忘羨 魔法使い忘機×モス羨AUある所に魏無羨という一匹の妖精がいました。
蓮咲き乱れる美しい湖の畔で魏無羨は同じ妖精種の江厭離と江澄という姉弟と仲良く暮らしておりました。
江厭離と江澄は、湖に咲く蓮を思わせる透き通った薄紫色の羽を持っていましたが、魏無羨の羽は二匹とは似ても似つかぬ、ふわふわとした桃色に大きな目玉のような模様が付いた羽をしていました。
全く別種の妖精でしたが、それでも三匹は本当の家族のように支え合って長い年月を生きていました。
魏無羨は悪戯好きでしたが、優しい心を持った力の強い妖精でしたので、困っているものたちの助けたり、ささやかな願いを叶えてあげていました。
通常、妖精が他者の願いを叶える場合代償を貰うのですが、魏無羨は代価をほんのちょっぴりしか受け取りませんでした。
魏無羨は自分に頼みごとをするものたちが、彼の他には誰も相手にしてくれ無さそうな、余りにも弱々しいものたちで代価となりそうなものを何も持っていないのを知っていたからでした。
正しく対価を受け取らずに魏無羨が願いを叶える度に、足りない分の代償として魏無羨の美しい羽から鱗粉が一欠片剥がれていきましたが、少し時間をおけば鱗粉は再生するので魏無羨は気にしませんでした。
江澄には無闇やたらに願いを叶えるなと何度も怒られていましたが魏無羨は困っているものを放ってはおけないと聞く耳を持ちません。
そんなある日のこと、魏無羨の元に一人の少女がやって来ました。
泥や埃で汚れて所々擦り切れた衣には揺らめく火の模様がありました。
それは悪逆非道の限りを尽くし、討伐されたという岐山温氏の模様に違いありませんでした。
温情と名乗ったその少女は自分の弟と一族を助けて欲しいと、魏無羨に必死になって頼みました。
岐山温氏の暴虐さは妖精である魏無羨の耳にも届いていたので、流石の魏無羨も直ぐに首を縦に振ることはしませんでした。
しかし、温情があんまり必死に頼むのでついに魏無羨は折れて彼女の願いを叶えてやることにしました。
ただの妖精に人間の命、それも複数人を救うとなれば簡単にはいきません。
魏無羨は己の持てる力の全てを使って人々の記憶から温情達の存在を消して、彼女たちが安心して暮らせる場所を作り上げました。
小さな妖精の身には大き過ぎるその願いに魏無羨も大きな代償を支払う事になりました。
しかし魏無羨は他人に弱っている所を見せられない性分でしたので、姿を偽る術を自分に掛けて何でもない風を装っていました。
魏無羨の変装の術は余りにも見事で温情達は魏無羨の変化に気づくことができません。
温情達は自分たちを救ってくれた魏無羨にこれ以上ない程に感謝して見送りました。
魏無羨は温情達の姿がすっかり見えなくなるまで道を進むと、ようやく自身に掛けていた術を解きました。
現れた魏無羨の本当の姿は酷いもので、背中にあった柔らかな羽はすっかり鱗粉が剥がれ落ち、無惨に裂けて目も当てられません。
当然そんな羽では空を飛ぶ事も出来ず、魏無羨は見る影も無くなってしまった自分の羽を引き摺りながらあてもなく歩き始めました。
荒れた地面が魏無羨の羽を擦ってちりりと痛みます。
「こんな無様な姿で師姉や江澄の元には帰れないな…」
妖精の力の源である鱗粉をすっかり失くしてしまった自分が二匹の元に帰っても役に立つことは到底出来そうもありません。
魏無羨は優しい姉弟の負担になるのはまっぴらごめんだ、と考えて蓮の湖とは違う方角に進んでいきました。
妖精の小さな体では休まず懸命に歩いても、ちっとも進みません。
そのうちに疲れ切ってしまった魏無羨はすぐそばにあった木の虚の中に潜り込む、とそのまま泥のように眠ってしまいました。
次に魏無羨が目を覚ますと太陽はとうに真上を過ぎて木々に濃い影を落としていました。
羽も魔力も失ってしまった魏無羨は人や動物に見つからないようにしながら森の中を彷徨います。
小さな手足を懸命に動かして大きな木の根や岩をよじ登り、日が落ちて辺りが真っ暗いなるまで必死になって何か食べられるものが無いかを探しましたが、生きていくのに十分な量は到底見つける事が出来ませんでした。
魏無羨はせめて風除けにと入り組んだ木の根元に身を寄せて、湧き上がる空腹を紛らわせようと、やっとの思いで見つけた腐りかけの木の実を一口齧り、口腔内に広がった強烈な風味に顔を顰めて堪らずに吐き捨てました。
冷たい夜風が無遠慮に魏無羨の肌を撫でて通り過ぎ、お腹はくうくうと鳴りしきりに空腹を訴えてきます。
魏無羨は零れそうになる涙を堪えて、ぼろ切れのようになってしまった自分の羽で体を包み浅い眠りに着きました。
そんな日々が何日も続き、魏無羨は日を追うごとに自分の体がどんどん弱っていくのが分かりました。
手足に力も入らず、お腹が空いているのかどうかももう分かりません。
僅かな木の実を探すだけの体力もありません。
幸福であった日々の思い出が朦朧とした頭の中で何度も再生されます。
(江澄や師姉やみんなにお別れを言えなかったのは残念だけれど、温情達の命を守れたんだ。一介の妖精にしちゃ上出来だよな…)
いよいよ魏無羨の生命の灯火が消えようかというその時でした大きな白い手が優しく魏無羨を掬い上げました。
魏無羨は突然の浮遊感にぴくりと反応しましたが、もう瞼を開けるだけの気力も無く意識は闇へと沈んでいきました。
暖かくてふわふわとしたものが頬に当たる感覚に魏無羨は深い海の底に沈み込んでいた意識をゆるりと浮上させました。
重い瞼を上げると、久しぶりにものを映した眼球が驚き、目が眩みます。
魏無羨の小さな目玉が明るさに慣れてくるのを待って、自身の周りを見回しました。
そこは薬草や鉱物、沢山の引き出しが並ぶ書斎と台所が混ざったような部屋でした。
魏無羨はその部屋の片隅にあるテーブルの上に置かれた籠の中にいました。
籠の中には柔らかな綿が敷き詰められており、魏無羨が眠っていた場所だけがほんの少し窪んでいます。
自分の体を改めて見てみれば、傷と泥だらけであった魏無羨の体は綺麗に清められて丁寧に手当てをされ、小さな体に丁度良い大きさのゆったりとした服まで着せられています。
流石に裂けてしまった羽や剥げ落ちた鱗粉はそのままでしたが、こびり付いていた泥や埃が無くなって、森で彷徨っていた時よりは随分ましに見えました。
葉脈だけを残して枯れた葉に、薄く透明な氷が張った冬の羽だと魏無羨は思うことにしました。
もちろん、魔法も宙を飛ぶことも出来ないお飾りの羽ですが、ほんの少しでも綺麗だと自分にいい聞かせられる要素を見つけることが出来たので魏無羨の心は少しだけ慰められました。
籠の縁に足を掛けて魏無羨が柔らかな寝床から抜け出そうとしていた時でした。
がちゃりと部屋の扉が開いて何者かが入ってきました。
魏無羨は慌てて籠の中に戻ろうとしましたが既に体の重心の殆どを籠の外側に掛けていた為にバランスを崩してべしゃり、と籠の外に落ちてしまいました。
そこまで高さがあるわけではありませんでしたが、羽が機能していない魏無羨は重力に従い籠が置かれていた机の天板に体を強かに打ち付けてしまいました。
「いたっ!」
よろめきながら魏無羨が起き上がると微かな衣摺れの音と共に、低く落ち着きのある耳に心地よい声が頭上から降ってきました。
「目が覚めたか。怪我の具合は?」
「お陰様で。あんたが俺を手当てしてくれたのか?」
「そうだ」
魏無羨が上を見上げてみるとそこには、濃紺のローブを纏い、大きなつばに先の折れ曲がった三角錐の帽子を被った青年が一人立っていました。
青年の肩にかかった長い黒髪がさらさらと流れ落ちていくのを無意識に目が追います。
帽子の下にある顔はこの世のものとは思えぬほど美しい顔立ちで、魏無羨はしばらくの間じいっと青年の顔を惚けた様に見つめておりました。
「どうかしたか?」
「いや!何でもない!助けてくれてありがとな!魔法使いのお兄さん!お礼に何か欲しいものある?あ、俺の羽はこんな有様だから今すぐに鱗粉はあげられないし宙も飛べないけど…俺にできる事なら何でもやるよ!」
魏無羨は青年に身惚れてしまっていたのを誤魔化す様に慌てて言葉を捲し立てました。
言葉を発した直後に「何でもやる」は言い過ぎたかもしれない、と魏無羨は少し後悔しました。
魔法使いとは、あらゆるものとの契約によって超常の現象を起こす者です。
青年の出立ちと部屋に置かれた品々から、彼が非常に高位の魔法使いであるのは明白で、先程の魏無羨の「何でもやる」という言葉を契約条件として利用されてしまえば魏無羨はその命尽きるまで絶対服従の奴隷として捉えられてしまいかねません。
「何でもはしなくていい。君の鱗粉もいらない。それと安易に何でもするなどと言わないようにしなさい」
青年の言葉に、心の内で密かに怯えていた魏無羨はほっと身の力を抜きましたが、鱗粉も求めず、さらには不用意な発言の指摘までしてくる魔法使いの目的が分からずに戸惑いました。
妖精の鱗粉は世の魔法使い達にとっては喉から手が出るほど欲しい大変希少な物質です。
もしかしたら青年は鱗粉を採取しようと自分を拾ったのかも知れないと魏無羨は考えていたのですが、どうやらそうでは無い様子です。
「じゃあ、俺は助けてもらった恩をどうやって返したらいい?」
「君の怪我が治るまで私の傍にいて欲しい」
「それだけか?」
「うん」
青年から提示された内容はあまりにもささやかで、魏無羨は拍子抜けしてしまいました。
怪我が治るまでの間この変わり者の青年の傍で過ごすのも面白そうだと魏無羨しばらくの間、魔法使いと共に暮らすことにしました。
「分かった。俺の怪我が治るまでお前の傍にいることにするよ」
「うん」
魏無羨の返答を聞くと青年の纏う冴え冴えとした水晶の様な雰囲気が僅かに綻んだ気がします。
「俺の名前は魏無羨。親み安く羨羨と呼んでくれてもいいぞ。魔法使い殿はなんて呼んだらいい?」
「私は藍忘機、君の好きに呼んでくれて構わない」
こうして一人と一匹の共同生活が始まりました。
藍忘機との生活は魏無羨にとって非常に退屈でつまらないものでした。
毎朝決まった時刻に起床し食事をする。
残りの時間は魔法の研究に費やし、亥の刻には就寝する。
延々と繰り返される代わり映えの無いつまらない藍忘機の生活が一周して魏無羨は面白く思えてきました。
問題なく動き回れるまでに回復した魏無羨は、何とかして藍忘機の生活を掻き乱してやろうと様々な悪戯を仕掛けました。
魏無羨の羽は飛ぶことが出来ない羽でしたので、藍忘機が作業台として使っているテーブルの上が彼の悪戯の餌食となりました。
羊皮紙への落書きから始まり、瓶の中身を入れ替え、藍忘機が魏無羨の身を小瓶の中に閉じ込めて拘束すれば、注意を引こうとひたすらに藍忘機に向かって話しかけました。
藍忘機は最初こそ魏無羨の悪戯に戸惑いはしましたが、彼を叱るでもなくすぐに受け入れてしまいました。
それどころか、元気に悪戯に勤しむ魏無羨を見て嬉しそうですらありました。
反対に、ちっとも手応えを感じられない魏無羨は面白くありません。
今日こそは、と意気込んで悪戯を仕掛けては藍忘機に美しく微笑み返される日々が続いていました。
「ねぇ、魔法使いさん。何をしてるの?羨羨は退屈だよ。ねぇ何か手伝うことある?」
藍忘機は作業に集中しているのか返事がありません。
(むっ、この俺様を放っておくとはいい度胸だな)
これまでは魏無羨が机の上から他の場所へ移動しようとする度に、それに気付いた藍忘機が危ないからと許してくれませんでした。
しかし今その藍忘機は火にかけた鍋の中身と、手に持った書物に付きっきりで魏無羨の行動に気付いていません。
この機を逃すものかと、魏無羨はするすると机の足を伝って床に降り立ちました。
引き出しや書棚がいつもよりずっと大きく高くそびえ立ち、先程まで立って居た机の天板がはるか上で頭上を覆っていました。
日頃、机の上から見る風景とはまるで違う光景に、生来好奇心の強い魏無羨は心を躍らせて一歩を踏み出しました。
藍忘機のこまめな掃除によって床には塵一つ落ちていません。
引き出しの隙間に本棚の裏側と魏無羨は己の興味の赴くままに冒険を楽しみます。
魏無羨が部屋の探索を初めてからしばらくして、突然ガシャンという大きな音が部屋に響き渡りました。
「羨羨‼︎何処にいる⁉︎」
机上に魏無羨の姿が無いことに気付いた藍忘機が酷く狼狽して部屋の中を歩き回ります。
ガサガサと部屋中の物をひっくり返しながら必死の形相で魏無羨を探しています。
「魏無羨‼︎羨羨‼︎いるなら返事をして‼︎」
魏無羨はそんな藍忘機の姿に驚き、慌てて書棚と壁の隙間から身を引っ張り出して返事を返しました。
「ここにいるよ」
「羨羨」
藍忘機は魏無羨の姿を見るなり、すぐさまに駆け寄って血の気が引いて青白くなってしまった両の手で彼を掬い上げ抱きしめました。服の裾が床に摺れるのも厭わずに藍忘機は膝をついて魏無羨を抱き締めています。
「藍忘機、苦しいよ。勝手に動いて悪かったよ。ねぇ。」
藍忘機の胸元に顔を埋め鼻先をくすぐる白壇の香りを心地よく感じながらも息苦しさを覚えた魏無羨は藍忘機に謝りながら抗議の声を挙げました。
ぽたりと魏無羨の頭に温かい雫が落ちました。
驚いて顔を上げてみれば、藍忘機が美しい金の瞳を濡らして泣いていました。
ぽろぽろ、と声も無く涙を零し続け、「君が、居なくなってしまったかと…お願い私の傍を離れないで…」消え入りそうな声で呟きました。
魏無羨の悪戯にも動じなかった藍忘機がまさか涙を流すとは思わず魏無羨はとても驚き、どうすればいいのか分からなくなって「う、うん」とぎこちなく返事を返しました。
「傍にいるから…もう泣くなって。お前に断りも無く居なくなったりしないから」
魏無羨はバタバタと藻掻き、藍忘機の手が少し緩んだ所を見計らって彼の拘束から抜け出すと腕をめいいっぱいに伸ばして藍忘機の頬へと触れました。
藍忘機の頬はしとどに濡れて、魏無羨の小さな手では到底拭い切れません。
「ごめん、ほらせっかくの美人ちゃんなが台無しじゃないか。いや泣いててもお前は綺麗だけどさ。そんなに泣いたら目玉が溶けてなくなっちゃうぞ」
魏無羨は誰かが涙を流すところを見ていられない質でしたので、忙しく言葉を紡ぎながら涙を拭います。
「…………藍湛」
「えっ」
藍忘機が魏無羨にだけ聞こえる声量で小さく呟きました。
魏無羨は簡潔に発されたその言葉の意味が理解できません。
「藍湛。私の真名」
「何考えてるんだ、正気か」
藍忘機がもう一度、少し言葉数を増やして同じ言葉を口にしました。
魏無羨は伝えられた言葉の意味を理解するなり驚き飛び上がり藍忘機の正気を疑いました。
妖精相手に魔法使いが真名を明かすなどまず有り得ないことです。
真名を知った者はその相手を縛ることも、呪い殺すことも容易にできてしまいます。
当然、高位の魔法使いである藍忘機がそのことを知らぬはずがありません。
突然に明かされた真名に魏無羨はより一層混乱し、藍忘機に詰め寄りました。
「おま「藍湛」……。」
名前を呼ばない限り話をさせてくれない藍忘機に観念して、魏無羨は恐る恐る彼の真名を呼びます。
「ら、藍湛、真名を知られればどうなるかくらい分かってるよな」
「うん。君になら何をされてもいい」
「なっ、はぁどうしてそこまで俺に拘るんだ」
魏無羨は何故、藍忘機がここまで自分に尽くすのかが分からず、きつい口調で問い詰めました。
「……」
藍忘機は黙したまま語ろうとしません。
「なぁ、俺だって理由も分からずに誰かの真名を呼ぶのは恐ろしい。もしお前がこのまま黙りを貫くつもりなら二度と呼んでやらないからな」
藍忘機が魏無羨に自身の真名を呼んでもらうことに対して、少なからず意味を見出していることは分かっていたので、魏無羨はそれを武器に藍忘機から理由を聞き出そうと脅し掛けました。
「………昔、まだ私が幼い頃に一度だけ君に会ったことがある」
長い沈黙の後、藍忘機がようやく口を開いて語り始めました。