レンズ越しのモナ・リザ①29歳にして写真家として頭角を現した渚カヲル。
元々は趣味が高じて始めた仕事だったが、彼が撮った写真は次々と高評価され、気付けば業界でも名前を聴かない人がいない程のトップクラスの人気となっていた。
しかしそんな日々を過ごしていくうちに、カヲルは気付いてしまった。…自身の写真よりも、その名声や容姿ばかりが重要視されている事に。
自分に近付いてくる者はそのような輩ばかりで、カヲルは心底うんざりしていた。
そしてとうとう耐えきれなくなったカヲルは、療養を理由に旅に出る事にする。
周囲の反対を押しきり、行き先を一切告げずにマンションを飛び出した。
特に宛はなかったが、カヲルはそれでも良かった。
風の吹くままに行き先をチェックせずに電車に乗った。
適当に乗り継ぎしていくうち、やがてビルばかりだった景色は森や田んぼに変わっていき、やがて海の見える小さな港町に辿り着いた。
『(こうして海を眺めるのはいつぶりだろうか?)』
日の光輝く海の美しさに、カヲルは気付くとつい持ってきてしまってきた自前のカメラを構えていた。
海以外にも周りの景色も次々と夢中で撮った。
やがて日が暮れ始め、カヲルは名残惜しい気持ちを抱えつつも海を後にした。
チェックインした民宿にて早速撮った写真データを確認する。
ありのままの自然の美しさ、そこで笑顔で暮らす人々の姿に、なんだか胸が暖かくなる。
次々スライドしていき、やがて辿り着いた一枚の写真に、カヲルは目を奪われた。
柔らかな海風を受け堤防に一人佇む、一人の少年の姿。
その年不相応の物憂げな表情に、カヲルは魂を掴まれるような感覚がした。
『なんて、美しいんだ』
夢中で手当たり次第に写真を撮っていたので、この写真を撮った時の記憶がない。
勿論彼が誰なのか知る由もない。
『もう一度、彼に会いたい』
彼はどんな人物だろう?どんな声なのだろう?
溢れる衝動を抑えられない。
カヲルは名前も知らない彼にすっかり心奪われていた。
一晩明け、カヲルは早速彼を捜す事にした。
とはいえいい歳をした大人が少年の行方を捜して聞き込みをしようものなら、今のご時世下手をすれば事案になりかねない。
それにここは見知らぬ土地。万が一正体がバレて騒ぎになったり、不審者扱いで警察を呼ばれたりなどする訳にはいかない。
彼は見たところ、恐らく中学生くらいだろう。
昨日は休日だったが今日は平日なので、普通ならば学校へ行っているだろう。
ならばまず放課後の時間を狙い通学路付近を散歩しながら様子を見る事にしよう。勿論、怪しまれないよう慎重に。
今日の予定を決めたカヲルはとりあえず朝食をとる事にした。
そして、放課後。
さすがに一眼レフを持った見知らぬ大人が通学路を彷徨くのはまずいので、やむなく小型のデジカメをポケットに入れ、カヲルは宿を出た。
女将さんに世間話がてら聞いた話では、この街には中学は一つしかなく、通学路は決まっているとの事だった。
『(果たして彼には会えるだろうか?)』
今日1日で彼を見つけられるとは思っていないが、やはり期待はしてしまう。
生憎時間は山ほどあるので、彼に直接会えなくても、何かしらの情報を得られるまでは。
楽しげに会話しながら帰宅する学生達の声を聴きながら、カヲルはそう改めて思った。
暫く粘ってみたが、彼を見かける事すら出来なかった。
気付けば日が沈み始めていて、『今日はここまでか』と切り上げる事にした。
ついでに、と昨日写真を撮ったあの海辺をまた眺めたくなり、昨日の道程を思い出しながら歩き出す。
『夕日に照らされたあの海は、どんな姿だろう?』
そう期待して。
夕日に染まった海は想像以上だった。
あまりの美しさに、直ぐ様デジカメを取り出し写真に収める。
ふと波打ち際に人影を見つけ、逆光に目を凝らす。
漸く顔が見えて---息を飲んだ。
『---見つけた』
波打ち際にいたのは、紛れもない“彼”であった。
制服であろうシャツとズボンを身につけた彼は、ただ静かに海を眺めている。
夕焼けに染まった海と彼の、なんと美しい事か。
感動に震える手で、ゆっくりとシャッターを押した。
「…!」
シャッター音に気付いたのか、彼が此方に振り向いた。
「あ、あの…」
成長過程の少し高めな、透き通る声が耳に入りゆっくりと染み込んでいく。
「…ああ、すまないね。あまりにも綺麗だったものだから…」
「…わかります。僕もこの景色が好きなんです」
「…そうだね」
『君の事だよ』と言いかけて、なんとか飲み込む。
流石に初対面の少年に見ず知らずな大人が言う訳にはいかないだろう。
「あの…貴方は…?」
「僕はカヲル。渚カヲル。しがない写真家さ。」
宿で女将と話した時に気付いた事だが、どうやら自分はこの街で顔は割れていないようだった。
元々あまり表舞台に立たずに活動していたので、今となっては好都合かもしれない。
「君は…学生だね。こんな時間にここにいて、家に帰らなくてもいいのかい?」
「…いいんです。家に帰っても、…誰もいないから。」
「誰も…?」
どういう事だろう。
彼くらいの歳ならば、まだ親の保護対象にあるはずだ。
「数年前に両親が亡くなって…今は親戚の家にお世話になっているんです。でも、叔父さんはあまり帰ってこないから…」
どうやら複雑な家庭環境のようだ。
しかしその叔父とやらは、家に帰れない程に忙しいのならば何故彼を引き取ったのだろう?
まあ赤の他人である自分が考えたとしてもそれぞれの事情があるだろうが---…
だとしても、このまま彼を一人にしておくのは、大人として見過ごす事は出来ない。
「この先にある民宿はわかるかい?」
「え…?あ、はい…」
「僕は今そこにお世話になっていてね。もし良かったら、そこで夕飯でもどうかな?」
…見ず知らずの大人にこんな事を言われたら、怪しさしかない。
でも彼を放ってはおけないし、それにあの気の良い女将さんならきっと解ってくれるだろう。
「いきなりすまない。見ず知らずの男に言われても困惑してしまうだろうね。でも未成年の君をこのまま一人で帰す程、僕は冷酷ではないよ」
「……………。」
「ただ純粋に、君が心配なだけなんだ。」
彼は黙って俯いていた。
暫く沈黙が続いて、『やはり、駄目か』と諦めかけたその時、
「…わかりました」
彼が小さく口を開いた。
「…いいのかい?」
「はい。どうせ家に帰っても一人ですし…。それに、女将さんにも最近会ってなかったので、折角ですし挨拶でもしようかなって…」
とりあえず怪しまれていない事にほっとする。
「あ、でも一つお願いがあるんです」
「なんだい?」
「一度家に帰ってもいいですか?叔父さんがいつ帰ってくるのかわからないですし…。家の戸締まりと、書き置きしてこなきゃ」
「わかったよ。でももうすぐ日が暮れる。家まで送るよ」
「すぐ戻りますから大丈夫です。ここから結構近いんです。」
…やはり、若干警戒されているようだ
「わかった。なら此処で待っているよ」
「すみません。すぐに戻りますので!」
そういって身体を翻した彼に、僕は肝心な事を聞き忘れていたと思い出す。
「そういえば、君の名前をまだ聞いていなかったね」
「シンジ…碇シンジです」
「シンジくん…素敵な名前だね。」
「…ありがとうございます。では渚さん、後程!」
彼はぺこ、と頭を下げて家に向かって走り出した。
『シンジくん、か…』
彼--シンジくんが戻るまで、僕はその名前を何度も噛みしめていた。
暫くして合流したsnjと共に民宿へ行くと、女将が出迎えてくれた。
「あらっ、シンちゃんじゃない!いらっしゃい!」
「…こんばんは。お久しぶりです女将さん」
女将はシンジの顔を見た瞬間、パッと顔を綻ばせた。
「女将さん、急で大変申し訳ないのですがこの子の分も夕飯をお願いしたいのですが…」
それを聞いた女将は驚いた顔で、
「シンちゃんご飯まだなのかい!?駄目だよ育ち盛りはちゃんと食べないと!まかせな、おばちゃんがすぐ用意してあげるから!」
「す、すみません…」
「部屋に二人分持っていきますから、少しお待ち下さいね!」
女将はそう言い残し、バタバタと厨房へ向かっていった。
「…深い知り合いだったかい?」
「…女将さん、この街のお母さんみたいな存在なんです。僕の事情も知っていて…たまに声かけてくれるんです」
確かに気の良い女将だったが、それならば納得がいく。
きっといつもああやって周りを見ていて、それでいて慕われているのだろう。
暫くして部屋に運ばれていたのは、山盛りのご飯と女将特製のこれまた山盛りのおかずで、僕もシンジくんも驚きを隠せなかった。
「シンちゃん少し見ないうちにまた痩せたでしょ?遠慮しないで食べな!それにお客さんも、若いのにそんな細くてちゃんと食べてるかい?おかわりもあるからたんと食べなさい!」
女将さんの勢いに圧倒され、僕もシンジくんも箸を取る。
「…美味しい」
誰かの手作りを食べるのは、実に何年ぶりだろう。絶妙な味付けのおかずは、どこか懐かしさを感じる。
きっとこれが、“おふくろの味”というものなんだろう。
シンジくんも同じなのか、美味しそうに顔を綻ばせていた。
美味しい夕飯をたんとご馳走になったあと、食後のお茶を持ってきた女将が言った。
「シンちゃん、今日はもう遅いからこのまま泊まっていきな。着替えは貸し出しのがあるし、制服のシャツは洗って乾かしてあげるから」
「え…でも、」
「家に帰っても一人なんだろ?明日朝ごはん作ってあげるから、それ食べて学校行きな」
「はい…ありがとうございます」
最初は遠慮していたシンジくんだったが、女将さんの気遣いを察したのか嬉しそうな、照れたような顔をした。
『笑った君も、綺麗だ』
出来る事なら、その笑顔も写真に収めたかった。
その後少し会話をしていたけれど、満腹になった為か疲れていたのか、シンジくんがうとうとし始めた。
女将はすぐに察して布団を持ってきて、シンジくんを寝かせた。
布団に入ったシンジくんはすぐに寝息を立て始め、僕と女将は安堵からほぼ同時に溜め息をついた。
「お客さんごめんなさいね、お客さんの部屋にそのまま…」
「いえ、いいんです。それよりも、シンジくんがなんだか楽しそうで安心しました。」
「そういやあお客さんは、あの子の知り合いだったのかい?」
「いえ、海で写真を撮っていた時に偶然会ったんです」
…まさかあの子の美しさに一目惚れして捜してました、だなんて言えまい。
「そうだったの。あの子が他人と一緒にいるなんて珍しいから…」
「そうなんですか?」
「シンちゃんはとっても優しくて気遣いの出来るイイコだけどね。ちょっと引っ込み思案…とでもいうのかね?お友達もなかなか出来なくて…。
だからいっつも一人でいる事が多いのさ。それに、あの男もなかなか帰ってこないからね」
「そういえばシンジくんもそんな事を…」
「あの子の両親は、早くに交通事故で亡くなってねえ。親戚中誰も引き取りたがらなくて盥回しにされて、ありゃひどいなんてもんじゃなかったよ。」
「そんな…」
「もういっそ私が引き取ろうかと思ったくらいだよ。そしたら今度は『赤の他人が~』とか騒ぎ立てて、全く!!」
女将は当時を思い出したのか、怒りで顔を少し赤くしていた。
無責任で勝手過ぎる顔も知らない彼の親戚達に次第に気分が悪くなり、思わず拳を握り締めた。
深夜、なかなか寝付けなかったカヲルは部屋の広縁でカメラを磨きながら夕方の女将との会話を思い出していた。
『シンちゃんは気が利く子でね。本人はわかってないけど、私だけでなく商店街の皆から可愛がられているんだよ。』
『だから今日楽しそうなシンちゃんを見て嬉しくてねえ…。お客さん、これからもシンちゃんと仲良くしてやって下さいね』
女将さんの本当に嬉しそうな顔に、心からシンジくんを心配してくれている事か伝わってきた。
「渚、さん…?」
「シンジくん、起こしてしまったかい?」
まだ少し寝惚けているのか、目を擦りながら覚束無い足取りで此方へやってきた。
「すみません…ぼくいつのまにねちゃってたみたいで…」
「いいんだよ。よく眠っていたよ」
「あれ…それは…?」
シンジくんは僕の手元を見て首を傾げた。
「ああ、君と出会った時は違うカメラだったね。一眼レフカメラだよ。」
「いちがん、れふ…?」
「触ってみるかい?」
「えっ、でも…」
遠慮するシンジくんにそっとカメラを持たせ、風が入るよう半分開けていた窓を全開にする。
「シンジくんは、星が好きかい?」
戸惑っているシンジくんを窓際へ立たせ、自分は少し後ろへ下がる。
「レンズ越しに、見上げてごらん」
シンジくんは言われるまま、覚束無い動作でカメラを構えた。
「う、わあ… !」
カメラを渡す前に少しズームやピントを調整したので、きっとシンジくんの目にはたくさんの星が見えているだろう。
「凄い、凄い…!いつも空を見上げて見るよりもたくさん見える感じがする…!」
シンジくんの弾む声に心が暖かくなる。
そのままシンジくんの後ろへ回り込むと、
「シンジくん」
「あっ、ごめんなさいはしゃいじゃって… 、え…?」
後ろからシンジくんを抱き込むように手を重ねた。
「なっ、渚さ…!」
「そのまま構えて。シャッターはここ。自分の思うままに、空を切り取るんだ」
「でっ、でも」
「大丈夫、君なら出来るよ。ピントを合わせてホラ…1、2…」
「3」
“カシャッ”
重ねた指がシャッターを切ったのを確認して、シンジくんから離れる。
「どうだい?」
「きれい…。凄い、僕初めてなのに…」
「とても綺麗に撮れたね。君だけの、シンジくんだけの星空さ」
「ぼくだけの…?」
「そうさ。初めてでここまで撮れるだなんて、シンジくんは才能があるかもしれないね。」
「そんな…。渚さんのおかげです」
「ならまた今度撮ろうか。君さえ良ければ、僕が教えてあげるよ」
「いいんですか?」
「勿論。そのかわり、僕にも君を撮らせて貰えないかな」
「僕を…?」
「君は被写体としての才能もある。僕はもっと、いろんな君が見たいんだ」
「才能…?」
「…急にこんな事を言い出してすまない。困惑させたようだね」
勢いに任せてついがっついてしまった。
シンジくんはどうすべきなのか悩んでいるようだ。
「…この写真はあとで現像してあげるよ。さて、今日はもう「渚さん!」」
『お開きにしよう』と言おうとした所で、シンジくんが声を上げた。
「シンジくん?」
「ごめんなさい。僕、そんな事を言われたの初めてで、なんて言ったらいいのかわからなくて…」
「でも、渚さんの言葉に救われました。僕にはそんな価値なんてないって思ってたから。だから…」
「有り難う御座います、渚さん」
そういって顔を上げたシンジくんは、初めて見るとても綺麗な笑顔だった。
(つづく)