ニアール家/アークナイツ 最後の使用人に暇を出して数ヶ月が経った。
勤めに出ているムリナールは、昼や夜の食事は外で済ますことが多い。マリアも外に働きに出るようになってから同様だ。
ただし、朝食だけは二人とも家で取る。
手先の器用な姪は料理に抵抗がないようだった。よって、食事の準備は彼女の担当となった。
基本的に、パンとスープとシンプルなものだ。ムリナールは自他に厳しいが、他人を用意したものにけちをつける性格ではない。もっとも、マリアの料理は上等で、少なくとも味については文句のつけようがなかった。ムリナールは、食後の紅茶を飲みながら新聞に目を通す。昔なら行儀が悪いと父に叱られたものだが、もう体面を気にする相手もいない。
議員の汚職の記事を読み終え、経済面を眺める。どうもこういったものはあまり頭に入ってこない。
「ねえ、叔父さん」
ムリナールは新聞から顔を上げた。対面の姪と目が合う。マリアは言葉を続けようとし、わずかに躊躇したようで、そのまま目を伏せた。彼女はけして内気な子供ではなかったが、たまに利発な姉の後ろに隠れるところがあった。かといって、わざわざこちらから言葉を促すような歳でもない。ムリナールが無言で待つと、ようやくおずおずと口を開いた。
「叔父さんは、結婚しないの?」
「……は?」
予想外の問いに、思わず間の抜けた声が漏れた。戻そうとしたティーカップが、ソーサーに当たって音を立てる。
ムリナールはカップを置きなおし、努めて理性的に返答した。
「何の話だ?」
「えっと、その……叔父さん、ずっと私たちの面倒を見ていてくれたでしょう?」
「父と兄がいない今、私がお前の保護者だ。当然のことだろう」
「うん……それはとても感謝してるんだけど、もしかしてそれで、我慢をさせてたんじゃないかって」
マリアは泣きそうな顔で続ける。いまいち話の筋を掴めないムリナールは、とりあえず黙って続きを聞いた。
「あのね、もしそうだとしたら、私に遠慮しないでほしいの。今は私も工房を手伝ってお給料も貰っているし、何だったら、他に部屋を借りても——」
「待て。勝手に話を進めるな」
ムリナールは新聞を畳んでテーブルの上に置いた。
咳払いをし、気を取り直して告げる。
「私が独り身なことと、お前のことは関係ない」
ムリナールはきっぱりと否定した。
「こんな状態の家に嫁ぎたいという変わり者もいないだろう」
「う…………」
ぐっとマリアは押し黙った。ニアール家からは、毎週のように調度品が姿を消している。週末にも、居間のソファを業者が取りに来る予定であった。
「それに、嫁入り前の娘を気軽に外に出せるか。お前も世間体というものを考えろ」
何より——ムリナールは続けた。
「私は女性から好かれるような性質ではない」
断じてなにかを期待していたわけではない。
視線の先、姪は暗い顔で俯いていた。
「そうだね……」
だがそんな彼女の姿を見たムリナールは、憮然とした表情で紅茶を一気に飲み干した。
*
昔、幼いマリアは髪を編み込んでいた
いつからか髪を後ろでひとつに束ねるようになった。出て行った姉を恋しく思い、真似ているのだと思っていた。
しかし今思えば、彼女の髪を結っていたのは姉のマーガレットだったのだろう。
*
ムリナールは、カヴァレリエルキの繁華街にある店の隅のテーブルで遅い夕食を取っていた。彼と同じ、疲れたサラリーマンたちで賑わう大衆的な酒場である。
ふと視界の端に、女物の服が映る。女性が一人で来るような店ではないが、待ち合わせだろうか——そんなことを考えるムリナールに彼女は近づき、そして当然のように前の椅子に座った。
「御婦人——」
相手を間違えたのだろう、顔を上げて声をかけようとしたムリナールは、そのまま言葉を飲み込んだ。
「いい夜ね、ムリナール」
突然現れたゾフィアは朗らかに挨拶した。ムリナールは、苦々しい表情で彼女を睨みつける。
「……お前が飲みにくるような場所ではない」
「それは私の台詞よ。ムリナール・ニアール。あなた、いつもこんなところで飲んでるの?」
「今日は飲まず食わずの接待で疲れている。食事くらい好きに取らせてくれ」
ゾフィアは憐みの視線を向けながら、店員に向かって手を掲げる。
「私も同じものを一杯」
貴重な一人の時間を邪魔され、ムリナールはいつにも増して不機嫌さを隠そうとしなかった。
「……何の用だ」
「マリアが変なこと言ったって気にしてたから、様子を見に来たのよ」
「何のことだ」
空惚け、ムリナールはグラスを傾けた。安酒のアルコールが舌を痺れさせる。
「心配してるのよ。君に気を使わせてたんじゃないかって」
「好きで独りでいるだけだ。マリアには関係ない」
「しっかり覚えてるじゃない」
ゾフィアは呆れたため息をついた。
「私もそう言ったのよ。あいつはそんな殊勝な男じゃないし、本当に女心が分からないだけだって」
「…………」
ムリナールは無視をして食事を続けることにした。けれども気にせず、ゾフィアは受け取ったグラスを片手に、ぺらぺらと一方的な会話を続ける。
「本当にいい相手がいるなら私も応援するわよ? 何だったらうちでマリアの面倒を見たっていいのだし」
「そんな真似ができるか」
ムリナールは吐き捨てた。しかし実際、当主であった父が病に倒れてから、姉妹の世話をこの親類に頼っていたことは事実だった。
「それにしても、なぜマリアはそんなことを言い出した」
もしかしてお前が焚きつけたのではないか、と言外に指摘したつもりだった。だが、彼女も不思議そうに首を傾げる。
「自分でも考えるようなきっかけが出来たんじゃないかしら」
予想外の答えに、ムリナールはほんの一瞬動きを止めた。
「……馬鹿なことを、まだ子供だ」
「そうでもないわよ。貴族の子なら珍しくないわ」
「昔の話だろう」
憮然とした表情でムリナールは吐き捨てた。
「でも、誰かとお近づきになってもおかしくない年頃だわ。あの子も外に働きに出るようになったし」
「……コヴァールの監督不行き届きということか?」
「ちょっと、やめてよ。冗談なんて君らしくもない」
剣の柄を撫でたムリナールに、ゾフィアは嫌な顔を向けた。
「まあでも実際、いい歳でしょう、君も。そろそろ身を落ち着けたほうが人生にハリがでるかもしれないわよ。本当に相手はいないの? 個人の主義があるだろから五月蠅くは言わないけど——」
「そういうお前こそどうなんだ、ゾフィア」
「なっ——」
思わぬムリナールの反撃に、ゾフィアは言葉を失った。
お互い、立場も忘れて睨み合う。
「……嫌な酒になっちゃったわ」
「こちらの台詞だ」
しかめ面で顔を背け合う。ゾフィアは大きくため息をついて一枚の紙幣をテーブルに置き、立ち上がった。
「ともかく、ちゃんとマリアと話をしてあげてよね」
「…………」
ムリナールは答えずに立ち去るゾフィアを見送った。彼女が残した紙幣が自分の分まで支払っても優に釣りがくることに苛立ちを覚えながら。空になったグラスを店員に差し出し、もう一杯を注文した。
帰宅する頃にはもう日付も変わっていたが、姪はまだ起きて彼を待っていた。
「お帰りなさい」
「こんな遅くまで起きていたのか」
「叔父さんこそ、いつもこんなに遅いの?」
「接待があったんだ」
ムリナールは答えながらコートを脱いだ。そして、いつもの光景に疑問を抱いた。つまり、なくなっているはずのものが、まだあるのだ。
「ソファはどうした。なぜ残っている」
「えっと……その」
彼女はしばし口ごもったが、すぐに意を決したように頭を下げた。
「ごめんなさい! どうしても、ソファはそのままにしておきたくて……代わりに、私のドレスとアクセサリーをいくつか売ったの」
ムリナールはあえて問い質したりはしなかった。それは彼女の姉が好んで使用していたもので、妹と並び、本を読み聞かせる姿をよく覚えていた。
「勝手にごめんなさい……」
「マーガレットはもういない」
項垂れる姪に向かい、ムリナールは冷静に言い渡した。
「いい加減お前も受け入れろ。真っ当な手段ならば、お前がどんな職で自立しようと私は口を出さないつもりだ」
「……お姉ちゃんは帰ってくるよ」
小さい声だったが、マリアは従わなかった。
「過度な期待は執着になる。苦しむのはお前だ」
「でも、私はお姉ちゃんを信じる。盲信してるんじゃない。お姉ちゃんを信じずに、自分を嫌いになってしまうのが嫌なの」
「…………」
「この前はああ言ったけど、私、叔父さんには感謝しているの。叔父さんのおかげで、私はこの家でお姉ちゃんを待つことが出来るから……」
ムリナールは成長した姪を見つめた。あまり似ていない姉妹だったが、意志の強さという共通点がある。マーガレットはけして折れない鋼のような強さがあった。その妹であるマリアは、どんなに踏みつけられても元に戻る、麦の穂のようにしなやかだった。
ムリナールは大きく息をついた。
「その髪留めは、マーガレットのものか」
「う、うん」
反射的にマリアは、自分の後頭部に触れながら頷いた。髪を束ねた黒いリボン。今までつけていたものには宝石の装飾がされていたから、手放してしまったのだろう。
「よく分かったね」
「私が買ってやったものだからな。もっとも身に着けているのを見たのは、正装をする数回ほどだったが」
それを聞いたマリアは目を見開いた。彼女の耳が垂れる。
「勝手に使ってごめんなさい。でも、お姉ちゃんも大事にしていたからここぞというときに使っていたんだと思うの」
「いらぬ気を回すな」
ムリナールはゆっくりと目を閉じた。瞼の裏にかつて自分を慕った幼い姉妹の姿が映った。それは遠い昔のようで、ついこの間のようにも思われた。
目を開けると、成長した妹がこちらを真っ直ぐに見つめている。
姉が今の彼女を見たら、何と言うのだろうか。
「使われた方が物も幸せだ。それに、お前の方が似合っている」
褒めたつもりだった。しかし、姪は珍しく機嫌を損ねたことを隠さずに顔をしかめた。
こちらを睨みつけ、告げる。
「やっぱり叔父さんは、女心が分かってないのね」
心外だ——ムリナールは落胆した。周りの女たちは、そうやって自分を批判する。
けれどもここにマーガレットがいたら、きっと自分の味方をしただろう。