つどい設定つどい利土井
いつも通りの朝、子どもたちを起こし朝食を食べ掃除をして勉強を教え、そういった日常を過ごしながら外で皆を遊ばせていたところによく見知った顔が来た。己の恩人であり元同僚である山田伝蔵の息子で、フリーの忍者をしている山田利吉だ。売れっ子で時間がないはずなのによく顔を出しては子どもたちと遊んでいってくれる。時には勉強も教えてあげたりしてくれたり、いつでもこの孤児院を気にかけてくれるとても優しい子だ。いつものように子どもたち、ひいては己の様子を見に来てくれたのかと笑顔で手を振るが様子が少しいつもと違った。その後ろに小さな影があった。利吉くんは心優しい青年だ、もしかしたら戦場かどこか、前(さき)の仕事で孤児を見つけてしまい己が運営する孤児院を頼ってきたのかもしれない。
「利吉くん、お疲れ様。お仕事はどうだった?」
「ありがとうございます、土井先生。仕事は、まあ、はい、つつがなく」
「……それで、その子は――」
返ってきた答えの歯切れの悪さに疑問を持つも仕事の詳細を聞くのはエチケット違反だろうということで気になっていた子供について尋ねようとした。そうして改めて視線を向けた先にあった顔に驚く。そこにあったのは初めて出会った頃、つまり十二歳の利吉くんをもう少し幼くしたかのような子どもであった。咄嗟のことでそれ以上の言葉が出なくなっている己に対して利吉くんが言いづらそうに口を動かす。
「その、私の子です。以前も依頼を受けたことがある城からの依頼だったのですが以前の依頼の際そこの女中の一人と、ええと……はい、そういうことです」
気まずそうに視線を逸らしながらばつが悪そうな顔でそう答えた利吉くんにガツンと頭を殴られたかのような感覚に陥る。たしかに数年前の利吉くんは荒れていた。大荒れだった。そこら中の女の子を引っかけていたのだから荒れているとしか言いようがないだろう。しかもこれが当時困ったことに女だけでなく男にまで手を出していたのだからそれはもう山田先生が頭を悩ませるどころかは組のよい子たちがまだ下級生だったころの私の神経性胃炎のように常に頭痛を抱えているような状態だった。そこにまさか己も加わっているなどと言えるわけもなく、どうにか山田先生にだけはバレないように普段通りの生活を心掛けていたわけだが、山田先生からの気の遣われ方がどうにも隠しきれていない気がしてあのよい子たちの学年が上がるにつれて減ってきていた神経性胃炎の発作をたびたび起こしていた。その後いろいろあって別れることになったのだがその頃には利吉くんもだいぶ落ち着いていたはずだ。だが子ができている、見た目の年齢からして荒れていた頃にできた子だろうが、それを引き取ったとなればその女性をさぞ愛していたのだろう。利吉くんがまだなにがしかを話しているようだが頭に入ってこない。自分が世界から切り離されたかのようだ。心の底からどろりとしたものが溢れそうになる。どうにか話を続けようと思考を振り払い利吉に意識を向ける。
「――というわけですので、この子を土井先生のところで預かっていただきたく。」
預かる?見せに来ただけではないのか?子どもたちが多くいるここで自分の幼少期のようにさせないよう遊ばせに来たというわけでもなく?
「う、うちで預かる?山田先生や奥さんはお孫さんのことを知ればさぞお喜びになったんじゃないのかい?そちらで育てないということかい?」
「両親には言っていません。先ほども言った通り、この子を他の誰でもなく、土井先生に育てて頂きたいのです」
なんということだろうか、これはどういう巡り合わせだろう。運命のいたずらだろうか、子どもの頃から知っている子に懸想をしてしまいその心が未だくすぶり生産できずにいる己への罰なのか。自分は今どのような顔をしているのだろう。笑えているだろうか、声は震えていないか、そのどれもがわからない。孤児院にいることが増え忍術学園にいたころよりも更に前線から遠のいてしまったとはいえ己は忍者なのだ。それがこんな体たらくとは。なにがお兄ちゃんだ、しっかりしろ土井半助、お前は利吉くんが憧れる兄のような存在であるべきだろう。そう己をたしなめなければ立っているのもやっとなくらい足元がおぼつかない。そこから己はどう応えたのか、利吉くんはもういなかった。己の手に肩を抱かれた利吉によく似た子がこちらを見上げている。その子どもを見て己は何を思っているのか。
「じゃあ、帰ろうか」
肩を抱いていた手を外して差し出す。それに少し戸惑ったような表情を見せたがしばらくすると手を取ってくれた。記憶の奥底にあるものより一回り小さいその手をそっと握り、孤児院の中へと向かう。名前を聞いたが利吉と呼ばれていたと言い、それでは父親の利吉くんと同じ名前となり不便なため名前をつけることとなった。
「なにか好きな字はあるかい?」
「スケです」
「そ、うか。じゃあ、君の名前は利助だ。それでいいかい?」
「はい。ありがとうございます」
呼ばれていた名が父親と同じということはこの子は少しどころではなく複雑な環境にいたのだろうということが容易に推察できる。おそらく本当の名前はあるのだろうがこの子自身も知らず、利吉くんからも聞けていないのだからと好きな文字を聞いたところなんの偶然か「助」と一切の迷いなく言われ、そこから利吉くんの「利」の字を貰うとなると利吉くんと己の子どもかのような名前となってしまったことに罪悪感がないわけではないが仕方ないではないかと自身に言い聞かせる。
連れ帰った子は己によく懐いてくれた。他の子たちとも最初のうちは距離を置いてどうすればいいのかわからないといった様子であったが、そこは快活で忍術学園でも子どもたちとよく遊んでくれていた利吉の子、すぐに馴染むことができたようだ。時折寂しそうな視線を向けてくることがあるが、恐らく母から離され父と共に過ごすことができると思ったらその父によって見知らぬ大人のところに預けられてしまったことによる不安や、父に会いたいという気持ちによるものだろう。信用してもらえるように頑張らねば。これは利吉の子だからではなく自身が子どもという存在を慈しむことを好んでいるからだ。過去にしてしまったことはどうしようもない、もうこの世にいない人間にどれだけ謝罪しようが後悔しようが今更では遅いのだ。だがそんな自分にも子らを導いていくことができると山田先生が示してくれた。それならばその期待に応えたい。それがその恩人で父のような優しさを与えてくれた人の孫ならばより一層そのご恩をお返ししたい。ただそれだけだ。決して利吉の、己が愛してしまった男の子どもだからなどではないのだ。
私の孤児院では算術などの他に忍術を教えているため忍術学園に進学する子どもたちもいる。利吉の子どもも忍術を学び始めたがやはり血筋と言うべきか呑み込みが早く座学はすぐに同じ年齢の子どもたちに追い付いていた。この調子であれば父親や祖父と同じように立派な忍者になることだろう。本人にその気があるならばの話ではあるのだが。しかし座学に関しては優秀ではあるが実技に関しては経験がものをいうだけあってまだ覚束ないところもある。そこで来たばかりでまだあまりよく話ができていないことや、利吉くんによく似た顔で懐かしくなってしまったこともあり、少しキャッチ手裏剣やカニ取りでもしようかと近くの小川に誘ったのであった。
「うちはどう?楽しい?」
「はい、みんなよくしてくれますし」
「帰りたいとは思わない?私からお父さんに頼んでみようか?」
そう聞くと利助は木の板で受け取った手裏剣を板から抜き、少し弄びながらうつむいてしまった。この話はまだまずかったかと思い一歩近づこうとした瞬間、利助が顔を上げて少し困ったように笑いながら答えた。
「いえ、母は元々あまり私を見てはくれませんでしたし……」
「す、すまない。辛いことを思い出させてしまったね」
そうだった、この子はかなり複雑な環境で生きてきたのだ。デリケートな話はまだあまりしない方がよかったかもしれないと反省した。利吉くんとよく似た顔をしているため悲しんだような表情をされると弱いのだ。機嫌を損ねてしまったかもしれないと帰ることを提案したがもう少し遊んでいきたいというため沢でカニ取りをして帰った。
そうやって己の嫉妬、そしてそれに伴う罪悪感と嫌悪感とを抱えながら利助に接していたある日の夜のこと、ふと己の部屋の前に小さな気配を感じた。どうしたんだ、入っておいでとつとめて優しく声をかけると気配が震え、一拍ののち障子が開いた。見てみるとそれは利助であった。どうしたのだろうか、怖い夢でも見たのか。上からかぶっている着物の端をそっと持ち上げて再度「おいで」と招く。言いたくないこともあるだろう、言いたければいつか言う、そう思い何も聞かず潜り込んで抱きついてきた子どもを抱き返して背をたたく。
「……母上」
やはり寂しかったのだろう。複雑な環境にいたとはいえ母親は唯一の存在だ。どれだけ気丈に振舞い、他の子どもたちと仲良くしているように見えたとしても、忍術学園の生徒たちとは違い、突然覚悟もないまま母親から離され、さらには二度と会えないかもしれないというような状況はこのような年ごろの子にはつらいことだろう。だが、その寂しさの中で己を頼ってきてくれたことは素直に嬉しい。その期待に応えられるかがこれからの信頼関係に関わってくる。気を引き締めなければ。もう一度そっと背中を抱きなおしながら軽く叩いて気長に待とうかと目を閉じると、気になる言葉が飛び出してきた。
「先生は、母上によく似ていらっしゃいます」
驚いてとんとんと背中を叩いていた手が止まる。そうか、それでよく懐いてくれていたのかと合点がいく。男女の差があるというのにほんの少し面影がある程度だとしてもこの子の母に似ているという己のそばにいたいと思うほどにはやはり寂しかったのだろう。つとめて優しい声で先を促す。
「私が、君の御母上に?」
「はい、母が言っておりました。母上は父上の想い人に似ているから母上を愛してくださったのだと」
どういうことだ、今この子は何と言った?この子の母親は利吉くんの想い人に似ていた?そんな、まさか、だってそんなはずはないのだ。あっていいはずがないのだ。そうだ、この子の思い違いだ。何かの間違いなのだ。
「先生が、父上の想い人なのですか?」
「まさか!そんなことあるわけがないじゃないか、君の御父上は私の恩人の息子さんで私にとって弟のような子だ。兄弟のような間柄でそんなことあると思うかい?」
喉が渇く、暑くもないのに背中に汗が伝う。だってそんなこと、あってはならないんだ。あの子は綺麗なお嫁さんを貰って可愛い子どもたちに囲まれて――
その綺麗なお嫁さんは?子どもは?今どうなっている?心の臓が嫌な音を立てる。本当に、私を?私が、利吉君の幸せな未来を奪ってしまったというのか?だが子どもの言うことだぞ、期待するな、してはだめだ。そんなこと、あってはならないのだ。確かに以前利吉が荒んでしまっていた頃、うっかりそういう関係を持ってしまったことはあったが、あれは荒んでいた利吉の心に悪い大人であった己が同情するふりをして付け込んで得た関係性だったのだ。それに当時は己以外にも男女問わず遊びの相手がいたようだし、実際、この子を預かった時にも思ったが年齢を考えればこの子の母親も最初はその内の一人であったのだろう。だがそこから子を成し、どのような事情があるにせよ己の手で引き取ったのだ。やはりどう考えてもその女の事こそを好いていたに決まっている。だとすれば何故そのおなごと連れ添い共に子どもを育てることをせず己のところに連れてきたのかという疑問が出てくるが、それこそ事情というものであろう。時機を見て母親と共に子どもを引き取りに来るに違いない。もしや己の利吉への想いが態度に出ていたのだろうか。そのような態度をとる母親に似た人間だからとそのような勘違いをしてしまったのかもしれない。それとも母親から引き離されたことによってそう思うことで己を守ろうとしているのか。だって、利吉が半助を好いているなどということはあり得るわけがないし、あり得てはいけないことなのだから。子どもと大人の信頼関係のことなどすっかり頭から消え失せていた。今あるのはただの保身だけ。傷つきたくないという身勝手な自己愛と恩人に顔向けができないという焦りや罪悪感のみだ。これではいけないという冷静な己がどこか遠くに感じられる。だがどうしようもないのだ、だからこそ忍者の三禁というものがあるのだろう。以前子どもたちによく教えていたはずの己がこの有り様か。お笑い種ではないか。どうにか己を律しようと試みる。そうだ、己が受けた恩を忘れるな。この子が何と言おうと利吉には普通の幸せを手に入れてもらわねばならぬのだ。感情をでき得る限り制御して今一度腐り落ちた恋情だったものを心の奥底にしまい込む。
「ですが先生、父上が先生を見る時の顔は、母上が父上のことを語る顔によく似ていました」
気にするな、子どもの言うことだ。子どもに愛のなにがわかるというのか。それが本当だとして、いやそんなわけはないのだが、この子の中での真実がそうであるとするならばだ。それならばこの子は己のことを恨んでいるだろう。恨んでいる相手に何を言われようとただ恨みが増すだけだ。そうだ、母親に会わせてやれば気も紛れるだろう。
「それは……きっと私をまだ兄のように慕ってくれているからだよ。どうにか御母上に会えないか御父上に聞いてみるから今日はもう寝なさい」
どうにかそれだけ言うと抱きしめて今度こそ瞼を閉じる。今日の夢見は悪そうだ。
小川のほとりでまだ背の伸び切っていない利吉が熱心に石の隙間に苦無を差し込んでカニを捕まえようとしている。自身はというとそんな利吉を少し助言しながら眺めていた。夢だ。すぐにそう気付いた。自分が動いているはずなのにどこか現実味がなく、上の方から眺めているような感覚だ。なかなかうまくカニが採れなくて苦戦しては眉根を寄せて少し不機嫌そうに頬を膨らませる利吉に対して懐かしくて微笑ましい気持ちになる。その丸い頭を撫でてやりたくて体を動かそうと試みるがどうやら思い通りにはいかないようで重怠い感じがして上手く動かすことができない。利吉くん、と呼んでみる。こちらも上手く口が動かず言葉にならなかった。どうやら過去に起きたことをそのまま追体験しているらしい。それ以外のことはできないようだ。そうこうしているうちに利吉はようやくカニが採れたようで眩しい笑顔を向けながらカニを掲げて見せてきている。それに対して己は微笑み、すごいじゃないかと言うと今度こそ利吉の頭を撫でる。そろそろ帰ろうと差し出す手に何の躊躇いもなく乗せられる小さな手。この小さな手を守りたかったのだ。血に塗れ泥に汚れている己の手でも守れるものがあるのだと気付かせてくれたのは利吉だった。利吉との時間があったからこそ、忍術学園で教師をしないかと伝蔵から打診を受けたときにその道に進んでみたいと思えたのだ。そう考えていると景色がいつの間にか変わっており、己の手の中にあった小さな紅葉は大きくなって己の顔の横にあった。そうか、これはあの時の、と考えていると身内贔屓を抜きにしても整ったその顔が近づいてくる。唇がくっつくと思ったところで顔をとめ、苦しそうに笑う。
「……こういうことは、初めてではないのですか?」
「まあ、忍者だからね」
「なるほど、随分と慣れていらっしゃるようで」
利吉くんがそう言いながら苦虫を噛み潰したような表情で舌打ちをしてくる。理由がわからずとりあえず平静を装うしかできない。己がこういうことに慣れているのは事実なのだから。ただ、本当に好いた相手とすることは初めてだというだけだ。だがそれも彼に告げる必要はない。彼が知る必要もない。知ってしまえば彼は私を軽蔑するだろう。大恩ある方々のご子息である利吉くんに恋慕の情を抱いているなど知られてしまえば今度こそ私がいてもいい場所はなくなってしまう。この居心地の良い場所を手放したくないだけなのだ。利吉くんが女人だけでなく男も抱いていると聞いたときは、頭を抱えていた山田先生には大変申し訳ないがチャンスだと思った。どうせ叶わぬ恋ならば体だけでもと思ってしまった私の悪徳だろう。これを知られるわけにはいかないのだ。
「そういうこと。でもまあ最近はご無沙汰だったからね、きみが気持ちよくしてくれるんだろう?」
視線で先を促せば苛立ったように利吉が唇を合わせてくる。顎を掴まれ口を開けさせられたかと思えば性急に舌を入れられる。
「んむ、ちょ、ん、がっつきすぎ、んん」
「いいじゃないですか。慣れてるんでしょう?」
そうして口内を蹂躙されている間にも利吉くんの手は私の胸元をまさぐってくる。何が楽しいのか筋肉しかない胸を揉みしだき、そこについた尖りを弄ぶ。あまり人に触られることがないためなんだか変な感じがする。怪訝な顔をしながら息継ぎの間に楽しい?と聞くと大きく切れ長の目をぱちくりと瞬かせ、次第に意地の悪い笑みを浮かべ始めた。
翌日、昨夜言っていた通り母親に会わせられないかという文を寂しがっているようだという旨と共に認める。あんな態度をとってしまったのだ、恐らくもう近寄っては来てくれないだろう。懐いてくれているというのも己の思い違いだったのかもしれない。あの言葉こそがあの子の考えだというのであれば母親から離された挙句、本当は違うのだが自分の父親が好いていた相手の元へと預けられたのだ。端から恨んでいたことだろう。だがここの先生だからと懐いてくれているように振る舞っていただけということもあり得る。今朝もなんだか以前よりよそよそしく感じたのだ。これからは子どもたちの輪の中だけで生活することだろう。今までが他の子より懐きすぎだったのだから、なんらおかしいことではない。少し寂しくなるが普通になるだけなのだ。そう、普通に生きてくれるのならばこれ以上なく幸せではないか。そう思い直して、今どこにいるかもわからぬ利吉に向けてではなく、その生家である氷ノ山にある山田家に向けて文を送った。これを見て利吉が母親を連れてきてくれるのであればそのまま話し合って元のところで生活した方が良いということになるかもしれないし、あの奥方が我が子とはいえ勝手に他人宛ての文を読むようなことはないだろうが万が一そうなったとしても山田家で引き取るという話が持ち上がるかもしれない。家族がいるのであれば家族のそばで過ごした方がよいのだ。彼なりに何か考えがあってのことであろうから利吉には悪いと思うが、やはり大人の思惑に子どもが振り回されるべきではないと考えてしまうのは己の甘さなのだろうか。
それからは利吉が子どもを連れてくるより以前の日常が戻ってきた。あの子が来てからというものどこに行くにも後ろをついてきていたため少し寂しい気持ちが芽生えるがあれが普通なのだと自身に言い聞かせる。雛鳥の巣立ちと同じ寂しさだ。やはりあの子はあれ以来一定の距離感を保っている。かといって特別避けられているとかではなく他の子たちと同じくらいには、他の子たちと一緒にいる時に限りだがいろいろ話しかけてきてくれるし手伝いも率先して申し出てくれる。だが以前と違うことは誰かと一緒に来るという点だ。以前であれば一人ででもよく話しかけに来てくれていた。誰かと一緒に来ていたとしてもかなり前のめりになっていて元気の良さは利吉譲りかと微笑ましく思っていたものだが最近では主張が控えめなのだ。とはいっても一番後ろにいるとかでもないのだが今までが最前列で飛びつきに来ているのかというほどの勢いだったためそれが無くなるとやはり寂しいのだ。だがその代わりとでもいうように視線は以前にも増して向けられるようになり、かと思えばそちらに顔を向けるとすぐに逸らされる。敵意があるようではないためどう接するべきなのか考えあぐねている。確かに以前と比べれば距離ができたが他の子と比べて特に距離があるというわけでもない。今のところは他の子たちと変わらないように接することを心掛けているが今までが随分と懐いてくれているように感じていた分自分でも気付かないうちに目をかけすぎていたようで気を抜けばすぐにあの子の名前を呼び掛けているのだ。こんなことはきり丸が巣立って行った時以来でそちらの寂しさも襲ってくる始末だ。定期的に顔を出してくれてはいるが六年も共に過ごしたのだからそれくらいで寂しさが紛れるものか。そういえば利吉があの子を預けて以降はまだ来たことがなかったなと思い出す。なんだかんだときり丸も利吉に懐いていたし利吉の子どもだと知れば驚くかもしれない。顔は利吉によく似ているためすぐにわかるだろうがどういう表情をするのか少し楽しみだ。
文を出してしばらく経ったころ、利吉が一人で孤児院へと訪れた。隣に女性がいないところを見るに、母親は連れてくることができなかったのだろう。それならば一度文くらい返してくれてもいいじゃないかと心の中で悪態をつく。だが寂しがっている自身の子どもを心配して父親だけでもと来てくれたのはやはり心優しい利吉のままだ。それが微笑ましくて頬が緩む。そのまま手を振り駆け寄ると利吉も笑顔を返してくれる。
「忙しいだろうに悪いね」
「いえ、むしろ土井先生のお手を煩わせてしまったようですみません」
「そんなことはないさ、あのくらいの年齢なら誰にでもあることだよ。あの子には君や御母上がいるからと甘えてしまって申し訳ないくらいだ。ところで、やはり難しいのかい?」
「そうですね、あれ以降一度も連絡を取っていませんしこれからも取ることはないでしょう。もしや聞いていませんでしたね?」
「え?あはは、悪い悪い。君の子だという衝撃の方が強くてうっかりしていたみたいだ」
「とにかく、あの子はあなたの手で育てて頂きたいのです。私の我が儘だとわかっています。ですが実際あの子はあなたによく懐いたでしょう?それで十分ではありませんか」
「だが私はあの子の母親にはなれない。それに何故あの子が私に懐いていると断言できるんだい?」
「あの子は私の子です、あなたに懐かないわけがありません」
己の手を取り、己より少し高いところにある目を下に向けて自信満々に言ってくれるが、確かに今まではそのような素振りを見せていたもののあの夜からは少しよそよそしいのだ。とにかく子どもに会わせようと名前を呼ぶ。利吉を見つけて慌てて駆け寄ってくる。そしたらなんと利吉にではなく己に抱き着いてくるではないか。すると目の前の男からピリリとした気配が飛んでくる。どうしたのだろう。己の腰に抱き着いてくる子を見ると利吉を睨みつけている。一体どうしたことか。実の子にこのような視線を向けられるなど利吉は悲しんでいるのでは……と利吉の様子を窺うと利吉も利吉で子どもに向ける顔ではない表情で対峙している。
「ちょっとちょっと二人ともなにしてるんだい!君は御父上を睨まない!利吉君も大人気ない気を出さない!」
こんなに声を出したのは何年ぶりだろう。は組のみんなも学年が上がるにつれて胃痛の頻度も減って大きな声を出すこともなくなっていたため少し声が裏返ってしまったし他の子たちの方を見ると驚いて目を丸くしている。とにかく別室に場所を移さなければ。適当な部屋に通して溜息をつく。どうしてこうなるのだろうか。ここは親子の感動の再会じゃないのか?未だ引っ付いて離れない利吉の子どもと今度は上半身に巻き付くその父親。本当に一体全体、なぜこうなるのか。話を聞こうにも二人の目から火花が飛んでおりまずはそれをやめさせるのが先決か。
「二人とも、本当にいい加減にしなさい。そろそろ怒るよ、はい仲直りして。本当にどうしたの?」
怒るという言葉に反応してしょんぼりした顔はよく似ている。やはり似た者親子で微笑ましくなる。この子はともかく何故利吉が自分の子にこんな顔をするのかさっぱりわからない。少なくとも己を挟んで喧嘩をしないでほしい。この子はもしかしたら父親に捨てられたと思い込んでいたのかもしれない。真相はわからないがまずは話を聞いて誤解があるなら早く解いてあげるのが二人のためだろう。
話を聞こうとしてもどちらも何でもないと言い張って平行線だった。もしかしたら己には聞かせられない親子間の問題なのかもしれないと思い席を外そうとするもそれはダメだと押し留められ間に座らされている。本当にどうしたものか。
「というかお前少し土井先生にべったりすぎじゃないか?ご迷惑をおかけするな」
「ですが先生は嫌がっていらっしゃいません」
「それは土井先生がお優しいからだ、遠慮というものを覚えろ」
べったりとは言うが私に懐くのは当たり前と言ったのは君だし父親から離された子どもが身近な大人にくっついてしまうのは当たり前だろうと頭を抱える。なんだかなあ、と独り言ちる。利吉はいい父親になるかと思っていたがまだ子どもっぽいところもあるみたいだ。父親になったことを知ったのも最近でそのままうちに預けてきたから父親として成長するということもなかったのかもしれないがもう少し父親の自覚というものを持って幸せな家庭を築くということを考えてもらわねば。しばらくはうちで預かるとしてもやはり山田先生たちにきちんと報告はするべきだろうしその話もできることなら今日来てくれたのならば今会えているうちにしておいた方がいいだろう。
「利吉君、君一体何しに来たんだい?喧嘩しに来たわけではないだろう?」
「土井先生に会いに来ました」
「自分の子どもの前でそういう冗談はよくないよ」
「冗談ではないので」
「なら余計にダメじゃないか、君はこの子のたった一人の父親だよ。それに、ずっと隠しておくわけにもいかないだろう」
そう言うと利吉は少したじろいで己の体に絡めていた腕を外し、居住まいを正す。座った時からは腕にしがみついていた利吉の子どもも促して利吉の前に座らせる。
「君はこの事をご両親に言う気はないのかい?出自がどうであれ君の子だ、山田先生も奥方もきっと喜ばれる。」
「もう少し、もう少しだけ待ってください」
「もう少しっていつまで?この子のことをちゃんと考えているのかい?さっきも言ったけれど君はこの子のたった一人の父親だぞ。せめて家庭を持ってそこで育てるとか……」
「わ、わかっています。ですからそれを待ってほしいと言っているのです」
「この子の母親と一緒になるのはそんなに大変なことなの?」
「それは……」
そう言うと気まずそうに子どもの方に視線を移し、再度こちらに向いたと思うと矢羽音で「この話は二人きりで」と話しかけてきた。軽く顎を引いて了承の意を示し子どもに少し大人の話があるから外で遊んでくるように促す。不安そうな表情をしていたが大丈夫、君の心配するようなことは何もないと笑いかけると小さく頷いて外で遊んでいる子たちに混ざっていった。それを暫く利吉とともに眺めていたがずっとこうしているわけにもいかないと障子を閉め、向かい合った。
「それで、母親の話だけれど」
「はい、実はあの子の母親は気が狂ってしまいまして」
「なんだって?」
「なんでも、あの子の面倒もあの城の他の女中たちで見てくれていたらしく、自分でつけた名前すら覚えておらずあの子に対してずっと私の名前を呼んでいたようです。その城の奥方が連れてきた女中だったようで哀れに思いあの子もまとめてその女中の面倒を見るようにと他の女中に頼んでくださっていたとか」
「そうか、それで君があの子を引き取ったというわけだね。その方は今どうなっているんだい?」
「今も城で面倒を見てもらっているようです」
「状況は分かった。だが先ほどもう少し待ってくれと言っていたがその状況ではなかなか結婚も難しいだろう。いつ正気に戻るかもわからないしあと少しあと少しと引き延ばしたところで戻る保証もない。ならいっそのことあの子の事だけでも連絡すべきじゃないかい?お二人は優しい方だし詮索もなさらないだろう」
すると利吉は押し黙り逡巡するような表情をした。やはり諦められないのだろうか。少し胸が痛む。自身のぐずぐずに腐った恋とも言えない汚い感情が悲鳴を上げる。そら見たことか、子どもに愛のなんたるかなどわかり得ないのだ。この気持ちは絶対に悟られてはいけない。そう自分に言い聞かせながら平常心を保つ。利吉は視線をさまよわせながら言葉を選ぶように口をぱくぱくさせている。兄らしく女中と夫婦になれるように手助けしてやると言うべきなのだろうか。それもいいかもしれない。そうすれば己のこの感情も殺せるかもしれない。そう思いながら口を開こうとしたら利吉も同じ頃合いに話し始めようとしていた。
「ごめんね、先どうぞ」
「いえ、こちらこそすみません。ではお言葉に甘えて……。土井先生、私と結婚してください」
「……は?なんて?」
「はい、ですから私と結婚してくださいと言ったのです」
「き、君は一体何を言って……まさか何か変なものでも食べたのかい?それともなにか盛られた?」
「食べてませんし盛られてませんし熱もありません持ち上げようとしないでください」
思ったより平常心を失っていたらしく今己は小さくもない利吉の脇を抱えて抱き上げようとしていたようだ。恥ずかしくなって慌てて元の位置に座り直す。だが今利吉は何と言った?結婚?あの子曰くあの子の母親と己はよく似ているらしいしあの子の母親代わりになって欲しいということか?それにしても男の己にそのようなことを頼むとは利吉もどこかおかしくなってしまったのだろうか。そんなにもその女中のことを愛していたのかと思うと胸がチクリと痛む。だがそれにしても話が飛躍しすぎだろう。本当になにがどうなったらそうなるというのか。まずは利吉を落ち着かせることにしよう。