Coffee With Milk and Sugar 無機質なオフィスビルの林の間に、そこだけ花が咲いたような佇まいの、ガラス張りの小さなカフェバーがある。赤いテントが張り出した店先はしかつめらしい周りの景観と一線を画し、いつでもゆったりとした時間が流れていた。
昼の白い光が差し込む店内は今日も混み合って賑やかだ。くだけた雰囲気の内装に、スローテンポなBGMが心地よく長居を誘う。気候の良いいま時分は日当たりのよいテラス席が開放され、様々な年齢層の客が日光と風を浴びて思い思いに過ごしていた。さながら都会のオアシスであった。
遅めの昼食を取ろうと店を覗いたジークとライナーは、かろうじて空席を見つけ、これ幸いとカウンターに陣取った。
ランチの時間過ぎてて助かったなあ。
それでも結構混んでますね。
背の高い椅子に並んで掛ける。肩が触れ合ってきゅうきゅうした。
一枚板のカウンターは磨き上げられてぴかぴかしている。ラテンの血を色濃く感じる強面のマスターは、マスキュリンな見かけによらず愛想がよくて手際がいい。基本はスペインバルだが、軽食の種類も多く味に定評があった。足繁く通わない理由がない。
えーっと、Un café solo y pincho de tortilla, por favor.
ジークは流暢なスペイン語でオーダーした。Vale, vale. 店主は早速エスプレッソマシンに手を伸ばす。
いつもながら。
まあこれくらいしか知らないけどね。お前は?
えーと。ライナーは本日のおすすめを適当に頼む。腹の虫がぐうと鳴った。
ジークが頼んだコーヒーとトルティージャがすぐに供された。ケーキのように整然と切り分けられた厚切りのオムレツにはポテトとベーコンがぎっしりと詰まっている。真ん中にフォークが刺してあるのが現地風だった。Gracias. ジークは手を伸ばし、うやうやしく受け取った。
ハウスワインも良さそうなやつ入ってるじゃん、いいなあもう労働したくねえなあ。昼間っから飲みたいよ。ジークはコーヒーを啜りながら恨めしそうに言った。フォークでトルティージャを切り分け、口に運ぶ。
あ、うまいねえ。
間もなくライナーの注文もサーブされた。定番メニューのカフェコンレチェにボカディージョ、いわゆるバゲットサンドイッチだ。味はもちろんだがそのボリュームが店の売りで、ざっくりと切ったパンに、ブラックオリーブ、生ハム、チーズにスペインオムレツがたっぷりと挟んである。
ライナーは大口を開けてかぶりついた。具材が口の中で混じり合って、味蕾を複雑に刺激する。舌は肥えていないので正直何を食べたってうまいのだが、きっとすごくうまいのだと思う、いくらでも食べられそうだった。オリーブが効いている。続けて熱いカフェコンレチェを流し込んだ。口の中がべろんべろんになるくらい熱い飲み物が結構好きだった。エスプレッソの苦みは泡立てたミルクでじゅうぶん中和されていたが、午前中の疲れを癒したい気分で、添えられた砂糖の袋を破いて入れる。スプーンで適当にかき混ぜ、再び啜った。ほっとする甘さが口に広がった。
やっと人心地がついて、ライナーはほうっと息を吐いた。
ライナーはほんとにうまそうに食べるね。ヒゲに泡ついてるよ。
あ、いけね。ジークさんはそれだけですか?
ダイエット中なんだよ。ジークは最後の一切れを口に放り込んで言った。
食べないダイエットは続きませんよ。
会社では上司と部下の間柄だったが、最近はよくわからない距離感のふたりだった。
そうだ、お前iPhoneだっけ。
ライナーはモグモグ、ごくん、としてから、ええ、そうですけど、と相槌を打った。
これなんだけど、この『フィットネス』ってアプリさあ。
ああ、デフォで入ってるやつ。俺、使ってないんですけど。
えーと、一日の運動量?ムーブゴール達成すると褒めてくれるのね。例えばこんな感じで、「ジークさん、火曜日のムーブはすごかったですね!この調子で今日も頑張りましょうね」とか言うわけ。
はあ。
なんかさ、いやらしいこと言われてるのかと思うじゃん。思わない?
……は?
突拍子もないジークの言葉に、疑問符が浮かぶ。ライナーは火曜日の記憶を手繰った。
火曜日、火曜日って……ええと。
うん、そう。取引先回った日だよね。
は…………そうでした。
乗り換えがえぐかったよな、ムーブゴール300%達成だって。
……確かに、市内のメトロの路線総当たりって感じでしたしね。
ジークは身を乗り出してライナーの顔を覗き込んだ。にんまりしている。どきりとしたライナーはコーヒーを飲んだ。乱暴にカップを置く。ソーサーがわなないた。
げほ、なんですか……。
お前いまよからぬこと想像したろ。なんか思い出した?ジークは楽しげに言った。
え、いや……だってあんな前置きされたら……。
ええ〜俺が悪いのかなあ。むっつりだなあ。
違いますってば。
ムっとしたライナーは食べかけのボカディージョを頬張った。視線を感じて、碌に味がしない。この、ジークという人間は。誘導されないように気を引き締めねばと思った。
いいなあ。それちょっともらえる?やっぱりこれじゃ足りないや。屈託なくジークが言った。
……追加で頼んだらいいじゃないですか、稼いでるんだから。
それが食べたいんだよ。ちょっとでいいから。
……じゃあ、どうぞ。ライナーは皿ごと隣の男の前に滑らせてやった。
ありがとう。ジークはそれをすぐに口に運んだ。……あ、オリーブオイル、うま……沁みるね。
ジークは指についた油をペロリと舐めとった。その動作が妙に艶っぽく感じて、ライナーは目をそらした。
……ちょっと、ひとの食べ過ぎじゃないですか。文句をつけて誤魔化した。誤魔化せたのかは、わからなかった。
ごめん、おいしくてつい。やっぱここメシうまいよな。
だから普通に食べて、そのあと運動すればいいのに。
そうだな。運動、ね。……しますかあ。
「運動」。ジークの言葉が持つ響きにライナーはあれ、おかしいぞと思った。またなにか問題のある発言をしてしまったことに戦慄した。
ライナー、また付き合ってくれるの。運動に、さ。
ぐぐぐ、とライナーは逡巡した。額に汗が浮かぶ。きっと赤らんでいるはずだと思った。さすがに周囲を見回したが、傍から聞けば別に普通の会話だと思い直してやめた。火曜日のことは頭の隅に追いやった。
…………いいですよ。ライナーは俯き気味で同意した。顔から火が出そうだった。
やったあ、上司思いの部下を持って幸せだな俺は。ジークは悪びれずに言った。
またかれの思惑どおりになってしまったかもしれない。ライナーは悔しかった。
残りのコーヒーをごくごくと一気に飲み干した。最後に残った砂糖がザラリと舌にまとわりついた。なんだかひどく甘かった。
マスター、トルティージャもう一つ。あとバゲットもつけてもらえます。
暢気な声でジークが言った。
一口あげるからさ。ジークはばちんと目配せして言った。眼鏡の奥で青灰色の瞳がひらめく。
ライナーはあっけにとられた。開いた口がふさがらないとはこのことだ。ひとの気も知らないで。
やーだあ!盛り上がったらしいテーブル席のご婦人方から、一斉にかしましい笑い声があがった。脳内で悶々としていたライナーは一気に現実に引き戻された。
ファサードからは光が差して、メロウなジャズに話し声が混じって聞こえてきた。ぽかんとするほど平和な午後だった。皆それぞれに生活を営んでいる。なるようになるだろうという気がした。そうだ、なるようにしかならない。世界はべつに我々を中心に回っているわけでもない。これもぜんぶ冗談みたいなものだ。
……もちろんです。というか、俺の昼飯もおごってくださいよ。ライナーはボカディージョを取り返しながら言った。
えー。俺のぶんまで労働頑張ってくれるわけ?
それとこれとは。
ちぇ。確かにな。しょうがないなあ。
不思議なことに、ライナーはこのふざけた男が嫌いになれないのだった。
【了】