全部風邪のせいだ「うう〜〜頭がくらくらする」
馴染みのない痛みが頭に響いてガンガンする。収まらない体の熱さで考えが纏まらず、視界がぼやける。不快だとセイバーが思わず眉を寄せていると冷静な声が上から降ってきた。
「薬は飲んだ、なら後は直に良くなる筈だ」
「……ううっ、どうしてこんな目に」
こんな状態は嫌だと嘆くと、粥を食べ終えて空になった食器を片付けながら「自業自得だな」と伊織の目が語っていた。
「川で遊んだ後はすぐに体を乾かすようにと云っただろう」
「あれだけ暑かったのだ、放っておけばすぐに乾くと思うだろうが!」
「そうやって面倒臭がってさぼった結果がこれだ。少しは反省しろ」
「むー、そこまで云うのならきみが乾かしてくれれば良かったではないか」
「そうやって何でもかんでも俺にやらせようとするな。子供じゃないんだ、自分の事は自分でやれ」
伊織の発言は最もなので言い返せない。やらなくてはいけないのは解っている、でもやる気が起きなかった。面倒に感じていたのも事実だが、それ以外にも由がある。
伊織に髪を乾かしてもらうのは気持ちがいい。
一度、前にやってもらってから気に入っていて事あるごとに強請るようになっていた。
ドライヤーを片手に目を輝かせるセイバーに面倒だとあからさまに嫌がる素振りを見せても何度か頼めば折れてくれて、仕方ないと受け入れていたのにあの日は何故かやってくれなかった。駄目だと頭を縦に振らない伊織にじゃあいいと拗ねて濡れた体をぞんざいに拭いてから寝床に入った。そして、そのまま体を冷やしてしまい風邪を引いてしまったという訳だ。
「まさか俺のせいだとは云うまいな。どう考えても俺の忠告を聞かなかったセイバーが悪い。正しく自業自得だな」
「……ぶー」
「ぶー、じゃない」
不機嫌になるセイバーを咎めながらも伊織は手を動かし、セイバーの頭に乗せていた布を取り替える。濡れた布はひんやりとして気持ちがいい。ほっとしながら触れ合っている手を握り直す。体調のせいで力が落ちているのか、弱って上手く力の入らない手に力を込めれば、同じ様に握り返してくれる。それに安堵しながらも未だに不満はなくならなかった。
(私が悪いとしてもそこまで冷たく突き放さなくてもいいではないか。あんなに楽しかったのにイオリは違ったのか?……まさか嫌だったのか?)
そう思ってしまったが最後、思考が悪い方向へと傾いてしまう。
(この手を、一瞬たりとも離したくない)
握っている手を更に強く握りしめる。離してしまえばいなくなってしまうかもしれない。ほんの寸刻、瞬きの間に消えてしまうかもしれない。それがすごくこわい。
ままならない体調のせいか由も分からぬ不安が何処からかせり上がってくる。
(……イオリは良くしてくれている、でも)
セイバーが体調を崩していると解ると今日入っていたバイトを休みにしてくれた。熱でくらくらするといえば付きっきりで看病をしてくれている。腹が空けば粥を作り、薬を飲みたくないと駄々をこねれば、なら甘いものでも食べるかと桃の缶詰を開けて食べさせてくれた。離れたくないと云えばずっと隣にいて、行かなくでくれと嘆けば手を握ってくれた。
常日頃から我儘ばかり云うセイバーに伊織はよく付き合ってくれている。それを理解しているのに、それでも心がざわついている。
滅多に引かない風邪のせいで不安定になっているのだと頭の隅で理解していても精神は追いつかなかった。
「イオリは……私を、すきじゃっ、ないんじゃないか?」
口にしてから酷いことを云ったと思い知る。すぐさま取り消そうとしたのに喉がつっかえて上手く喋れなかった。両目から涙が溢れて視界を歪ませ、呼吸が上手くできなくてぐずっと鼻をすする。これ以上迷惑をかけたくない、すぐさま否定したいのに熱のせいで頭が回らず、言の葉が上手く出てこなかった。
今、思わず口から溢れたのはずっと不安に思っていた気持ちだ。
もしかしたら、もしかしたら好いているのはセイバーの独りよがりではないのか。セイバーだけが突っ走って伊織の気持ちを無視してしまっているのではないか。伊織が何も云わないのを良いことに好き勝手しているのではないか。
不安に思っていても答えを聞くのが怖くて今まで聞いたことはなかった。これからも口にするつもりはなかったのに、言の葉にしてしまった。
後悔と悲しみで胸が苦しくい。視界がぼやけていると何もかもが曖昧になる。視界を良くしようと瞬きをしても次から次へと涙が出てきてキリが無い。ままならない視界の中で体中の水分が流れてしまうのではないかと不安に駆られた。
わからない、由もなくとにかく悲しかった。
考えが纏まらずにぐるぐると思考が堂々巡りをして何故こうなっているのか解らなくて混乱してきた。
落ち着かない気持ちを抱えたまま助けを求めるように伊織の方へ目を向ける。ぼやけてよく見えないが、伊織はセイバーを見つめたまま動かない。何も言わず、微動だにしかなかった。
呆れて言の葉も出てこないのだろうか、何を今更と思っているのかもしれない。
「……」
問いかけの答えが返ってこない間、何もできずにそのまま見つめていると伊織が顔を逸らした。
もしや嫌われたのでは一瞬不安に駆られるもそうではないらしい。伊織が向けた視線の先には硝子でできた小さな器があった。
そこには切り分けられた桃が乗せられていて、粥の後のデザートに食べたのだと思い出す。とても甘くて美味しかったので差し出されるままに沢山食べた気がしていたのにまだ残っていたようだ。
残っていた最後の一つをフォークで持ち上げると伊織は一口齧った。甘すぎたのか少し眉を寄せながらそれでも食べるのをやめなかった。
伊織には甘すぎるその桃を小さく一口ずつに分けながら食べているその姿から目が逸らせない。ずっと見ているとなんだか腹が空いてくる。飯を食べて腹はくちくなった筈なのにまた減ってきた気がする
(……たべたい)
なんと美味しそうなのだろう。熟れて柔そうな果実を齧る口、果実の甘い果汁が滴り濡れた唇。あれに触れたらどんな味がするだろう。思いっきり吸い付きたい、啄みたい。やはり伊織のことが好きなのだと己の気持ちを再確認する。
でも駄目だ。迷惑を掛けてしまう。伊織をこれ以上セイバーの我儘で振り回してはいけない、我慢しなくてはと静かに歯を食いしばる。伊織を見てしまわないように目を固く閉じて力を込める。
「セイバー」
そうして身を硬くしているとふいに名を呼ばれた。小さめな声は伊織しては珍しいなと少し疑問に思いながらも声掛けに応えようと閉じていた目を開ける。
開けてみると影がさしたように視界が暗かった。どうしてか解らず、涙でぼやけているせいで何も解らないのだと一度瞬きすると、伊織の顔が目の前にあった。
「え?」
と困惑して動けないでいると己の唇に自分とは違う温度がそっと触れた。
「……顔を、洗ってくる」
唇を手で隠し、顔を背けながら口早に云うと伊織は部屋から出ていった。
(イ、オリが、口吸いを?)
取り残されたセイバーは混乱しながらも今起きた出来事を思い返す。
(私からすることはあっても、することは今まで一度もなかったのに、何故?)
伊織はセイバーが強請っても己が嫌がることはしない。なのにしてくれた。それは、つまり。
「というか今、イオリは赤面していなかったか?」
一人になった部屋で何が起きたのか理解すると、風邪で上がっていた体温が更に上がり、まるで燃えるように熱くなった。