宵の月は明けの鶴を捉らふ〜懐刀の二十年(はたとせ)Barで光忠と別れ、鶴丸は一人帰る道すがら、今日のやり取りを反芻していた。
光坊の眼は真剣だった。伽羅坊との幸せを掴むために、坊たちは向き合おうとしている。
若さってやつには敵わないなぁ。鶴丸は独りごちた。
俺にもあんな頃があったはずなんだが。世の中は驚きに満ちていて、毎日が輝いてた。
ふぅ、とため息をつくと、鶴丸は自らが置かれた現状を思う。
俺は三日月のじじいを止める術など持ち合わせていない。坊たちにできることは、今日のこれだけだ。
あれの目指すところはどうにもわからん。
鶴丸は、自分が学内で『三日月の懐刀』なんて妙な名で呼ばれているのは知っている。だが、それは事情を知らない外野から見た三日月と鶴丸の関係だ。『懐刀』なんて、たいそうなもんじゃない。ただの駒だ。いつだってあれは俺を切り捨てられるのだから。
伽羅坊までの都合の良いつなぎだということは、十分に理解している。かれこれ20年の付き合いになるあのじじいは、俺を誰かの代わりにしているのだ。
愚かだ。頭では理解している。それでも離れないのは何故なのか。だれにも見えぬ頭の中でさえ、答にたどり着くことが厭わしく、鶴丸は大きく頭を振ると、まとわりつく思考と空気を振り切るように再び歩き出した。
光坊が伽羅坊にプロポーズした。屋上での覗きもなかなかの驚きだったろう?
やぁ、これで納まるところに納まったという訳か。めでたいことだ。
潮時かもなぁ。ふとそんな言葉が頭をよぎった。光坊と伽羅坊の様子を見る限り、二人の絆は固く、心配無用のようだ。
弟のような二人の幸福を、心から喜んでいる鶴丸だったが、対極にあるような自分を振り返ってしまった。なんとも女々しいじゃないか、俺よ。
自嘲気味に笑い、こりゃ思い立ったが吉日だな!と鶴丸は心を決める。
すぐさまスマートフォンでメッセージアプリを起動すると、手短にメッセージを送る。
『ちょっと話があるんだが。そちらを訪ねてもよいだろうか。』
珍しくすぐに返信が届き、相手も今夜は都合がよいことを知る。
テキパキと着替えをすすめ、どのように用件を伝えるかしばし思案する。
何がキッカケでこうなったのか、今となってはよく思い出せない。年下の自分が敬語を使わないのも、不遜な態度を改めないのも、件の人物には毛色の変わったペットのように映っているのだろう。
いわゆる愛人みたいな関係を、こんなにも長い期間続けるなんて、若かりし日の自分が知ったら、何て言うだろうか。
「たしかにこれは驚きだわな。」
年甲斐もなく、不毛な恋なんてのにハマっちまったもんだなぁ。あちらさんはこちらの気持ちなんて、これっぽちも気づくまい。
大学病院は驚きの連続だった。とはいえ、もう界隈にはいられないだろう。海外にでも行くか?それも面白いな。
「立つ鳥跡を濁さず。ってな。」と鶴丸はニヤリと笑い、ロッカーをあとにした。
訪ねた三日月のマンションは、相変わらず調度品が整然と並び、神域のような空気を纏っていた。ダークトーンでまとめられた部屋に白い鶴丸が入り込むと、まるで浮遊しているかのようにその存在が際立つ。
三日月は鶴丸をリビングに迎え入れると、自身はカウンターキッチンに入り、上機嫌で「軽く食事でもどうだ?」と声をかけてきた。
「いや、用件を伝えにきただけだから、気遣いは無用だぜ。」
「ふむ。せっかちな奴よのう。このところ忙しいと言って、随分こちらに通ってこなかったではないか。」
心なしか不満げな顔で、三日月は赤ワインを開けている。
「だれかさんのおかげで、こちとら残業続きさ。休みも何もありゃしないもんだ。」
「だから俺は病院を辞めることにしたぞ。」
なんでもないように軽口を叩き、鶴丸は突然本題を捩じ込んだ。
「は?」
三日月は自分の耳がおかしくなったのかと、振り返った。
久しぶりに訪れた鶴丸を迎え、上向きだった機嫌が一気に降下し、幾分低くなった声で聞き返した。
「今なんと?」
鶴丸は不敵な笑みを湛えたまま、もう一度を同じ言葉を口にした。
「病院を辞めることにしたぞ。」
三日月はアルカイックスマイルで鶴丸を見つめているが、その眼は全く笑っていない。
「何を血迷った。鶴丸よ。」
「きみに出会って20年だ。もう十分だろう。」
「何がだ?」
言いながら三日月がゆっくりと距離を詰めてくる。
鶴丸は飛び切りの笑顔を浮かべて伝えた。
「俺はきみに沢山の驚きを与えてきただろう?最後の驚きだ。別れよう。」
しばしの沈黙の後、すっかり表情の落ちた顔で鶴丸を見据えていた三日月が口を開いた。
「あいわかった。等とは言わんぞ。」
鋭くなった三日月の視線に臆することなく、鶴丸が返す。
「誰かの代わりは、他を当たってくれ。もっと若いのもたくさんいるじゃないか。」
「誰かの代わり?」
三日月が鸚鵡返しで言葉を紡ぐ。
「都合のよい駒なら、他を当たってくれと言ってるんだ。俺だってもう、こんな愛人関係は終わりにしたいんでな。」
鶴丸の言葉に、三日月は更に怪訝な表情になる。
「愛人?」
「きみな。ちょっと往生際が悪いんじゃないのか?俺を叶わなかった恋の相手の代用品にするのはやめて、互いに新しい道に進んだ方がためになるだろうと言っているんだ。」
鶴丸の言葉を聞いた三日月は顎に手を当てる。その視線はしばし空を見ていたが、ようやく合点がいったようで、ひたりと鶴丸にもどった。
「ふむ…何を勘違いしているのか知らんが、俺はお前を好いておるが?」
「いやいや、すまんすまん。まさかきみが俺を好いてるなんて露ほども思っていなくてな!」
鶴丸はあっはははは!と豪快に笑い、三日月の背中をバンバンと叩いた。
「ふん…全く何を勘違いしておるのだ。」
呆れ気味に言うと、三日月は叩かれた背中を擦った。
そんな三日月の態度に、鶴丸は、「呆れたのはこちらだわ。」と返した。
「だって、きみ。それっぽいことなんて一言も言ったことないじゃないか。それに、いつも俺を誰かと比べていただろう?」
きょとん、と年齢に見合わぬ表情で三日月は鶴丸を見た。そして、気まずそうに小さく呟いた。
「…尊敬している先輩に、所作が似ておっただけだ。他は見た目も性格も、なぁんも似とらんわ。そもそも、その先輩に惚れていたわけでもないし、比べてもおらぬぞ。」
今度は鶴丸がきょとん、とする番だった。全部独りよがりだったということか?これはなんとも…驚きだが、恥ずかしくないか?俺。
「ははは。かわいいやつめ。ずっと拗ねていたのか。」
三日月もようやく状況を理解し、鶴丸の柔らかい髪をくしゃりと遊んだ。
「俺もきみも、もうかわいいなんて年頃ではないと思うんだがなぁ。」
先ほどまでの張りつめた気持ちはどこへ行ったのやら、されるがままの鶴丸は恥ずかしそうに呟いた。
その後、改めて三日月の用意してくれた赤ワインを馳走になり、鶴丸が光忠と大倶利伽羅の話を報告すると、三日月は件の先輩とやらについて、ポツリポツリと話してくれた。
三日月の思惑は結局一角しか知れなかったが、鶴丸は元より学内の人事や派閥からは一歩引いた立ち位置なので、あまり頭に入ってこなかった。
むしろ、長い時をともにしてきた割に、こんな風に穏やかな気持ちで二人で話したことなど殆ど無かったことに新鮮な驚きを覚え、わるくないな、とひっそりと思った。
三日月が言葉にしてくれたら、もっと早くに誤解は解けていただろうに。いや、すべては自分の弱さ故だ。いつだってその背に憧れ、正面から三日月に立ち向かうつもりなんてなかったのだから。
伽羅坊と光坊のことがなければ、己は漫然とこの状況を続けていたのだ。こん舞台裏は墓場まで持っていくつもりだが、二人には感謝しかない。隣で微笑みながら話す三日月を見て、鶴丸は心中で二人に礼を述べ、その幸せな前途を改めて願った。
当たり前のように退職の話はなかったこととされたところで、鶴丸は明日の勤務を思い出し、暇を告げねばと立ち上がろうとした。ちょうどその時。
「さて、鶴丸国永よ。まさかお前、これで万事解決とでも思っておるのかな」
満面の笑みを浮かべ、三日月が鶴丸の腰を抱き込む。
「こいつは驚いた。きみ、結構怒ってるんだな。」
「お前の言う通り、20年。こちらはずっと恋仲だと思っていたのに、まさか愛人だなどと思っておったとはな。」
「だいたい、甥っ子はいつになったら独立するのだ。あれが一人前になるまで数年の我慢、と思っておったのにとんだ誤算だ。」
「ん?」
甥の貞宗は、社会人になった今も、結局鶴丸の家に同居したままだ。
初めて聞く三日月の本音に、鶴丸は動きが止まる。
「なんなら俺の口座の暗証番号は、お前の誕生日だぞ。」
ポカン、と鶴丸の顎が落ちそうになった。
「いやいや…きみ、そんな驚きはいらないぜ。結構重いタイプだったんだなぁ。」
さすがにげんなりした鶴丸を見て、三日月は「はっはっは」と高らかに笑うだけで、何も気にしていないようだった。そしてふと表情が変わる。
「俺相手に怒鳴り散らし、本気にさせた奴なんて、後にも先にもお前だけだ。あの時からちゃんと惚れておるぞ。」
常にない憮然とした面持ちの三日月から、懐かしい記憶を聞かされる。
一歩間違えば学生が怪我をしたトラブルで、あまりに鷹揚な態度でいた三日月が、まさか当日の担当職員だなんて思わずに鶴丸はきつく抗議してしまったのだ。その後一旦は詫びたものの、鶴丸は三日月の立場を知っても、正しいと思ったことは曲げなかった。
「なぁそれ、研修医の時のことか?」
大きな目を猫のように丸くして、鶴丸が驚きの表情に変わる。
三日月は何と言った?それはつまり、一目惚れというやつなのではないだろうか。
じわじわと赤くなるその頬をゆるりと撫で、三日月は「うむ。熱いな。」と呟く。思ってもいなかった展開に鶴丸の体温も鼓動も上がりっぱなしだ。
「きみ、俺に惚れてるのか。」
確かめるように、鶴丸はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ようするにまぁ、」
三日月は文字通り三日月のように口角を上げ、それはそれは綺麗に微笑んだ。
「今夜は眠れると思うなよ。つる。」