夜食遠く聞こえる長鳴鳥の声が夜明けを告げる。
まとまらない思考のままに、山姥切長義は外廊下へ出た。
振り返りもせず、音もなく障子戸を閉める。
部屋の中に籠る濃密な空気には、敢えて気づかないふりをした。
心の内とは真逆に白んでいく本丸の廊下を歩く。
気付けば厨まで来ていた。
喉を傷めただろうから、水くらい渡さねば。
浮かんだ言葉に、知らず奥歯を噛み締めた。
「やぁ。随分早いね」
厨番が来るにも早い時間に先客だ。
「おはよう、ございます」
厨から出てきた燭台切光忠は、やけに上機嫌だった。
「伽羅ちゃんが疲れているからね。簡単に食べられるものを頂きに」
聞いてもいない疑問は顔にでも出ていただろうか。
大倶利伽羅、の名前に過剰に反応しなかったことだけが救いだ。
不自然にならないよう、水を取ろうと長義は厨に入る。
「ああ、長義くん」
すれ違い様に燭台切が声をかけた。
「ありがとう。山姥切国広くんにもよろしくね」
なにが?とも何故それを、とも問えなかった。
思わず息を飲み、言葉が出ない。燭台切は何を知っているというのだ。
立ち尽くす長義に、燭台切は思い出したように一度だけ振り返ると、
「宝物、気が付けないとなくなっちゃうからね」
気を付けて。そう言ってうっそりと微笑むと、今度こそ燭台切は廊下の先に消えていった。
戻った自室の前で一度立ち止まると、長義はゆっくりと息を吐き、障子戸を開けた。
衝立の向こうに、静かな寝息が聞こえる。
まだ眠っているようだ。
枕元に水を置くと、長義はようやく惨状に向き合う。
己の寝床に乱れた姿で眠るのは、山姥切国広だった。
昨夜、廊下を走る勢いで歩く国広を見咎めた長義は、彼を呼び止めた。
立ち止まった国広の様子を長義は訝しんだ。顔は紅潮し、着衣も所々に乱れがある。
『本科…』
情けない顔を上げた国広に、苦言を吐く。
『たとえ偽物でも、山姥切を名乗ろうという者の姿ではないな』
その言葉にびくりと肩を震わせるのにも違和感を覚えた。平静なら型通りの口答えが来るはずなのだ。
国広は何か言おうとして口を噤み、再び目線を下げた。
『気に入らないな』
予感がした。何かが起きている。
大した抵抗をされることなく、そのまま自室に引き摺り込むと、事の顛末を聞き出した。勢い、誰に何をされたのかまで耳に入れたところで、目の前が真っ赤になった認識だけはある。あとの記憶は朧気だ。
『痛っ…!なにする…っ!』
切れ切れの記憶が蘇る。
『お前は、俺の…………、俺の写しだろう……!!!』
あの時自分は何を伝えたかったのだ。
『ごめ…なさ………本科…ご…め………』
必死に声を抑えていた国広の、耐えきれなくなったあとに出た、幼子のように泣きじゃくる声が今も脳裏に響く。
己の写しを汚したのだ。他でもない自分が。
手首には縛られた痕。強く掴んだせいだろう。痩せた腰には、数本の指と思しき痣が浮く。途切れ途切れに聞こえた嬌声と謝罪、しかし『やめろ』とだけは言われなかった。
最低な暴力だ、こんなの。情交などとは程遠い。
ただの刀であれば、こんな思いを味わうことはなかったであろうに。
何故お前が写しなのか。
燭台切の言った言葉が思い出される。
『宝物、気が付けないとなくなっちゃうからね』
二本の指で国広の口唇に触れる。未だ起きる気配はない。
いっそ口づけてしまえればよかったのだろか。
そっと自らの口に指を押し当て、長義は静かに目を閉じた。