろ」
「…………はっ!? えっ!?」
認識するのに五秒。理解するのに追加で十秒。ロジェールは美しい笑みをへにゃりと崩し、言葉の主をジッと見つめた。
激しい既視感。正に同じ顔をした男から、一言一句同じ誘いを受けた気がする。
ということはつまり。
彼は、夢見が悪かったのだ。
「……独りにしてしまいましたものね。ええ、喜んでお力添え致します」
ロジェールはダリアンの願いを快諾し、帽子をベッドサイドへ置いてから自ら毛布に潜り込んだ。不在の間、彼もまた魘されていたのだろうか。一握の罪悪感を胸に、向かい合うよう体を滑り込ませる。昨夜のデヴィンと同じ形だ。
――あ、れ?
「……」
確かに二人の体は向かい合っている。しかし、ロジェールの想定とは角度が違っていた。腰に回されると思っていた逞しい腕が、顔の両隣に突かれている。真正面には結び紐を解いた長い髪をこちらに垂らす端正なかんばせ。異常を察知し動こうにも、騎士の体重を腰に掛けられては身を捩ることすらできない。
端的に言えば、ロジェールは今、ダリアンに押し倒されていた。
「D、一体なにを?」
努めて冷静に訊ねれば、白けた顔で鼻息を返された。これも既視感。
「同衾といったら意味はひとつしかないと思うが」
「ええ、はい。一緒に寝るということですよね?」
デヴィンがしてくれたような、とは付け加えなかった。この兄弟は互いを深く愛している。いくら健全に過ごしたとはいえ、共寝をしたのだと宣言されるのは良い気がしないだろう。
ロジェールはそう慮って、昨夜を秘した。だが、彼は知らなかったのだ。Dという双児の、ある特異性を。
「……褥に下ろされたお前の、困惑と恐れに混じり、隠しきれぬ期待を乗せた満更でもない顔。かまととぶれるとでも?」
――ほんの、一瞬だけ。ダリアンの顔が、デヴィンに重なる。心当たりが……ないこともないかもしれないが、しかし。
「ごっ……誤解です! というか何故Dがそれを!? いや、かまとと!? Dの口からかまとと!?」
「眠っていても、起きている方の状況が垣間見れる。愛弟は黙っていたようだが」
サァとロジェールの血の気が引く。
「いえ、いえ、違うんですD。私、弟さんとは何もありませんでしたから」
ダリアンは怒っているのだ。大切な弟を誑かした自分に。ロジェールは必死に弁明する。
「私がご迷惑を掛けたのは確かです。同衾も真です。でも、彼の言う同衾とは添い寝のことで、やましいことなどひとつもありませんでした。Dの思っている同衾とは違うのです」
「いや、違わない」
「そんなわけ……うん、ええと…?」
混乱してきた。つまりダリアンは今、自分を押し倒しているが、そういう意味ではない?
――それとも。
「弟はずっと耐えていた。よくも苛めてくれたものだ」
耐えて、いた?
「…………えっ!? あんなにツンケンしていたのに!?」
出会いは最悪、最初にぶつけた後頭部は未だコブになっているし、別れだってあっさりしたものだった。ベッドの上でだって、下心を感じるどころか彼は苛立った顔を隠しもしていなかった。
ロジェールは非難がましくダリアンを見上げるが、呆れたような溜息が返される。
「全てが同一とは言わないが、双子だから好みはかなり似る。デヴィンは俺よりも初心なのだ。それすら察せんとは」
「Dよりも初心!?」
反射的に出た言葉には、反射的に出た拳が下される。ロジェールは軽い痛みに呻くが、そんなことよりも。
「……待って、待ってください。それではまるで、貴方」
私のことを好きだと言っているみたいではありませんか。
「ようやく自分の状況を理解したか」
返された言葉に自分の予想が真であると確信し、ぼっと全身が発火する。熱い、全てが。己もそうだし、何より、目の前の男の、全部。
「デヴィンは次にお前と会った時、確実に手を出す。だから俺は、今すぐお前を食う。先に好いていたのは俺なのだから」
流れるように降ってくる言の葉は溶岩だ。落ちたそばから身を焦がし、消えない焼け跡を残していく。
彼はロジェールを食うと高らかに宣言した。いくら初心な双子とはいえ、これは、間違いなく貞操の危機である。逃げなければ、自分は、このまま。
瞳の奥が軋む。にわかに喉の渇きを覚え、音を鳴らして唾を飲み込んだ。昨夜と同じなのに、違う顔が下りてくる。緩く結ばれた色素の薄い唇を見て、腹の底が暴れた。飢えを感じている。目前に肉があるのに、どうして逃げる必要があるのだろうか。
「……ん、」
触れる。差し込まれた舌に吸い付けば、下顎を掴まれた。角度をつけられ、奥深いところまで明け渡せとねだられる。脳を揺らす湿った水音が、口付けの激しさを物語っていた。場所も忘れて貪るように交わる。
次第に息が苦しくなったところで、自分たちはようやっと呼吸を思い出したのだ。
「はっ……」
唇が離れ、繋ぐ銀糸がふつりと切れる。下顎を掴む指を頬へ滑らせ、ダリアンが言った。
「俺はデヴィンの兄だ。だが、お前を愛せるし、デヴィンもお前を愛せる。ロジェール、お前はどうなんだ」
――そんな、返答に困る質問を。
「……私、好きです。貴方たち二人とも。だから、選べない」
「選ばなくていい」
「贅沢すぎません?」
「俺たちが許す」
「……ふふ」
ロジェールは眉を下げ、微笑みながらダリアンの背に腕を回した。そして、ぎゅうと力を込める。
「次はダリアンが書院に同行してください。調べ物の続きがしたいので」
今はまだひとり分しか抱けないこの腕を、もっと広くせねばならない。いつしか二人同時に抱きしめるために。
ロジェールの言葉にダリアンが頷く。
「もちろん構わないが今日は……いや、明日も厳しいだろうな。お前が」
「私が?」
「しばらく立つことすらできん体になる」
「…………ねぇ、同衾ってやっぱり添い寝という意味ですよね? ね?」
「その顔で言われてもな」
どんな顔だと聞こうとして、やめた。いつの日か、デヴィンに聞けば良いのだから。