Don’t cry over spilt coffee いつからか戦士長の部屋でふたり、残務をこなすことが増えた。
開戦に至る以前から、マーレの軍事会議は「エルディア人に意見を聞いたのが間違いだった」、で終わることが多かった。こちらには自由な発言権がないのに核心に至らない質問をする幹部連中が無能なのだが、なんの戦略もないままではマーレの誇る戦士隊とて戦うべくもない。自然、戦士長と副長たるジークとライナーは議題を持ち帰って検討することになった。
うず高く積まれたジークの蔵書には貴重な古書も少なくなかったから、過去のユミルの民がいかに戦ってきたか書かれた文献を探し出して研究もした。対巨人砲などの先端技術が導入されつつある今となっては、エルディア帝国時代の資料には役に立たない記述も多かった。しかし、過去には最強かつ最凶の絶対的兵器であった祖先に関する知識を深め、彼らに思いを馳せる機会は、ライナーにとって不思議に心癒される時間だった。
書物を紐解き、先人たちの行動を追うと、同様の立場にあった者と時代を超え交流しているような気持ちになれた。しばしば時間を忘れて没頭した。
今日も、200年ほど前の鎧の記述を見つけ、読み耽っていたところだった。
「ライナー、あとで――――しない?」
休憩がてら珈琲を淹れていたジークがなにか言ったようだった。
「はい、いいですよ」
ライナーは文献から顔をあげないまま、いつもの調子で戦士長に相槌を打った。
首肯しておけば大きな間違いはないというのが、近年ライナーが学んだことだった。
手元の歴史書では、鎧の巨人が城門を破って他民族を追い詰めるところだった。しかし、対巨人兵器の開発目覚ましい現代となっては、先陣を切って戦うことは悪手となりかねない。この状況では鎧は守りに徹するのが得策だろう。
この戦法ももう使えないか。ライナーは本を閉じ、棚の隙間に戻した。
小さく溜息をつく。一呼吸おいて、先ほどのジークの言葉が脳内で再生された。
――――、――――……。
は?…――――する?
処理された文字列が今頃になって意味を成した。耳朶がカッと熱くなった。
「え?」
本棚の前に立ち尽くし、虚空に向かってつい大きな声が出た。頭が混乱している。
ライナーは当の戦士長のほうを見た。にやにやとこっちを見ている。珈琲は淹れ終わったらしい。マグカップが2つ、テーブルの上で湯気を立てている。
「はは、そういうとこあるよなお前」
「あ、いや、……ちょっと考え事をしていて……すみません」
「別にいいよ。まあ掛けて」
向かいの空いた席を指し示したジークだったが、すぐにアチッと声を上げた。指先で耳たぶをつまんでいる。掴みかけたマグの熱い部分がもろに当たって火傷したらしい。
「妙な仕組みだよなぁ脊髄反射ってやつは。つまんじゃわない?耳」
だいたい火傷とかすぐ治るってのにさあ、ジークはそう呟いて、今度は慎重にマグを掴み、口に運んだ。
「ん、いける。飲みなよ」
「……いただきます」
ライナーは席に着いた。挽いたばかりの豆の良い香りがした。
種類とか淹れ方とかの混み入ったことはよくわからなかったが、残務の合間に飲むジークの淹れた珈琲は割合に好きだった。マグカップに口を付ける。すっきりした苦みが鼻に抜けた。
「……うまいです」
「そう。よかった」
一連のジークの態度の普通さに、ライナーは先ほどの言葉は聞き間違いだったかと思い直していた。
「……で?――――してくれるんだ?」
「ブッ」
「あッもー、もったいないじゃん、せっかく上官からくすねてる珈琲だぞ」
「は……すいません……?」
思わず袖で口元を拭うと、明るい色の隊服に茶色い染みがついた。
「嘘だよ。ライナーはすぐ謝るのやめたほうがいい」
「すいま、……はい」
嘘だよ、はどの部分にかかっている言葉なのだろうと思った。残念ながら――――の部分ではなさそうだった。
「それで?」
「……おれに選択の余地、ありますか?」
「うん、まああったけど」
「ではその、できれば……」
「でもさ、お前珈琲飲んだろ?」
「!」
「だからそのお返しっていうかさ、その分くらい。……いいだろう?」
ジークは身を乗り出し、ライナーの首筋をその長い指で撫で下ろした。
くすぐったさとは異なる感覚が背中を駆け上がり、ライナーは小さく身震いした。舌の上にわずかに残った珈琲の酸味が、急に憎らしく感じられた。
ジークは愉快そうにライナーを眺めている。
「まあそう固くなるなよ。夜は長いんだ」
【了】