カサナル、ココロ「痛っ・・・!」
思わす体がこわばったのは、恋人にも伝わっただろう。
幾度目になるかわからぬお泊りの夜。
獅子王は今夜こそは、と内心期待をかけて、加州清光の家へ足を踏み入れた。
一目惚れから始まった交際はそろそろ半年になる。
お互い、いい大人だ。もう一段階踏み込んだ関係になっても何も問題はない。そう思っていた。
何の予定もない週末を控えた金曜日。獅子王は意気揚々と加州のマンションに現れた。手土産にデパ地下のデリでつまみを買ってきた。加州が好きだと言っていたブラッスリーのバゲットは、獅子王の会社からここまでの道のりにあるので、毎週立ち寄ってしまう。
出迎えた加州が用意した、青江にもらったというチーズをバゲットに合わせ、加州が最近気に入っているという蜂蜜ワインを相伴に預かる。こっくりとした味わいもいいが、やっぱビールが一番だ!と宣うと、呆れたような、それでいて優しさのにじみ出る笑みを浮かべる加州。いつもと変わらない夜だった。
交互にシャワーを浴びて、寝室に入る。一緒のベッドで眠りはするが、加州はいつも獅子王に背を向け、獅子王が寝室に来る前に寝入っている。
それが今夜は珍しくまだ起きていたので、獅子王は加州も「そのつもり」であると疑いもしなかった。
結果。
端的に言えば、腕を噛まれた。清光の犬歯の痕だろうか。一か所だけぷつりと血がにじむ箇所がある。確かに痛みもあるが、今獅子王の頭を占めているのは、己の傷の痛みなどではない。
「あ………」
噛んだ張本人である加州の方が血の気の引いた顔をしている。加えて言うならば、微か震えている。
「清……?」
だいじょーぶ?という言葉を紡ごうとして失敗した。
薔薇柘榴石を思わせる瞳から、とめどなく涙があふれ出したからだ。
ぎょっとして目をむいたのは獅子王だ。
慌ててサイドテーブルのティッシュペーパーを取り出し、滑らかな頬にあてる。ぽろぽろという音がしそうなほどの綺麗な大粒の涙だ。
「ごめ…」
されるがままの加州の瞳は獅子王を見ていない。
「ごめんなさ…ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…!」
「清光!」
思わず胸に抱きこんだ。震えは先ほどより大きくなっている。
こんな時、どうすればいい。獅子王は必死に思考を巡らせた。
ダイナミクスなんて眉唾物だと思っていた。そんな自分がまさかのDomだと知らされたのは、加州に惚れた後だった。まったく知識のない自分に、同郷の後輩である大倶利伽羅から紹介された、同じくDomである太鼓鐘から一通りのレクチャーを受けた。
ごくりと唾を飲み込む。落ち着け。息を整えろ。できる限り、そうできる限り静かな声で。ゆっくりと。
「清。俺を『見て』」
獅子王の言葉にビクリと加州が反応を示す。
瞳が焦点を結ぶ。恐慌状態からはひとまず脱したようだ。
「……獅子王……」
涙で濡れた薔薇柘榴が煌めき、目線が合う。
獅子王は笑顔を浮かべ、ゆっくりと加州の頭を撫でた。
「うん、いーこ。清はほんとにいーこだなぁ」
噛み締めるように発された言葉に、加州の頬がうっすらと染まる。獅子王はそのままぽんぽん、と優しくその背を叩く。
「だいじょーぶ?ごめんな、驚かせちまった」
続いた言葉に経緯を思い出したのか、触れた背中が再び震えだす。抑えきれなかったようで、加州は獅子王の腕の中でしばらく泣き続けた。
「落ち着いたか?」
しゃくりあげる細い肩の動きが緩慢になった頃、囲う腕はそのままに獅子王はできる限り静かな声をかけた。
「……んー。ごめんな、びっくりしたでしょ」
返ってきた口調はいつもの加州だ。獅子王は内心ひどく安堵した。
交際を始めて以来、加州には何度も怒鳴られ、説教をされ、セーフワードも口にされている。いつだって強気な女王様然とした加州の、こんなにも弱った部分を見るのは、初めてに等しかった。
同時に、自分にはこんな一面見せられないと思われていたのかと、微かな焦燥を覚える。
今夜はこのまま寝るのが一番だろうと、一人結論に至る。
「遅くなっちまったな。明日は出かけるか?そろそろ寝よーぜ」
水、取ってくるか?と声をかけると同時に、ベッドを降りた獅子王に、加州が遠慮がちに声をかけた。
「獅子王…」
「んーーー?水じゃなくて白湯にすっか?」
体冷えたか?と聞きながら、交際してから加州の性質に詳しくなった獅子王は、冷え性気味の加州を思い、別の飲み物の提案をした。
何度か逡巡を繰り返しながら、言葉を探していたような加州は、
「獅子王はさ、俺と…シたくないの?」
と小さな声で言った。
獅子王はガバッと音がするほどに振り返り、加州の目の前まで戻ってくる。
「はぁ⁉シてーよ!シたいに決まってんだろ!俺、健全な男子だしよ!」
そのまままくし立てるように言葉が続く。
「カッコわりーけど、お前の裸、何回も想像してるし!何ならその先も…「もう!じゅうぶん!!だから」
獅子王の思わぬ独白に、慌てた加州が食い気味に言葉を止めようと、その口元に手を当てる。加州の頬は熟れた果実のように真っ赤だ。一体、自分たちは何をしているのかと、互いに我に返る。
改めて、加州は獅子王を見る。普段からちゃらんぽらんだと思うその姿は変わらない。だが、今の彼の瞳には真剣な色が見える。
獅子王は塞がれた口元にある加州の手をゆっくりと両手で包み込む。
「俺さ、お前がSubだから好きなわけじゃねーし」
そんな風に言われたことがあっただろうか。
早い時期にSubだと明らかになった後、加州を取り巻く周囲の目は様変わりした。
過剰な心配をする両親。Subだからと蔑むようになった同級生。貞操の危機だった忌まわしい記憶と、危機を救ってくれた従兄。『Subだから』が常に付き纏うことで、『人並み』は望めないのだと諦めることを覚えた自分。
思い出すのも嫌気がさす。獅子王には話したい。知られたくない。相反する感情がせめぎあう。もし、獅子王に軽蔑されたら、今度こそ自分は生きていけない。だから踏み込んだ関係なんて、欲しくなかったのに…
「俺はDom、清はSubな。それはわかってる。コマンドやプレイも、教えてもらった。プレイで満たされてるって気持ちも、確かにある」
包み込まれた手から、獅子王の温度が加州に伝わる。いつだってその温度は加州より高めだ。
「だけどよ、大前提として、お前が何であろうとカンケーなくさ、惚れてんだ」
耳に届いた言葉に、加州は目を見開く。獅子王にしか言えない言葉であろう。加州はもちろん、周囲の人間は大なり小なり、ダイナミクスによって、その生き様を狭められてきた自覚がある。
「噛んで、ごめん。体が反射的に動いた…」
きゅ、と膝の上に落とした手に力が籠められる。過去を思い出しているのか、加州の顔色は優れない。
「たぶんさ、いっぱい嫌なことあったんだろ」
「俺、田舎でほんとそういうのに無縁だったからさ。広光のことも気づかなかったし」
自分に非はないのに、助けになってやれなかったことを悔やむ。獅子王はそういう男だ。
「言いたくないこと、無理に言わなくていーんだぜ、清」
「俺、気ィ遣える方じゃねーからさ。嫌なことはヤダって言ってくれよな」
予想に反した言葉ばかりが獅子王の口から紡がれる。
「『言え』って。命令、しないの?」
あまりにもDomらしくない言葉に、思わず問うた。
「んーそれっていいコマンドじゃなくね?『来いよ』のが好きだぜ、俺」
ベッドの上、向かい合わせに座ったまま、獅子王は加州を真摯に見つめて言った。
『来いよ』ー獅子王がこのコマンドを無意識に放ったのは光忠の家でだったろうか。さほど昔ではないのに、随分と前のように思える。そう考えながら、加州はゆっくりと獅子王のもとに近寄った。
「ほら、やっぱこっちのがいーじゃん。清、いーこ」
にっこりと笑いながら頭を撫でられ、加州の頬が染まる。
「命令しないで、清の『だいじょーぶ』、まで進んでいい?」
「ん………………いーよ…………」
「ぎゅーは?」
「へーき」
囲われた加州が頬を染めて俯く。
「ちゅーは?」
小首をかしげて獅子王が問う。
「…だいじょ、ぶ」
目線は合わない、が加州は拒否しない。
獅子王はそんな加州の顎に手をかける。見上げてきた薔薇柘榴が揺れるのを見据えたまま、その唇を吸った。
ちゅう。
思いのほか可愛らしい音がして、目が合ったまま二人で笑った。
もっかい。と囁きが降ってきて、獅子王の唇が近づく。
眼を閉じて受け入れた加州は口先を啄まれ、唇を開かされる。開いた歯列を獅子王の柔い舌がなぞる。
「ふ……っ…んぅ…」
「清、かーあいぃ。いーこ」
抱きしめる腕に力を込め、獅子王は加州の耳元に最愛を吹き込んだ。
「獅子王」
自分がされたように獅子王の耳元で加州が名を呼ぶ。
「ん-?」
「俺も。ちゃんと、好きだから。だからーおまえと…」
言葉の意味を正しく理解して、獅子王は破顔した。