高谷と若菜/🔥🦛「いらっしゃーい」
「……よう」
インターホンを押して数秒後。ドアを開けたのが高谷だったので、若菜は少し驚いた。玄関で靴を脱いで部屋に上がりながら、他に人の気配がないことを不思議に思う。
「あれ、佐倉は?」
リビングに入って荷物をテーブルの上に置きながら若菜は尋ねた。コンビニでも行ってるのだろうか。
しかし、高谷はあっけらかんと答えた。
「チェリー君はいま実家帰ってるよ」
「マジ? いると思ってビールたくさん買ってきちゃったよ」
「腐るもんじゃないし、置いてってよ。お金は払うからさ」
「……おう」
若菜は小さく返事をした。何年もの付き合いであるしこの家にも何度も訪れているはずなのに、妙に緊張を感じた。今夜は高谷と二人なのかとつい意識してしまう。
「なに緊張してんの」
耳聡くこちらの心を読んで、高谷が笑う。
「べつにそんなんじゃねーよ」
顔が赤くなるのを自覚しながら、からかうように伸ばされた手を振り払う。そこで若菜は、高谷の体温が高いことに気づいた。心なしか、顔も赤い気がする。
「もう飲んでんのか?」
「少しだよ」
珍しいことだった。高谷は人の酒を断ったりはしないが、自分から飲むタイプではないし、寄った姿を人に見せることもない。
リビングのテーブルに買ってきた酒やつまみを置きながら、若菜は尋ねる。
「いつ帰ってくんの、佐倉」
「さあー。もう講義もないし、しばらくいるんじゃない?」
「ふうん……」
若菜は相槌を打った。高谷の態度は少し違和感があったが、うまく言葉に出来なくて、口にはしなかった。
「就活してる?」
高谷がキッチンの棚から洒落たグラスを出すのが見えた。大学の友人ならわざわざそんなことしない。こういうところがモテるのだろうな、と思う。自分ではやろうとは思わないが。
「ぼちぼち。そっちは」
「んー、そろそろ始めようかなってとこ」
「お前、なんか簡単に決めてきそうで嫌だな」
「まあねー」
「ムカつく」
悪態をつきながら、テレビをつける。ちょうどサッカーの日本代表戦がやっていたから、そのままにした。
「氷いる?」
「うん」
気を使う間柄でもないから、各々好き好きに酒を注ぐ。ソファではなく床のラグの上に足を崩して座り、簡単にグラスをぶつけて乾杯を済ませ、開口一番高谷は言った。
「で、また別れたの?」
「…………」
開幕からストレートを食らい、若菜は黙り込んだ。高谷が面白がるように喉を鳴らして笑う。
「なんでそんな女運悪いの」
「うるせーな」
「初めて付き合った子に『元彼のことが忘れられないの』って振られてからもう運命が決まってたんだよなー」
「言うな」
「まだ引きずってんの?」
「んなはずねーだろ」
若菜は即答した。けれども半分は図星だった。きっと、高谷には気づかれただろう。
「優しすぎるのがよくねーんだって」
にやにやと指摘される。むすっとした顔で、若菜は言った。
「……好きな子には優しくしたいだろ」
「キャーーーーー!」
途端に高谷は黄色い悲鳴を上げた。両手で己の頬を挟み、アイドルに夢中なファンのように歓声を上げる。
「いいなーー! 言われてえーー」
若菜は顔を真っ赤にした。酔っていたわけではないが、口が滑った。
「佐倉なら言うだろ」
「言わねーよ〜。チェリー君てオレにだけ態度が雑だし」
「それはお前が悪い気がするけど……」
グラスに酒を注ぎ足そうとし、缶がもう空なことに気づく。新しいものを取ろうとして腰を浮かし——高谷に押しとどめられ、若菜は目をパチパチと瞬きさせた。
「高谷……?」
だいぶ身長差があるから、高谷が身を乗り出すと覆い被さるような形になる。彼は、こちらを見下ろして微笑んでいた。
「な——」
声は途中で止められた。若菜のくちびるに指を当てた高谷が、吐息めいた声で囁く。
「女の子はやめてさ、こっち来ちゃいなよ」
低い響きが心地よかった。若菜は思わず夢見心地になって、高谷の整った顔に見惚れた。男から見ても、彼はとても魅力的だった。
気づけば、高谷の顔が近くにいる——鼻先が触れるほど。いや、それどころか、くちびるが触れるほど——
「いやいやいや待てって!」
ハッと我に返って若菜は高谷を突き飛ばした。
瞬間、心臓がバクバク騒ぎ出した。触れる寸前だったくちびるを思い返し、背筋に冷たいものが走る。
「おまえ、そういうのやめろよ! バレたら佐倉に殺される!」
「バレなきゃいーじゃん」
「だから、やめろって!」
めげずに迫ってくる高谷の腹を容赦なく蹴り上げる。さすがの彼も咳き込みながら身を引いた。
じっとりと軽蔑を交えた目で、若菜は居住まいを正した。一瞬流されそうになった己を自覚し、身体が熱くなるのを感じながら。努めて平静に、彼は切り出した。
「……おまえら、喧嘩してんだろ」
「べーつに」
「わかりやすいな」
目を逸らす高谷にため息をつき。ソファの上にあった彼のスマートフォンを放り投げる。
「いま電話して謝っちゃえよ」
「えー」
「えー、じゃない。いまやれ」
高谷はまだ明後日の方向を向いている。
「おれに手を出そうとしたこと佐倉に言うぞ」
「わかったから」
高谷はすぐさまロックを解除した。すぐに端末を耳に当てる。
ほどなくして、電話はつながったようだった。
「あ、チェリー君? うん、話したいことが——てか今、大丈夫? うん……」
高谷はちらりとこちらを見て、部屋を出ていく。脱力してソファの上に寝そべりながら。若菜はため息をついた。まだ少し胸がドキドキしていた。佐倉が雑に扱う人間なんて高谷くらいだと、知ってはいるものの。