現パロ無鉄(彫刻家×貧乏美大生)その6 冬空から降る陽光は、深雪の様に澄んでいる。俺が浴びているのは、清けさだった。カン、カンと槌の音が響いている。俺は何時間もずっと、同じ姿勢を維持したまま彼の指先を見ていた。
アトリエには俺たち二人きり。上半身裸で彼のモデルに徹している俺と、ゾーンに入ったかのように集中している無頼漢。時折こちらへ近付いてきては俺の体を撫でていく。ゆっくりと指を添わせて俺のおうとつや質感を確かめているのだ。カサついた火傷痕に石粉の付いた指が滑る。今朝あんなことをしたというのに、肌が触れても俺たちは無色だった。ここにあるのは透明な匣。幾度となく繰り返してきたが、俺たちのアトリエは何人たりとも犯すことはできない。
カン、カン。他学科の学生が聞いたって代わり映えのしない音。何時間も聞いていれば狂う奴もいるかもしれない。だが、俺に苦痛は無かった。それどころか、乾いた音はまるで大海原を征く舵に似た音色で飽き知らず。いつまでも聞いていられる――そんな陶酔を引き裂いたのは、グゥという間抜けな音だった。
「……悪ィ、捗り過ぎた。飯にすっか」
確かアトリエに足を踏み入れたのは、フレンチトーストを食べ終えた十時頃。そして今は……十八時。八時間を会話もせずこの部屋で過ごしたのだ。ずっと口元へ置いていた左手を下ろす。流石に関節が悲鳴を上げていた。
「結構粉が付いている。シャワーが先だ」
彼の鼻先に積もっている石雪を拭ってやれば、無頼漢は柔らかく笑った。
夕飯は豚の生姜焼きだった。簡単ですまねえな、と彼は言うが、これもまた本当に美味い。腹が満たされ、充実した休日に幸せが染みた。
二人で食事を終え、洗い物をする。この後は普段ならリビングなどでめいめい好きに過ごすが、今日の無頼漢はまたアトリエへ籠るようだ。筆が乗っているらしい。無理をするなよ、と声を掛けても生返事。こうなった彼はしばらく止まらない。
俺は久しぶりに読書をしながら過ごしていた。少しだけ無頼漢が戻ってこないか期待していたが、気配すらない。時計を見ればそろそろ十二時を回る。この調子では朝まで出てこなそうだが……
ふと思い至ってキッチンに立つ。冷凍したご飯、卵、小松菜、カットわかめ……これくらいでいいか。鍋に湯を沸かし、即席スープの素を溶きながらご飯を解凍する。しばらく作業していれば、やがて俺の手元にはいい匂いのする器が出来上がっていた。
「無頼漢」
アトリエに向かって声を掛ける。返事はあまり期待していなかったが、気付いてくれたようだ。彼はスケッチブックをテーブルに置きダイニングへ歩いてくる。
「……美味そうな匂いだ」
「夜食を作った。食うだろう?」
「お前さん料理出来たんだなあ」
「一般大学生程度にはな」
無頼漢が椅子を引きながら笑う。俺は正面に座って、彼の感想を待つことにした。無頼漢がレンゲで雑炊をすくい、静かに口へ運ぶ。冬の夜に立つ湯気が夏のそれよりも柔らかい気がするのは何故だろう。そんなことを考えていれば、無頼漢がゆっくりと口を開いた。
「優しい味だ。どこで覚えたんだ?」
「ん……『施設』だ。俺の後見人がよく作ってくれた」
「『施設』……」
転居の際に、俺の保護者が血の繋がっていない後見人であることは既に伝えてある。だが、事情はまだだった。
「俺……小さい頃アパート火災に遭って」
無頼漢は手を止め、ジッと俺の話に耳を傾けてくれている。
「親も、家も……思い出、も。全部失くしている。事故のショックで記憶を失っていて、両親のことすらほとんど。親族に引き取り手もなく、それで『施設』に預けられたみたいだが……イゾルデに保護されたのは幸運だった」
「その人が後見人か」
「ああ。あの人のお陰で俺は生きてこれたし、奨学金だけじゃキツかった美大進学もイゾルデが援助してくれた。古風だが、文通でたまに近況を報告していて、あんたのことも勿論伝えている。さ……冷める前に残りも食ってくれ」
勧めれば無頼漢は大きく頷き、再びレンゲを動かし始めた。ややもすれば大きな手のひら同士が合わさり、米粒一つ残っていない器がテーブルの上に置かれる。
「……かなり美味かったぜ」
「それはどうも。片付けもやっておくから、好きなだけ打ち込むと良い」
「ああ。あー……なあ、鉄。こっち来てくれるか」
「うん? ――ッ!」
持ち上げかけた食器を戻し、立ち上がった無頼漢に近寄る。そうすれば……大きな体が覆いかぶさってきて、俺はすっかり包み込まれてしまった。彼は何も言わない。だから俺も力を抜いて抱かれていた。
冬空から降る月光も、深雪の様に澄んでいる。俺が浴びているのは、明けさだった。