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    meguribon2

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    meguribon2

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    ステんばが抱えるステちかへの心情のお話になる予定です。
    ジョ伝〜悲伝まで書きたい!!!!!

    ##んばみか

    月の裏側

     表情を強ばらせた山姥切は、手合わせ部屋へと向かっていた。
     今しがた、主より近侍を降りるように命じられた。理由は言われなかったが、自分ではっきりわかっている。小田原への出陣で大失態を犯したからだろう。
     後悔ばかりが頭の中を渦巻く。自分は近侍で、部隊長であるにも関わらず、自分のことしか考えていなかった。あと少しで敵の部隊長が打てると思い込み、相手の力量を測ることを放棄した結果、仲間を、兄弟を、危険に晒してしまった。
     兄弟はその時、たまたまお守りを持っていたお陰で破壊は免れたが、もし持っていなかったらと思うとゾッとする。
     近侍の任は長谷部に移されたらしい。正直に言って、山姥切はほっとしていた。長谷部のほうが近侍を上手くやってくれるに違いないとずっと思っていた。長谷部は物言いもはっきりしている。長谷部自身も、近侍になることを望んでいたと聞いたことがある。彼ならば、写しの自分なんかよりはずっと優秀な近侍になるだろう。
     それに、もう自分には、近侍をやる資格などない。
     手合わせ部屋に入り、中央に立つ。帯刀している刀に手をかけ、鞘からすっと刀を抜いた。
     柄を握った両手がカタカタ震えている。震えを抑えようと焦れば焦るほど、震えは増していく。どうにか落ち着けようと深呼吸をしてみたが、効果は期待出来なかった。
     歴史も兄弟も守れなかった刀の鋒はゆらゆらと揺れて定まらず、戦い方を見失ってしまったようだった。山姥切は息を深く吐き、刀を下ろした。震えは少し収まった。
     このままではあまりにもお粗末だ。でも、どうしたらいいのかわからなかった。
    「山姥切、居たのか」
     声のした方を向くと、少々気まずそうに眉を顰めた長谷部が襖に手を掛け立っていた。おそらくあんなことがあった後だから、山姥切の前では近侍になれたことを素直に喜べないのだろう。
    「……ああ」
     平静を装って返事をすると、長谷部はすぐ横にいる、襖の裏にいる誰かに声をかけた。頭からすっぽ抜けていたが、この本丸にまた新しい刀剣男士がやってきたのだ。今までならば、近侍であった山姥切が新入りの本丸案内を務めていたが、これからは長谷部がそれを担当するのだろう。
     長谷部が手合わせ部屋に入ると、新入りの足が続いた。
     刀を鞘に収め、挨拶をしようと口を開きかけた山姥切は、新入りの顔を認めた瞬間、衝撃を受けた。
     雷に打たれたような、という表現がぴったりな衝撃だった。
     まず目に入ってくるのは青い狩衣。腰には金色の立派な拵えの太刀。そしてなによりその顔立ちは、美しく顕現する刀剣男士の中でも特に際立って美しく見えた。
     その刀は、山姥切が見たものの中で一番美しかった。
     固まっている山姥切を捉えた新入りは、頭についた金色の房飾りをさりげなく揺らし、親しげに微笑んだ。
    「初めまして、だな。俺の名は三日月宗近。よろしくたのむ」
     温かみと落ち着きに満ちた口調だった。三日月の背は山姥切より数センチ低く、彼と会話しようとするとやや見下ろす形になった。
    「俺は、山姥切国広。……よろしく」
     三日月は笑みを深め、じっと山姥切の顔を見つめてきた。そのほっそりとした瞳は、三日月の美しさを一際引き立てていた。虹彩の鮮やかな青は、秋に見上げる澄み切った夜空のように深く神秘的だった。虹彩と瞳孔の間には、金色の三日月がくっきりと現れており、彼の名を体現するかのように、静かに浮かんでいた。山姥切はその眩しさに、思わず身をすくめた。
     視線は苦手だ。自分は本作長義の写しとして打たれた。そのせいか、あらゆる視線が本科と自分を比べているものだと感じてしまう。視線を遮るためのボロ布は、山姥切にとっては周囲と距離を置くための強固な壁だった。
     しかし、三日月から放たれる月明かりのような視線は、山姥切が作る薄くも分厚い壁の隙間から、優しい光となって注がれる。決して強い光ではなかった。なのに、壁を取り払ってしまったら、その視線に眩んで、焼かれてしまいそうだと思った。他人の視線をこんな風に感じたことは初めてで、山姥切はその光から逃れようと、頭の布を更に引き下ろした。
     この視線は、ただ見つめている。堀川国広の傑作である、山姥切国広を。
     これにどう対応したらよいのか、山姥切には検討もつかなかった。だから、遮るしかなかった。
    「そんなに、見るな」
    「ああ、すまんな。怯えさせるつもりはなかったのだ」
     怯えるだなんて。子どもや小動物にかける言葉ではないか。そんなんじゃないと抗議したかったが、今の自分にふさわしい言葉には違いなかった。身を縮めて弁解を考えるうち、周囲から気配がなくなっていた。顔をあげると、三日月はいなかった。三日月の残り香だけが、ここに彼がいたことを物語っていた。
     襖を見れば、呆れた表情の長谷部がこちらを一瞥して立ち去っていくところだった。初対面の刀剣男士にすら気後れする自分が、惨めだった。


     ひとりになりたかった。だからここに来たというのに、誰かいる。
     夕食が済み、やや肌寒くなる時間。山姥切は気に入りの場所へと足を踏み入れた。そこは短い石段があり、季節によっては蛍がちらちら青白く光りながら飛ぶ。今は、残念ながら飛ばない季節だ。ここの石段に腰を下ろしてふと空を見上げると、ちょうどいいところに月が見える。静かで冷たくて誰も拒まないここは、山姥切しか知らない居心地のよい場所だった。だというのに、石段に誰か座っている。
     山姥切の心中が波立つ。ひとりで物思いに耽りたかったのに、邪魔者がいる。秘密の場所に、ズカズカ土足で踏み込まれた気分だった。早急に出て行ってもらわなくてはならない。とはいえここは決して山姥切専用の場所などではない。なんとか交渉の余地を探さなくては。
     ひとまず、あれが誰なのか確認しよう。山姥切は慎重に侵入者の元へ近寄った。その輪郭が月明かりに浮かび上がると、息を呑んだ。
     三日月宗近だ。
     あの眩しさを思い出し、血の気がひく。
     何故、三日月がこんなところに。
     新入りの癖に、こんなにいい場所を見つけるとは。なんと勘の良い刀なのか。確かに月が見えるここは、三日月にぴったりな場所かもしれない。
     これは、譲るべきか。
     いや。
     山姥切は拳を握った。ここを簡単には諦められない。天下五剣が相手でも、譲れぬものがある。引き返してしまいそうになる身体に力を入れ、その場に止まる。
     それにしても。かなり近づいたのに、三日月はこちらに気づかない。無視されているのかと思ったが、その端正な顔をよくよく見ると、三日月は目を瞑っていた。耳を澄ますと、くうくう呑気な寝息が聞こえる。肌寒いのに、よく眠れるものだ。
     今夜は三日月の歓迎会だった。皆、天下五剣を盛大にもてなそうなどと言い訳をして、しこたま酒を飲んでいた。皆気持ちよく酔っ払い、とても騒がしい夕食だった。沈んだ気持ちが続く山姥切は少々きつい時間だったが、酒を飲むと多少は気が紛れた。隣席で酒を煽っていた山姥切の兄弟、山伏国広は陽気に笑い、もっと飲め飲めと言いながら山姥切の背中をバシバシ叩いた。酔いのせいか力の加減がなく痛かったが、兄弟が元気だと感じられて、山姥切の目頭は熱くなった。
     三日月のお猪口には絶えず酒が注がれていた。山姥切と三日月の席は離れていたが、先の件もあり、つい三日月の方へと視線を向けてしまっていた。三日月は皆に囲まれていたため、山姥切と視線が合うことは一度もなかった。中でも鶴丸は特にはしゃいでおり、白い肌が真っ赤に火照って心配されていた。
     三日月はザルなのか、飲んでも飲んでもさほど酔った様子は見せなかった。深酒で次々と潰れていく刀たちの身体を軽く叩いたり、揺さぶったりして幸せそうに笑っていた。
     夕食の片付け係は山姥切だったので、三日月の様子をずっと見ていることは出来なかった。厨房で空の酒瓶の洗浄を済ませた後に広間に戻ると、三日月の姿はもうなかった。
     三日月はその後、山姥切の秘密の場所を見つけたらしい。あの時は酔っているように見えなかったとはいえ、全く酔っていなかった訳ではないだろう。三日月がここまでどう歩いてきたのか想像を巡らせる。同族である月の輝きに釣られるように、ふらつく足取りでここにやってきた三日月は、石段に腰を落ち着けて涼む途中で、すっかり寝入ってしまったのかもしれない。
     そっと、寝顔を覗き込む。光を発する瞳の月は、瞼の裏で眠っている。薄く開いた唇から漏れる吐息から、酒の匂いがする。きめの細かい白い頬は、薄らと赤く色付いていた。しばらく眺めていると、かくん、と首が僅かに前方に倒れた。
     あれほど感じていた苛立ちが消えてしまうほど、穏やかな寝顔だ。山姥切は背を伸ばし、目を閉じ、長い息を吐いた。目を開いて顔を下げると、月が山姥切を見上げていた。
     みかづき、と山姥切が音もなく呟く。足が地面に縫い付けられたように動かない。寝惚けた瞳は山姥切を映すなり、やんわりと蕩けた。
    「やまんばぎり」
     まるで再会を懐かしむように、名を呼ばれた。その声音は耳に心地よく響いた。途端どうしたことか、山姥切の身体の力が抜けた。スローモーションで遠ざかる三日月の顔を見つめていると、無意識に張っていた緊張が解けたのだと気づいた。それは、小田原征伐での大失敗以降、ずっと山姥切の心を苛んでいたものだった。兄弟を失いかけたあの恐ろしい、鋭く、張り詰めた、永遠にも続くと思われた地獄のような緊張だった。地面に尻餅をつく寸前、三日月の手が山姥切の手首を掴んで、力強くぐいっと引っ張った。
     瞬間、山姥切の視界が開けた。
     まるで、暗い湖の水底に沈んで、浮上しようと足掻きもしない山姥切の身を、湖に潜った三日月が救い出しに来てくれたようだった。
     三日月の青い狩衣が、魚のヒレのように優雅に揺らめく。怯えた人間を安心させる笑顔が近づいてくる。
     温かい月明かりが水底に届いて、山姥切を照らす。
     気付けば、山姥切は元の位置に戻っていた。どうして突然緊張が解けてしまったのか、わからなかった。
    「驚かせてしまったか?」
    「……いや」
     山姥切は夢見心地な気分で首を振った。三日月の手が離れていくと、笑い声が空気を緩やかに揺らした。改めて三日月の瞳の輝きを覗き込んでみると、今は焼かれそうだとは思わなかった。むしろ、近づきたい光だった。深く、静かに、美しい瞳だと思った。
    「……その、初めにあんたと会った時、すまなかった。そっけなくて。嫌なことがあったばかりだったんだ。怯えていた訳じゃない」
     すんなりと謝罪の言葉が出た。三日月はゆっくりとした動作で首を振った。
    「なあに、そういう時もあるさ。改めて、よろしくたのむ。じじいだが、仲良くしてくれると嬉しい」
    「……ああ。よろしく、三日月」
    「ところで、何があったか聞いてもよいか?」
     三日月の問いに、山姥切は答えてみたいと思った。気持ちの動きを察したのか、三日月は自分が座る石段の真横をはたいて砂を払って、ちら、とこちらに視線を寄越してきた。座れということだろう。山姥切は少し戸惑いつつ、三日月の隣に座った。酒の匂いに混じって、三日月の肌から立ち昇るのであろう甘い香りが漂ってくる。
     まだこんがらがっている点も多く、詳しく説明するのは難しかったので、簡単に話した。主に、自分がどんな失敗をしたかについてを、つらつらと話した。というより、吐き出した。ただの愚痴だったかもしれない。それでも三日月は、黙って聞いてくれた。否定も肯定もせず、山姥切の抱えていた苦しみを静かに受け取ってくれた。
     兄弟が折れかけたと口に出した時、三日月は、今にも壊れそうな山姥切の表情を見て、肩をさすってくれた。怖かったな、とか、山伏が無事でよかった、とか、山姥切を気遣う優しい言葉を掛けてくれた。三日月の言葉は、自分が誰かに言って欲しかった言葉なのかもしれないと思った。山姥切は自分に、自分を責める言葉しか掛けてやれない。励ましの言葉ひとつ、浮かんでこないのだ。
     ひと通り話終わると、三日月は短く息を吐いた。ひとつ瞬くと、表情を引き締めた。先ほどまでのやんわりとした雰囲気が、厳しいものに変わっていた。山姥切は不思議と、その変化をすんなり受け入れていた。
     三日月は、強く語りかけてきた。
    「おぬしは強くなりたいか」
     山姥切は、頷いた。
    「なりたい。……だが」
     左腰の本体に視線を落とす。これ以上自分は強くなれるだろうか、と不安が付き纏う。その不安を見透かしたような激励が、山姥切の耳に届いた。
    「おぬしなら、きっとなれるぞ」
     三日月は立ち上がり、前に進み出た。そのしっかりとした足取りに、酔った気配は微塵もない。頼もしい大きな背中を追いかけると、三日月は立ち止まった。振り返った横顔を、月明かりが縁取っていた。
    「俺の助言を聞いてくれるか? ただのじじいの戯言かもしれぬが」
    「それでもいい。教えてくれ」
    「あいわかった」
     特訓はその場で始まった。まず山姥切の戦闘スタイルを見せると、三日月は鞘を使って戦うことを提案してくれた。山姥切の戦い方の基本は、刀の柄を両手で握り、力強く刀を振る。それを踏まえての提案だった。
     三日月は言った。今の戦闘スタイルのままでは、自分よりも強い相手と対峙したとき勝ち目はない。敵の攻撃をいなし、見極め、反撃の隙を伺うことも必要ではないかと。山姥切は早速、腰に差したままの鞘を抜いて構えてみた。すると、三日月は腕をだらんと下ろして気を抜いた姿勢から一変、腰に下げた本体の鞘に左手を置いた。
    「どうかな、試しに俺と刀を交わすのは」
    「いやいい」
     山姥切は間髪いれずに三日月の申し出を却下した。
    「あんたはまだ練度が低い。写しと言えど、俺は初めからこの本丸にいるんだ。相手にならない」
     思っていることをそのまま告げると、三日月は残念そうに目線を下げた。
    「ああ、そうだな……。強くなってから出直そう」
     山姥切は、そんなに残念がることなのだろうかと首を傾げた。しかし、三日月の曇った表情に何も思わないこともない。気を取り直させたくなり、三日月の提案を誉める。
    「……鞘はありかもしれない。俺は、目の前の敵を倒すことしか考えていなかった。敵の攻撃をいなすなど、考えたこともなかった」
     顔を上げた三日月は、表情をぱっと輝かせた。そのことに少しほっとした。
    「ああ、わかってくれたか。嬉しいぞ。うん、おぬしの切れ味と腕力ならば、片手で十分敵を斬れる。俺が保証しよう」
    「見ただけでわかるのか」
    「ああ、わかるさ」
    「まだ出陣したこともないあんたがか」
     なんだか嫌味な言い方になってしまった。せっかく機嫌を直してくれたのにまた三日月の表情を曇らせるようなことを言った、今度はもっと気分を沈ませてしまったかも、と心配したのも束の間。三日月はそんな山姥切の考えを否定するかのように、ふふんと笑った。
    「俺はじじいだからな。おぬしよりもずっと長くこの世にあるのだ」
     三日月は自分の頭を人差し指でとんとん叩き、笑みを深めた。
    「よって知識だけは豊富にある。それだけのことさ。おぬしの心配は俺の練度だろうが、まあなに、すぐに追いついて見せよう」
     さらりと言ってのけた年長者の余裕の微笑み。それが頼もしくも、無駄に心配させられたのが悔しかったので、つい『くそじじい』と口走った。どれだけ山姥切が罵ろうと、三日月が笑顔を崩すことはなかった。






     丸く繰り抜かれた和風の窓から、室内に陽光が差し込んでいる。室内では電卓をもたもた弾く音と、鉛筆が紙の上をさらさら擦る音が交互に聞こえる。山姥切は、ちゃぶ台を挟んで向かい側にいる三日月に目をやった。三日月の視線は、本丸のお金の流れを詳細に付けたノートのページと、電卓に打ち込んだ数字と、領収書やレシートの間を忙しなく行き来していた。
     今日付で三日月は、この本丸の近侍に任命された。三日月が懸命に取り掛かっている帳簿付けは、近侍の仕事のひとつだ。帳簿といっても、特に政府に提出するものではなく、いわゆる家計簿のようなものなのでそう難しい作業ではない。だが、三日月にとって数字と睨み合うのは慣れない作業らしく、山姥切がやるより何倍もの時間を掛けてノートに数字を書き込んでいた。
     三日月の右手人差し指が、電卓の数字や記号をひとつひとつ丁寧に押す。その手で鉛筆に持ち替えて、数字を書く。次の領収書やレシートを引き寄せる。その繰り返し。片手でやるのは効率が悪く見えるが、三日月は左手で電卓を打つのが非常に遅かった。右手で全ての作業をしたほうがまだ早かったので、三日月の右手だけが忙しそうに動いていた。手持ち無沙汰な左手は、ノートの端を辛抱強く抑えていた。
     山姥切は先程まで、三日月に頼まれて帳簿の付け方を教えていた。しばらく成り行きを見守っていたが、スピードはともかくちゃんとやれていると判断し、ちゃぶ台に手をついて立ち上がった。
    「待ってくれ」
     顔を上げた三日月が、縋るように山姥切を見つめた。山姥切はため息をつき、三日月を見下ろした。
    「なんだ。手伝わないぞ」
    「そこをどうにか頼む。ひとりでこの量は日が暮れてしまう」
    「俺も長谷部もひとりで熟したことだ。なにも難しいことじゃないだろう」
    「そう言わずに少しだけでも」
    「ひとりで十分出来るだろう。俺も暇じゃない」
     ぴしゃりと言い放つと、三日月は口をつぐんだ。苦い表情で笑うと、視線を数字だらけのノートの上に落とした。作業を再開した三日月を見届けた山姥切は、三日月を置いて部屋を後にした。


     内番服に着替えた山姥切は、畑仕事に従事していた。雑草を根っこから綺麗に抜き、害虫を取り除き、必要があれば肥料を足し、じょうろで野菜の苗に水をやる。山姥切は畑仕事が好きだった。正確に言えば、土いじりで自分の服や手が汚れるのが好きだった。
     山姥切たちの世話の甲斐があり、太陽の光をたっぷりと浴びた野菜たちは順調にすくすくと育っていた。僅かな虫食いのある青々とした葉を天に伸ばし、小さな花を咲かせ、青い実をつけ、どっしりと根を張っている。
     立派な野菜たちを眺めていると、ふと、初めに育てた野菜のことを思い出した。


     この本丸の始まりの日。初期刀の山姥切と初鍛刀の小夜は顕現早々、主に畑仕事を命じられた。食物を自分たちで作るのは本丸の基本らしかったが、主も山姥切も小夜も、何をどうすればよいのか知らなかった。
     初期の本丸での生活は何もかも手探りで、失敗ばかりだったが、中でも畑仕事は一番厄介だったと思う。
     政府から派遣された管狐、こんのすけに支給された野菜の種を握りしめ、山姥切と小夜は途方に暮れていた。こんのすけはあまり多くのことを教えてはくれず、丸い尻尾をひとつ大きく振り、とりあえず初めてくださいの一点張りだった。無感情な真っ黒な瞳で、じっと山姥切たちを見つめていた。立ち上がったばかりの本丸の審神者や刀剣男士たちがどう動くか、観察したかったのかもしれない。
     ここを畑に、と主に言われた場所の土はガチガチに固まっていて、野菜の種などとても植えられそうになかった。山姥切はこんのすけを見た。目が合った。
    「こんのすけ。ヒントくらい寄越せ」
     こんのすけは小首を傾げ、おもむろに前足を持ち上げた。ピンクの肉球が示す先には一軒の小屋が建っていた。
    「あの小屋に道具があります。使ってください」
     抑揚のない声で事務的に指示された。山姥切は小屋の戸を開け、薄暗い中を覗き込んだ。鍬や桶やスコップなど、必要そうなものは大体揃っていた。手に取ると、どれもこれもぴかぴかの新品だった。どの農具も一度も使われたことがないせいか手に馴染まず、そよそよしい感じがした。なんだか面白くない。そもそもなにもわからないのに畑に投げ出され、山姥切は少々苛立っていた。自分たちは戦うために顕現したのではなかったのか。鍬ではなく、刀を振るうのが自分たちのやることではないのか。
    「刀が畑仕事なんて」
     つい出た愚痴を聞いた小夜が、肩をびくっと揺らした。山姥切は、小夜も同じことを考えているのではないかと思っていた。しかし小夜はおどおどしながらも、山姥切の目をしっかりと見つめた。小さな身体には不釣り合いな鍬を両手で持ちながら、口を開いた。
    「……ええと、山姥切さん。まずは田おこしをしませんか」
     いやいや、という感じではなかった。これが僕たちの今の使命です。そう言わんばかりだった。山姥切は自分の考えを反省した。目の前のちいさな刀より、自分のほうが幼く感じた。
    「……わかった。ちゃんとやる」
     山姥切と小夜は田を起こした。お互い会話が得意ではなかったので、終始無言だった。だが、同じ空間で同じ作業をした二人の間には、いつしか目に見えない連携が生まれていた。固かった土は、丁寧に鍬で耕すとふかふかの土になった。鍬はどんどん手に馴染み、まるで手の延長のようになっていた。二人は日が暮れるまで、念入りに、畑を耕した。
     こんのすけは、その様子を飽きもせずにじっと見ていた。まるで置き物のように微動だにせず、離れた場所から山姥切たちを観測していた。視線が苦手な山姥切はそれが気になったが、田おこしに集中するうちにこんのすけの存在は意識の外へと離れていった。
    「山姥切さん。そろそろ終わりにしましょう」
     小夜の声で、山姥切はようやく鍬を振るうのをやめた。ああ、と返事をして小夜の顔を覗き込むと、頬に泥がついていた。山姥切は、身に纏う布で指を拭ってから、小夜の頬にそっと触れた。泥を拭うと、小夜は照れながらも礼を言った。山姥切は表情を緩めた。
     改めて、二人は畑を見た。固かった土は、すっかり柔らかく生まれ変わっていた。規模はそう大きくはなかったが、自分たちの手で成し遂げたことに、山姥切も小夜も感動を覚えた。山姥切は、主はこれを自分たちに体験させたかったのかもしれないと思った。そんなに深いことは考えていないかもしれないと、苦笑もした。
     こんのすけはいつの間にかいなくなっていた。

     次の日。山姥切と小夜は小屋に積んであった肥料を畑に入れた。こんのすけは来なかった。観測は初日だけだったのかもしれない。
     主は、山姥切たちが耕した畑を見て非常に感心してくれた。二人とも、主に褒められるのは嬉しく、誇らしかった。畑仕事にも身が入った。
     種はたくさんあったので、ひとまず作った畝に植えてみることになった。種に土を被せ、水をやると、山姥切は畑に愛着が芽生えるのを感じた。
    「これ、なんの種でしょうね」
     種を植えた場所にしゃがみ込んだ小夜が、山姥切を見上げた。ホースを持った山姥切は首を傾げた。
    「なんだろうな。育たないとわからないか」
    「こんのすけに聞いたらよかったです」
    「昨日は田を起こしただけで終わってしまったからな」
    「山姥切さん、楽しそうでした」
    「……小夜がいたからだ」
    「上手く育つといいですね」
     小夜の背を見下ろしながら、山姥切はそうだなと呟いた。
     それから何日か経つと、畑の種は芽を出した。土の中からぽちっと生えた双葉が愛おしいと思った。やがて双葉はにょきにょきと成長し、背が高くなるにつれ、倒れそうになった。試しに支柱を立ててみると、野菜の苗は踏ん張って絡みついた。野菜は山姥切たちに応えるかのように、みるみるうちに育っていった。
     ちらほらと顕現する刀は増えていたが、畑当番はしばらくの間山姥切と小夜で固定だったため、二人は毎日毎日大切に世話をした。
     ところがある朝、野菜の苗の根が黒ずんでいた。慌ててこんのすけを呼び、原因を聞いてみると、どうも水をやりすぎたらしい。
    「……よかった。対処法はあるぞ」
     山姥切は畝の前にしゃがみ、こんのすけに渡されたガーデニングの本を読みながらほっと一息ついた。小夜は隣で本を覗き込んでいた。
    「この本、最初から渡してくれればよかったのに」
    「申し訳ありません」
     こんのすけは事務的に頭を下げ、言葉を続けた。
    「皆さんがそこまで畑に熱心になるとは思わず」
    「畑は本丸の基本なんだろう」
    「ええ、まあ」
     山姥切は、これがどんな野菜に育つのかこんのすけに聞こうと思った。しかし、わからないまま育ててみるのも面白いかと思い、聞くのをやめた。小夜も同じ気持ちだったようで、聞かなかった。こんのすけは、根腐れの対処をする山姥切たちを見届けてから帰っていった。
     野菜の種は、成長すると青くて丸い実をつけた。青い実はやがて赤く色づいた。トマトだった。やがて成長が止まったトマトは大きさも小ぶりで、収穫量も少なかったが、無事育ってくれたことが心の底から喜ばしかった。山姥切と小夜はトマトを噛み締めた。歯切れの悪い薄皮が歯の間で潰れて、味気ない中味が口内にじゅわりと広がった。それでも食べれるものになったことは、とてつもなく喜ばしかった。


     今育てているトマトの種は、初期のトマトから何代か経ったものだ。順調にいけば、今年のトマトは立派に美味しくたくさん育つだろう。山姥切は、トマトの青い実を指先で撫でた。愛おしかった。
     あれから、畑の規模は大きくなった。そろそろ当番の人数を増やしてもいいかもしれない。
    「兄弟! きゅうりの世話が終わったのである!」
     同じく本日畑当番の山伏が、玉のような汗を手ぬぐいで拭いながら歩いてきた。山姥切は額を手の甲で拭い、山伏の隣に立ち並んだ。
    「こっちも終わった。もう戻ろう」
    「よい汗をかいた! 汗を流しに行くのである!」
    「ああ」
     山姥切は柔らかく微笑んだ。
     外の蛇口で手を綺麗に洗った。空は鮮やかな夕焼けだった。歩きながら時間の経過を感じていると、ふと三日月が今何をしているかと気になった。
     数字に手こずっていた三日月は、ちゃんと仕事を終わらせただろうか。それとも、未だに数字と格闘しているのだろうか。三日月の頭上に生えている双葉がへにゃへにゃにヘタっている様を想像した。自分はあの双葉を放置して来てしまった。
     突然、あの双葉が枯れていないか確認したくなった。山姥切は居ても立ってもいられなくなり、山伏に言った。
    「兄弟」
    「どうしたのであるか? 兄弟」
    「すまんが、先に風呂に行っててくれ。ちょっと双葉の、いや、三日月の様子を見てくる。帳簿付けがちゃんと終わっているか気になって」
     山伏はひとつ瞬くと、背を逸らし、空に響くほど大きな声でカッカッカと笑った。
    「そういえば、今日から近侍は三日月殿に任命されたと長谷部殿から聞いたな」
    「ああ。帳簿付けを教えてくれと言われたんだが、途中で放置してきてしまった」
     山伏は大きな仕草でうんうんと頷いた。
    「責任を感じているのであるな。うむ、拙僧の兄弟が立派な考えを持っているのは実に誇らしい!」
     山伏は山姥切の背中を、気合を注入するかのようにべしべし叩いた。痛くてほろりと視界が滲んだ。
     

     山姥切は急ぎ足で、三日月が仕事をしている和室へと向かった。三日月はノートの前で、双葉の生えた頭を抱え込んで疲れ果てていると思った。早く自分が手助けしてやらねばと思った。ところがそれは幻想だった。部屋が近づいてくると、楽しげな話し声が聞こえてきた。耳を疑い、一瞬ぴたりと足を止める。その声はやはり楽しげだ。山姥切が素早く和室を覗き込むと、ちゃぶ台を挟んで向かい合っていた三日月と鶴丸が笑顔のまま振り向いた。三日月の笑顔が、山姥切の姿を認めた途端に固まった。ちゃぶ台の上には花札が並んでおり、部屋中に茶と茶菓子の匂いが漂っている。熱気に包まれていたそこは、山姥切が訪れてから温度が一気に下がったようだった。山姥切は、静かに問いかけた。
    「三日月、仕事は終わったのか」
     三日月は笑顔をピシリと引き攣らせ、ビクッと身体を震わせた。いかにも怪しかった。山姥切は視線を鋭く光らせ、もう一度同じ質問を繰り返した。
    「も、もちろんしていたぞ。ちゃんと終わらせた。ああそうだ、鶴丸は俺の仕事ぶりを見ていたぞ。なあ鶴丸。ははは。だから山姥切は風呂に行ってくるといい。畑の匂いがする。ひと仕事終えてきたのだろう。いやはやご苦労だったなぁ」
     三日月は、鶴丸に目配せした。鶴丸は、三日月が危険な状態にあるのを察したのかガクガクと頷き山姥切に向き直った。
    「あ、ああ、もちろん三日月は仕事を終わらせたさ。だからこうして遊んでいるんだ。近侍就任初日からサボっていたなんて、そんな馬鹿な話があるかい。それよりきみ、汗だくだぜ。布が肌に引っ付いて気持ち悪いんじゃないか。汗を流してきた方がいい。早急に。なっ、三日月もそう思うよなぁ」
     二人は山姥切をどうしても風呂に行かせたいようだった。山姥切はその提案を無視し、ちゃぶ台の横に置いてあるノートに目をやった。上に乗っていた電卓と鉛筆を退けてからノートだけを取り上げ、疑り深くページを開いた。三日月がああ……と情けなく呟いた。
     すぐ開いたページには、角が綺麗に揃えられた領収書やレシートが栞がわりに挟まっていた。山姥切が退室したとき開いていたページだった。そこの記入はすっかり終わっているようだったが、次をめくると、真っ白だった。記入しなくてはならないページはまだあったはずだ。
     軽い音を立ててノートを閉じ、三日月を睨む。怒りの気配を感じ取ったのか、三日月は亀のように首を引っ込めた。頭の双葉が怯えて萎びているように見えた。鶴丸は勝ち目無しと踏んだのか、その場を刺激しないようにちゃぶ台の前からそっと移動し、壁に背中をくっ付け澄ました顔で視線を遠くに投げた。山姥切は息を思い切り吸い込み、肺をビリリと震わせた。
    「あんた、仕事をサボって遊んでいたのか!」
     三日月は苦く笑って黙り込み、視線をおどおどと彷徨わせた。息を潜め、しおらしくしていれば、山姥切の怒りが静まると信じているようだった。しかし、その手が通じる山姥切ではない。腕を組み、圧を強めた。
    「どうなんだ」
     三日月は、なんとも悲しい潤んだ瞳で山姥切を見上げた。月を宿した瞳は涙の膜を薄く張って滲み、目が眩むほど美しかった。しかし、山姥切は怯まなかった。負けてたまるか。しばらく見つめあっていたが、先に折れたのは三日月だった。夜色の髪を揺らして項垂れた三日月の、蚊の鳴くような「……すまん」は、しんと静まり返った和室に浸透していった。山姥切は、短くも深いため息をついた。これ以上怒るのは、いじめているのと同じだ。こちらが悪者になってしまう。山姥切は幾らか声のトーンを和らげて、平安の刀たちに命じた。
    「机を片付けろ」
     三日月と鶴丸は手分けをし、粛々と花札を集めて箱に入れた。勝ってたのになぁ、と鶴丸が残念そうに呟く。また今度やろう、と三日月が笑う。
     花札の箱を持った鶴丸が、出て行こうとする。山姥切はそれを呼び止めた。
    「風呂場にいる兄弟に伝えてくれ。俺は三日月を手伝うと」
     頷いた鶴丸は、任せろと元気よく言って出ていった。ちゃぶ台の方に振り向くと、茶と茶菓子が乗った盆が乗っていた。茶菓子はつやつやした薄紫の羊羹だった。三日月がニコニコしながら山姥切を見つめている。おやつの時間にしたそうだった。山姥切は首を振った。
    「仕事が終わってからにしろ」
    「……うん」
     しょぼくれた三日月はこくこくと頷き、盆とノートを入れ替えた。仕事が終わるまで逃がすつもりはない。この能天気な年寄りに、近侍としての自覚を持たせなくては。誰に命じられた訳でもないのに、そう思った。
     三日月は領収書とレシートの挟まったページを開き、鶴丸側にあった座布団を自分の隣に引っ張ってきた。座れということだろう。和風の丸い窓から入る光が薄くなってきている。山姥切は電気を点けて、三日月の隣に腰を下ろした。
     すんすんと、音がした。匂いを嗅ぐ音。山姥切はハッとした。畑仕事のあとだ。汗臭いかもしれない。汚れていると落ち着くが、仕事は風呂に入ってからの方がよいに決まっている。しかも隣にいるのは天下五剣のうち一番美しいと言われる刀だ。そんな美しい刀の隣に、なんの躊躇もなく腰を据えた小汚い自分が急に恥ずかしくなってきた。やはり仕事は風呂に入ってからにしよう。山姥切は口を開きかけた。しかし、三日月は遮るように言った。
    「この匂い、俺は好きだなぁ」
     山姥切はたじろぐ。意味がわからない。ノートの端を片手で抑えた三日月は、微笑んだ。
    「あんたの嗅覚、変わってるんじゃないか」
    「土の匂い。汗の匂い。働き者の匂いだ」
     そう言われてしまうと、立ち去れない。山姥切は浮かしかけた腰を戻す。額から汗がたらりと流れた。この部屋は暑い。電卓を渡された。山姥切は数字を打ち込んだ。その数字を三日月がノートに書き込む。電卓を叩く音を追いかけるように、鉛筆が紙を擦る。それが存外心地よい。電気代。ガス代。通信費。食費。茶菓子代。あらゆる数字が分類され、足され、積み重なる。桁はどんどん大きくなっていく。この本丸の年輪が、三日月の指先によって美しく紡がれていく。数字に弱いくせに、カンマの付け方は知っている、すらりと伸びた指先で。山姥切は、三日月の横顔をちらと見た。重そうなまつ毛に覆われた瞳が、紙上の数字たちを辛抱強く見据えている。結ばれた桜色の唇が、時折薄く開いてふうと息をつく。
     しばらく頑張っていた三日月だが、集中が切れてきたのか、ときどき手を休めるようになった。仕様のない刀だ。話好きな刀だし、なにか雑談でもしてやればまたやる気になるかもしれない。山姥切は話題を考えた。しかし、山姥切は会話が得意ではない。そもそも自分は何故、三日月の仕事を手伝っているのか。そうだ。三日月のせいだ。三日月が俺を呼んだのだ。帳簿付けを手伝ってくれと。こいつはわざわざ名指しで呼んだのだ。
    「何故、俺に聞いたんだ。長谷部や鶴丸に聞いてもよかったんじゃないか」
     ぽつりと、疑問を投げかけた。長谷部に聞いた方がきっちり教えてくれるだろうし、鶴丸に聞いた方が楽しいだろう。三日月は、間伸びした声でんー、と首を傾げた。ぼんやりと宙に向けていた視線を山姥切の顔にずらした三日月は、目尻を緩め、なんてことないように言った。
    「山姥切がいいんだ」
     山姥切の思考は止まった。
     どのくらい停止していたのかはわからない。体感ではそう長くはない。山姥切はふうんと鼻を鳴らして、電卓に視線を落とした。
     なんだか胸がもぞもぞする。
     いや、自分はいったいなにを浮かれているのか。そんなんじゃない。長谷部よりも優しく教えそうに見えたからかもしれないし、鶴丸より電卓打ちが早そうだったからかもしれない。そうだ。それだけの理由に違いない。三日月が俺を選んだ理由なんて、その程度のものだろう。まあ、その見込みは外れたが。
     山姥切は痒くもないのに頬をかいた。
     三日月がページをめくる音がした。表情を窺うと、瑞々しいやる気がみなぎっていた。三日月が鉛筆を持ち上げる。山姥切は次のレシートを引き寄せた。仕事の終わりが見えてきた。
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    Replies from the creator

    meguribon2

    DONEんばみかWEBオンリー開催おめでとうございます!!
    まんばが三日月をヒイヒイ言わす話です。(全年齢)
    氷枕を引き剥がしたくて 夏日。熱がこもった蒸し暑い道場で立ち尽くしていた山姥切は、額から流れる汗を手の甲で拭ってため息をついた。手合わせの時間だというのに三日月宗近の姿が見えない。
     汗で額にへばりつく前髪を払った。修行を終えた身ではあるが、日本の夏の異様な暑さと湿気は堪える。仕方なく探しに行くと、三日月は自室にいた。鮮やかな青い狩衣を着崩し、畳の上にだらしなく横たわっていた。山姥切がおいと声をかけるとほんの僅かに足をピクっと動かした。腕に氷枕を抱きかかえながら、小さな声で何用かなと山姥切の表情を窺ってくる。山姥切の来訪理由に察しがついているのではなかろうか。語気を強めた。
    「今日は俺と手合わせだぞ。忘れたのか」
     苦笑いした三日月は、氷枕をますます自分の胸元に寄せ、めんどうくさい……と呟いた。そんなこと言われても困る。いいから行くぞと山姥切は力付くで三日月から氷枕を取り上げようとしたが、思いの外強い力で抵抗された。氷枕を引っ張ると、三日月がおまけについてくる。振り落とそうと力を込めれば、三日月の腕力も比例して強まる。ただでさえ暑いのに、新しい汗が滲んだ。なんとか敷居の前まで引きずったが、熱風が顔に吹き付けた。こんな中三日月を道場に連れて行くのは骨が折れる。諦めて手を離した。
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