夜来花 深夜の窓枠に、季節の花の枝がある。それを手に取って、雅婷はぱっと顔を輝かせた。
寝巻きから普段着に着替え、髪を手で撫でつける程度に慌ただしく身なりを整えて、自室の扉を出る。向かうのは幽都の外れ、満ち欠けする月がよく見える崖の突端だ。
明王の霊域でもある幽都の中にも季節がある。人の世と同じく巡る季節は、今は初冬を過ぎ、徐々に寒さが厳しくなるといった頃合いだ。草木も眠る夜半、駆け急ぐ口許から漏れる吐息は、端から薄く白く色づいてゆく。燈會から放たれる橙色の灯りに浮き上がるそれを見ながら、もう少し厚着をしてくれば良かったかとちらりと思ったが、その僅かな時間を犠牲にしてでも早く会いたい。その一心で夜の森を駆けてゆく。
星の光を遮る木々の隧道が切れ、視界が開ける。空に向かって突き出た崖の先端に座る、緩く胡座をかいた後ろ姿が、月の光に淡く照らし出されていた。
「大哥!」
振り向いた顔が、柔らかな笑みを形作る。
「来たか」
その横にすとんと腰を下ろして、雅婷はへへ、と笑った。
「なんだ、上機嫌だな」
「だって久しぶりなんだもん。今回は随分長いこと居なかったけど、そんなに難しい任務だったの?」
「そうでもない。まあ、諸国を巡っていたからな。おかげで面白いものが沢山見られた」
「いいなあ。じゃあ、今日はその話をしてくれる?」
「そうだな。だが、その前に」
そう言って、傍らにあった瓶を持ち上げる。
「南方の酒だ。飲み口は甘いが強いから、あまり飲みすぎるなよ。で、そっちは?」
「へへー、ちゃんと心得てますって」
笑って、懐から布に包まれた西瓜子(西瓜の種)を取り出す。ここに来る前、抜かり無く厨房に忍び込んで失敬してきたのだ。
「上等」
広げた布の上から瓜子を抓み取り、慣れた様子で歯で種を割る。かり、というささやかな音が夜のしじまに響いた。雅婷も同じように瓜子のさねを食べ、手渡された酒を瓶から直接ひとくち飲んだ。
ぷはっと熱い吐息が漏れる。
「ほんとだ、強い。でも、すごく美味しい」
「だろう?」
雅婷の手から瓶を受け取って、彼女の兄貴分——黒無常も喉を上下させる。黒無常は酒が強い。どんなに強い酒でも、雅婷は彼が酔ったところを見たことがなかった。
黒無常から旅の話を聞き、都度回し飲みをしているうちにほんのり熱くなってきた頬に心地よさを覚えながら尋ねる。
「ねえ、妖精ってみんな酒が強いの?」
「そうでもない。老白は下戸だしな。最初に飲んだ時、すぐにぶっ倒れて大変だった」
「あはは、白哥は甘党だもんね」
「その代わり、茶の知識は俺なんかより遥かに詳しいがな。俺が酒道楽なら、あいつは茶道楽だ」
「白哥もたまに珍しいお茶をくれるよ。おかげでいつも美味しい思いをさせてもらってます」
「なんだ、こういう時だけ殊勝ぶりやがって」
ふざけて小突こうとしてきた腕を笑って躱す。と、酔いが回ったのか、ふらりと体勢を崩した。
後ろに倒れ込む直前、黒無常が上体を乗り出して雅婷の背を抱き留める。思いがけず近くに迫った瞳が、真っ直ぐに見返す目を射抜いていた。
一瞬。いや、僅かに半瞬。互いの時が止まった。
「大——」
唇が動くや、ぱっと手を離される。そのまま真後ろから地面に倒れ込んだ。
「いったぁ!」
したたか背中をぶつけて呻く上から、「飲み過ぎだ、莫迦娘」と声が降ってくる。
「そんなことないもーん」
地面に伸びたまま口答えをする。冷たくて気持ちがいい。
「呂律が回ってないんだよ。もう今日はここまでだな」
「えー! まだ旅の話全部聞いてない!」
「つってもお前、このままだと寝るだろ」
「寝ないよー。もっと大哥の話聞きたいよ。私、大哥の話、好きなんだ。——ね、いいでしょ?」
しおらしく哀願すると、はあ、と吐息が聞こえた。
「……この酒を飲みきるまでだぞ」
「やったー」
ごろん、と横向きに寝転がり、頭の下に腕を入れて胎児のように膝を折り曲げる。
「お前なあ、それ完全に寝る姿勢だろ」
「こうやって聞くのが嬉しいの」
子どものように無邪気に振る舞う雅婷を見て、ふ、と黒無常が笑う。そうして手に持った酒を呷ると、途切れていた旅の話を穏やかな口調で語り始めた。
ちらちらとした光を感じて瞼を開く。白い天井と赤い梁が目に入って、雅婷はいま自分が自室の臥牀に寝かされているのを知った。
「あー……寝ちゃった」
寝乱れた髪に手をやりながら身を起こす。昨夜の酒がまだ残っているのか、頭がぼんやりと霞がかっているような気がする。
喉の乾きを覚えて枕元の卓に目をやると、玻璃でできた水差しの傍に、楚々とした花の枝が横たわっているのが見えた。
腕を伸ばして、そっと手に取る。早咲きの蝋梅は、時期にならずとも充分に甘い香気を漂わせていた。
その芳しい香りに、雅婷の頬がふわりと綻ぶ。
夜話の合図を花にして欲しい、と頼んだのは雅婷だ。当初は柄じゃないと言っていた黒無常も、今では当たり前のように窓辺に置いていく。
きっと黒無常は、どうして花なんだろうと思っていることだろう。
気がつかないでくれていい、と雅婷は思う。
目が覚めて、枕元にある花を見るたび、自分でも掴みどころのない甘い思いが湧き上がる。
昨夜のことは夢ではない、と改めて思える、雅婷にはそれが嬉しかった。
穏やかで楽しい時間が確かにそこにあったのだと、花が教えてくれる。
それは密やかな幸福の証だった。
こんなことを言ったら、きっと大哥は呆れて笑うだろうけれど。
ひとり苦笑し、それから目を閉じて、大きく息を吸い込む。
花の香りが胸の甘さと溶け合って、染みるように身体全体に広がっていくような気がした。