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    koziorozec15

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    koziorozec15

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    応…の門/中庸×道真
    お題は、お題bot(@odai_bot00)さんの『体温に依存する幼さ』。

    体温に依存する幼さ
     夕空に雨が降り始めた。雨足は強く地面を打ち、遠くの山が烟(けぶ)るほどだった。時おり稲妻が走り、遠く雷が聞こえる。
     中庸は帰りの牛車に乗ろうとしていた道真がわずかに躊躇したのを見てとった。自身は濡れなくとも牛飼い童はずぶ濡れになってしまうことは誰の目にも明らかだった。牛飼い童といっても必ずしも幼い者である訳ではなく、中庸が支度させた牛車には年配の男が付き従っており、この雨の中を往くことを思って憂鬱な顔をしている。
     方違えの折りなどに使われるこの伴家の別邸は都の中心からは少し離れたところにあり、砂利敷きの路(みち)も多い。この雨ではぬかるみ、牛も足を取られるだろう。
     「いま少し、雨が弱まるまで留まられてはいかがかな」
     庭へ張り出した簀子(すのこ)で中庸は道真の袖を引いた。誘いかけるような優しい口調だが、行かせまいと手を離す気配はない。
     この青年は父である大納言とは違い、柔和な顔立ちと静かな声をしているせいか大人しい、───言い換えれば意気地のない男だと思われることも少なくはない。滅多に無理を通そうとしない態度を道真も悪く思うことはなくとも、強引さに欠けるところには、わずかに退屈を感じたこともある。
     中庸とは、もう片手では足りないくらいには逢瀬を重ねているが、道真が引き止められたのはこれが初めてだった。道真は明確な返事はしなかったが、否とも言わない様子に中庸が従者たちに道真の帰宅の取り止めを伝えると、牛飼い童などは安堵した様子をみせた。
     雨粒の吹き荒ぶ簀子(すのこ)から、ひとつ奥まった廂(ひさし)へと道真の手を引いて戻り、それぞれ元居た茵(しとね)に落ち着いた。雨天ではあるものの蔀戸はまだ開けてあり、宵闇に沈む庭が稲光で一瞬、明るく浮かび上がるのが御簾越しに見られた。一向に止む気配のない雨のざあざあという鳴動に掻き消されているのか、屋敷の女房や下男たちの気配も朧げに思える。
     しばらくの間、中庸と道真は特に言葉を交わすことなく黙っていた。道真は元々、賑やかにお喋りをする性格でないが、それでも場の空気に合わせて世間話をするくらいの愛想は持ち合わせている。しかし、今日は憂鬱の色を深く帯びた目で静かに雨を眺め、心は此処に居ないようにも見えた。そんな物憂げな横顔に何とも言葉に表し難い色香を見出し、中庸は飽くことなく見つめる。正直にいえば自分のほうを見ないことは少し寂しいが、けれど強引に道真の気を引くことで、その趣きを崩すくらいなら寂しさなどどうということはない。
     女房が新しい膳を運んでくると、ようやく道真は夢から目を覚ましたように中庸のほうを向いた。
     腕を伸ばして互いの盃へ酒を注ぎ合い、中庸はそれを飲み干し、道真は一口だけを飲んだ。酒はあまり得意でないらしく、ゆっくりと時間を掛けて舐めるように飲む様子は可愛らしい。けれども同時に、才ある道真はゆくゆくは朝庭に仕える立場となり、酒を勧められる機会も増え、断ることも出来ずに酔い潰されることもあるかも知れないと思うと気掛かりになる。中庸は、父こそ大納言の位へ昇り詰め朝廷内に食い込んではいるものの藤原一族が権勢を誇る世では、いずれその地位も一色に染められてしまい中庸自身が道真の側にいて守ってやることも叶わないだろうと、やるせない思いを抱え、心配になるのだった。
     「雨はお嫌いかな」
     「降らないのも困りものですが、私は好きになれません」
     日照りが続けば飢饉に繋がることから雨を否定することはしなかったが、道真は素直に思いを述べる。外に出られないだとか、衣が濡れるだとか、そんな端した理由ではなさそうだった。ずっと道真を見つめ続けてきた中庸には別の理由があることは察せられたが、道真が話そうとしない事柄を詮索しようというつもりはなく、また静かに一献傾けた。
     「雨を題材にした詩も多いのでしょうね」
     「ええ。秋の物悲しい雨の詩なども……」
     「例えば?何か教えてもらえましょうか」
     「『闌風伏雨秋紛紛……』」
     中庸が漢詩を話題に選んだのはわざとだった。まったく別の話題を持ち出すのも不自然に思えるし、漢詩は道真の得意分野であるから気を紛らわすことも出来るだろうと考えてのことだった。
     「これは詩聖・杜甫(とほ)の七言古詩『秋雨嘆』という詩です。長雨続きで飢饉の恐れが高まり、政治も乱れ……という世相を批判する内容なのですが、杜甫自身も生活に行き詰まり晩年には更に苦労を味わう背景を知ると一層、悲しさ、つらさが感じられます」
     私的な関係であったとしても、あの在原業平の漢学の師を務めるだけあって、淀みなく詩を吟じ、意味や背景までもを言い添える。先程までの物思いに耽ける様子と打って変わっての気丈な態度は可愛気なく見えるか、或いは不憫さを誘う。中庸は後者のほうだった。
     「優れた詩であっても、あんまり憐憫な内容だと聞くだけでも胸が痛む。……でも、私はこの雨が有り難い。道真殿を引き留める口実が出来た」
     真面目な顔をして漢詩を説いた道真は困ったような顔をして、目を伏せた。何と答えたら良いものかと思案しているのか、うろうろと目線を彷徨わせている。件の色男と親しくしている様子ながら色恋の手ほどきなどはないのだろうかと安堵する。道真が自ら業平の話をすることはないが、二人のあいだの行き来が多いことは何かの弾みで知り得てしまう。中庸と道真は明確な契りを交わしている間柄でもなく、彼らの関係を追求したり、ましてや咎めるつもりもないが、経験豊富なあの男と親しくしているのであれば早々に手がついていても不思議ではなかった。
     「道真殿の好まないことはしたくないというのが私の偽りない気持ちです。でも、ずっと手元に留めたいと思っていた。今日の憂いた顔を見てしまったら帰すなんて到底できない」
     手持ち無沙汰に酒の盃を弄んでいた道真は目を丸くして、それなら、そう仰ってくだされば、と唇を尖らせた。神経を尖らせているせいか、難しい顔をしていることの多い道真が初めて見せる拗ねた表情に中庸も頬を緩ませる。
     「中庸様は私にご興味など無いものとばかり……」
     「まさか。むしろ道真殿のほうが私に飽いているのではと思っていました。そなたの周りの大人は誰も皆、優秀な公達ばかりでしょう」
     侍読を務める父や、門下生たちや文章博士、更には業平など道真を取り巻く大人達は特異とも言える。縁戚といっても長らく菅家と交流のなかった中庸は父こそ大納言であれど、自身には秀でた才や大胆な行動力がある訳ではなく、その自覚もある。
     道真は手にしていた盃に唇をつけ、残りの酒を一息に飲み干した。濡れた唇を舐め、ため息をつく様子は自棄(やけ)っぽい仕草だが妙に扇情的で目が離せなくなる。
     「皆様方、強引で……」
     言葉尻は濁したが、付き合うのが大変だと言いたげな様子で道真はゆるゆると首を横に振った。膳へ戻した盃へ中庸は酒をついでやった。
     「では私は強引でない、と思っても良いのかな」
     「はい」
     「退屈に思われているのでは?」
     「そういうつもりで申し上げたのではなく……ご気分を害されましたか」
     慌てて体ごと向き直り、頭を下げて詫びようとする道真を押し留め、今度は中庸がゆるゆると首を横に振った。ちょっとした揶揄(からか)いのつもりだったが、改まって非礼を詫びようとするのは行き届いた躾や、若輩者であるからという訳でもあるまい。恐らく、もっとも大きな要因は大納言である伴善男の存在であろうことは想像に容易い。また魂鎮めの祭以来、大納言自身が道真に興味を抱いていることを道真は快くは思ってはいないらしいことも察せられる。
     中庸個人ではなく、大納言の嫡男として見られることは致し方ないことと理屈では分かっていても、道真によそよそしい態度を取られると残念でならない。業平を含めた遊び仲間のなかでも歳の近い道真とは、堅苦しさなく気安く接して欲しいと思っているが、過ぎた望みなのだろうか。
     「私のほうこそ、つい意地悪なことを申してしまった。道真殿の気が向かれた時には是非、我が屋敷へ遊びにおいでください。退屈を安閑と思って私のところでは気を遣わず、くつろいでくだされば本望です」
     気を遣わないようにというのは中庸の心からの言葉だった。
     中庸自身、帝の御前への参内の機会は少なく、政への関わりも薄い立場であっても朝廷内で睨み合う魑魅魍魎のような者たち、そんな彼らと渡り合おうとする者たちとの交流に息苦しさを感じることも少なくはない。一介の学生であり昇殿の許されていない道真であれば、尚更かも知れない。大学寮で共に学ぶ友人のなかには気心の知れた仲の者も居るのだろうが、そんな彼らともまた違った穏やかな時を過ごせる相手になりたいのだ。
     「そんなふうに仰らないでください。上辺だけの社交で好まない相手と長く過ごせるほど私は出来た人間でも、お人好しでもありません」
     道真は手を伸ばして中庸の盃へ酒を注いだ。じっと中庸を見つめる様子は誠実で、それこそ上辺を取り繕う言葉ではないことが伺える。
     「嬉しいことを言ってくれるのですね」
     酒を飲む唇がゆるく笑んでしまうのが分かる。数多というわけではないがそれなりに姫君との恋慕も経験している中庸は、これほど心を奪われる相手がかつて居ただろうかと記憶を手繰った。





     程なくして、女房たちが慌ただしく蔀戸を閉めて廻り始めた。降る雨も先程よりも大粒になったとみえて、止めどなく地鳴りのように大きな音がする。
     ばりばりと木を割るような轟音が辺りに響く。もしかすると近いところに落雷したのかも知れなかった。腹の底まで震わすような低い音が余韻のように聞こえ、女房たちが怯える。か細い声で「ああ、恐ろしい」と言い合う声が小波のようにさざめく。
     「止む気配どころか、雨はますます強くなるようですね」
     この勢いでは到底、帰途につくことは出来ないだろうと思うと思わず嬉しさで声が弾みそうになるのを堪え、平静を装って言った。もしも、このまま雨が止まなければ道真をずっと、此処に留めておけるのにと仄暗い考えが自然と湧いてくる。
     「ええ。中庸様にはご迷惑を……」
     一方、道真の声音は心なしか沈んだように思える。よく見てみると薄暗い部屋とはいえ、その顔色は青褪めているように感じられた。少し離れたところに座っている道真のほうへ膝でにじり寄る。中庸と道真のそれぞれの席は手を伸ばせば届くとはいえ、礼節を踏まえた距離を空けて整えられていたが、中庸のほうから距離を詰めた。
     道真は若く、学生の身とはいえ賢い。また物怖じせず芯の強いところがあることは先の塩焼きの宴の際にも垣間見られ、中庸は親しさを深めたいとは思えど、どのように接したら良いものかと考えあぐねていたのである。
     しかし今日の道真は明らかにいつもと様子が違い、多少の強引な振る舞いを受け入れるのではないかと直感的に感じていた。この機を逃せば、次はないかも知れない。この雨は、道真に或る種の呪(まじな)いを掛けているようだが、雨が止めばそれが解けてしまう。二度と同じ呪いには掛からないであろうことも察しがつく。
     中庸のなかには、この目の前の若者を早く自分のものにしてしまいたいという焦燥と、悩みや苦しみに囚われることなく健やかに過ごして欲しいという慈しみとが混じり合い、行き場ないそれらによって胸を苦しめていた。
     「迷惑などと申されますな。それよりも具合が優れませんか。お顔が青白いようです」
     歳の割には幼さを感じさせる丸みのある頬に、手の甲のほうでそっと触れてみる。青褪めていた顔に今度はわずかに赤みが差すのを見て、少し安堵した。しかし相変わらず表情は冴えない。
     「お恥ずかしい話ですが、雷が……」
     道真は所在無さげに目線を彷徨わせ、衣の袖で顔を隠すような仕草を見せる。無意識の所作なのだろうが、御簾の奥に隠されて大切に育てられた姫のようで可愛らしい。
     「それは困った。きっと雷もまだ続くでしょうから」
     雷鳴がびりびりと空気を震わすと、道真は外の様子を気にするように閉められた蔀のほうへ顔を向けた。
     「こちらへおいでなさい」
     思い切って道真の手を引き、腰を抱き寄せる。中庸が膝の上へ座らせるつもりであるらしいことを察した道真が、その腕に弱々しく抗った。
     「いけません、失礼になってしまいます。それに幼子でもありませんから、きっと重たいでしょう」
     「私がこうしたいのです。せめて雷が遠のくまで」
     「でも、衣が皺になってしまいます」
     道真は尚も中庸の胸を押すようにして腕を突っ張り、説き伏せようとするので脚の間へ横抱きにして座らせた。袖の中へ包み込むようにして閉じ込める。道真は未だ遠慮しているようだったが、低く大太鼓を打ち鳴らすような雷鳴が轟くと体を強張らせるのが分かる。袖先で耳を覆うようにしてしっかりと胸に抱くと、ようやく道真も体の力を抜いて身を預ける素振りを見せた。
     「静かに草葉を濡らす雨なら趣き深いと思えるのでしょうか」
     「道真殿は本当に雨がお嫌いなのですね」
     「……紙も湿ってしまいますから」
     勉学に励む身らしく真面目な答えだが雨はともかくとして、そんな理由で雷を嫌がることはあるまい。さて、何と言って理由を探ろうかと冷静に思案したが、良い考えが浮かばない。策を立てるとしたら、きっと道真のほうが上手(うわて)に違いない。それよりも、ほんのひとときであっても今こうして身を預けてくれる喜びに浸るほうが良いのではないか。
     「もし幼い兄弟が居たら、こんなふうに身を寄せ合って雨が過ぎるのを待つこともあるのでしょうね」
     他愛ない、会話の糸口のつもりで口にした言葉に道真が、はっとしたように顔を上げた。色濃い困惑と、わずかに哀傷を孕んだ眼差しに内心、ぎくりとする。
     「失礼、兄君のことがあるのに軽率でした。失念した訳ではないのですが私は幼い兄弟を世話する機会に恵まれなかったので、つい」
     「いえ…以前にもお話したと思うのですが、兄は私が幼いうちに亡くなったので記憶が朧気で……」
     涙声とまではいかないが、言葉尻は絞り出すような声が震えて途切れてしまった。ただならぬ様子に、自身の軽率な発言を悔いると同時に興味が湧く。
     「宴の折に少し話しましたね。赤子であった道真殿を抱かせてもらったと。その時の兄君の様子…そなたを見る優しい眼差しは今もよく覚えています。暑い日でしたから扇で仰いでやり、泣けばあやしてと宝物のように大切にしておられた」
     「それは本当ですか」
     中庸の話を疑っている訳ではないことは、うすく涙を湛えた目を見ればわかる。彼岸の人間に敵うはずもないのだが、しかし道真にこれほど深く思われていることを目の当たりにすると、少々妬ましく思える部分もある。
     「私が覚えている兄の姿は病に侵されて苦しむ姿なのです。書を読む側に侍(はべ)る私に字を教えてくれた茫茫たる記憶の欠片もありますが、苦しむ兄の姿が鮮烈に焼き付いていて……」
     衣の胸に縋る手が固く握り締められている。その手を取り、そっとほどいてやると道真は申し訳ありませんと居住まいを直した。大人しく、繋がれた手はそのままにしている。
     「先頃の父の一件がありますから、私も親族の苦しむ姿を目の当たりにする恐ろしさや悲しみは分かるつもりです。まして、幼子の目には余計に酷に写ったことでしょう」
     言葉数の増えた道真の話を聞いていると、胸の奥深くを暴くように思えて心が揺さぶられる。いけないことと分かっていながら禁断の地へ踏み込むような、背徳の喜びにも似た興奮だった。その高鳴る胸の鼓動を思わせるように、未だ雷鳴は低く重く轟いている。
     「あの日……亡くなる前に私が兄を最後に見たあの日も激しい雷雨が続いていました。まだ髪も結っていないほど幼かった私は雷を怖がって、兄に縋りたかった。けれど病で臥(ふ)せっているからと行かせてもらえず、皆が寝静まった頃に目を盗んで兄の寝所へ忍び込んだのです」
     中庸の手のひらを抜け出し、道真は手で目元を覆った。余程つらい記憶であろうことは伺い知れるが、言葉を遮ることはしなかった。興味があるのは勿論だが、きっと長らく胸に沈んでいた石のようなものなのだ。吐き出して楽になるのなら、そうするべきだと思った。
     「いずれ兄の病が良くなる時が来ると思っていた私は隠して取っておいた餅を差し上げようとしたのですが、兄がそれを受け取ることはありませんでした」
     目深に被った頭巾をずらし持ち上げると、そこに刻みつけられている傷痕にぎょっとした。まさか、あの穏やかで温情そうな兄君が幼い弟に手を上げたのだろうか。
     「兄を酷い人と思ってはいませんし、中庸様もそう思わないでください。その頃には病のせいで我を失っていて、私のことも分からなくなっていたのです。それを理解できたのは、ずっと後でしたが……」
     道真がまぶたを閉じると、頬を涙が一雫伝い落ちてゆく。嗚咽することもなく、それ以上涙を溢れさせることもなく、言葉も途切れてしまった。あの兄君であればきっと普段からよく世話をして道真も懐いていただろうから、幼いうちは病のせいと理解出来ず、優しくされた記憶さえ塗り潰されて長年、苦しんだのだろう。歳を重ねた今でこそ、かつての優しい優しい気性さえ病に蝕まれ見る影を無くしてしまったと分かったかも知れないが、それもまた残酷な話である。
     頬を濡らした涙を指先で拭ってやり、額の傷痕に唇で触れた。とうの昔に傷自体は塞がっているが、きっと道真の胸の内にも同じように、────もしかすると目に見えるものよりも深い傷を負って今なお癒えないままなのではないだろうか。
     「つらいことをよく話してくださった」
     「……中庸様だからです」
     民たちは疫病で毎日のように亡くなり、貴族といえど同じ目に遭わないとは言えない。死は決して遠く非現実的なものというわけではないが、しかし簡単に受け入れられるほど軽々しいものではない。それを話してくれたということは、わずかでも道真の信頼を得ることが出来ているのだろうかと不謹慎とは思いながらも嬉しさを覚える。
     「この話も、額の傷も、他の誰にも話したことはありません。家人しか知らないことです」
     「私も決して漏らしませぬ」
     そういえば、道真の父である是善も兄君のことのついては口を噤んでいた。それほどまでに菅家の人々に暗い影を落とす兄君の死は、中庸にとっても重たいものであるが、決して彼らを裏切るような真似はするまいと改めて誓うのだった。
     
     
     
     
     

     不意に零れたものであったのか頬を濡らした涙はすぐに乾いてしまったが、道真は伏し目がちに中庸の胸に頬を寄せていた。中庸の手に乗せられた彼の手はぬくもりを取り戻しており、身を寄せ合っていた甲斐があった。
     「塩焼きの宴の折に中庸様は、私の幼名も思い出してくださいましたね」
     ふと、道真が口を開いた。たった今、思い出したというよりかは、話す時機を伺っていたように見受けられた。
     「ええ。長らくお会いしておりませなんだが、お名前を聞いてすぐに分かりました」
     何の気なしに、その時のことを思い出して答えた。宴を催した業平が紹介し、道真が名乗るのを聞いて、あの阿呼殿がこんなに立派になられて……と感心したのを覚えている。業平に漢学を教えていると聞いたが驕るところがなく、遊び慣れてもいない初々しい態度、緊張した面持ちが好ましかった。
     「今一度、あの名前で呼んでくださいませんか」
     道真の躊躇いがちな願いは中庸の胸を抉った。
     薄々感じていたことではあるが、道真は永遠に失われた亡き兄のぬくもりを求めているのだ。雷鳴轟く雨の日に兄に拒絶された痛みと苦しみは体に染み付いて忘れられそうにないらしい。雨が降り、雷が鳴れば嫌でも思い出すあの日の出来事、その悲しみに溺れて冷たくなる体が、兄に代わる誰かの体温を求めてやまないのだろう。
     この事に今まで気が付かなかった自分の愚かしさを呪うと同時に、道真に対しても恨めしさが込み上げた。身代わりを求めるだなんて、浅はかで愚劣極まりないと蔑みたくなるほどだった。
     しかし彼が他の誰かを求めたなら、それは中庸の更なる苦しみとなり、憤りになることは明らかだった。
     今は亡き兄君の身代わりであるとしても、心身を捧げて道真に尽くせば、いずれは中庸自身を慕うようになるのではあるまいか。少なからず、他の者を身代わりにされるよりかはずっと良いではないかと掻き乱された心を鎮めるしかない。道真の仕打ちを恨み、苦しみながらも彼に従う他ないのは、好いてしまった者の弱みなのだ。
     この中庸の葛藤、苦痛も、そして自身が酷薄な仕打ちをしていることも道真はよく分かっているに違いなかった。その証拠に、幼名で呼んで欲しいとたった一言乞い、その後は黙している。中庸の苦しみを分かっているから強いることはしないが、己の願いを叶えるために無かったことにしようともしない。承諾するも拒絶するも中庸次第である。ただし、その選択によって二人の関係は今日この時を以て変わる。否と言えば、きっと関係は途絶えてしまう。永遠に。
     体温に依存する幼さが、これほど無情なものであるとは思いもしなかった。好色めいた人肌のぬくもりを求めようものなら軽薄な肉体関係だけで済みそうなものを、わざわざ額の傷や兄君の死を話して聞かせ、秘密を分かつところが狡猾であり、気高くもある。道真が苛まれる寂しさから求めるぬくもりは、下卑た肉欲ではなく、穢れのない愛なのだ。それを中庸に寄越せという。
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    koziorozec15

    DONE露骨な関係ではないですが、他のキャラクターよりも親密に描写しているので那楚タグをつけています。

    人前で表情を崩すことのない那貴の内面と、楚水副長が寄り添うことがあればいいなと思って書いたまま3年ぐらい経っていました。
    捨て物(キングダム/那楚)  いつだったかの戦場で、楚水さんを庇った兵士が死んだ。
     士族の、まだ若い奴だったが楚水騎兵団の前身にあたる郭備隊から所属していたらしい。
     よく楚水さんの側に居る姿を見掛けた。剣や鉾の手入れについて尋ねたり、兵法について教えてもらったりしていたようだ。
     飛信隊には俺たち一家を悪く言ったり、疎むような人間はいない。そいつも例外なく気さくで何度か話したことがある。何なら、そいつのほうが俺たちが持っている武器や刺青に興味を示し、索敵のコツを尋ねてきたこともあった。

     
     その若い兵士は楚水さんを庇った後、仲間に抱えられて日暮れとともに自陣へ戻ってきた。生きているのも不思議なぐらいの虫の息だった。
     そして付き合いの長い元・郭備兵や百姓組に囲まれて、これまでの功績を称えられ、可愛がられて逝った。血の気を失って青白い顔をしていたが穏やかに笑って、一番慕っていたであろう楚水さんの腕に抱かれて。
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