ひいあい/あんスタ 藍良の叫び声は、アパートの部屋によく響いた。
「えっヒロくん、一億のマンション買っちゃったのォ!?」
張り詰めたように壁が震え、ビィン……と余韻を残す。ボイストレーニングの効果は充分に出ている——でも、今はそんなことはどうでもいい。
目の前の一彩は、不思議そうにこちらを見ていた。悔しいが、最近CMで同年代の女の子に王子様などと言われて持て囃されているらしい。王子様だって? 見る目がなさすぎる。まあ確かに、顔立ちは凛としてとても綺麗だけど——いや、そんなことはどうでもいい。
「な、ななな、なななな……」
藍良は壊れた玩具のように繰り返し——
「なんでェ?」
最終的に、目をパチパチと瞬きさせながら首を傾げた。
対して、一彩は弾けるような笑顔を見せた。覗いた白い歯が輝いている。
「喜んでくれたかな!」
「…………へ?」
あまりに予想外の言葉に固まる藍良を他所に、一彩はその手を取った。握りしめ、自分の胸に引き寄せながら、熱意の篭った目を向ける。
「言ってただろう? 藍良、テレビで豪華住宅特集を見て『ラブ〜い』って。流石に一億円はすぐには払えないけど、住宅ローンというのがあって——」
「バカーーーーッ!!」
突然の藍良の大声に、さすがの一彩も言葉を止め、目の前の恋人の顔をまじまじと見つめた。
眦を吊り上げ、目に涙を溜めて一彩を睨みつける。
「言ったよね!? おれたちは子供ができないから、老後に頼ったりすることはできないんだから、お金は大事にしようって。一緒の口座だって作ったじゃん! 忘れたの!?」
勢いそのまま、引き出しから通帳を取り出してテーブルの上に叩きつける。分かっていると言わんばかりに、一彩は大きく頷いた。
「忘れてないよ。だからお金を大事に使ったんだ。藍良が喜ぶと使い方をしようって!」
「それで本当にマンション買ってきちゃうなんてヒロくん頭おかしいよ! 正気!?」
「もちろん! 僕の藍良への愛は本物だからね」
「もうやだーーーーーーーーっ!」
永遠に通じない話に、藍良は絶叫と共に頭を振りかぶった。
「ど、どうしたんだい藍良。お腹でも痛いのかい?」
一彩は見るからに狼狽え手を伸ばす。が、藍良は半泣きでその手を振り払った。
「子ども扱いするなッ! もう無理!」
「藍良——」
「そんな顔してもダメ! もうヒロくんとは一緒にいられないから!」
藍良はかけてあったコートを引っ掴み、部屋を飛び出した。
「ということで、もーーーー絶対帰らないので!」
カフェ・シナモンのテーブルに突っ伏した藍良に、燐音とHiMERUは顔を見合わせた。HiMERUは困惑した様子だが、対照的に燐音の瞳はキラキラと輝いている。
「ギャハハハ! つまり痴話喧嘩ってワケだな。やるじゃねーかうちの弟クンも」
「お兄さんには悪いですけど! もうヒロくんとは別れるので!」
顔を上げて睨みつけてくる藍良は、その勢いのままで近くのグラスを手に取ろうとした。しかし、燐音はこれ見よがしにそれを奪い取る。
「おっとぉ! これは飲むなよ。ニキの奴が職を失うことになるからな」
「なんで僕のせいになるんすかぁ!?」
美味そうに酒を啜る燐音。キッチンの奥からは悲鳴が響くが、まるで聞こえていないように綺麗に無視をする。
「うちの弟が迷惑かけて悪りぃなあ。まー気持ちはわかんぜ。でもあいつと一緒にいてくれるのは藍ちゃんだけだと思ったんだけどよぉ」
「フン、ヒロくんなんか孤独死すればいいんだ……」
「うんうん、そうだよなぁ。じゃあ俺っちに乗り換えちゃうってコトで——」
「天城——」
「触るな!」
HiMERUが嗜める間もなく、歯を剥き出しにして藍良は唸った。
「おー、コワコワ……」
さすがの燐音も、両手を上げて後ずさる。視線だけで責めてくるHiMERUに、バツが悪そうな表情を返しながら。
藍良はまたもやテーブルに突っ伏してしまった。気まずい沈黙が流れる。燐音が黙ってしまえば、ここには余計な口をきく存在いない——
不意に、入り口の扉が開いた。
「藍良、ここにいたんだね」
「ヒロくん……」
現れた弟を見て、燐音がヒュウと口笛を吹く。気を利かせたHiMERUがその襟首を掴み、別のテーブルへと移動する。
「……何しにきたの」
藍良は顔を背け、冷たい声を出した。
「おれ、帰らないから。もうヒロくんのことなんか嫌いになったし」
「あいつ、演技にゃ向かねぇなあ」
「黙りなさい」
余計な口を挟む燐音の口をHiMERUが口を塞ぐ。ここにこはくがいたら、もっと簡単に黙らせてくれるだろうと思いながら。ただならぬ気配を察したのか、厨房からもニキが顔を出す。
彼らの視線の先では、二人の少年が真剣なやりとりを続けている。
「僕が何かしてしまったというのなら謝るよ」
「えっ? 分かってないの?」
「でも……これだけは分かるよ。僕には藍良がいないと駄目なんだって」
「ヒロくん……」
一彩はそっと藍良の手を取った。そして、ただ真っ直ぐに藍良を見つめた。その真剣な視線に、藍良の頑なだった表情も揺らぐ。
目は口ほどに物を言う——いいぞ、と見守る年長組が笑みを浮かべたのも束の間。
「新しい電子レンジのことなんだけど」
「…………え?」
「ゆで卵を作るには、どこのボタンを押せばいいんだっけ?」
ほんの数秒の静けさを挟み、藍良の背後でけたたましい笑い声が炸裂した。続いて、人を殴る音や、床に固いものが転がる音が響く。
けれどもそれらが藍良の耳に届くことはなく。彼は、ぽかんと口を開けて目の前の一彩を見つめることしか出来なかった。
その瞳はどこまでも澄み、まるで鏡のように藍良を映していた。