こころの一時避難所 AM2:00。
スマホの画面が示す時間を見て、大和タケルはため息をついた。
部屋は明かりが点けっぱなしでいやに眩しい。寝転がったまま、殺風景な部屋を眺める。荷物が入ったままのダンボールがそこかしこに積まれているのを見てげんなりする。
あんまり疲れていたので、ベッドに潜って数分眠るだけのつもりだったのに。空っぽの胃がぐうっと鳴る。
初めての一人暮らし。社会人初日。まだ顔も名前も一致しない社員たち。
「はぁあ……」
怒涛の一日を思い出して、もう一度ため息をつく。
学生時代、タケルはただの一度もバイト経験がなく、初めての仕事は初めてだらけで大変気疲れしてしまった。これから毎日、『働く』を繰り返さなければならないのか。
嫌なことだらけではなかったが、ぼんやりとした不安が胸をいっぱいにする。
――これから自分はどんな人生を送るのだろう。
ぐううぅうぅ。
腹までもがため息をついている。
そうだ。帰宅してからまだなにも食べていない。食べることが好きなタケルが食べることを忘れるほどの一日だったのだ。特に米が好きだ。口腔内に涎が滲む。
――食らいたい。
――今すぐ、米をかっ食らいたい。
今から米を炊くには遅すぎる。冷蔵庫にはあいにく何もない。しかし近辺には24時間営業のあれがあった。
タケルはのろのろと起き上がり、家を出る支度を始めた。
春の匂いがする深夜の外。近頃数を増やした虫が一匹、タケルの顔に体当たりしてきた。少しイラッとしたが、オアシスはすぐそこだ。
煌々と白い灯りを放つ白い壁の建物がぽつんと建っている。
24時間365日営業している嘘みたいな店――コンビニである。
自動ドアが開く。店内のレジには若い男の店員がひとりだけおり、退屈そうにあくびをしている。
静かだ。
気まずいので目を合わせないようにレジ前を通り過ぎると、小さな声で「いらっしゃいませ」と聞こえた。
おにぎりの商品棚前に立ったタケルは、我が目を疑った。
ないのである。
おにぎりが、ひとつもない。
「売り……切れ……」
期待していたのでショックが大きかった。思わずレジ前に佇む店員の方を向くと、目が合った。
店員の瞳は深い翡翠色で、重たげな前髪が影を落としている。顔立ちは美しいが、一文字に結ばれた唇が無愛想だ。深夜の店員に相応しい、なんとも陰気な印象。
「なあ、私のおにぎりは……? 何処に……?」
「何を言っているんですかお客様」
店員の唇がゆるやかに言葉を紡ぐ。
「23時を過ぎればおにぎりはほぼ絶滅します。ただの需要です」
「…………」
一拍の、間。
何を言っているんだ、この男は。
男はそれ以上何も言わず、ハタキを取り出してレジ周辺をはたき始めた。
今のはなんだ。
おにぎりがないことの謝罪でもなく。
――揶揄われた?
先ほどのことなど無かったかのように、店内は再び静まり返る。
不思議と怒りは湧かない。なんならちょっと、人間らしい会話が出来て嬉しかった。今日は職場しか行ってないし、ひたすら「はい」と返事をするだけだったから。
いや、今のを会話と称してよいものか。まあよい。よいのだ。それほど今日のタケルは会話に飢えていた。
商品棚に意識を戻す。おにぎりはおろか、丼ものまで消えている。米には需要があるのだ。この辺りにはタケルのような一人で暮らす人間が多いのかもしれない。
というかサンドイッチもない。サラダしかない。野菜も食べろよ、と思いながらタケルはそれを手にせずパンのコーナーに行く。
パンはかろうじて残っていた。
ホットドッグ一個だけ。
がさりと音を立ててパンの袋を掴む。ふにゃふにゃのパンにケチャップとマスタードのかかった細いソーセージが挟まっている。
これだけじゃ腹は満たされない。レジ横を見る。揚げ物の商品棚は空っぽ。
なんだか急にやる気がなくなって、ホットドッグの袋を持ったままレジへ行く。店員は待ってましたとばかりにハタキを置き、「お預かりします」と言って袋を受け取る。
彼の胸元にある名札には「宮本」とある。
機械でバーコードを読み取った宮本は「ホットドッグ、あたためますか」と訊ねてくる。
その問いに――
どうしてそうしたのかは、解らない。しかしこのまま店を出るのは惜しいと思った。
タケルはレジカウンターにどっしりと頬杖をついた。
「なあ、ミヤモト」
彼は目を丸くして「なんでしょう」と言った。
不審がられるかと思ったが、違った。
次の言葉を期待するような、キラキラした目をしている。
気分が高揚していくのを肌で感じる。
「食べたかったおにぎりは全て売り切れていた。……私の心をあたためることは出来るだろうか」
宮本は、ふっと笑った。
「何を言っているんですかお客様。人間を電子レンジに入れたら死にますよ」
学生が休み時間にする、じゃれ合うような、悪ふざけのような会話。
「……ふふ」
「……ふふふ」
押し殺した笑い声がさざめき、店内へ広がっていく。
深夜のコンビニ店員と草臥れた新入社員の心が繋がった瞬間だった。
外に出る直前、タケルは振り返った。宮本が小首を傾げる。
「また、来てもよいか?」
「何を言っているんですかお客様。コンビニは公共の場。店員の許可など不要です」
「それは、そうなのだが」
――きみに会いに来ても良いか?
とは流石に恥ずかしくて言えず、口籠る。だって変だ。不審者だ。単なるコンビニ店員にまた会いたいだなんて。
そんなタケルの心情を察しているのかいないのか、宮本が云った。
「俺は明日もこの時間帯がシフトですよ。来たければ来たらいいんじゃないですか」
生意気な店員は店の奥へと姿を消した。
外はまだ夜のまま。それでも、タケルの心に灯ったものが確かにあった。
一時避難所のような場所を振り返り、ふっと笑い、タケルはもときた道を歩き出した。
宮本の下の名を聞けばよかった。
そう思いながら。