よれよれおぢさんとチョコレート 辰宮晴臣が営む中華料理屋『雷麺亭』は、今日も普段と変わらぬ繁盛ぶりだった。店の中で食事をしている客は、女子高校生の二人組とサラリーマンが一人。昼時のピークは過ぎたけれど、夕方の仕込みのために一旦店を閉める十四時まで、客足が途絶える気配はない。だから、晴臣にとっての『今日』は、昨日や明日と変わらない『しがない平日の一幕』に過ぎなかったのだ。――たった今、この瞬間までは。
よれよれおぢさんとチョコレート
「あの、」
洗い物をしていた手を止め、反射的に晴臣は顔を上げる。カウンター越しに、こちらを見つめる大きなふたつの瞳と目が合った。テーブル席でラーメンを食べていたはずの女子高校生二人組、の片割れ。晴臣が顔を上げた途端、長い睫毛を震わせながら、彼女はうろうろと視線を彷徨わせた。
「? 会計ですか」
「……い、いや、えっと……」
二週に一度くらいの頻度で食べに来る子だったはずだ。塩ラーメンと味噌ラーメンを交互に注文し、味玉を必ずトッピングする。わざわざ声をかけたりはしないけれど、彼女に対してそのくらいの認識は持っている。
口を開いて何かを言いかけ、しかし言葉を発する前に閉じてしまう。ぱくぱくとそれを繰り返す彼女の姿は、水面で酸素を求める魚のようだ。思わず頬が緩みそうになるのをどうにか堪え、彼女が自ら決心するまで待つことにした。
「……」
「……」
「……あ、あの」
「……」
「……っ! あの! これ!」
勢い良く顔を上げ、彼女は半ば叫ぶようにしてそう言うと、手に持っていた何かをずいと晴臣の方へ差し出した。――白いちいさな紙袋。店名と思しきアルファベットの羅列が刻まれているけれど、そういうものに疎い晴臣にはそれが何に関する店であるかまではわからない。
あまりの勢いに一瞬気圧されたが、彼女の手からそれを晴臣は素直に受け取った。しかし、イマイチ要領を得ない。これは? と尋ねようとして、けれど彼女は反対の手に握った小銭をカウンターに置くと、「捨てても良いので!」というまさに『捨て台詞』を残し、くるりと背を向けて店から出ていってしまった。
置いてけぼりを食らった彼女の友人も、困ったように眉を下げながら支払いを済ませ、慌てて彼女のあとを追いかけていく。
「……」
店には、ふたたび静寂が訪れた。
……嵐のようだ、文字通り。
何だったんだ、と、彼女が出ていった店の出入口と手に残された紙袋へ晴臣は交互に視線を向ける。彼女の行動の意図が全く掴めない。第一、これは本当に自分が受け取って良いものだったのだろうか。その判別を付ける情報さえ、晴臣には【ついぞ】与えられなかった。
「良いねえ、青春だねえ」
カウンター席で一連の流れを見ていたサラリーマンが、呆然としている晴臣の様子を眺めながらニヤニヤと親父臭い笑みを浮かべている。
彼は、週に三回は来る常連客だ。醤油ラーメンと餃子を一皿、たまにビール。職場も近いらしく、店以外で顔を合わせる頻度もそれなりに高いので、ちいさな世間話を交わすくらいの間柄である。
彼の発言に、晴臣はわかりやすく嫌そうな顔をした。
「……何が」
「中年親父にも、春は来るんだねえって話だよ」
「……は?」
「……本気でわかってないのか、アンタ」
「だから、何が」
じっと向かいのサラリーマンを睨む。
彼は、やれやれと呆れたように首を振ると、店に貼ってあるカレンダーを指さした。日付を見ろ、ということらしい。
素直にそちらへ視線を向けて、今日が何日であるか意識的に確認した晴臣は、「……ああ」とちいさく頷いた。
二月十四日。――そこまで示されて、晴臣もようやく合点がいった。つまり、今日は『バレンタインデー』であるらしい。
「……」
思わず、手元の紙袋へふたたび視線を向ける。流石に、彼女の反応と今日の日付から考えて、この中身が何であるか気付けないほど鈍いつもりもない。
尚もニヤニヤと揶揄うような笑みを浮かべているサラリーマンを一瞥し、晴臣はちいさく息を吐いた。ここでこれを開封することは、百害あって一利なしだ、間違いなく。
さてと、そろそろ行こうかな。そうつぶやいて、彼は席から腰を持ち上げた。晴臣の気付かぬ間にラーメンも餃子もすっかり平らげている。
あ、と。小銭をカウンターに並べていた彼が、何かを思い出したように顔を上げて晴臣の顔をじいっと見た。それからにんまりと口の端を持ち上げて、とっておきの悪戯を思い付いた子どものような笑みを浮かべる。
「ほら、俺からも」
ポケットから取り出したものが小銭の横に添えられた。視線を落とし、それが何であるか気付いた晴臣は、あからさまに眉を顰めて目前の男をじとりと睨む。
「じゃ、ご馳走様~。ハッピーバレンタイン~」
ひらひら。片手を振って店をあとにする男の背中に、思わず乾いた息が漏れた。……何が「ハッピーバレンタイン」だ。顔に似合わない台詞を適当な調子で吐かないで欲しい。
カウンターには、ラーメンと餃子を合わせたぴったりの小銭と、コンビニエンスストアで売られているようなちいさなチョコレートがふたつ、ちょこんと置き去りにされていた。「俺からも」に続く言葉は「バレンタインのチョコレートをやるよ」だったらしい。
「……どうしろと」
思わず、頭に浮かんだ言葉が口を伝う。今日がバレンタインデーであることを認識すらしていなかった中華料理屋のオヤジが、一瞬で、わかりやすい本命チョコレートをひとつとわかりやすい義理チョコレートをふたつ、手にしてしまったのだ。
「はは、変な顔」
鼓膜を揺する揶揄いを含んだ声に、晴臣は視線を持ち上げる。
いつの間に姿をあらわした智生は、カウンター席に座り頬杖をついて、整った相貌を崩し、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていた。そうしてうっとりと頬をゆるませながら、「羨ましいよ」と一欠片も思っていないことを口にした。――カウンターに置いてあるチョコレートたちから、晴臣の置かれた状況を、すぐに彼は察したようだった。
面倒臭い奴に見つかった、と、舌打ちを零しそうになる。けれど、すこしの間だけ思案する素振りを見せた晴臣は、サラリーマンの方から受け取ったチョコレートを手に取ると、何の躊躇いもなくするすると包みを剥がし始めた。顔を上げ、「智生」と向かいの男の名前を呼ぶ。
「ん」
頬杖をついた体勢のまま、智生は、あ、と口を開けた。そこへ、包みを剥がしたばかりのチョコレートをぽこんと放り込む。
与えられたチョコレートをもぐもぐと咀嚼する姿はまるで雛鳥みたいだと、晴臣は思った。けれど、もちろん、わざわざそれを言葉にして、彼の機嫌を損なうような面倒を自ら招くつもりもない。
口の中のチョコレートを食べ終えた智生は、何とも表現しがたい表情をぼんやりと浮かべると、そのままゆっくりと口を開く。
「……甘い」
「……当たり前だろ」
思わず、くつりと喉の奥に笑みを零した。何を、今更。甘いものが特別苦手だとは、聞いていなかったけれど。
何故か不機嫌そうに顔を顰めている彼を視界の端に映しながら、晴臣は残ったもうひとつのチョコレートの包みを剥がし、自身の口の中へ入れた。
「……」
瞬間、口の内側をざらりとした感触が撫で上げて、鼻の奥がツンとするような暴力的な糖分が口いっぱいに広がった。彼が「甘い」と文句を零す理由を一瞬で晴臣も理解する。
「あのオジサンには悪いけど、チョコレート選びのセンスがねぇな」
ハア、と呆れた風を滲ませ、智生は大袈裟にため息を吐いた。『オジサン』呼ばわりされている彼をすこしだけ不憫に思いながら、しかしセンスに関しては晴臣も同感である。すくなくとも、食の好みは合わなさそうだ、と。
ようやく口の中のものを飲み込んだタイミングで、それを見計らったかのように智生が顔を上げてこちらを見た。
「塩ラーメン」
「……」
「いや、味噌の方が良いかな」
どっちがおすすめ? と、彼は、唐突な話題をそのまま自分勝手に進めていく。チョコレートのお口直しに、気軽にラーメンを要求しないでもらいたいものだ。けれど、文句を零したところで、目前の彼には何の意味もないことくらい、晴臣は痛いくらいに理解していた。
「……せめて餃子にしてくれ」
「うーん……まあ、良いよ」
不服そうに、けれど幾分機嫌は直ったらしい。「やっぱり晴臣の料理がいちばん」と、次の瞬間にはまたいつもの人好きのする笑顔を浮かべている。
肩を竦め、晴臣は、ふっと息を吐いた。十年前と変わらず――たとえそれが『バレンタインデー』であったとしても、九頭竜智生の『わがまま』に振り回されるのだ。