猫になった日「今日も来てる。仲良しだね、君達」
中庭の片隅で丸くなっている二匹の猫を見かけて、晶は思わず頬を緩ませた。
人間が寄りつかない魔法舎は猫にとって格好の溜まり場らしく、多い時には五、六匹ほどの猫が集まってくる。中でも今いる茶トラと灰色の二匹は、いつも連れ立ってやってくるので、すぐに顔を覚えてしまった。
この二匹は特に警戒心が強くて、膝に乗ってきたり撫でさせてくれたりはしないけれど、ある程度なら近寄っても逃げられない程度には仲良くなれた。おかげで、猫達がじゃれ合ったり身を寄せ合って眠っているところなどを、じっくり堪能することが出来る。
「ああー、癒やされる……」
この世界にも猫がいて良かった。人間と魔法使いの間で板挟みになり、胃の痛い毎日を送っている晶にとって、中庭の猫達を眺めることは極上の癒やしだ。ついつい時間を忘れて見つめてしまう。
「可愛いなあ。ほんと、猫っていいよなあ……」
猫になりたい。猫になって、猫同士でくっついて眠りたい。
それが晶の小さい頃からの夢であり、どうあっても叶わない願いだった。
どうしても諦めきれなくて、ほとんど口癖のようになっているその呟きを口にした途端。
「なになに? 賢者様は猫になりたいの?」
キラキラした声が頭上から降ってきたかと思えば、弁明をする余地もなく魔法の呪文が降り注ぐ。
次の瞬間。
「わあ、賢者様かわいいー!」
賢者・真木晶は猫になっていた。
柔らかな毛並みに青い瞳。すんなりとした尻尾。
地面に落ちた賢者の装束の上で、ちんまりと佇む白い猫。
「(ちょ、ちょっと、ムル!?)」
口から出る言葉はすべてニャーニャーという鳴き声に変換されており、目の前でふよふよと浮かんでいるムルには伝わっていない様子だ。
「あはは、何言ってるか分からなーい! さあ、猫になった気分はどうかな、賢者様」
「(どうもこうも――ああでも、なんかちょっと楽しい……けど!)」
圧倒的に小さくなった体。人間が四つん這いで歩く感覚とはまるで違って、この体はとても動きやすくて、それにとても感覚が鋭敏だ。草花の匂いや風の動き、空を飛ぶ鳥の声――全身で感じる世界は、いつもの何倍も鮮やかで、濃密だ。
「嬉しい? 楽しい? それは良かった! じゃあねー!」
全く成立していない会話を一方的に切り上げて、ひらりと――それこそ猫のように――空中で一回転したムルは、気まぐれな風のようにどこかへ飛び去ってしまい。
「(ムルー!!)」
白猫の叫びが、中庭に響き渡った。
(落ち着け、俺。冷静になれ)
動揺を押し殺し、必死に思考を巡らせる。
(そうだ、確かドラモンドさんがネズミにされた時――)
半日もすれば勝手に戻るとシャイロックが言っていた気がする。かけられたのが同じ変身魔法なら、きっと同じくらいで元に戻れるだろう。今日は幸い予定も入っていないし、誰かに迷惑をかける心配もない。
(それまで、どうしよう……あ、もしかして今なら……)
折角猫の姿になったのだから、念願を叶えたいという思いがムクムクと湧き上がってくるが、生憎と先ほどまですぐそこで寛いでいた猫達は、ムルが魔法を使ったあたりで不穏な気配を察したらしく、とうの昔に姿を消していた。
(うう……折角のチャンスなのに……)
そもそも、猫は警戒心の強い動物だ。いきなり現れた新入りに、そう易々と心を許してくれるわけもない。
(ムル――は戻ってこないだろうし、とにかく誰かを探そう)
例え言葉が通じなくても、魔法がかかっていることくらいは分かってもらえるはずだ。動物と会話出来るオーエンなら、もしかしたら話せる可能性もある。
(……話せたとしても、魔法を解いてもらえるかどうかは怪しいけど……)
むしろ面白がって放置されそうだが、このまま何もしないよりはマシだろう。そう考えて、ひとまず魔法舎を目指して走り出そうとした瞬間、どこからか漂ってきた匂いにぴくりと鼻を動かす。
(あれ、何だっけこの匂い……)
嗅ぎ慣れた、不思議と心が落ち着く匂いなのだが、その正体が分からない。猫の嗅覚は人間よりも鋭いが、何しろこの体に慣れていないから、感じ方の違いに戸惑ってしまう。
すんすんと鼻をひくつかせていると、植栽の向こうから見慣れた姿が現れた。
燃えるような赤い髪、緑柱石のように輝く双眸。すらりとした長身は、この姿だと文字通り見上げるようだ。
「(ミスラ――!)」
当然のことながら、出てくるのは気の抜けた鳴き声のみ。それでも構わず名前を呼びながら、走る足に力を込める。
この体は小さいけれど、人間の姿の時よりも俊敏だ。あっという間にミスラの足下へ辿り着き、勢いのままに飛びつこうとしたら、さっと身を躱された。
「何ですか、この毛玉――って、賢者様。そんなところで何をやっているんです」
一瞬で見抜かれて、驚きと安堵感が同時にやってくる。へにゃ、と地面に座り込んだところを、ひょいと摘まみ上げられた。
「はは、随分と小さくなりましたね、あなた」
「(ミスラ、実はムルに魔法をかけられて、猫になっちゃったんです!)」
必死に言いつのるが、やはり伝わってはいないようで、間近に煌めく緑の瞳が胡乱げに細められる。
「よく分かりませんが、どうせ西の魔法使いの仕業でしょう」
「(あたりです……)」
うにゃー、と情けない声に変換された晶の言葉を肯定と受け取ったのだろう。面倒な、と呟きかけたミスラが、何かを思いついたように目を瞬かせ、そしておもむろに呪文を唱える。
ぶおん、と出現した空間の扉。一体どこへ行く気なのだろうと扉の向こうを覗き込むと、そこは見慣れたミスラの部屋だった。
「ちょうど昼寝をしようと思って、あなたを探していたんです」
長い足で扉をまたいで、自室へと足を踏み入れる。そのまま晶をぽい、と寝台に放り投げて、その横にどさりと寝転がったミスラは、驚きでぼわぼわの毛玉になっている白猫に向かって手を伸ばした。
「猫の姿でも手は握れるでしょう」
「(握る……のは難しいんですけど……)」
何しろ猫の前足だ、人間の手ほど器用なことが出来ない。少し迷って、そっとミスラの手に前足を載せる。人の手の感覚とは違う、肉球越しの触感は、何だか不思議な感じがした。
「おやすみなさい、晶」
そう挨拶してさっさと目を閉じてしまうミスラ。
(……昨日、眠れてないもんな)
昨夜は賢者の力がうまく発揮されず、明け方近くまで雑談に興じていた。睡魔に抗えなかった晶が眠ってしまって、朝には「腹が減りました」と首を囓られて起こされたが、ミスラ自身に訓練の予定が入っていなかったら、そのまま二度寝に入ろうとしていたことだろう。
(あ、もう寝た)
今度こそ賢者の力が発揮できたようで、あっという間にすやすやと寝入ってしまったミスラの顔を、そっと覗き込む。
眠っている時のミスラは、不思議と普段より幼く見える気がする。気怠げなようでいて強い輝きを放つ瞳が閉じられているからだろうか。
穏やかな寝息が髭を揺らし、ほのかに伝わってくる体温が眠気を誘う。
(俺も……眠い……)
押し寄せる眠気に抗えず、その場で丸くなろうとした晶は、はっと顔を上げた。この体格差だ、寝返りでも打たれたら、あっという間にぺちゃんこになってしまう。
(どこなら安全だろう……)
考えた結果、頭の上なら危険も少ないだろうと判断して、枕の上まで移動する。枕とヘッドボードの間に丸くなると、自然とミスラの頭にくっついて寝る形になった。
少しだけ癖のある、赤くて柔らかい髪に身を寄せると、なんだか長年の夢が叶ったような気分になる。
(猫団子ってこんな感じなのかな……)
少しだけ欲が出て、思い切って首元へ移動する。顔の傍で丸くなり、肩のあたりに顎を乗せると、何ともいい具合だ。
(……これは……幸せかも……)
うっとりと目を閉じれば、あっという間に眠りに誘われてしまって、折角の幸せを噛みしめる暇もなかったのが悔やまれた。
+++
遠くから聞こえる鐘の音が、夕食の時間を告げている。
(これって夕刻の鐘――あれ、今は朝……じゃなくて、そうだ!)
はっと目を覚ますと、間近に緑の双眸が輝いていた。
「おはようございます、晶」
先に起きていたらしいミスラの声に「おはようございます」と答えかけて、ぎょっと目を剥く。
すでに魔法は解けたらしく、元の姿に戻っている。それはめでたい。
そして抱き枕扱いはいつものことなので、もう驚きもしない。
問題は――。
「ミスラ!? なんで俺、服着てないんですか!?」
「覚えてないんですか」
呆れた、と言わんばかりの顔が迫ってくる。混乱する頭を必死に宥めすかして、ようやく思い出したのは――
「あっ、猫になった時――」
そういえば足下に服が落ちていた。服ごと変身させることは出来ないのか、それともわざとだったのかは分からないけれど。
(あの服……誰かに見つかる前に回収しないとえらいことに……)
いやそれよりも、まずは服をどうにかしなければ。
「俺、ちょっと部屋に戻って着替えてきます!」
慌てて布団から抜け出ようとする晶を抱きとめて阻止し、その耳元で囁く。
「その格好で外に出るつもりですか?」
「うっ……」
ミスラの部屋は一階、晶の部屋は階段を上がって二階だ。誰にも見つからずに移動するのは難しいだろう。
いくら男所帯と言えども、さすがに全裸で廊下を歩く勇気はない。
葛藤する晶を楽しそうに見つめて、ミスラは思い出したように小さく笑った。
「布団の外で丸くなって震えながら眠るあなたは、なかなかに面白かったですよ」
首元で眠っていたはずなのに、また抱き込まれているのは、先に起きたミスラが晶を布団に引っ張り込んでくれたのだろう。そのまま寝こけていたら確実に風邪を引いていただろうから、その気遣いはありがたい。ありがたいのだが。
「あのミスラ……俺の服、回収してきてもらえたりなんかは……」
「いやですよ面倒くさい」
ぎゅう、と抱きしめる腕に力を込め、黒髪に顔を埋める。
「今日のあなたはいつもより温くていいですね」
「俺は湯たんぽじゃないんで! っていうか服を……せめて服を貸してください……」
ぎゃあぎゃあ言い合っているところに、控えめなノックが響――いたかと思ったら、バンと扉が開いて、魔法使い達がなだれ込んできた。
「賢者様、ご無事ですか!?」
「ああ良かった、ムルが魔法をかけたと聞いて、皆で探し回ったのですが」
「ってミスラちゃん! 賢者ちゃんに何をしておるんじゃ!」
「あーえっと、お子ちゃま達は外に出ような、うん」
「何故ですか!? 賢者様はご無事なのでしょう?」
「ミスラさんってば賢者様を独占してずるいです! 僕だって一緒にお昼寝したいのに」
「ええい君達、いいから一旦外に出ろ!」
魔法使い達をぎゅうぎゅうと部屋の外に押し出したファウストは、きちんとたたまれた賢者の装束をソファの上に置くと、そっと寝台から視線を逸らしつつ素っ気ない口調で告げた。
「クックロビンが中庭でこれを見つけて、僕達に教えてくれたんだ。服はカナリアが洗濯してくれたから、後で二人に礼を言うように」
「は、はい……」
顔を上げられない晶が、蚊の鳴くような声で返事をする。
「ミスラ。賢者を保護してくれたことには感謝する。万が一、魔法舎の外に出てしまっていたら大変なことになっていたからな」
「別にあなた方のためにやったことじゃないので、礼を言われる筋合いはありません」
いかにも北の魔法使いらしい、どこまでも自己中心的な物言いだが、それが賢者の身を守ったことに変わりはないので、ファウストもそれ以上は言葉を重ねなかった。代わりに、気まずそうな顔をしてごほんと咳払いをする。
「……君達の仲に口を出すつもりは毛頭ないが、子供達の前では控えてくれ。教育に悪い」
この状況をリケやミチルになんと説明すればいいのか。今から胃が痛い、と頭を抱えるファウストに、ミスラは不思議そうに「何がです?」と首を傾げてみせ、晶の方もきょとんとして、それから困ったような顔になる。
「あの、これはその、事故というか……間が悪かっただけで」
「……はあ?」
珍しく声を張ってしまい、自身の口を押さえたファウストは、やれやれと頭を振った。
「……無自覚なのか、君達」
端から見れば、仲睦まじい恋人同士にしか見えないのに。いやむしろ、そうでない間柄でありながら、毎晩のように抱き合って眠るなど、他者との触れ合いを苦手とするファウストには到底考えられない所業だ。
「ですから、何がです? というか、人の部屋に押しかけてきて騒ぐだけ騒いで、何がしたいんです、あなた達」
俺はただ安らかに眠りたいだけなんですけど、とぼやきながら、抱きしめる腕に力を込める。
(だからそういうところだよ!)
突っ込みたくなる衝動を必死に押さえるファウストの前では、どう考えてもいちゃついているとしか思えないやり取りが繰り広げられている。
「あの、ミスラ……せめて服を着させてください……いくらなんでもこれは恥ずかしいです」
「何がです? いつもこうして寝ているのに、布地があるかないかで何が変わるんですか」
「気持ちの問題です! 落ち着かないんです!」
「俺は落ち着きますけど。いつもよりいい匂いがするし」
どこまでも平行線の会話に、もういいと手を振って踵を返す。
「まったく、僕としたことが。余計な気を回すんじゃなかった」
もうじき夕食の時間だからな、と言い残して、スタスタと部屋を出て行くファウスト。部屋の外で待っていたらしい魔法使い達をどやしつけて解散させてから去って行くあたりが、なんとも彼らしい。
「……結局、何がしたかったんです、あの人達」
訳が分からないな、と呟きながら、抱きかかえた晶ごと体を起こす。
「ほら、着替えが届いたならさっさと食堂へ行きましょう」
「うう、あっち向いててくださいね」
そそくさと寝台から飛び降り、着替えを掴んで部屋の隅に向かう晶に、ミスラは心底理解できないという顔で肩をすくめた。
「意味が分からないんですけど。風呂の時とか、湖で泳いだ時とか――それこそさっきだって、さんざん見てるのに」
「それはそうなんですけど!」
じっと見られると恥ずかしいので、とかなんとかゴニョゴニョいいながら、大急ぎで服を身につけていく晶に、ミスラははあ、と息を吐いて寝台から降りた。
「それにしてもあなた、細すぎですよ。もっと食べないと大きくなれませんよ」
「いや、俺もうとっくに成長期を過ぎてるんで……って、なんで食材を値踏みするような目で見るんですか! 俺は食べられませんからね!」
必死に言い募りつつ、ベストのボタンを留め終えて、晶は「お待たせしました!」とミスラを振り返った。
「食堂へ行きましょう! あー、今日のごはんは何かなー!」
自棄っぱちではしゃいでみせる晶の、その耳がまだ赤い。
「晶」
呼びかけて動きが止まった隙に、身を屈めてその耳に齧り付くと、ぎゃあと悲鳴が上がった。
「なんで囓るんですか!」
「美味しそうだったので」
悪びれもせずに答えて、ふふんと鼻を鳴らす。
「食材の目利きには自信があります」
「いやいやいや! 俺なんかより、ネロが作ったご飯の方がよっぽど美味しいですから! ほら、行きましょう!」
ぎゅうぎゅうとミスラの背を押して、どうにか部屋を出ると、廊下の向こうからルチルの声が響いてきた。
「賢者様ー! ミスラさーん! ご飯ですよー!」
「はーい! 今行きます! ほらミスラ、行きましょう」
二人並んで、足早に廊下を進む。窓の外はすっかり暗くなっていて、そろそろ星が瞬き出す頃合いだ。
「夕飯までに元の姿に戻れなかったら、何を食べさせられるんだろうって、ちょっとドキドキしてました」
「猫なら生肉でいいんじゃないですか」
「生はちょっと……せめて魚なら……」
「あなたも結構悪食ですよね」
窓硝子に映り込んだ晶の横顔は、不思議と実物よりも大人びて見える。
その隣に映る自身の顔を見て、ミスラはふと眉をひそめた。
「ミスラ? どうかしましたか?」
「いえ……。何だか楽しそうだなと思っただけです」
主語が抜け落ちていたから、自分のことを言われたのだと思ったのだろう。えへへと笑った晶は「それはそうですよ」と力説する。
「だって、夕飯に何が出てくるのか、毎日楽しみで仕方ないですからね!」
的外れな返答に目を瞬かせたミスラは、少しだけ考えて「そうですね」と答えた。
そうして再び歩き出すと、どうやら腹ぺこらしい晶のために、食堂の扉を開けてやったのだった。