ブレンドコーヒー(ホット) 歩く、歩く。
夜の底を、ただ歩く。
白い息を立ち上らせながら、その行先も見届けず。
いつから昼夜が逆転したのか、厳密なところはレオナ自身も覚えていない。夜に寝つけなくなり、寝つけたとしてもすぐに目が覚め、目を閉じるだけの時間を無為に過ごすようになったきっかけがなんだったかも、同じように覚えていない。
病院にもかかっていない。睡眠外来のある病院は遠く、そこに行くまでの熱意もなかったから。恐らくは不眠症というやつだろうとは思うが、睡眠導入剤や、睡眠の質を高めるという謳い文句の商品に手を伸ばしたこともない。
昼間の授業中に眠ってしまうことを咎められはするものの、レオナは地頭が良く、授業なんて聞かなくても試験ではいつも優秀な成績を収めている。
成績優秀、素行不良。だからこそ教師側もどう扱えばいいのか分からないのだろう。一度、保健医から医者にかかることを勧められはしたが、結局はその程度。
そもそも良い成績評価を得ることにも興味はない。昼夜が逆転していても困ることがない。故に、レオナは治そうとする努力もしないまま、だらだらとこの生活で歩いていた。
不眠症はストレスでなることもあるらしい。以前気が向いて調べ、その文言を見た時は「さもありなん」と思ったものだ。
レオナは少しばかり特殊な出自と家庭環境を持っている。そのあたりでストレス源となりそうなものというのは星の数ほどあって、レオナが分かりきった病気を治療しようともせず、ただだらだらとのせられるままに生きているのもそこに起因する。
よく言えば達観。悪く言えば諦念、自棄、セルフネグレクト。
二十になる前から、レオナはそんな生活に身を置いていた。
眠れないからと散歩をするようになったのは気まぐれだった。
最初は家の近くのコンビニまで。それから少し歩いて夜間も賑やかな国道沿い、高架下へ。時に踏切を渡り、時に隣の駅まで……。
補導されなかったのは単に運が良かっただけだろう。兎角、レオナは色んな場所へと足を伸ばした。ただ歩き、ただ歩いた。夏の日も、秋も、冬も。雨の日だけは家の中で本を読んでいたが、そうでない時はいつも。
家を出る時間も、家へ帰る時間もまちまち。何故そんなことをするのかに自覚もない。眠れないくせにベッドの上に寝転んで眠りに縋ることを無為に感じたのかもしれなかったし、同じ時間にも起きている誰かの気配を感じたかったのかもしれない。
しかし遅い時間となると外に出ている人というのはほとんどおらず、人の存在を感じさせるのは走り去る車や明かりの着いた家々ばかり。同じように夜の散歩をしている者はこの辺りには居ないらしい。
ただ歩く、ただ歩く。
同じように無為に過ごすしかない夜を、ただ歩く。
「おや」
ふと聞こえた声に、レオナは一瞬聞き間違いかと思いながらそちらへ目を向けた。今歩いていた道の、角を曲がって二軒目の建物の前にいたのは、この時間には珍しく起きている生身の人間だった。目が合うと彼はぐるぐるに巻いたマフラーに顔の下のほとんどを埋めながらにこりと笑う。
「おはようございます。随分と薄手の格好だけれど、寒くないのかい?」
確かに、マフラーにダウンジャケットに手袋という服装をしたあの男と比べれば、レオナはそこそこ厚めのパーカーがたった一枚と随分な軽装だ。ずっと歩き詰めで体は温まっているにしろ、そう言われれば晒した肌を撫でる夜の寒さが際立って、レオナは耳を揺らすと白い息を吐き出す。
「寒い」
「どこかに向かっているのかな」
「どこにも」
レオナの端的な言葉に、男は「そう」と返すだけだった。てっきり説教か、過度の心配が来るかと思っていたのだが。もういいかといつの間にか止めていた足を再び動かそうとしたところで、男が手のひらで彼の後ろを示した。
「コーヒーとか、よければ飲んでいくかい? まだ開店前だから大したものは出せないが、それぐらいならすぐ入る」
「開店?」
「私の喫茶店なのさ」
確かに、男の足元には小さな看板らしきものが置いてある。その場に立ち止まったままじっと見ているレオナに、男は踵を返すと建物の扉の方へ行き、鍵を開けてから扉の取っ手を引いた。からん、とベルの音が鳴る。
「おいで。今日は冷える」
何故そうしたのかは分からないが、レオナは足を動かすと男の方へと向かった。興味本位だったかもしれないし、寒さを自覚したからかもしれない。
まだ薄暗い喫茶店の店内。暖房をつけてからさほど経っていないのだろう、僅かに暖かいぐらいの室温。見慣れない光景の中に染みついたコーヒーの匂いがして、それにひどく落ち着く心地がした。
「開店は何時だ?」
「六時さ」
薪ストーブに一番近いソファに座るよう促され、レオナはそちらに向かいながら問いかけた。帰ってきた答えに店内の時計を探し、その針の先を見ると訝しげに肩をすくめる。まだ四時にすらなっていない。
「随分と早いな」
「早めに暖房をつけておきたくて。冬はどうにも眠いから、その分早く寝ているんだよ」
店の奥から声がする。あちらは恐らくキッチンだろう。ふぅん、と曖昧な相槌を打って、レオナは店内へと目を向けた。薪ストーブの音は初めて聞いたが、耳触りのいい音がする。
店の中の物は多いが、そのどれにも品があった。椅子に敷かれたクッションは手編みだろうか、ところどころに置かれたクッションも同じ模様なので、同じ作家の物かもしれない。
かと思えば本棚に並んでいる本はまるで節操がなく、子供が感性に響いた物をただ押し込めた宝箱を見ているような気持ちになった。
「お待たせ。ブレンドコーヒーだよ、ミルクと砂糖は?」
「要らねえ」
「それは通だね。それとこちらはオマケのお菓子」
キッチンの奥から戻ってきた男の手にはカップと皿が一つずつ載ったトレーがあった。コーヒーの匂いが強まり、テーブルに置かれたそれに目を向ける。乳白色のカップの中に満ちた黒黒したコーヒーと、隣の皿に乗っているのはフィナンシェか。
コーヒーの香ばしさと洋菓子に混ぜられた洋酒の匂い。空気に温度を感じながら、レオナは男を見上げ、尻尾をはたと揺らした。
「……言い忘れてたが、財布がない」
「教えてくれてメルシー、しかし、ノン。誘ったのは私だからね、ご馳走させておくれ」
にこりと人のいい笑みが降ってきた。あぁ、とそこで何か思い出したような顔をして、男が胸元に手を当てて口を開く。
「自己紹介が遅れたね。私はルーク、ルーク・ハント。この喫茶店アイ・シー・ユーの店長さんさ」
「……レオナ」
カップを手に取り、口を寄せて息を吹きかけ、冷ます工程の途中に名乗りを挟む。男……ルークは愛想のひとつもないレオナに苦言を呈することなくにこりと笑って、「ごゆっくり」と言った。
レオナがコーヒーとフィナンシェを口にする間、ルークは彼を放って開店作業をしていた。薪ストーブに薪を足し、店内の床やテーブルを掃除し、奥から持ってきた一輪挿しを各テーブルに置いていく。挿されているのはナンテンだった。
立て看板の黒板に何か書いて外へ持って行き、新聞を置いて、レジスターを開けて何か数えて閉じ、キッチンの奥でごそごそ。
放っておかれながらレオナは店内を見て、時折コーヒーやフィナンシェを口に運んだ。コーヒーの品種や豆の善し悪しは知らないが、このコーヒーは口に合う。フィナンシェの甘さもちょうどいい。温かいものを飲むと腹の中も熱くなって、そこでようやく、体を動かしていたとしても自分の体はそこそこ冷えていたのか、という自覚をした。
ソファの座り心地はいい。コーヒーの匂い、作業の音。薄暗い店内は目に眩しすぎず、途中からは有線のクラシックが微かに静寂を慰めるのも良い。落ち着くとはこういうことかと、そんなことを思いながらレオナはソファに深く座り直した。
それにしても、奇特な男だ。先ほど出会ったばかりのレオナを店に誘い、コーヒーを一杯とお菓子を一つ差し出して、あとは放置しているというのは。口に出したものに毒や薬の気配もなければ、ありがちな説教や過度の心配も寄越してこない。
きっと、恐らく彼は善人なのだろう。こんな時間に一人で(それも薄手の格好で)歩いている青年を心配している。しかし警察に連絡もせず、事情も聞かない。つくづく変わった男だと改めて感じ、レオナは目を閉じて小さく息を吐いた。
こんな心地はいつぶりだろう。長く夜の散歩をしていると時にはこんな出会いもあるのか。ああそれにしても寒さは確かにそうだから、明日からはマフラーの一つぐらいはつけておくべきかもしれない。また同じように声をかけてくる者がいたとして、そちらがルークのように善人かどうかは分からないのだし。
喉の奥に残るコーヒーの苦味を一度嚥下して、小さく息をまた吐き。
次に目を開けた時、寝ていた自分に気付いて少なからず驚いた。窓から朝日が差し込んできていて来た時よりも少し明るい店内、探して見上げた時計は六時少し前を指している。……二時間弱も寝ていた、のだろうか。
それはレオナにとって初めての経験だった。一度夜中に目が覚めたら、あとは眠ることは出来ない。最近は夜に眠くなることもなく、寝たとしても三十分程度の物だった。それが、今はこうだ。
「おや、おはよう。ちょうどそろそろ起こそうかなと思っていたところだったんだ」
キッチンから出てきたルークが爽やかな挨拶をしてきて、レオナは曖昧な返事を口にした。座ったまま寝ていたからか、少し痛む首を擦りながら姿勢を正す。
「……寝てた」
「そのようだ。落ち着ける場所だったようで良かったよ」
さすがにそろそろ家に帰らなくてはならない。これから家に帰り、シャワーを浴びて出れば一限には間に合うだろう。立ち上がったレオナは、ルークが再びキッチンへ戻っていく背に声をかける。
「悪かったな、邪魔した」
「ノンノン、私が誘ったんじゃないか。もう帰るかい?」
「学校」
扉に嵌められたガラスから向こうのほのかに明るい外の景色が見える。レオナが扉を開けようとしたところで呼び止められ、振り返ると奥から戻ってきたルークが手に紙袋を持っていた。にこりと笑った彼がそれを差し出してくる。
「帰りながらでも食べておくれ。今から帰ったのでは、朝ご飯を食べる時間もあまりないだろうから」
紙袋からはコーヒーの匂いがした。レオナはそれを一瞥して、それから眉根を寄せてルークを見る。いかに善人と言えど、普通見ず知らずの人間にそこまでするだろうか?
その疑問がそのまま口から出る。
「……なんで見ず知らずの人間にそこまでする?」
「単なるお節介さ。私の朝食のついで、とも言うね。ハムとチーズのホットサンドだよ、うちのモーニングメニューで一番人気なんだ」
それは聞くだけで美味い。紙袋をじっと見つめるレオナに、ルークはそれをずいと差し出してレオナの手に押しつける。
「もし気にするようならまた次に来た時に代金を貰うよ。木曜日だけ定休日だから、それだけ気を付けてね」
その手を振り払うのは簡単なことだった。要らないお節介だと舌打ちをして、このまま扉を出て外に出てしまえばいいだけ。向こうが自分勝手に差し伸べた手なら、レオナが自分勝手に拒絶したっていいのだから。
しかし、普段なら無下にしていただろうに、今のレオナは意識するより先に、それこそ何となく、その紙袋を受け取っていた。袋越しに微かな温かさを感じて、開かれたままの袋の口から漂ってきたいい匂いに尻尾が揺れる。
さすがに礼の一言ぐらいは言わねばと顔を上げたレオナは、ルークの顔を見て、口に出そうとしていた言葉を飲み込んだ。
「冬の間は四時前からここにいるから、夜の散歩中に気が向いたら、またおいで」
こんなにも、人は美しく笑えるのか。
「……分かった。…………ありがとな」
「ドゥリアン。行ってらっしゃい、レオナくん」
扉を開くと冷気が流れ込んでくる。外に出て振り返れば、見送るルークがひらひらと手を振ってくれた。レオナもそれに尻尾を揺らして、来た道を思い出しながら見覚えのある景色の方へと足を向ける。
既に街のあちこちは起きていて、まだ早いが歩いている人間もそれなりにいた。レオナは歩きながら抱えた袋の中から包みを取りだして紙を捲り、いい焦げ目がついたパンに齧り付く。
ザクザクしたパンの中はまだ熱く、口の中の息を吐きながらハムとチーズを齧りとった。シンプルな味付けだが、その分とろけたチーズの風味が際立って美味い。はふはふと白い息を吐きながら齧り、飲み込めば腹の中が温かくなった。
その熱さは、決して嫌いではない。チーズが固まる前にとばくばく食べて、食べ終わった包みを丸めて紙袋に突っ込み、代わりにコーヒーのコップを取り出す。丁寧にスリーブが嵌められており、ミルクと砂糖は同封されていなかった。飲み歩き用の蓋の飲み口を開けて、ふうふうと小さな穴に息を吹きかけて飲める温度まで冷ましながら飲む。
保温性の高いコップだからか、蓋がされているからか、店内で飲んだ物よりも冷めるまでには時間がかかり、ちょうど飲み終わる頃には自宅の前の通りにまで来ていた。朝の忙しい時間で、多くの人がそれぞれの一日の始まりを過ごしているのとすれ違いながら、レオナは白い息を吐き出す。
腹の中は熱く、それが太陽が昇って暖かくなっていくせいではないのは分かりきっていた。自宅へ戻り、紙袋をゴミ箱に放り投げ、シャワールームへ向かいながらレオナは欠伸を一つする。
授業が終わったら、適当な雑貨屋にでも寄ってマフラーを買おう。また気が向いたらあの店に行って、次はコーヒー代も朝食代も渡さなくては。
「……美味かったって、言いそびれたな」
次は言えるだろうか。あんなに美しく笑える男に、面と向かって。しかし、もしそう伝えたら、彼はどんな風に笑うだろう。
熱いお湯を頭から浴び、息を吐く。喉奥に残ったコーヒーの余韻は初めてで、普段とほとんど同じような時間にシャワーを浴びているのに、いつもよりずっと長い時間を空けたような心地がした。