いつか、暇になったら。.
「あかぁーし、あのさ」
「はい。何ですか、木兎さん」
まず初めに言いたい。ここは三年一組の教室である。私の隣にはあかぁーし事、赤葦京治くんが座っているが、彼は二年生だ。つまり、その席の本来の主ではない。が、赤葦くんは割と頻繁にそこに座っている……と思う。その理由は、赤葦くんの前に座る男、木兎光太郎だ。
木兎と赤葦くんはバレー部の主将と副主将の関係である。そして、その関係こそが赤葦くんが頻繁にこの教室に足を運ぶ原因であった。部活動にて必要な書類やら何やら、まぁ、要するに事務的ななんやかんやが全くダメで、提出期限ギリギリになっても提出されていない事を知った赤葦くんが昼休みに我らが三年一組の教室に乗り込んでくると言うのがお決まりなのである。
今日も今日とて、昼休みになると同時に赤葦くんはやって来た。その席の持ち主である林田は慣れた様子で席を赤葦くんに明け渡して、食堂へと旅立った。礼儀正しく林田に挨拶をした赤葦くんもまた、慣れた様子でその席に座る。そして、早急に書類を出せと木兎に圧をかけていた。
しわくちゃになった書類を半ばひったくるようにして受け取った赤葦くんは弁当を食べるよりも先に書類と向き合う。始めこそ小さくしょぼくれてた木兎はもの三分程度で復活して、弁当を食べ出した。強メンタル過ぎて怖い。
さらには赤葦くんの弁当も広げだして、書類の記入欄を埋める彼の口に食事を運び出す。アーンってヤツだ。赤葦くんは赤葦くんで何の疑問も抱かず、それを頬張る。いい加減見慣れたから、誰も何も言わない。言わないけど、アンタらの距離感どうなってんのって、思いは共有している。けど、誰も怖くて聞けやしないのだ。
そうして、もぐもぐと機嫌よく食べて、食べさせてた木兎が赤葦くんを呼んで、赤葦くんは返事をした。彼はとても良くできた後輩だから、ペンを止めて、ちゃんと木兎を見る。本当、良い子。
「ラッコって、手を繋いで寝るんだって。知ってた?」
なぁ、木兎よ。それは今話さねばならん内容か。私は……って言うか、その周辺の面々は揃って、頭を抱えた。いや、だってね。さっき説明した通り、この男のせいで彼は殆ど昼休みを返上しているようなものなのだ。その彼に向って、今、ラッコが手を繋いで寝る話はしないとならんか。
大体、それ昨夜のテレビで仕入れたネタだろ。どうせ朝練の時に話そうとしていたのをすっかり忘れてしまってて、それを今思い出した、とかそんなんだろ。
案の定、顔を上げた赤葦くんはそれはもう、心底どうでも良いと言う顔をしていた。
「木兎さん、それって今話さなきゃならない事ですか」
「……え?」
「だから、俺にこれを書かせておきながら、今、話さなきゃならない事ですかって聞いてるんです」
「怒ってる?」
「……いいえ」
「でも、怒った顔してる」
「……少し」
「ごめんなさい」
「……いえ、別に、そこまでではないんスけど。でも、その。何で今、唐突にラッコが出て来たのか不思議ではありますけど」
「昨日、テレビで見て、赤葦に教えたいって思ってて、でも、忘れてたの、今思い出して。思い出したら、すぐ、話したくて」
幼稚園児かな、うん。弟がそれくらいの時、そんな感じで、思い立った時にはもう口が動いてるって感じだった。木兎、お前は高校三年生だけどな。
しゅんとする木兎を見ていた赤葦くんは、仕方ないなと言うように小さく笑って、やれやれとため息をつきながら視線を手元の書類に戻した。ちゃかちゃかとペンを動かしながら、赤葦くんは木兎の質問に答えた。本当、この子良い子過ぎんか。
「……迷子防止に手を繋ぐってやつですよね」
「そう、それ! あ、あかあしも昨日のテレビ見てた!?」
「いえ、昨日のは見てないですけど。以前別の番組でやっていて、気になって調べました。本来は寝る時に海藻を体に巻き付けて流されないようにするらしいですけど、ちょうど良い海藻が無い場合は仲間同士で手を繋ぐそうですよ」
「おぉー。さすが、あかぁーし!」
「大袈裟ですよ、木兎さん」
謙遜しながら、赤葦くんは書類を木兎へと差し出した。終わったらしい。
「ここに木兎さんの名前を書いて、先生に渡してください」
ここ、と指さす赤葦くんに木兎は大きく頷いて、箸と書類を交換する。赤葦くんは漸く昼食にあり付いて、木兎は一度自分の机の方に体を戻すと、さっそく赤葦くんに言われた欄に自分の名前を書いているようだった。忘れないように、すぐと言うその素直さはこの男の良さだと思う。お陰で私たちクラスメートも、赤葦くんも木兎のことを本気で見離せないのだろうけど。
どうでも良いけど、食事をしている赤葦くんはちょっと可愛い。木兎と変わんないくらい大きくて、決して愛想が良いわけじゃない彼だけど、小振りな口に目いっぱい詰め込んで食べる様は、ハムスターみたいで、そのギャップが癖になる。だから、思わず、その。盗み見、してしまって。
いや、良くないのはわかってるんだけど、やっぱり見たくて、見てしまう訳で。あぁ、今日もとってもハムスターだなぁ、なんて思ってたら、赤葦くんの方へ体の向きを戻した木兎の手がぬっと伸びて、赤葦くんの左手を捕まえる。周囲の空気が、どよめいた。
「俺達も迷子にならないように!」
原因である木兎はぴっかぴかの笑顔を赤葦くんに向けている。捕まえた赤葦くんの左手に指を絡めて、ぎゅっと握りながら。向き合って、見つめあって指を絡めて手を握るのなんて、恋愛映画のワンシーンでしか見た事ないよ、私。
何が嫌ってさ、さっきまでやたらとペンが小さく見えたくらいには大きい筈の赤葦くんの手が木兎の手にすっぽりと包まれちゃって、そうすると妙に華奢に見えて、何でかわかんないけど、ドキリとした。何か、見てはいけないものをみた、みたいな。ドキドキ、ドキドキって、少しずつ動悸がひどくなる私の心臓事情を悟ってくれたかのように、赤葦くんは木兎の手を振り解いた。
「お断りします」
「あかぁーし、ノリが悪い!」
「食事の邪魔なんスもん」
「飯と俺、どっちが大事よ!」
「今に限って言えば、百パーセント飯っスね」
「ひでぇ!」
口を尖らせるな。頬を膨らませるな。ちょっと似合うのが余計に腹が立つな。なんだ、このデカい男子高校生は。可愛いな、くそ。
動悸は落ち着いたものの、諸々の余韻のせいで荒れ狂う私は一度彼らが視界に入らないように、する。机を後ろ向きに移動させて、私と向き合って弁当を食べていた友人と久々に視線が合う。どうやら彼女も逃げて来たらしい。言葉なく頷きあって食事を続ける私たちの隣で、彼らの会話もまた続く。
「大体、手なんて繋がなくても、大丈夫ですよ」
「だいじょうぶ? なにが?」
「そんな事しなくても、木兎さんは迷子にならないです」
「なんで?」
「俺は木兎さんを見失わないので」
「おぉ、すげぇ自信」
「だって。太陽を見失う人なんて、いないでしょう」
さっきどよめいた空気が、今度は止まった。赤葦くんはさも当然のことみたいにさらっと言って、首をかしげてる。ジッと木兎を見る真っ黒な目は、真っ黒なのにキラキラして見える。そこにある沢山の感情は、想いはとても綺麗で。
「あかぁーし、かっけぇな」
惚けた後で木兎もまた、目を輝かせて目の前の後輩を賛辞する。確かに、彼は格好良い。ちょっと風変わりでもあるけれど、あんな風に想いを口に出来るのは単純に、私も格好良いと思った。
褒められた赤葦くんは小さく笑って「木兎さん程じゃないです」と返し、木兎は満足げに笑って頷いた。「だよな」って。謙遜と言う言葉を知らないのも、この男の良さなのかもしれない。
「なぁ、ラッコ見たい」
ほら、それ。この流れで、なおラッコを見たいと言いだす屈託のなさ。時々、木兎って天然記念物なんじゃないかと思う。
「ラッコ……ってことは、水族館ですか」
「そう! ラッコいるところ、行こうぜ」
「……これから予選も始まるって言うのに、何時行くんスか」
「んーー。じゃあ、春高終わったら」
「春高の後なんて、木兎さん達は暇でしょうけど、俺は忙しいですよ。今年の頭、ばたばたしてたの忘れたんですか?」
「……そうだ、忘れてた」
木兎はきゅっと顔を顰めた。当時の記憶を思い出したらしい。三年に進級する前の事だから、私は詳しくは知らないけれど。
眉間に皺を寄せた木兎はうんうんと唸る。多分何か妙案がないか、彼なりに考えている……のだと思う。赤葦くんは今だと言わんばかりに弁当の残りを食べ進めた。休み時間はもう残りわずかだ。
食べる事に集中した赤葦くんはあっという間に残りを間食して、弁当に蓋を締めると「ご馳走様です」と行儀よく手を合わせる。用事は済んで、食事も終わった赤葦くんがここにいる理由はもうない。昼休みももう終わる。木兎もそれは気付いているようで、オロオロとする。多分、妙案が思い浮かばなかったんだ。さて、どうでるか。私もまた、食べ終えた弁当箱を片付けながら、隣のやり取りに意識を向ける。木兎は「じゃあ!」と声をあげた。
「じゃあ。いつか、暇になったら行こう」
随分とぼんやりした約束だ。そもそも、これは約束と呼べるのだろうか。後、あれだ。約束っつって、ナチュラルに小指を差し出すな。赤葦くんは赤葦くんで、さほど疑問も抱かずに小指を絡め返すから、本当何なんだろうか、この距離感。
だけど、もう。程よく慣らされてしまった私たちはどよめいたり、固まったりもしつつ、何となく心地よく感じてしまっているから、きっともう、手遅れだ。
意味があるのかもわからない約束を交わした赤葦くんはチャイムが鳴る少し前に自分の教室へと帰った。入違って、林田が戻ってくる。
木兎は、と言うと。とてもご機嫌だった。その上機嫌の木兎と、目が合う。
「あんたの後輩、すごいね」
思わず、口に出た。木兎はまん丸い目を、目いっぱいにまん丸くした後で、それは綺麗に笑った。
「だろ! 俺のあかぁーし、すげぇの!」
思わず、見惚れた。悔しいけれど、木兎に、見惚れてしまった。それくらいキラッキラの綺麗な笑顔だった。って言うのか、「俺の」なのね。赤葦くんもすごいけど、あんたも中々のもんだわ。
すっかり当てられてしまった。そんな気分だ。だけど、悪い気はしない。きっと卒業まで、まだ何度もこの二人に見せつけられるのだろうな、と改めて思いながら、それすらも悪くないと思うくらいには私はこの同級生と後輩のやりとりが好きだった。
いつか暇になったら。彼らの交わした約束が思ったよりも遠く、でも人生で言えばたかが半分。そんな頃に果たされるなんて、この時の私は勿論、当人である二人すらも知らなかった。