遅咲きの花に手を添えて ――ひらり、ふわり。
小さい薄桃色の花びらが、風に拐われて空を舞う。
揺れるまま、流れるままに空中をたゆたっていたそれはやがて終わりを迎え、とある場所に辿り着いた。
辿り着いたのはとある年若い青年、触れたかどうかも解らない優しさで花びらは彼の頬に着地した。
落ちてきた花びらは小さくも存在を訴えていたが、当の本人は反応を示さない。満開の桜の樹の下で横になっている青年は眠っているのか、両目を閉じたまま、静かに胸を上下させていた。
麗らかな日差しの元、穏やかな風に桜の木々がさらさらと揺れる音に紛れて、彼の微かな呼吸音だけが聞こえている。それ以外がほぼ何もない空間で、くすりと鈴を転がしたような小さな笑い声が響く。
花びらが辿り着いた先には実はもう一人、別の人物がいた。
そのもう一人は桜の樹の真下に座り、膝に青年の頭を乗せていた。所謂膝枕というものだ。
長い髪を三つ編みに纏めた少年は幸せを噛み締めるように微笑みながら、青年の顔を上から覗き込んでじっくり眺めていたが、ふと手を伸ばすと彼の頬の花びらをそっと指でつまんで取り除いた。
気をつけていても些細な刺激はあったろうに、それでも彼は目を覚まさない。全くいつまで寝ているつもりだと思わず声を掛けたくなったが、彼の眠りの邪魔はしたくなかった。
こういったささやかな凪の日々を大事にしたい。そう、少年ことセイバーは思っていた。
今いるこの場所は現実の場所ではない。カルデアの“しゅみれーしょんるーむ”だ。ふと花見がしたいと思い立って、膝下で眠っている青年、もとい伊織を誘いこの場所まで来たが、案外悪くない。季節はもう過ぎているぞと窘める伊織を無理云って連れてきて正解だった。実際の桜はもう散ってしまっているとしても仮想空間なら再現ができる。慌ただしい日々で過ぎてしまった花見もこうやって体感できる。悪くないなカルデア!
(こうしてイオリとゆっくり過ごせるのも……感謝してもし足りないくらいだ)
縁あって再び始まった二人の時間は長いようで有限だ。これから様々なことが起ころうとも、一つ一つ大切にしていきたい。
だからこそ、伊織の態度には思うところがあった。花見がしたいというとも嘘ではないが、元はと云えば無理をしがちな伊織を休ませるためにここに連れてきたのだ。
サーヴァントは簡単には死なない。霊核を砕かれない限り魔力があれば元に戻れるので生前人間であった時よりも多少の無謀、無茶が可能になる。
どうにも最近は鍛錬に熱が入っているのか、根の詰め過ぎによる魔力不足が見受けられた。なので、ここらで一回戦闘訓練をやめさせ、さぼらせに来たのだ。勿論マスターにも事情は説明済みだ。この唐変木は自身を顧みないからこちらがよく見て様子をやらねばならない。
(私がいなかったら、倒れていたかもしれないというのに、やはりイオリには私がいないと駄目だな!)
来てよかったと改めて実感するとうんうんと頷いた。
ゆったりとした時間はずっと続いてほしいと願っていても、いずれ終わってしまうもの。ふいに、ぴくりと伊織の瞼が動いた。薄く開いた目が何度か瞬きをすると、伊織はセイバーと目を合わせる。
「…………」
まだ意識がはっきりしていないのか、目が合っていても何も言わず、ただぼうっとセイバーを見上げる伊織。彼にしては珍しい、締まりの無い顔つきに寝ぼけているのか愛いやつめとセイバーは内心嬉しくなった。
さて、どんな言葉をかけてやろうか。
簡潔に「おはよう」でもいい、「寝坊助め」とからかってやってもいい。
なんであっても伊織と交わす言の葉は尊いものだ。
楽しくなって思わずにやにやしていると顔に影が指した。
伊織が伸ばした腕が日差しを遮ったのだと気づいたのは、彼が指で花びらを掴んでいる姿を見てからだった。どうやら先程の伊織と同じ様にセイバーにも花びらがついていたらしい。
「……きれい、だな」
ぼそりと呟くように伊織が云った。
てっきり桜の話だと思ったが、その瞳はセイバーをまっすぐ射抜いていて、なんだか恥ずかしくなった。
「それは、どっちの話だ?」
「さあ、どうかな」
口外に教えろと問えば、ふっとはぐらかすように伊織が笑う。
軽い口調ではあったが、最初と比べて寝ぼけている様子はなく、はっきりと問いに答える気はないと明言していた。不遜な態度に思わず頬を膨らませてしまう。
「まったく……そんな悪いことを云う口は塞いでしまうぞ!」
「いいぞ」
「……は?」
一瞬、何を云われたのか解らなかった。聞き間違いでは? 聞こえた言の葉を自分に都合よく解釈をしていないだろうか。困惑しながら下にいる伊織を見ると、いつも通りの仏頂面。うーん、どちらだこれは。
「……きみ、後で寝ぼけていたと云っても知らないからな?」
「云わないよ」
「じゃあ、遠慮なく」
添え膳食わずは男の恥。断らないならこっちのものだ。顎に手を添えて、そっと触れるだけの口吸いをする。いつだってイオリとする接吻は甘い味がする。離したくないと思わず囲ってしまいたくなる魅力がある。
「……ああ、このままきみを拐ってしまえたらいいのに」
「セイバー」
「っ、解っている! 冗句だ冗句!」
伊織に最後まで云わせぬ内にそうではないと否定する。もう二度と離れないようにと神域まで連れ去ってしまいたいと何度思ったことか。しかし何度思ってたとしても、伊織の意志は無視したくない。無理矢理連れていきたい訳ではないのだ。
「俺はマスターの剣として、縁を結んだサーヴァントとして義務を果たさねばならない。それはセイバーも同じだろう。だから、俺は頭を縦には振れない……だが、そうだな。全てが終わったら、また声を掛けてくれ」
今、伊織はなんと云ったのだろう。
いや、解っている。理解している。なんということだろう。今日は嬉しいことばかり起こる。夢でも見ているのかと、試しに頬を抓ってみるととても痛かった。
「イオリ! それは本当だな、嘘ではないな?」
「セイバー、俺はただ聞いてくれと云ったんだ。“お前に着いていく”とは一言も云ってないぞ」
「ああ、解っている、解っている!」
それでも、嬉しいものは嬉しい。やったぁと舞い上がってしまうのも無理はないだろう。今まで何度誘っても断ってきた伊織がセイバーの提案を聞いてくれるなんて、なんて良い日だろう。
言質は取った。なら、後は頷かせるだけだ。
いつか来る終わりの日までに伊織との思い出をたくさん作ろう。そうすれば伊織はセイバーから離れようなんて思わなくなる筈だ。
次はどこに連れて行こうかなとわくわくしながら頭の中で計画を巡らせた。