洞穴にて「うー、寒い寒い!」
身体のあっちこっちに白いものをつけた雅婷が、転がるようにして洞穴に駆け込んできた。腕に抱えた焚き木を横に置いて、かじかむ手を赤々と燃える火にかざした。
ひとり火の番をしていた黑無常が呆れたように言う。
「たかが寒いくらいで大げさだな、お前は」
「だって寒すぎるよー! なんなの? この雪! そもそも雪ってこんなに降るもんなの?」
寒さに凍える身体を震わせて、雅婷がぎゃんぎゃんと喚く。雅婷の育った地域は比較的温暖で、雪も年に数度降るか降らないか、もし降ったとしても地面を薄っすらと白く染める程度で、こんな風に辺り一面真綿を被ったような景色など、生まれてこのかた一度も見たことがなかった。
「この辺りは冬になれば大体こんなもんだ。だが、ここよりもっと寒いところもあるぞ。行ってみるか?」
揶揄を含んだ言葉に、意地悪! と雅婷がしかめっ面を返す。黑無常は、はは、と笑って、手元にある木の枝を一本、新たに火に放り込んだ。
パチッと弾けるような音を立てて、炎が勢いを取り戻す。しばし無言で火に当たって、ようやく身体の強張りが解けた雅婷の口から、はあ、と深い息が出た。
「あったかい……火って良いね」
暗い洞穴を照らすように揺らめく炎を見つめて微笑む。
「幽都に居る時は特に気にしたこともなかったけど、死んでも寒いものは寒いんだね。びっくりしちゃった」
「そりゃそうだろう。別に肉体が無くなったわけじゃあるまいし」
何言ってんだ? と言わんばかりの黑無常に、そうじゃなくて、と雅婷が口を尖らせる。
「死んでも痛いものは痛いし、寒いものは寒いんだなあって。何となく、死んだらそういうのは全部平気になるのかなって思ってたから」
「五感は生きるための警鐘みたいなもんだからな。無くせば無理は効くだろうが、そのぶん動けなくなっちまうのも早いだろうさ」
「……そっか、そうだね」
そのまま口を閉じ俯く雅婷をちらりと見て、黑無常が目を眇める。
「お前、また碌でもないこと考えてるだろ」
「えっ」
顔を上げてぎこちなく笑う雅婷から呆れたように視線を手元に戻して、弄んでいた枝をぱきりと二つに折る。
「やめとけやめとけ。つまんねぇこと考えたって無駄に腹が減るだけだ」
火に枝をくべるように、ぽんと投げられた言葉を受けて雅婷が苦笑する。
「そうだね、確かにお腹は空いてきたかも。白哥、遅いね?」
「さっきから酷く吹雪いてるからな。こんな天気じゃ、兎の一羽でも獲れりゃ上出来だろ」
事も無げに話す黑無常に、えー! と雅婷が抗議の声を上げる。
「三人で一羽じゃ足りないよー! 今からでも加勢しに行こうかな」
「寒いぞ?」
「う、でも……う、うーん?」
立ち上がりかけては座り直し、外を見てはひとりで百面相を繰り返す様子に、黑無常が思わず吹き出す。そして「しょうがねえな」と呟くと雅婷を招き寄せ、自分の着物の中から取り出した小さな何かを、「ほれ」と雅婷の手のひらに握らせた。
雅婷が、ぱっと瞳を輝かせる。
「干し杏! いいの?」
「駄目だっつったら返してくれんのか?」
「えっ? やだやだ、食べるよ、食べる。いただきます!」
慌てながらも大事に食べるべく、乾いた果実の端に歯を当てる。かじり取った欠片は僅かながらも、噛むごとに甘酸っぱい滋味を口中に広げていった。
雅婷の顔に弾けるような笑みが浮かぶ。
「……おいっしー!」
「そりゃ良かった」
同じように干し杏を口にしながら黑無常が言う。隣り合って干し杏をちびちびと咀嚼している間に、外の吹雪は少しずつ治まりつつあった。
最後の欠片を名残惜しそうに飲み込んで、雅婷がうっとりと幸福な息を吐く。
「はー、美味しかったあ。ありがとね大哥、あたし干し杏大好きなんだ」
「ぐずるガキを黙らせるにゃ菓子が一番だからな」
「むう」
一瞬きゅっと尖った口が、再び笑いの形に大きく広がる。
「そう言う大哥だって、こっそりお菓子持ってたんじゃん。人のこと言えないよ」
「バーカ。これは兵糧。非常食」
「そうなの? あ、ひょっとして嵐白が干し果物いっぱい作ってるのって、そのため?」
「ありゃただの茶請け。干し果物は単に軽くて日持ちするから持ち歩いてるだけだ」
「へえ。……って言うか、妖精もお腹空いてひもじい思いをするんだね」
「そりゃな。まあ仙人になっちまえば最悪霞食ってでも生きられるらしいが」
「んー、でもそれって何かつまんないね。あたしはやっぱりお腹が空いてご飯を美味しく食べられるのがいいな」
「それは同感」
ふふ、と顔を見合わせて笑う。話が尽きて訪れた穏やかな沈黙に、ぱちぱちと燃える焚き火の音が寄り添う。
膝を抱えて炎を見つめていた雅婷が、ぽつりと口を開く。
「……言っても?」
「好きにしろ。ただし湿っぽいのはごめんだ」
手に持った枝で焚き木を突きながら黑無常が淡々と言う。
「そういうとこ、やっぱり大哥だなあ」
ひとつ苦笑を漏らしてから炎に目を戻し、雅婷が独り言のように呟く。
「——何かね? すごく馬鹿らしくなっちゃって。結局、同じなんだなって。生きてても、死んでも」
そこで一旦口を閉ざし、ちらと横を見る。黑無常は何も言わない。止められなかったことにやや安堵しながら、雅婷は言葉を継いだ。
「生きてる時ってさ、生きてる間のことしか知らないわけじゃん? 痛いのも寒いのも、ひもじいのも当たり前で、そんなもんだし、しょうがないって思うわけじゃん。だから死ってものに変な幻想があってさ? 時々、そこに逃げ込んじゃいたいって思うことがあった。どんなに苦しくても、痛くても、自分から死のうだなんて、これっぽっちも思いやしなかったけど、それでも今より全然ましかもって、つい考えちゃう瞬間は確かにあった。——あったんだ」
鋭く高い音を立てて小枝が爆ぜる。揺らめく先端から火の粉が一筋、ふわりと舞い上がった。
「だからさ、死んでみて初めて、なぁんだって思った。死霊になったって聞いて、最初はあたしの全てが変わったような気がしたけど、怪我したら普通に痛いし、雪に触ると冷たいし、動けばやっぱりお腹は空くしで、実際、生きてる時と何も変わらなかった。死んでからこっち、確かに強くはなったけど、身体も心も、やっぱりあたしはあたしのままだなって思ったら、気が抜けて馬鹿馬鹿しくなっちゃって——で、スッキリした」
思いがけぬ言葉が出たためだろう、黑無常が訝しげな目を向ける。それに応えるように雅婷は殊更にっこりと笑った。
「嫌だったんだ。生きてる間中、死ねば楽になるかもって気持ちが、ずっと影みたいに纏わりついてて。さっきも言ったけど、自分じゃ死にたいだなんてこれっぽっちも思っていないのに、ふとした瞬間にすごく良いものに思えてしまうこと。それ自体を、救いのように求めてしまうこと。——でも死んで、生き返って、実はそうでもなかったって知って少しガッカリしたけど、同時にすごく楽にもなった。死んで人でないものになったって、やっぱりあたしはあたしのままで、痛いものは痛いし、苦しい時ははどうしたって苦しい。だけどこうして火に当たれば温かいし、何か食べればちゃんと美味しい。生きてた頃はあんなにも切り捨てたかった感覚を、今は無くさなくて良かったって思える、そう思えるようになったってことが、あたしにはすごく嬉しいんだ。……分かる?」
黒曜石のような瞳に炎が照り映えている。黑無常はそれを一瞥すると、分からんな、と無碍に呟いた。
困ったように、だよねえ、と苦笑する雅婷の耳に、ただ、と黑無常の声が届く。
「俺は死んだことが無いから死んだ後のことなど知らんし、別に知りたいとも思わんが、魂魄の行き先については、以前明王から聞いたことがある。死んで散った魂は全に還り、いずれ何らかの形で再びこの世に生み出されると。だが生前、強い悔恨を抱いて死んだ者は、思いに縛られて全の輪に還ることができず、長い間苦しみ続けるのだと。……俺は他人の生死になど興味が無いし、それが人間のように短命で取るに足らない存在ならば尚更だ。どれほど眼の前でもがき苦しまれようが、脚の千切れた蟻を眺める程度の気持ちしか起こらん。事実、森に捨て置かれたお前の死骸を見た時だって、俺は特に何も思わなかった。——当時は、な」
雅婷が驚くように顔を上げ、大きな目を更に見開いて黑無常を見る。
「俺は、誰が死のうが生きようが知ったこっちゃない。いまこの瞬間、この世のほとんどが死に絶えようが、俺は心を揺らすことすらしないだろう。だが、幽都の奴らは別だ。あいつらのためなら俺は何だってするし、仮にその魂を汚すような真似をした奴は、どこまでだって追い詰めて殺してやる。俺にとって命の価値は端から歪で不平等で、大事なものなど、それこそ両手で数え切れるくらいだが、少ないからこそ何をおいても守りたいし、失いたくない。この世の全てが怨嗟に染まろうが滅びようが、幽都さえ——俺の大事な奴らが幸福で平穏でありさえすれば、俺はそれでいい。それでいいんだ」
最後に、お前もな、と小さく付け足して黑無常が顔を背ける。その後頭部をまじまじと凝視しながら、雅婷は軽く腰を浮かせた。
「——え、大哥、もしかして今……照れてる?」
肩に触れようと伸ばされた手をべちんと払って、黑無常が吠える。
「うるっせえ、柄にもなく喋りすぎたと思ってるだけだ! ——ああ畜生、その顔やめろ!」
「ええ? だって大哥からそんな風に言われたの初めてなんだもん。大事? あたしのことも大事って言ってくれた? うわ、嬉しい! ねねねね、もう一回言って?」
「言うか馬鹿!」
「良いじゃん別に減るもんじゃなし!」
「やかましい離れろあっち行け!」
「——なんだなんだ、喧嘩か?」
二人の声がけたたましく響く洞穴の入口に、ひょいと白無常が姿を現す。
「白哥!」
黑無常に詰め寄っていた雅婷が満面の笑顔で振り向く。
「おかえりなさい! どうだった? 獲物いた?」
白無常は微笑むと、肩に担いでいた獣をどさりと洞の入口に置いた。優美に枝分かれした角も見事な一匹の雄鹿だった。
「やったあ! これならお腹いっぱい食べられる!」
手を叩いてはしゃぐ雅婷の横を、黑無常が通り過ぎる。そのまま雄鹿の角を無造作に掴むと、
「捌いてくる」
と俯き加減に呟いて、足早に洞穴を出ていった。
「老黑? ——どうしたんだ? あいつ」
雪景色に遠ざかってゆく背を見ながら、白無常が首を捻る。雅婷は白無常の傍に駆け寄ると、冷たく冷えた手を取り、奥の焚き火に向かって促した。
「お疲れ様。寒かったでしょ?」
「ああ。……なんだ、人が凍えてる間に、お前らときたら随分とここで温まっていたみたいだな?」
「え?」
「のぼせてるぞ。さっきから顔が真っ赤だ。老黑も、お前も」
「へ? え? そうかな? そうかも? ——とにかく! 白哥も早くこっち来て温まりなよ!」
後ろに回ってぐいと背中を押した時、雅婷の腹が聴き逃がせない高さでくぅっと鳴った。
一瞬きょとんとした白無常が軽く吹き出す。更に顔を赤らめた雅婷が照れたように今日一番の笑顔で笑いかけた。
「——あー、お腹空いた! ねえ白哥、お腹が空くのって、生きてるって気がして嬉しいね?」
静けさを取り戻した銀世界に眩しい陽光が差す。降り積もった雪が、どこかでどさりと落ちる音がした。