無題「勝ち鬨をあげよ!ここはすでに、我らが領地なり!」
びりびりと、大地を揺らす声が響く。物陰に隠れていたリツカも、その声が聞こえていた。
───ああ、我が国は負けたのだ。
「はい、おつりね。いつもお使い大変じゃない?」
「いえ、大丈夫です」
はは、と愛想笑いで返し、紙袋とお釣りを貰う。
今の私は、家政婦だ。
「それにしても聞いた?昨日の夜、ここら辺でスパイが見つかったんですって。確か前に勝った……どこだったかしら?」
「さあ、私も忘れてしまいました」
本当は、一言一句覚えている。
私の、なき祖国。表向きに見れば、歴史の中に埋もれる敗戦国。
私はそこの、王女だった。
「ただいま帰りました、奥方様」
「いつもありがとうね。今日は……ポトフかしら?」
主人の奥方が紙袋の中を覗く。
「当たりです、奥方様」
満面の笑みになる奥方様に礼をし、台所へ向かう。ポトフは時間がかかるから、日の落ちていない今からでも始めなくてはいけない。煮込み度合いが大事なのだ。
「なあリツ、構えよ!」
子供が一人、背中に突進してきた。
今度は主人の子供だ。
「御子息様、台所に入ってはいけないとあれほど……」
「だってリツ、構ってくれないじゃん!」
リツ、というのは私の偽名だ。本当の名はリツカなのだが、そちらの名は知れ渡っている可能性がある。先日のスパイの二の舞にはなりたくない。
「後でたくさん遊びましょう?今はお食事を作っているんです」
「……約束だからな!」
少しごねるものの、聞き分けの良い子で助かった。安心して、煮込んだポトフに意識を戻す。
「……」
私は、きちんと話せているだろうか。庶民に相応しくない所作をしてはいないだろうか。うまく、取り繕えているだろうか。
不安が胸に渦巻く。頭を振るい、その考えを一掃する。
(私は王女。こんなところで、挫けてちゃダメだ……!)
その心を忘れず、今はポトフ作りに集中した。
「……んん……リツ……」
御子息の頭を撫で、寝入ったのを確認する。
「……」
屋敷内を丁寧に確認し、そっと抜け出す。
もちろん顔を隠すフードを忘れない。
「はっ……はっ……」
草原を、駆け抜ける。夜にだけ許された、私の自由。草を掻き分け、大地を踏み締め。
この国と祖国の境界に向かう。
ふと、風の流れが変わる。
「……やっぱり、いつ見ても綺麗……」
境界には、伝説の湖がある。綺麗な湖だ。伝説によればここに落ちると、幸せになるらしい。信じてはいないが、いつかお世話になるかもしれない。
「……」
祖国の方面を向く。
草木は枯れ、見るに耐えない大地が広がっている。あそこには、たくさんの人がいたはずなのに。
「ううっ……」
息が苦しい。生理的な涙が、地面を濡らす。
争いなんて、殺し合いなんて。
「───大丈夫か?」
「……っ!」
声を聞き取り、すかさず飛び退く。
「ああいや、怖がらせるつもりはなかったんだ」
「……あなたは?」
冒険者のような格好に白いマントを身につけ、白銀の剣を携えている。帝国騎士か、と思いフードを深く被る。
「あっと……シャ、シートンだ!」
「リツです」
つい礼がお淑やかになってしまったがまあいいだろう。するとシートンは笑顔になった。
「リツ、か。いい名前だ」
「ありがとう。シートンも、いい名前だよ」
リツは偽名なのだが、自分の名前の一部から取った。自分の名前を褒められているような気がして嬉しかった。
「リツは、いつもここにいるのか?」
「たまにね。シートンは?」
「俺も」
ふふ、と二人で笑い合う。なんだか初めて会った気がしなくて、話しやすい。