赫いニューロン 前編 一年前にプロスペラはパーメットの後遺症による多臓器不全で死去、エリィはキーホルダーのままミと一緒にいる。
プロスペラが亡くなって以来一人で過ごすことが増えたスレッタを心配し、以前にも増して仕事の合間を縫ってマメに様子を見に来ていたグエルが最初に気付く。
ミは三ヶ月に一度、顔を見に帰ってくる程度。変わり映えのしない地球の片田舎の寂れた景色よりも、父に認められ、自分の手で進めるプロジェクトが楽しくて仕方ないらしく来訪の足はかつてよりも遠退いている。
◆ ◆ ◆
2週間前に来たときのことを「この間だって」と話題にしたらひと月前のことを話し出して「そっちじゃない、2週間前の――」できょとんとされて微かな違和感を覚える。
「2週間前って、何かありましたっけ」
「セセリアに持たされた土産を渡しただろ。覚えてないか?」
真剣に悩む様子に少し困惑するも、そのときは「ああ! 思い出しました!」と事なきを得る。宇宙へ帰還するグエルの胸にしこりが残る。
ミと入れ違いにスレッタのもとを訪れたグエルは「だいぶ杖なしで歩けるようになったこと、あいつ何か言ってたか」と世間話の一環で聞いたのに、問われたスレッタは不思議そうな顔をした。
「あいつって、誰のことですか?」
「――――ぁ?」
ゾッとした。
しらないひとの話を聞いたかのように、つい一昨日会ったはずの相手のことを忘れている様子に。
「きた、だろう……お前に会いに。ミオリネが」
「みおりね」
言葉を覚えたての幼子のように何度か口ずさんだスレッタは、それが両手を超えようという頃になってようやく「あ、ミオリネさん……」と思い出した。
数ヶ月前に覚えた違和感は、もはや明確な異変となって彼女を襲っていた。このままでは、スレッタがいなくなってしまう――!
「スレッタ……俺のことは、わかるよな?」
湧き上がる焦燥にかられながらも、慎重に距離を測るグエルに彼女はおかしそうに笑う。
「どうしたんですかグエルさん。分かるに決まってます」
「あ、あぁ……いや、わかるならいいんだ。なあ、スレッタ……一度、医者に見てもらわないか?」
「どうしてですか? リハビリは順調だから、次に来るのは二ヶ月後でいいってお医者さん言ってましたよ」
「気付いてないのか…? 以前に比べて、忘れ物が多くなったんじゃないのか」
「なんでわかるんですか」
「扶養者じゃない俺があまり口を出すのも変か? ミオリネに――」
「言わないでくださいっ!」
あまりにも悲鳴じみた叫びに言葉が詰まる。
かつて、とてもよく似た嘆きの声を聞いた。
「ミオリネさんには……良いことだけ、知っててほしいんです」
「なんでだよ、お前自身の体のことだぞっ? 俺だったら大切な相手のことなら何でも知りたい、それが悪いことでも。知ったら何か、助けてやれるかもしれないだろ」
「……グエルさんは、そういうひとです。でもミオリネさんは……わたしが進んでないと、駄目なんです。へこんだり、立ち止まったら……いらなくなっちゃう」
「いらなくなんて――」
この場で否定するのは簡単だった。でもスレッタは自分のその考えを固く信じている様子で、彼女の頑固な一面を知るグエルは言い争いになる前に言葉を飲み込んだ。
あいつに言うとか言わないとか、今そんなことはどうでもいい。
「あいつに言わないって約束したら、病院行ってくれるか?」
スレッタはこくんと頷いた。
記憶が完全に消えているわけではない。
ただ、記憶の繋がりが途切れている。
健常者に比べて、比較にもならないほどにスレッタのシナプスは途切れやすくなっている。医者の話によれば、パーメットの後遺症がとうとう記憶領域に進行したということらしかった。言葉を失ったグエルに「意識があるだけましでしょう」と医者は言った。
かつて大量に出たGUNDの被験者達が精神崩壊を起こして誰一人意識が戻らぬままその生涯を閉じるしかないように、彼女の母が肉体と精神の繋がりを断たれて物言わぬ人形のように生殺与奪を全て他者に預けざるをえなかったようには、なっていないのだからと。
スレッタを診た脳神経内科医は、パーメットにより引き起こされた障害やその治療法はまだ何も確立されておらず、むしろスレッタの特異な症状こそ今後のパーメット障害に対する重要な病理となるだろうと告げ、付き添っていたグエルに体調の変化や記憶の混濁を見逃さないようにと警告した。
明確な治療法は存在しない。
何度も話したり、思い出させたり、マメに接することだけが、スレッタの記憶を保たせる――らしい。それも完全ではない、と。
帰宅し、黙り込んで考えに沈むグエルを、スレッタは不思議そうに見た。
「怖くないのか、お前は」
「怖くないです」
「なんでだよ、俺は……怖くてたまらないのに」
「だって、全部忘れちゃうなら――怖いって思う気持ちも、忘れちゃうでしょ」
スレッタはそう静かに微笑んだ。
達観――いや、どうしようもない諦念と底のない泉のような絶望が、彼女の瞳を満たしていた。
「――スレッタ、日記をつけよう」
「指先の細かいリハビリにはいいだろ。ノートは……ああ、次来る時にお前が好きそうなのを見繕ってくる。ペンは――万年筆とかどうだ? 俺が今持ってるのをやってもいいが、デザインが好みじゃないか?」「グエルさん」「そうだな……取り扱いに少し癖はあるがガラスペンなんて物もあるぞ、こっちの方がスレッタは好きか? 気に入ったデザインのものがあれば、探して持ってくるから」「グエルさん」
「だから」
「俺のこと――――忘れないでくれ」
昔よりも肉付きの薄くなったスレッタの手を取り、祈るように額に押し当てる。その肌が濡れて、グエルが鼻をすすっても、彼女は口を開かなかった。
「……わるい」
いつまでも握っているのはと手放そうとした男の手を、事件から五年が経過してなお握力の戻り切っていない女の手があわい力できゅっと引き止めた。
「ペン……グエルさんが今使ってるやつ、ください」
――毎日、書くので。
スレッタの手はびちょびちょになった。