心まで、雨に濡れて。 打ち付けるような雨が縁側を濡らす。刀工の皆は繁盛期でもないからと作業を一時中断した。今は別の書類作業をしているらしい。他ならぬ僕も、今は割り当てられた部屋で待機している。
特にやることもないので畳の目の数を数えていると、誰かが障子を開いた。
「傾奇者、少し頼みが……何してるのでござるか?」
「た、畳の目を数えていました……」
開けた主は、丹羽だった。寝転んでいたのでいそいそと正座をする。恥ずかしい。丹羽はそんな僕に目線を合わせるように立ち膝をついた。
「こんな雨の中其方に頼むことは憚られるのだが……この箱を、今から言うところに届けてくれはせぬか? 丹羽からだ、と言えばすぐに分かると思うでござるが……」
「はい、分かりました」
こんな雨の中、人間が行動するのはよくない。ならば僕のような人ではない者が適任だろう。彼から場所を聞き、箱を受け取る。助かった、という安堵の顔は見ていて嫌なものではない。
「では、行ってまいります」
「本当にすまない。頼んだでござるよ」
近くに居た刀工の一人から笠を借り、被って外に出る。頭に何度も質量が落ちてくるので少し鬱陶しく感じた。早く用件を済ませて帰ろう。
頼まれた場所は少し栄えている村の近くだった。届け先の主人に『大丈夫だったのかこんな雨の中? もし良かったら止むまでお茶でもして行けば……』と言われたが早急に断った。見知らぬ人の家に上がるなと丹羽と桂木に釘を刺されていたから。
帰路を辿る。雨の音だけが聞こえて、自分だけが世界から切り離されているような感覚までする。無意識に足を早め、早く着かないかと焦る。
「……っぐ……」
ふと、前方の木から声が聞こえる。女性の声だ。とても苦しそうに息を吸うような。
駆け寄ってみると、木の根元に女性が寝ていた。とても綺麗な女性だった。さらりとした金髪に、異国を思わせる衣服。髪留めの花には、水が滴っていた。
「───あの……大丈夫ですか?」
「……っあ……?」
僕の存在に気づいて、ぱちりと目を開く。空に浮かぶ眩しい日を思わせるような瞳が、こちらを見た。彼女は目を見開いたあと、声を震わせて聞いた。
「貴方は……?」
「ぼ、僕は……名乗る名前など無いのですが……傾奇者、とでもお呼びください」
彼女が目線を落とす。何か気分を害してしまっただろうか。膝をついて、彼女と同じ目線に立つ。
「ぬ、濡れちゃうよ……?」
「構いません。……貴女のお名前は?」
どうしてか分からないけど、僕は彼女に大変興味を持った。彼女のことをもっと知りたい。彼女の瞳の底にある慈愛と、それが向けられる対象が知りたい。
「……蛍だよ。こんにちは、傾奇者」
「……はい!」
彼女に名前を呼ばれると、とても嬉しい気持ちになる。なぜか聞き慣れているような、けれど新鮮さのある彼女の声。とても心地よくて、たくさん呼ばれたいと思った。
「とりあえず、どこか雨の当たらないところに……そうだ、僕の生活している場所に行きませんか? そう遠くないですよ」
「あー……じゃあ、お願いしてもいいかな」
眉毛を下げて微笑む蛍。とても綺麗で、早くたたら砂のみんなに紹介したかった。綺麗な人に出会ったのだと。困っていたので見捨てられなかった、といえば丹羽たちもきっと分かってくれるだろう。
「じゃあ……この笠、かぶってください。麻の質素なものですが……それでもある程度雨を防げます」
「ありがとう。でも、あなたが濡れちゃう」
水を滴らせ、雨に当たりながら立ち上がる蛍。自分の無力さに嘆く。彼女はとても凛々しくて雨の中でも自分で立ち上がるほど強いのに、僕はこの場で立ち続けることもままならない。
いつ停止するか分からない身体。人間とは違う身体。とても興味が湧く。
「連れて行きますね。はぐれないように、手繋いでください」
「ふふ、ありがとう」
伸ばした手を取られる。知識としてしかないが、エスコートしているような気分だ。彼女を連れて行ったら、丹羽たちはどんな反応をするだろうか。驚くだろうか。それとも、僕の時のように歓迎してくれるだろうか。やっぱり人間の感性は面白い。彼女の手を引いて、僕は帰路を辿るのだった。
ーーーー
「放浪者が、目を覚まさない……?」
「そうなの。一昨日から今まで、ずっとよ」
ナヒーダの言葉で、改めてベッドの上で目を閉じている彼を見る。寝ている彼も相変わらず綺麗で、彫刻のような美しさだった。まつ毛は長くて、顔に不要な凹凸もない。呼吸もせず死んだように眠る彼に、申し訳ないがもっと見ていたいと思った。
そんな彼のそばにより、ベッドの縁に座る。彼の顔にかかった髪を払うが、反応はない。寂しい、と思ってしまう。
「大丈夫なの?」
「そうね。今のところは特に変化は無いけれど、この状況が続くのは良くないわ。彼がそのまま夢の中に閉ざされているのならば、時間が経つほどに解放することも難しくなるでしょう」
彼の手を握る。このまま彼が目覚めなかったらどうしよう。彼のひねくれた、けれど優しい声色はもう聞けないのだろうか。そんなのは嫌だ。だってまだ、想いさえも伝えていないのに。
「どうやったら起きるの?」
「そのことだけれど……わたくしに一つ、案があるわ。貴女を彼の夢の中に送り込むの」
それは、以前彼の記憶を取り戻した時に似ていた。彼女の持つ夢境を操る力を使うもの。そして他人の夢に介入し、内部からの彼の精神に直接揺らぎを与える方法。
「本当は彼のプライバシーもあるし何かあっても困るから、夢の中に介入することはしたくないのだけれど。でも、私ではなく貴女なら、きっと彼も許してくれるわ」
夢というのはそれを見る主の箱庭のようなものだ。やっぱり、その主とある程度の関係を持っていないと入ることさえ許されない。放浪者にとって私は、入れるに値する人間か、少しだけ不安がよぎる。しかしその考えは、頭を振るって追いやった。弱気になっていては、逆に夢に飲み込まれてしまう。
「……うん。じゃあ、行く」
「そう、分かったわ。……では、彼の夢境に貴女の意識を送り込むわね。さぁ、目を閉じて」
彼女の言葉を素直に聞いて、私は瞼を下ろした。
ーーーー
「丹羽さん、桂木! ただいま戻りました!」
私の手を引く彼が、大きい声で家屋に挨拶をする。その彼の様子は、やっぱり普段の彼とは似ても似つかなかった。
夢に入って、私はすぐに体調が悪くなってしまった。そうして雨の中木陰で休んでいたところに、彼が来た。
「おお。おかえり、傾奇者殿……その女人は?」
傾奇者、と呼ばれた彼。私が初めて出会った時のファデュイとしての散兵、スカラマシュよりも前の彼。そして彼を呼んだのは、彼の言っていた二度目の裏切りの原因。楓原万葉の先祖であり、確か名前は丹羽。
「蛍です。木の下で雨宿りをしていたので。止むまでここにいてもらいたいな、と……だめ、でしたかね?」
「はは、構わんでござるよ。拙者の名は丹羽。蛍殿、雨が上がるまでゆっくりしていくといいでござる」
「ありがとうございます」
いつ聞いても“ござる”と聞くと万葉を思い出す。代々受け継がれていったものなのかな、と思わず頬が緩む。