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    tojo_game

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    8/31のオクバデプチで出す新刊のサンプル(パート1部分)の先行公開です。
    記憶ありオク×記憶なしバデ・ループもの・バデさんが死ぬ・口調違いあり
    文庫サイズ・200ページ前後で1500~2000円予定
    励みになりますのでリアクションなど頂けると嬉しいです!

    #オクバデ
    okubade

    8/31新刊のサンプルの先出し(オクバデ) 行ったこともない場所に、見たこともない景色に、「まえにきたときはどうだった」と話す息子を、両親はよく気味悪がらなかったものだ。いや、気味悪くは思っていただろうが、それを息子の前で見せずに、「前に行った別の公園と勘違いしている」「テレビや絵本や夢で見たのだろう」というスタンスで受け止めて話してくれたことは、とても有難いことだと思う。

     昔から、知らないことを知っている子供だった。
     昨日の夕食を覚えているように、どこかの野原で石に腰掛けながら食べたパンを覚えている。
     テレビで語られた話に、大昔それを話して聞かせてくれた人のことを覚えている。
     そんな、生きてきたよりずっと多くのことをなんとなしに抱きしめて生きている子供が、自分だった。
     夢と現実を混合しているような、妄想と現実の境がついていないような、胡乱な言動を度々見せる子供。
     それを自分の頭がおかしいからだとして、殻の中に閉じこもることがなかったのは、先述の通り、両親がそれを嘘と決めつけず、気持ち悪いと詰らず、そういう個性だと受け止めてくれたことが大きかっただろう。
     物心つく頃に父が病気で亡くなり、母は女手一つで俺を育てていかないといけなくなったが、環境が大きく変わり、負担が増えても、そのおおらかさは変わらなかった。
    「もしかすると、あなたは生まれてくる前のことを覚えてるのかもね」
     輪廻転生、生まれ変わりの存在を認める宗教の信徒ではなかったが、それが絶対にない、異教の愚かな考えだと断じるような敬虔な信徒でもなかった母は、いつだったか、俺にそう言った。
     言われた時は「そんなこともあるんだ」と思っていたが、(だって四歳とかそこらだ、人の生き死にの理解もしていない!)すくすくと育っていき、知識や情緒が蓄積し、形成されていくにつれて、母の言葉は正しかったと思うようになった。



    「いらっしゃい! 待ってたわ、元気してた?」
    「まぁ、ぼちぼち? あなたは元気そう!」
     鳴らされたチャイムに玄関へ向かったお母さんの楽しそうな声がして、俺は本を読むのをやめた。
     今日、お客さんが来るのは知っていた。お母さんがパウンドケーキを焼いていたから。お母さんの昔からの友だちで、ずっと遠くに住んでいて、またこっちに越してきたのだと。俺と同じくらいの子どもがいるから、友だちになれたらいいわね、とお母さんは言っていた。
    「まぁね! あら、後ろに可愛い子が覗いてる。待ってね、うちの子も連れてくるから。オクジー!」
    「はぁい」
     大きな声で名前が呼ばれて、俺はそっちに向かう。リビングを出て、玄関に行くと、お母さんと、知らない女の人がいた。それから、女の人の足に隠れるようにして、俺と同じくらいか、少し小さいぐらいの子が立っている。女の人が明るく笑う。
    「まぁ、かわいい! 目元があなたそっくりね、髪の毛もふわふわ!」
    「うふふ、ありがと。オクジー、こっちおいで。お母さんのお友達にご挨拶しましょう」
     褒められて照れながら、お母さんのところに行く。お母さんのお友だちはしゃがんで、俺と目線を合わせてくれた。外の光が入ってきて、金色の髪がきらきらしている。
    「私は◾︎◾︎◾︎◾︎◾︎。お母さんのお友だちで、二個隣のブロックに越してきたの。お名前聞いてもいい?」
    「えっと、◾︎◾︎◾︎◾︎◾︎、だから、オクジー、です」
     名前と愛称を名乗る。本名で呼ぶ人はほとんど居ないから、愛称だけでもよかったな、となんとなく思った。お母さんのお友だちは笑顔で頷く。
    「オクジーね。今いくつ?」
    「五歳です」
    「そうなの! じゃあうちの子とは二個違いね」
     そう言うと、お母さんのお友だちは振り向いて、自分の後ろに手を伸ばした。そこで俺はようやく、隠れてしまっている子がいることを思い出す。
    「ほら、オクジーは二つお兄さんですって。あなたもお名前言える?」
     手を引っ張られるような形で、後ろにいた子は影から出てきた。その姿に、俺ははっと息を呑む。
     きらきらした金色の髪に、真っ白な肌の色。大きな目は空よりも薄い青色で、一瞬、女の子かと思うぐらいにきれいな子だった。絵本の中に出てくるお姫さまみたいに。
     そんな感想と一緒に思ったのは、この子を知っている、ということだった。どこで見たんだったっけ、テレビじゃないし、公園でもない。そもそもあの時はもっとこの子は、この人は大きくて、頭のてっぺんにも髪の毛がなくて、顔にも大きな傷があって、片目も黒いので覆っていた。
    「ほら、がんばって!」
     お友だちの人に肩を抱かれて、その子はおずおずと名前を言う。でもその名前は全然知らなくて、しっくり来なくて、あまり耳に残らなかった。
    「◾︎◾︎◾︎◾︎ね。ほんと可愛い子! ちょっと恥ずかしがり屋さんかな?」
    「そうなのよ、こだわりも強くって。オクジー、よければお友達になってあげてくれる?」
     名前を呼ばれて、俺は慌てて頷いた。どこで会ったんだったっけ、どこでお話したんだったっけ。そんなことばかり考えながら、その子に手を差し出す。
    「えっと……本、好き? ボールとか、おもちゃもあるけど」
     そう誘いながら、後ろの二つはあってもなくても同じことなのは頭のどこかで分かっていた。その子は少し上目遣いに俺を見て、小さくうなずく。俺の手よりも小さい手が、おそるおそる俺の手に重なった。
     柔らかくてあたたかい。
    「うん、……すき」
    「じゃあ、いっしょに見よう。さっき、お星さまの本を見てたんだ」
     繋いだ手を引いて家の中に案内する。後ろからはお母さんたちが楽しそうに嬉しそうに話しているのが聞こえたが、俺はあまりそれを気にせずに、リビングのソファに行く。本は開いたまま俺たちを待っていた。
    「ねぇ、なんて呼んだらいいかな」
     さっき聞いた名前を思い出しながら、それから考えられそうな愛称を口にして聞いてみる。それもやっぱりしっくり来ないな、と思いながら。何個か聞いてみても、その子は少し下を見たまま、足をぶらぶら揺らしていた。その首が横に振られる。
    「どれもやだ」
    「じゃあ、何なら好き?」
     お母さんたちがリビングを通り過ぎてキッチンに行くのを横目に、こっそり聞いてみる。その子はお母さんたちの方をちらりと見て、それからだいじなものの名前を呼ぶみたいに、言う。
    「バデーニ」
     それが名前じゃなくて苗字なのはなんとなく知っていたけれど、その響きはさっき聞いた名前よりもずっとしっくりきて、体の中にすとんと落ちてくる。
    「バデーニさん」
     口が勝手に動いた。その子は俺を見上げて、にへ、と笑う。ふくふくのほっぺが柔らかそうで、薄い色の目が髪に負けないぐらいきらきらしていて、あ、かわいい、と思う。それから、
    「うん。……それがすき」
     その目の細くなった感じに覚えがあった。空いっぱいの星と一緒に見た。肌寒い風に吹かれながら、苦しいことの手前で見た。
    「オクジー、ごほん、よもう」
     呼ばれた名前に覚えがあった。本を持って、それに目を落とすその横顔に、睫毛が落とす影の形に、覚えがあった。そこで俺は、ようやく思い出した。
    「バデーニさん」
     そう呼んで、振り返ってくれる姿を思い出す。何も見えない片目の薄い色を、濁っていても月の光のようにキレイだったあの色を。今は両目ともきらきらしていることが嬉しくって、鼻の奥がツンとした。
    「なに?」
    「あの……お星さま、好き?」
     本を指さして聞く。バデーニさんは指さした本の、星空の写真を見て、それからほっぺを赤くして、大きくうなずいた。
    「うん、すっごくすき!」
     空いっぱいの星を思い出す。絶対に綺麗な星空、天界の入口。そんな星空を写した写真を、それが載った本を、俺はバデーニさんの隣で見ている。
     胸がいっぱいになる。嬉しい。俺はそんな温かい気持ちと一緒に、知らないのに知っていることが、ここに生まれてくる前のことだと……死ぬ前のことだと、はっきり自覚した。
     俺はオクジー。昔もオクジーだった。今は愛称だけど、昔は名前がそれだった。
     大昔、お母さんもまだ生まれていないような遠い遠い昔、悪いことをして、首を吊られて死んだ。
     この人……バデーニさんの隣で。


    Behold, the day Behold, it is coming Your doom has gone forth, the rod has blossomed, arrogance has sprouted.
    ――その日が今、やって来た。運命の時がやって来た。杖は花を咲かせ、傲慢は芽を出した。
    『エゼキエル書/ 07章 10節』


    「いってきまーす!」
    「いってらっしゃい、楽しんで!」
     いつもの時間にカバンを持って家を出る。今日はいい天気だ、空の雲の数もうんと少ない。俺はそれに嬉しくなって、家の前の道を早足で行く。目指す先は二個隣のブロックにあるスクールバス乗り場だ。
     朝のこの時間のこの道は、車も人もあんまりいない。たまに、犬の散歩をしてる近くのおばあさんとか、自転車に乗った人とか、道に落ちた吸い殻や落ち葉を掃除している人がいるくらい。俺はそういう人たちに挨拶をしながら信号を渡って、少し先、いつもの場所で車止めにもたれかかりながら立っている子を見つけた。大きく手を振りながら、「おおい」と呼ぶ。
    「バデーニさん、おはよう!」
     呼べば、すぐにその子は振り向いた。帽子の下からこぼれてる髪の毛はきらきらして、俺を見ると少しだけ目を細めて、片手を上げる。
    「おはよう、オクジー」
     それからすぐ、その手は自分の頭を指さした。楽しそうに笑いながら、
    「寝ぐせ」
    「わ、マジですか」
    「マジ」
     バデーニさんの前で止まって、自分の髪を押さえつける。ふわふわの髪が指の隙間をこぼれていくばかりで、どこが跳ねてるのかいまいち分からない。見兼ねたバデーニさんが手を伸ばしてどこに寝ぐせがついてるか教えてくれた。お礼を言って、そこを押さえる。
    「まぁ、君の髪は元々ふわふわだから、少し跳ねてても気付かれないだろうけど」
    「でも、バデーニさんは気付くから。うー、恥ずかしい……」
    「ふふ、明日からは鏡を見てくるといいよ」
     きっと俺の顔は赤くなっている。それを見て、バデーニさんは相変わらず楽しそうに笑っている。もともとすごく可愛くて綺麗な子で、静かにしているとお人形さんみたいだなと思うが、俺は笑っている顔を見ている方が好きだ。
     お母さんやおばさん(バデーニさんのお母さんだ)がいうには、バデーニさんが笑っているのは珍しいらしい。俺は笑ってる顔をよく見るけど、他の子と一緒にいて笑うことってなかなかないんだそうだ。ちょっとだけ嬉しい、優越感、と言うんだっけ。
    「今日はあったかいね。お昼とかちょっと暑いかな、帽子してくればよかった」
    「今から取ってきたら? まだバスも来てないし……」
     空を見上げながら言って、それにバデーニさんが道の先を見ながら返したので、俺もそっちを見た。普段はちらほら車が通るし、スクールバスもこれぐらいの時間に来ていることが多いんだけど、今日はなんだか遅い気がする。それに、車も全然通っていない。俺がバデーニさんを見ると、バデーニさんも俺を見た。二人同時に、首をかしげる。
    「今日のバス、遅いね?」
    「ね。道が混んでるのかな?」
     俺は目を凝らすが、やっぱり車が見えない。学校が休みっていうわけでもないはずなんだけど。二人揃っていつもバスが来る方を見ていれば、後ろから声がした。
    「二人ともー!」
    「お母さん」
     振り向けば、バデーニさんの家からおばさんが出てくるところだった。片手にスマートフォンを持っていて、履いているのはぺたんこのサンダルだ。今から仕事に行くわけではないらしい。
    「おばさん、おはようございます」
    「おはよう、オクジー。今スクールバスの人から電話があって、あっちの方で事故があって道が通れなくなってるらしいの。それで、大通りの方まで出てきてほしいって」
     なるほど、道理で車もバスも来ないわけだ。通れないってことは大きな事故なんだろうけど、人が死んじゃっていないといいな。いつもバスが来る方の道の先を見た俺の隣で、バデーニさんが面倒くさそうに言う。
    「大通りの方って、どこ?」
    「パン屋さんの辺りに停めるって。クマの看板の……場所分かんないか、一緒に行きましょう」
    「あ、俺、場所分かります。お母さんのおつかいで行くから……」
     クマのマークのパン屋さんは分かる、お母さんからおつかいをお願いされてよく行くところだ。俺の顔ぐらい大きいポンチキとか、さくさくで美味しいクロワッサンとかがある。いつも焼けたパンのいい匂いがするので、傍を通るだけでもわくわくして、なんだか幸せな気持ちになるところだ。
     俺が手を上げながら言えば、バデーニさんは一つ頷いてからおばさんの方を見た。
    「オクジーが分かるって。二人で大丈夫」
    「そう? 大通りは車通りが多いから、出来る限り家側を歩いて、気を付けてね」
     うん、はい、と二人で返事をして、俺がパン屋さんの方に向かって歩き出せば、バデーニさんもちょっと後ろをついてきた。スクールバスはもういるんだろうか、多分いるんだろうな。きっと俺たちを待っててくれているだろうけど、あんまり待たせるのも申し訳ない。そもそも大通りって車もたくさんいるけど、長い時間バスを停めていても怒られないんだろうか? もし俺たちのせいで運転手さんが怒られちゃったら嫌だなぁ。
     そう思いながら歩いていたら、後ろから呼ばれるのと同時に手を掴まれた。
    「わっ、なに?」
    「何って、早い! 歩くのが!」
     振り返った先でバデーニさんが怒った顔をしてそう言うので、そこで俺は初めて自分が早足になっていたらしいことに気付いた。バデーニさんは俺よりも背が低いし、二つも年下だから、俺がちょっと早足になっただけでも、歩くのじゃ追いつけなかったみたいだ。ふうふうと息を整えているバデーニさんに俺は慌てて謝る。
    「す、すいません、気付かなくて。バスを待たせちゃってるかなって思って、つい」
    「歩いて行ったって、早足で行ったって、大して変わらないよ」
    「でも、大通りって車もあんまり停めてらんないかなって……心配かけるかもしれないし」
     そう話しながら、意識して普通に歩き出す。バデーニさんは俺の手を掴んだまま、口を尖らせていた。
    「朝から疲れたくない」
    「お、おぶる?」
    「やだ、かっこわるい」
     か、噛みつくように言われた。バデーニさん、今日はちょっと機嫌がよくないな。元々あんまり運動とかも好きじゃないし、予定が狂うのを嫌う人だから、しょうがないか。手は掴んだままなので、俺の方からも握り返して、その手を引いて歩いた。バデーニさんはしばらくぶつぶつと文句を言っていたけど、少ししたら黙って、引かれるままに歩いてくれた。

    「あ、パン屋さんあった。ほら、あそこ」
     大通りに出て曲がれば、クマのマークのパン屋さんの看板が見えた。その前の道にバスも停まっている。よかった、待っていてくれたみたいだ。俺が握っていた手を放して看板を指させば、バデーニさんはそっちを見て、小さく唸った。
    「どれ……?」
    「えっと、あの赤いカフェの看板の向こうで、横断歩道の手前の、ちょっと壁の上の方に」
    「赤い……分かんない。バスはあったけど……オクジーは本当に目がいいなぁ」
     しばらく頑張って見ようとしていたけど、分からなかったらしい。それでもバスは黄色くて目立つから見つけられたらしい。バスの乗るところの扉は開いていて、いつもバスの中で会う友達が降りてきて、俺たちに大きく手を振っていた。俺はそれに手を振り返して、少しだけ早足になる。
    「ほら、あともうちょっと! 早く行こう」
    「だから、そう変わらないって……」
     早足になってから、バデーニさんにそう言われて歩く速さを戻すまで、ほんの少しだった。何か、なんだろう、後ろに何か来たような気がして振り返る。

    「え」

     俺のすぐ目の前を、横から来た何かがすごい勢いで左から右へ移動して、ものすごい音がした。突然のことに心臓がばくばくして、その場に立ち尽くす。それが壁に刺さるようにして止まって、ようやく車だって気付いた。
     色んな音がしていたけど、何が何のどんな音なのか、頭の中に入ってこない。人の声がいくつもいくつも重なって、嫌な匂いがして、そこで、あれ、と気付く。
     バデーニさんはどこだ? 俺のすぐ後ろを歩いていたバデーニさんは。目の前にあるのは壁に刺さって止まっている車だけ。窓の中に、ハンドルに突っ伏している男の人がいるのは見えたけど、バデーニさんは。
     後ろから何かが肩に触る。でもバデーニさんじゃない、バデーニさんはそっちにはいない。俺は肩に触ったものに引きずられるようにして、何歩か後ずさる。転びそうになって、自然と目が地面に向いて、そこでようやくそれに気付いた。
     車の下。
     赤く汚れた、白くて細い腕。
     中途半端に曲がった指、地面に広がっていく赤色。

     はく、と動いた口から、すぐには声が出なくて。




    「どれ……?」
     隣から聞こえた声に、ぎょっとして飛びのいた。俺の突然の動きに驚いたらしいバデーニさんが「わっ」と声を上げて、丸い目で俺を見ている。
    「びっくりした。なに? 虫?」
     バデーニさんだ、間違いなく。俺は足を止めて、周りを見た。壁に刺さっている車はないし、地面の汚れもない。さっきよりもバスは遠くにある。
    「あれ……?」
    「? 変なオクジー。ほら、さっさと行こう。看板は見つけられなかったけど、バスは分かった」
     バデーニさんは不思議そうな顔をして、さっさと歩き出す。指さしているのはスクールバスだ。バスの扉は開いていて、いつも中で会う友達が降りてきて、俺たちに大きく手を振る。それにバデーニさんが片手を上げて、それから振り返る。立ち止まったままの俺に、首を傾げた。
    「オクジー? お腹でも痛い? 運転手さん連れてこようか」
    「あ、いや、……」
     俺がゆっくり歩き出せば、バデーニさんは不思議そうな顔をしたまままた歩き出した。さっきのはなんだったんだろう。そう考えて、さっきどんなタイミングであれが起きたのかを思い出そうとして、俺は弾かれたように顔を上げた。
    「待っ、バデーニさ」
     バデーニさんが振り向くのと、車道の方からすごい勢いで来た車がバデーニさんにぶつかるのは、ほとんど同時だった。俺の遠くまで見える目は、飛ぶ鳥を追える目は、バデーニさんの目が車を見て大きく丸くなるのと、細い腕が変な方向に向かって曲がるのを、見た。

     誰かが叫んでいる。車が勢いよく連れてきた風が腕を引っ掻いてじんじんした。バスから大人が下りてくるのが見えて、近くのお店からも人が出てきて、色んな人が色んなことを言っていて、ざわざわしていた。
     俺の今立っている場所から運転席は見えにくいけど、ハンドルに突っ伏している人の腕が少しだけ見えた。車の下に足があって、血がじわじわと広がっていくのが見えた。それから目が離せなかった。誰かが車に駆け寄って、車の向こうから運転手さんが俺たちの名前を呼ぶのが聞こえた。




    「ど、えっ?」
     隣から聞こえた声に我に返るのと同時に、俺はバデーニさんの腕を掴んで足を止めていた。道の先を見ようとしていたバデーニさんは驚いた顔をして俺を見ている。掴んだ腕は温かくて、確かに生きていた。
     そう、生きている。動いている。
    「オクジー?」
    「す、すいません、ちょっと、待ってください」
     腕を掴んだまま、口で息をする。頭は混乱していた。心臓はばくばくうるさくて、あまりにも早く動くものだから、頭もぐらぐらして、胸が苦しい気がした。
     今、二回、バデーニさんが目の前で死んだ。車に轢かれて、小さな体がひしゃげるのを見た。血が広がるのを見た。でも今俺はバデーニさんの腕を掴んでいて、バデーニさんは生きていて、俺のことを見ている。
     今のは、なんだろう。分からない。なんて言うんだっけ、夢? きっと先生やお母さんならちゃんとした名前を知っているのだろうけど、今の俺はそれを何て呼べばいいのか分からない。
     未来を見たんだろうか。時間が戻った? 夢を見ていた? でも夢にしては鮮明で、車が勢いよく目の前を通り過ぎる時の風が肌に当たって痛かったのを覚えている。未来を見たんだとしたら、一回目と二回目で違ったのはなんだろう。今俺はどこにいるのか。
    「オクジー」
     心臓がばくばくしている。肌がぶわりとして、どっと汗をかいていた。バデーニさんは俺の顔を覗き込んでいて、少し心配そうだった。心配させている、安心させたい。そう思って口を開いても、呼吸しか出来ない。心臓が耳のすぐ近くまで来てしまっているんじゃないかと思うぐらいに、ばくばくする音がうるさくて、頭がくらくらしている。
    「どうしたの、バスまで歩ける? あそこまで……」
     バデーニさんが道の先を見る。それがさっきの姿と重なって、俺はバデーニさんの腕を掴む力を強めた。
    「いたっ」
    「待ってください、バデーニさん、行かないで」
     頭の中はぐちゃぐちゃで良く分からなかったけど、バデーニさんを行かせたくないという気持ちは強くあった。みっともない声だったと思う、痛そうにしているからやめないととは思っても、でも怖くて、力を緩められない。
    「置いてかないよ、でも気分が悪いなら、座った方が」
     視界の端に動くものがあって、俺は咄嗟にバデーニさんの体を引き寄せた。小さい体は簡単に俺の腕の中に収まって、俺たちの少し先を、突然車が横切って壁に突っ込む。金属がひしゃげる、大きな衝突の音にバデーニさんはぎゅっと俺に抱き着いて、それからおそるおそる振り返った。
    「わ、えっ、車……」
     車が連れてきた風がバデーニさんの帽子を落としたけど、それだけだった。バデーニさんは俺の腕の中にいて、突然の事故に驚いている。俺の位置からは車の運転席でハンドルに突っ伏している人の腕が見えて、大きな音で気付いた近くの店から人が出てきて、ざわざわしている。車の向こうから、運転手さんが俺たちの名前を呼ぶのが聞こえた。バデーニさんが振り返って、それに返事をする。
    「ここです! あぁ、びっくりした……オクジー、大丈夫?」
     大きな目が、心配そうに俺を見上げている。生きている。手も足も無事だ、車の下から血が広がっていくこともない。
    「大丈夫かい、二人とも。怪我は……」
    「ないです、大丈夫。でもオクジーが、なんだか気分が悪いみたいで」
    「だいじょうぶ、です。すいません、歩けます」
     運転手さんがやって来て、俺はゆっくりバデーニさんを離した。指は強張ってしまっていて、それを意識して離したら、関節が少し痛かった。あぁ、バデーニさんの腕に痕がついてしまっている。痣にならないといいんだけど。
     家に帰るかと問われて、俺は首を横に振った。運転手さんが近くの人に何か言って、何か渡して、俺たちの肩を抱くとバスの方へ歩いていく。帽子を拾ったバデーニさんが俺の手を握って引いてくれた。だから、俺は時々かけられる声に頷いたり、返事をしたりしながら、まだばくばくしている心臓を、どうにか落ち着けようとする。

    「オクジー、大丈夫か?」
    「びっくりしたね、けがない?」
     バスに乗るなり、待っていた友達たちが一斉に聞いてきた。それを鬱陶しそうにしっしと手で払って、バデーニさんは俺の手を引きながら後ろの席に歩いていく。
    「オクジーは気分が悪いんだって。休ませたいからどいて」
     二人で並んで座席に座る。バスの中はざわついていたり、怯えていたりしたけど、運転手さんが座るように言ってバスを発進させる。バスの振動はいつも通りで、窓の外を流れる景色だけが違う。
    「オクジー」
    「あぁ、うん、えっと、大丈夫。ありがとう、バデーニさん」
     呼びかけられて答えれば、バデーニさんはまだ少し心配そうな顔をしていたけど、シートに背中をつけて窓の外を見た。握られた手だけはそのままで、俺はその手を握り返して、深く息を吐く。心臓が落ち着くまで、何度も、繰り返し。

     今、バデーニさんが二回死んだ。どっちも同じように、突っ込んできた車に轢かれて。
     でも、さっきは大丈夫だった。俺が動かなかったから、バデーニさんも動かなかったから、車は誰も轢かずに壁にぶつかった。ぶつかった場所は、多分一緒だったと思う。二回はその血の広がるのを見ていたら車がぶつかる前に戻っていたけど、今は戻っていない。
    (バデーニさんが、死ななかったから……?)
     あの二回はなんだったんだろう。バデーニさんが死んだから、死ぬ前に戻ったように思う。夢なんだろうか、未来を見ていたんだろうか、それとも本当に戻った?
     俺は、賢くないからこれをなんて言うのか知らない。先生に、お母さんに聞けば、何か知っているだろうか。でも人が死んだら時間が戻るなんて、聞いたことがない。だってそれなら、お父さんが死んでしまった時も戻ったはずだ。

     バスは知らない道で曲がって、どこかで停まって、別の友達が乗ってくる。待たされたことに文句を言って、他の友達が事故があったのだと興奮気味に話す。バスはまた動いて、しばらく行くと友達を乗せて、また動いて、それを繰り返して学校に向かう。
     いつもと違う道を走って、事故を見てしまったけど、それ以外は普段と何も変わらない。学校に着いたら俺たちは運転手さんにお礼を言って、学年の違うバデーニさんとは二階の廊下で別れて、俺の教室に行く。
     先生や友達に挨拶をして、授業を受けて、お昼を食べて、授業を受けて、帰りのバスの中でバデーニさんの隣に座って、ちょっとおしゃべりをする。帰る時には道も通れるようになっていて、俺とバデーニさんはバデーニさんの家の前で降りて、俺は俺の家まで歩いて帰った。
     お母さんは事故のことを知っていたみたいで、しきりに心配されたけど、怪我をしていないと言って腕や足を見せれば安心したみたいで、おやつのポンチキをくれた。甘酸っぱいジャムは美味しかった。
     それから、晩御飯を作ったお母さんは今日は夜勤だと言って仕事に行ったので、一人で留守番をする。もう慣れているので、さびしくはない。
     宿題をして、本を読んで、シャワーを浴びて、ご飯を食べて、お皿を洗って、テレビを見る。
     そうしていても、またあの時みたいに同じことが二回起きることはない。今までみたいに、初めてのことが、一回きりで過ぎていく。
     あれは、なんだったんだろう。いつもの寝る時間にベッドに寝転んで、天井を見ながら考える。でもやっぱりどれだけ考えても分からなくて、深く息を吐いた。
     とりあえず分かるのは、バデーニさんが生きていて、それが本当によかったということ。もしも事故が起きる前にならなかったら、今日の朝、あの場所で、バデーニさんは死んでしまっていた。あんな、急に横から来た車にぶつかられるなんて、とても痛かっただろうに。怖かったろうに。あんなに小さいのに、車と壁に挟まれて、きっととても痛かっただろう。
     その痛さを想像するとじわりと涙が滲んで、俺は慌ててパジャマの袖でそれを拭った。夜に泣くと目が腫れるんだってお母さんが言っていた。そうしたら明日バデーニさんに会った時にばれてしまう。それは嫌だ、格好悪いし、今日だってたくさん心配させたのに。
    「……ほんとうに、よかった……」
     何が起きたのかは分からないけど、そうはならなかったことだけは確かだ。それに安心して、俺は目元をぐしぐし拭って、あの事故の光景を思い出してどきどきする胸をおさえて、どうにか寝ようと頑張った。

     昔の、あの聖職者のバデーニさんなら、聞いたら教えてくれたんだろうか。何を言うのかという顔をして、それから難しい昔の人の本の話とか、言葉の話とかをしながら、それがどういうものか、難しい言葉を並べながら答えてくれただろうか。
     あまり人と積極的に関わろうとしない人だったけど、ここが分からない、こういうことですかと聞けば、俺が理解するまで噛み砕いて教えてくれる人だった。それに、俺よりもずっとたくさんのことを知っていたから、もしかするとこれがどういうことか教えてくれたかもしれない。
     でも、あのバデーニさんにはもう聞けない。あの人はうんと遠い昔の人だから。俺の隣で死んでしまって、今のバデーニさんは昔のことは何も知らないみたいだから。
     ううん、もし聞けたとしても、あの人に頼りすぎるのはよくない。ちゃんと自分の頭で考えて、自分なりの答えを見つけてから、こういうことですかって聞かないと。先生だって、お母さんだって、俺が何か聞くと、「オクジーはどう思う?」って一回は聞いてくる。
     だから、考えよう。あれがなんだったか、それを俺はどう思って、どう考えているか。
     ベッドに寝転びながら、考える。

    「……神様が、チャンスをくれた、のかな」
     とりあえず、そう思いたいので、そう思うことにした。



     車の事故から二ヶ月ぐらいが経った。最近は朝からもうかなり暑くて、太陽が出ている時間も多くなって、星を見るのが好きなバデーニさんは「星がなかなか出てきてくれない」と文句を言っている。
     あれから、バデーニさんが死んでしまうようなことは起きていないし、時間が戻るようなことも起きていない。あれは俺が見た幻覚とか、夢だったんじゃないか? とすら思う。あれが起きた証なんて俺の記憶以外にないから、なおさら。

    「ただいまぁ」
    「おかえりー、オクジー」
     学校から帰るなり、リビングに入らずに自分の部屋に行き、リュックサックを放り出して、別のカバンを取って出る。階段を降りていくと、お母さんがキッチンから首だけ出してこっちを見ていた。
    「今日も図書館?」
    「うん、バデーニさんと!」
    「お母さん夜勤だから、鍵持って行ってね。ご飯は置いとくから」
    「分かった、お仕事がんばって。いってきまーす!」
     玄関に置いている鍵を持って、家を出る。扉が閉まる直前に、お母さんが手を振って「いってらっしゃい」と言うのが見えた。俺は外に出ると駆け足で隣のブロックまで行く。
     バデーニさんはいつも通り家の前で待っていて、俺の足音に気付くと読んでいた本を閉じてカバンに入れた。

     最近、俺とバデーニさんは学校が終わったあと、一緒に図書館に行くようになった。バデーニさんはまだ小さいから一人で遠くまで行ったらダメっておばさんに言われていて、でも本を読んで勉強したいから、俺についてきてって頼んできたのがはじまりだ。
     俺はバデーニさんとは二個しか違わないし、背は大きい方だけど、まだまだ子供だ。だから「俺が一緒でもダメなんじゃないかなぁ」と思ったんだけど、おばさんは「オクジーと一緒なら安心ね」とオッケーを出してくれた。その信頼は、ちょっと照れ臭い。
     最初は図書館の中を散歩したり、バデーニさんの隣で学校の宿題をしていたりしたんだけど、バデーニさんに「図書館に来たなら本を読まないと」と言われて、司書さんのおすすめの本として並んでいた物語の本を開いてみたら、それが本当に本当に面白くて、気付けばバデーニさんにもう帰ると声を掛けられるまで、夢中になって読んでいた。
     それからは、難しそうな本を読んでいるバデーニさんの隣で、色んな本を読んで過ごすようになった。
     本の中には、見たことのない世界がある。色んな言葉や、色んな景色がある。書かれている内容自体は同じでも、その表し方には色々あって、その違いに個性があって面白い。文字を読めた時の興奮と喜びを思い出して、一度それに気付いてしまうと、空想の世界にのめりこんだ。

     俺の家にはあまり本がない。お父さんが死んでしまってから、お母さんは一人で俺を育てていて、あんまり余裕がないらしい。お母さんはそれを俺に言わないけど、なんとなく分かっているから、本が欲しいと言ったこともなかった。本を買うのは、自分で稼いで、お母さんを助けられるようになってからにしようと思っている。
     バデーニさんの家は、本はあるけど、もうとっくに読み尽くしてしまったんだとか。読書速度に合わせて本を買っているとキリがないから、本を読みたいなら図書館を利用するように、とおばさんに言われたらしい。
     それで週末に図書館に連れて行ってもらっていたらしいが、バデーニさんには週にたった二日、しかも三時間程度では足りなかった。だから放課後も行きたいと言って、俺に同行するよう求めたのだと、二人一緒に図書館に行く最初の日にバデーニさんの口から聞いた。
     今では週末も、予定が合えば一緒に図書館に行っている。
     バデーニさんはいつも難しそうな、大人の中でも特に優れた人しか読まないような分厚い本を読んでいた。あまりにも大きくて分厚いので、本棚からそれを取って、机のところまで運ぶのは俺の役目だ。そうしていると、俺が大きな体を持っていることがどこか誇らしくなった。昔の名残で、バデーニさんの役に立てるのが嬉しいのかもしれない。
     図書館にいる間、俺はだいたい物語に夢中になっているけど、そうじゃない時もたまにある。そうすると、周囲の反応が気になることもあった。
     子供二人が図書館にいると、当然、それなりに目を引く。小さなバデーニさんが読んでいる本を見て驚いた顔をした人が、隣にいる大きな俺が子供っぽい本を読んでいるのを見て、変な顔をする。そういうことが何度か続いたある日、いつも通り本を持って机に行って、バデーニさんの難しい本と、俺のおとぎ話の本を並べて置いて、俺は思わず言った。
    「バデーニさんみたいに難しい本じゃなくて、ちょっと恥ずかしいけど」
     バデーニさんは呆れた顔をして、椅子に座りながら言う。
    「君の読む本も、僕の読む本も、大の大人が真剣に作った本だよ。使ってる文字だって同じじゃないか」
     床につかない足を揺らしているのも、喋り方も、「どうしてそんなことを言うんだろう」と言いたそうな、少し退屈が滲む仕草だった。机の横に立ったままの俺を見上げて、バデーニさんは本の上に手を置く。
    「本気で作られた本なんだから、君はただ、好きな本を本気で楽しめばいい。僕だって、こういう本を読むのが偉いから読んでるんじゃなくて、こういう本が好きだから読んでるんだ。オクジーは違うの? 本当は、僕が読んでいるような本を読みたい?」
    「ち、違わない」
     その目に責められているような気がして、俺は慌てて首を横に振った。
    「俺も、好きだから、読みたいから、読んでる」
    「じゃあ、一緒だ。僕も、オクジーも」
     そう言って、バデーニさんは楽しそうな笑顔を見せてくれた。バデーニさんが本を開いたので、俺もようやく隣の椅子に座って、本の表紙を眺める。この本は、前に読んだ本と同じ人が書いた本だ。前に読んだ本も面白かったから、これもきっと面白いだろうと思って選んだ。ちらりと横目で隣を見れば、バデーニさんが今読み始めた本も、少し前に読んでいた本と同じ人が書いたものらしい。
     本当だ、一緒だ。なんだか急に、意識がはっきりしたような気がする。色んな時代の、色んな場所の人たちが、頭の中にある何かを文字にして刻んで残して、色んな人の手を借りながら今まで残った本。それが誰にどんな影響を与えるかは違うだろうけど、それが生み出されてここにあるのは同じ。
     そう思うと、俺の目の前にあるおとぎ話の本も、偉大に見えた。世界や人を変えてしまうような難しい本と変わらないぐらい。

    「ねぇ、バデーニさん」
     俺は本の表紙を撫でながら、尋ねる。
    「もし、俺が将来、こういうお話を書いて本にしたいって言ったら、どう思う?」
    「こういうお話?」
     バデーニさんは本を読むのを一旦止めて、目だけを俺に向けてきた。俺は頷いて、目の前の本を軽く持ち上げた。
    「こういう、子供でも楽しめるようなお話の本が作れたらなぁって。空想で出来てる、ここじゃないどこかの世界のお話とか」
     バデーニさんは二度、目を瞬かせて、それからぱかりと口が開いた。なんだか顔が輝いて見える。前にこの顔を見たのは、と思い出そうとして、思い出すより先にバデーニさんの口が動いた。
    「そうしたら、最初に読むのは僕がいい」
     きらきら、きらきら。髪も目も輝いている。そうだ、前にこの顔を見たのは、科学館に遊びに行って、大きな望遠鏡で月の模様を見せてもらった時だ。つまりは、興奮と喜びの顔。
    「読んでくれるの?」
    「読む。絶対、最初に。おばさんより先に読む。約束だから。破ったらひどいよ」
     バデーニさんがずいと顔を近づけながら捲し立ててくるので、俺は慌てて口の前に指を立てて静かにするようにと伝えた。ここは図書館だ、あまりうるさくすると怒られてしまう。それで子供だけじゃだめだと言われては困る。
     バデーニさんはすぐに気付いたらしくて、口を閉じると自分の椅子に座り直した。周りを見るが、こっちを見ていた人も一度ちらりと見ただけで怒るつもりはなかったのか、すぐ読書に戻っていく。それにほっとしながら、俺はバデーニさんの耳元で、そっと囁いた。
    「ありがとう、絶対、最初に読んでもらいます。約束です」
     バデーニさんははにかんで頷いた。やくそく、と返された声は小さすぎて、ほとんど唇しか動いていなかったけれど、隣にいた俺だけにはちゃんと聞こえた。バデーニさんが読書に戻ったので、俺も本を開く。
     今度はちゃんと感想を聞きたいな、と思った。昔の俺が書いた本はすぐに燃やされてしまったし、そもそも読んでいたとも知らなかった。読んでいたと知ってから死んでしまうまで、あまりにも時間は少なくて、ちゃんとした感想を聞けなかった。聞けたのは、聖職者のバデーニさんが、それを残そうと行動させるだけの感動をおぼえただろうことだけ。
     もちろん、それは十分嬉しかった。あの時の俺にはそれで十分だった。過ぎた願いで、想像もしてなかった幸福だった。でも、せっかくならもっとたくさん、細かい所まで聞きたかった。どこが特に好きだったか聞きたかったし、俺もその内容について話したいと思う。一冊の本を開いて、一緒に覗き込みながら話せたら、きっと楽しい。
     今なら、それが出来る。俺が本を書けば。
     どんなお話を書こう。どんな本を作ろう。わくわくと、心臓が踊っているようで、その音が隣にいるバデーニさんに聞こえていないといいな、と思った。ちょっと、照れ臭いから。



    「そういえば、明日は図書館に来ないから」
     そろそろ帰ろうと支度をしている時に、ふと思い出したようにバデーニさんが言った。俺が首をかしげながらそっちを見れば、バデーニさんは少し口を尖らせながら続ける。
    「お母さんが、親戚のお葬式で遠出するから、留守番する」
    「え、一緒に行かないの?」
    「一緒に行こうって言われたけど、イヤだって言った。そもそもお母さんのいとこなんて会ったことないし、一人で留守番できるって言ったら、そうしていいって」
     多分バデーニさんが頑固だからおばさんが折れたんだろうな、となんとなく分かった。初対面の時にもバデーニさんはこだわりが強いって言われていたし、無理に連れて行く方が大変だと思ったのかも。
    「じゃあ、本、借りてく? 一人で留守番するのも退屈だろうし……俺、持ちますよ」
    「いや、いい。観測でもしてる」
     バデーニさんが歩き出したので、俺もそれに続いた。夕方なのにまだ外は明るくて、早い時間な気がする。お腹の空き具合がもうすぐ晩御飯の時間だと教えてくれるような感じだ。
    「もともと、明日は星を見る予定だったんだ。明け方に流星群が極大になるから」
    「あっ、テレビで見ました。明日いい天気だからよく見えるって」
     夜中から明け方にかけて、一時間に何十個も星が流れるのだと、テレビの人は言っていた。その時間は寝てるから難しいと思っていたけど、バデーニさんは夜更かしして見るつもりらしい。いいなぁ、と呟けば、バデーニさんは首を傾げた。
    「オクジーも来る?」
    「うーん……行きたいけど、明後日も学校だし、寝ちゃいそうだし……お母さんに聞いてみていい?」
     お誘いはとても、とっても、すっごく嬉しい。バデーニさんと大好きな星が見られるってことも。でもその時間はいつも寝ているし、まだ子供なんだからダメって言われるかもしれない。バデーニさんに誘われたことを言ったら、お母さんはバデーニさんにもやめた方が良いと言わないだろうか? 流星群は一年に何回かあって、天気さえよければ毎年見れる。だから、もっと大きくなってからとか言われるかもしれない。
     うんうんと悩みながら歩いていれば、いつの間にかバデーニさんの家の前に着いていた。バデーニさんが立ち止まったことでそれに気付いた俺が顔を上げると、振り向いていたバデーニさんが言う。
    「観測は一人でも二人でも変わらないし、流星群のチャンスは何回もあるから、また今度ってなってもいいよ」
    「うん、でも、バデーニさんと一緒に星、見たいから。お母さんにお願いしてみる」
    「そっか」
     バデーニさんは少し照れ臭そうに笑って、「じゃあね」と言うと玄関の方に歩いて行った。俺も「また明日」と言って、俺の家まで歩いていく。太陽はまだ沈んでいなくて、ご飯の美味しい匂いにお腹がぐぅと鳴った。



    「ダメだったみたいだ」
    「分かります……?」
     顔を見るなり言われて、俺は見るからにしょぼくれているんだろうな、と少し恥ずかしくなった。それでも、だからといって、いつも通りの顔が出来るほどの元気はなくて、「すいません」とバデーニさんに謝る。
     昨日帰った時にお母さんは仕事に行っていていなかったから、今朝バデーニさんと夜中に流星群を見てもいいか聞いたけど、ダメって言われた。理由はやっぱり子供が夜更かしするのはダメだってことと、次の日が学校なのと、おばさんがいないのに勝手にお邪魔しちゃだめってことと、大人がいないのは危ないってこと。
    「……ってことだったから、もっと早い時間に極大になる流星群の時とかに、リベンジしてもいいですか……」
    「うん、いいよ」
     バデーニさんはあんまりショックじゃないみたいで、それがちょっと寂しかった。俺はバデーニさんと星を見るの、すごく楽しそうだなって思ってわくわくしてたんだけど。昔見た星空の記憶はおぼろげにしか覚えていないけど、見たら前と同じとか、違うとか、分かるかもしれない。隣にバデーニさんがいればなおさら。死ぬ直前に見たあの星空みたいに、流星群の夜の星空も綺麗なのかなって。星がたくさん降るのってどんな景色なんだろうって、わくわくしていたのに。
    「オクジー」
     かぶっていた帽子を外されたと思ったら、わしゃわしゃと髪を撫でられた。撫でられたというより混ぜられた。ふわふわの俺の髪をぐしゃぐしゃにしながら、バデーニさんはどこか楽しそうに、そして優しい顔をして、俺を見上げている。
    「君とはずっと友達だから、もっと大きくなってからでも、チャンスはあるよ。違う?」
    「違わないけど……」
    「今回は残念だけどしょうがない。お母さんがいる時ならおばさんもいいって言うかもしれないし、作戦立てて、また聞いてみよう」
     俺が頷けば、バデーニさんも笑って頷いてくれた。どっちが年上だか分からないな。
     バスがやってきて、俺は帽子をかぶり直す。次の流星群の前に、方角とか、時間とか、流星群の観測の仕方とかを調べておこうかな。もっと早い時間にたくさん星が流れる時なら、お母さんも許してくれるかもしれない。説得するには知識が必要だ。
     明日図書館に行く時はそういう本を読んでみよう。

     いつも通り学校で授業を受けて、いつも通り帰りのバスに乗って、いつも通りの場所で降りる。いつもならまたここで待ち合わせだと言って、二人とも一旦家に帰ってから図書館に行くけど、今日はこのまま解散だ。
     図書館に通うようになったのはそれなりに最近なのに、もう図書館に行かないのが変な感じになっている。バデーニさんが声を掛けてくれなければ、毎日放課後に図書館に行くなんてしなかっただろう。昔から、バデーニさんは俺を新しいものに出会わせてくれる存在なのかもしれない。
    「それじゃあ、また明日。観測楽しんで、感想聞かせてください」
    「うん、また明日、オクジー」
     バデーニさんの家の前で別れて、家に帰る。図書館に行かない時の俺って、家に帰ってきたら何してたっけ。とりあえず手を洗ってから、晩御飯の準備をしているお母さんを手伝うことにした。

     野菜の皮むきを手伝って、味見も手伝って、「あとはいいよ」と言われた俺は自分の部屋に行って、本を読むことにした。小さい頃からずっと読んでいる、星の図鑑だ。それにはもちろん流星群のページもあったけど、写真とか簡単な説明とかしかなくて、一年に何回流星群が起きるのか、何時くらいが極大か、とかは書いていなかった。
     きっと、明日の朝のバデーニさんは眠たい目をこすりながら、興奮気味に話して聞かせてくれるだろう。バデーニさん、喋りすぎて吐くことがあるから、ある程度で止めないとな。一応吐いてもいいようにビニール袋とか持っていこうかな。
     バデーニさんが嬉々として喋るのを聞いているのが、俺は好きだ。バデーニさんはとても頭がよくて、勉強も出来る。学校の授業は簡単すぎて退屈だと言っていたので、早々に飛び級とかするかもしれない。バデーニさんが俺と同級生になったり、上級生になったりするかもしれないわけだ。
     でも正直、そうなったとしても驚かない。聖職者のバデーニさんも、あの時の俺は「聖職者様はさすがだなぁ」と思っていたけど、今思い返してみれば、あれは聖職者様がすごいんじゃなくて、バデーニさんがとんでもなく賢かったんだと気付く。だって今の歴史書の地動説の証明よりも百年ぐらい早くに、望遠鏡もないのに、たくさんの資料と自分の頭だけでその答えに辿り着くなんて、とんでもなくすごい。
     あのバデーニさんも、ヨレンタさんも、とんでもなくすごい人たちだった。どうしてそんな人たちと出会えたのか分からないぐらいに、見えている世界が違った人たち。そんな彼らだけが見られる景色を、ほんの一瞬、ほんのごくごく一部だけだったとしても、かつての俺は一緒に見ることが出来たんだなぁ、と感動してしまう。
     星の図鑑を撫でる。太陽系の絵。太陽を中心に、それぞれの星が動き、調和している世界。地球は底に磔にされていなくて、他の星と一緒に動いている。金星、地球、火星。俺にとってとても大切な三つの星。
     太陽が沈んですぐくらいに、ちょっとだけ外に行って金星を見てみようかな。今日の金星が満ちているかどうかは分からないけど、なんだか今は、昔の記憶と同じことをしてみたい気分だ。
    「あ、じゃあ先に宿題しちゃおう」
     図鑑を閉じた俺は、勉強机に向かうことにした。晩御飯前に終わらせられたら、書きたいお話について、簡単でも書き出してみてもいいかもしれない。昔の記憶についてのこととかでもいいかも。今の俺みたいに、昔生きていた時の記憶がある人のお話とか、逆にみんなが覚えているのに一人だけ覚えていない人のお話とかも、面白いんじゃないか。
     たくさん読んだ色んな本のことを思い出しながら、少しだけそわそわする。頭の中にあることを文字にすれば、あとから読み返して思い出すことも出来るし、他の誰かに見せることも出来る。本当に、文字って奇蹟だ。
     楽しいことに夢中になるためにも、今は宿題を終わらせてしまおう。俺は袖を捲って、ペンを手に取った。

     ふと見た時計の針がいつもの晩御飯の時間になっていたので、ペンを置く。宿題は晩御飯までにはちょっと間に合わなかった。そろそろお母さんがご飯よって呼びに来る頃だ。続きはご飯の後にしよう。
     部屋を出て下に行こうとしたら、玄関の扉を開けて、お母さんが外を見ているのが見えた。荷物が届いたのかなって思ったけど、手には何も持っていなくて、エプロンもつけたままだ。なんだろう、と首をかしげて、階段を降りて、そっちに行きながら声を掛ける。
    「お母さん? どうかしたの?」
    「あぁ、オクジー」
     お母さんの横から外を見る。うるさいサイレンを鳴らしながら消防車が横切っていくのと、まだ暗くなりきらない空に黒い雲があるのが見えて、それがすぐに雲じゃなくて煙だと気付く。
    「火事?」
    「そうみたい。サイレンの音が近いから、近所かもと思って」
     俺はお母さんの隣をすり抜けて、家の前の道まで出ることにした。俺の目はうんといいから、どこの家か分かるだろうし、お母さんにどのあたりって教えてあげようと思って。お母さんは俺の名前を少し怒った声で呼んだけど、「見るだけだから!」と答えて、庭の先に出る。
     黒い煙の来る方を見れば、道の奥に消防車が何台も停まって、家に向かって水をかけているのが見えた。近所の人たちも家の前に出てきて様子をうかがっていて、不安そうに、心配そうにしている。煙はまだもくもくと上がっていて、なかなか消えなさそうだ。
    「オクジー、危ないから戻っておいで」
    「はぁい」
     お母さんに言われて、歩道から庭に戻る。しゃく、しゃく、と芝生を靴で踏む感触。あっちの方はバデーニさんの家の方だ。こんなにも火事で騒がしいと、煙がすごくて、今日の夜は天体観測どころじゃないだろうな。バデーニさん、明日会ったら怒ってそうだ。予定が狂うのを嫌がる人だし、……
    「……あれ?」
     ふと感じた嫌な予感に、俺は足を止めた。さっき消防車が停まっていたところ、消防士の人がホースを向けていたところ。その近くにあった車止めは、いつもバデーニさんが寄りかかっているやつじゃなかったっけ。
     咄嗟に踵を返して、歩道に出てそっちを見る。下の方に誰かが大昔に貼ったらしい、良く分からないステッカーが貼ってある車止め。俺を待つ時、バデーニさんがよく寄りかかっている車止め。見間違いじゃなかった。じゃあ、今燃えてるのは。
    「オクジー」
     後ろからお母さんに呼ばれているけど、俺はそれに返事もせずに駆けだした。追い抜かした時に後ろに下がった人たちの驚いた顔とか、止めようとする声とか、そういうのを認識はしていても、それが何かまでは頭の中に残らない。心臓がうるさくて、体の中心が重くて、必死に走った。空気は煙たくて、近付くにつれて熱くなる。見慣れた家の窓が割れて、壁が焦げて、火が見えた。
    「君、危ないよ!」
     消防車の横で何かしていた消防士の人に行く手を阻まれる。俺は呼吸を整えるのももどかしくて、走ってきた勢いをそのまま吐き出すみたいにして、その人に聞いた。
    「ばっ、バデーニさんは この家の子は、無事ですか」
     消防士の人は驚いて目を丸くした。説明が足りなかったかと、俺は心臓をおさえるために胸のあたりの服をぎゅうと握りしめながら叫ぶ。
    「一人で留守番するって言ってたんです、今日お母さんがいないから、図書館に行けないって! 学校終わりに別れて、家にいたはずで、バデーニさんはどこですか」
     まわりはうるさくて、俺の声も紛れてしまいそうで、必死に声を張り上げた。消防士の人は慌てた様子で他の消防士の人に話しかけに行って、俺はそこに立ったまま燃える家を見る。すると、突然後ろから腕を掴まれた。
    「オクジー! 危ないでしょ、なにしてるの!」
     お母さんだ。お母さんは俺に怒って、それから燃えてる家の方を見て、泣きそうな顔になった。でもすぐにぐっと顔をしかめて、俺の手を引く。
    「消防士さんの邪魔になっちゃだめ。帰るよ」
    「で、でも、バデーニさんが」
     手を引かれながら燃えてる家を振り返る。消防士さんが玄関をやぶって家に突入したのを見て、急に体が寒くなった。だって、燃える家に入るなんて、中に誰かいて、助けないといけないからじゃないか。家を見上げる。壁は真っ黒で、扉もなくなって、窓は割れて、二階の窓からは黒い煙が出ている。
     この中に、バデーニさんがいる?
     お母さんは俺を連れて帰ろうとしたけど、俺はふんばって抵抗した。目を凝らして、必死に火の向こうにバデーニさんを探そうとした。少しして何か動いたと思ったら、裏口の方から何かを抱えた消防士の人が出てきて、外から水をかけていた消防士の人たちがそれを見て、道を空けたり、消防車から何か持って来たりする。
     遠くから救急車のサイレンが聞こえて、消防士の人が抱えたものを見る。煤で汚れて、赤く爛れて、焦げて、ちぢれて、でもそれは折り畳まれた棒みたいなのがあって、それは手と足で、つまりは人間の形をしていて、でもそんな、どこまでが服で肉なのかも分からないような



     後ろ手に扉を閉めた感触が手のひらにあって、俺は立ち尽くした。どっと汗が噴き出る。胸が苦しくなって、深く息を吸えなくて、その場にうずくまって必死に呼吸をした。空気は少しも煙の臭いがしなくて、どこにも火の熱さはない。
     気を付けないと、喉から血が出るまで叫んでしまいそうだった。
     時計を見る。宿題を始める前の時間だ。時間が戻っている。あの車の時と同じように。ということは、バデーニさんはまた死んだってことだ。車の下の手足とあの焼けただれた肉を思い出して、ぐぅっと喉の奥が締まる。
     俺は部屋を出てすぐのトイレに駆け込んで、お腹の中のものをげえげえ吐き出した。口の中が酸っぱくって、喉奥が痛くて、嫌な匂いがして、喉の内側や口の中を、まだ形の残ってる物が通っていく感覚が嫌だった。吐きながら、涙がぼろぼろでた。
     小さな火傷はしたことがあるけど、火事みたいに大きい火に触ると、あんなになるんだ。俺の良い目は、夜になろうとしてる暗がりが炎に照らされている中でも、細かい部分までくっきりと見えてしまって、目を閉じるとそれを思い出して辛くなった。
     トイレを流して、手を洗うところの水で口を濯いで、もう一度流す。お母さんは来ない、気付いてないみたいで良かった、心配させてしまうから。俺は自分の部屋に戻って、袖で涙を拭った。
    「バデーニさんのところに、行かないと」
     きっと、このままだとバデーニさんの家は火事になって、バデーニさんは死んでしまう。俺はすぐに部屋を出て、リビングに駆け込んだ。
    「お母さん、おやつってある?」
    「なぁに、お腹すいちゃった? スナックならあるけど、晩御飯食べられなくなっちゃわない?」
     台所のお母さんは鍋を混ぜながら言う。俺は顔を見られないように、まるでお菓子に夢中になっているように、いつもお母さんがお菓子を入れている棚の扉を開けた。
    「バデーニさん、今日は一人でお留守番って言ってたから、一人で寂しくないかなって。半分こして食べたら晩御飯もちゃんと食べられるし、ちょっと行ってきてもいい?」
     まぁバデーニさんが一人で寂しがることなんてないんだけど、(そもそも留守番も自分から言い出しているし……)お母さんはいつも俺たちが二人一緒の仲良しだと知っているからか、天体観測をダメって言った代わりにか、なるほどと思ったような顔をしながら俺の横に来て、戸棚の上の方にあったスナック菓子の袋を取ってくれた。
    「いいけど、ちゃんと晩御飯の時間には帰ってきなさいね。向こうのお母さんはいないんだから、あんまりお邪魔しちゃダメよ」
    「うん、ありがとう、お母さん!」
     俺はお菓子を持って、台所を飛び出した。いってきまぁす、と言いながら外に出て、バデーニさんの家に急ぐ。まだ太陽はそこそこ高くにあって、見慣れた家は燃えても焦げてもいなかった。古ぼけたシールの車止めを通り過ぎて、インターホンを鳴らす。
     玄関の扉の向こうから、インターホンが鳴ったことを知らせる音が微かに聞こえた。でも応答の音はしない。インターホンのカメラの前に立ちながら、もう一回鳴らす。……やっぱり出ない。
     バデーニさんは家にいるはずだ。だって図書館にも行かなかったし、だから火事に巻き込まれた。すぐにインターホンに出られない場所にいるんだろうか、何かに巻き込まれていないか? 心臓がドキドキして、追われるようにインターホンを何度も押した。
     大丈夫かな、バデーニさんがいることに気付かれなくて、消防士の人が助けに行くことになったのも、もしかして何かあって、一人じゃ逃げられない状況だったんじゃないだろうか。たとえば急に具合が悪くなって立ち上がれなくなったとか、倒れた家具で道がふさがれてたとか、挟まれちゃっていたとか。いくら読書に集中していてもさすがに火事なら気付くだろうし、今この時も何か起きていたらどうしよう。どきどきと心臓がどんどん早くなって、
    『うるっさい!』
     急に大きすぎて音割れした声がして、俺の頭の中に溢れていた嫌な想像を吹き飛ばした。バデーニさんの名前を呼ぶ前にインターホンのスピーカーから通信の切れる音がして、扉の向こうから大きな足音が近付いてくる。扉が勢いよく開くと、かけられたままのチェーンが引っ張られてガチャンッと音を立てた。
    「なに、オクジー! 寝てたんだけど!」
    「す、すいません!」
     扉の隙間から覗くバデーニさんはめちゃくちゃに怒っていた。髪の毛がぼっさぼさで、服もちょっとよれていたので、本当に今起きたらしい。それを見て、夜に観測するんだから、そりゃあお昼寝しておくか、とようやく思考が追いついた。
     反射的に謝ると、バデーニさんは小さくスラングで悪態をついて、扉を閉める。金属の擦れる音がして、扉はもう一度開いた。今度はチェーンが外されていたので、扉は大きく開いて、まだ怒った顔をしているバデーニさんが体でそれを支える。足には靴下しか履いていなかった。
    「で、何? やっぱり観測してもいいって言われたの? そうだとしたら、もっと嬉しそうにしてそうだけど」
    「あ、えぇと、違うんですけど……」
     本当は家に上がらせてもらう理由として「次の観測に向けて流星群について教えてほしい」とか言おうと思っていたけど、観測のための昼寝を遮るほどの理由にはならない。お母さんに伝えた理由をバデーニさんに伝えたら、多分すごい怒る。だってバデーニさんがそういうタイプじゃないって俺が良く分かっているし、俺が一番良く分かっていることもバデーニさんは分かっている。バデーニさん、嘗められるの嫌いだから、絶対怒る。すぐ扉を閉められる。多分次はインターホンにも出てくれない。
     手に持っているお菓子を「観測の差し入れ」と言って渡そうか。だめだ、受け取ってすぐ帰ってしまう。一回起こしたから火事になっても早めに起きるかもしれないけど、でも本当にそうなるかは言い切れない。いくら時間が戻るとしても、バデーニさんが痛い思いや怖い思いをするのは嫌だ。
     そもそも来たのは良いけど、何が火事の原因か分からない。バデーニさんが寝ていたってことは、バデーニさんが何かして火が燃え広がったとかではないんだろうなってことしか分からない。もしバデーニさんが何かして、その時に理由があって逃げられなかったのなら、俺がいることでどうにか出来ると思ったんだけど。
     つい黙ってしまった俺をどう思ったのか、バデーニさんは小さく息を吐いた。扉から体を離して、家の中の方に爪先を向ける。
    「とりあえず、中で話そう。虫が入ったらイヤだ」
    「あ、うん、おじゃまします……」
     俺はバデーニさんに続いて家の中に入った。廊下の途中に落ちていた薄いブランケットは、多分寝る時にかけていたとかで、来る途中に落ちたのをそのままにしていたのだろう。それを拾ったバデーニさんに続いて、リビングのソファに座る。
    「で? 理由は? それ食べながら話そう」
     バデーニさんが指さしたので、俺は持って来たお菓子の袋をお皿みたいに開けて、テーブルに置いた。バデーニさんは早速中のスナックをつまんで食べ始めて、俺も一つ食べる。チーズ味だ。ちょっと味が濃いなと思って、立ち上がる。
    「お水貰ってもいい?」
    「冷蔵庫。僕にも」
     バデーニさんは立ち上がらないまま言った。持ってきてくれってことだろう、起こされて怒っているからかぶっきらぼうな言い方だ。でも特にむっとはしない、キッチンに入るのが目的だったから。
     俺は返事をして、キッチンに入る。コップの位置とか、水のボトルの位置は知っていたから、おばさんには申し訳ないけど勝手に取らせてもらった。二人分のコップに水を注いで、さりげなくまわりを見る。
     この家は、俺の家と違ってガスコンロじゃなくて、IHのコンロだった。だとすると、コンロが出火元じゃない。レンジを間違えて使ったことが原因で火事になることもあるって何かで見たことがあるけど、バデーニさんは寝ていて使っていなかっただろうから、ここは原因じゃない。
     最近は充電器とかが急に燃えるとかも聞くから、それだろうか。冬なら暖房が原因だったかもしれないけど、今は夏だから違う。二人分の飲み物を持って、リビングに戻る。バデーニさんはだらしなく足を投げ出すみたいにしてソファに座って、お菓子を食べていた。
    「はい、どうぞ」
    「ありがと」
     コップを二つテーブルに並んで置いて、隣に座る。お菓子をまた一つとって齧りながら、なんて言おうかな、と改めて考える。何度もインターホンを鳴らして、急に来たそれらしい理由。
     正直、バデーニさんを家の夕食に誘うとか、庭先に連れ出すとか、そうすれば火事に巻き込まれることは絶対にないとは思っている。寝ていたってことはバデーニさんが何かした結果火事になったわけじゃなくて、なら家にある何かが原因だ。それが何かは分からないけど、おばさんもいないのに急に家中を探し始めるのは変だし、大変だから難しい。
     だから、バデーニさんを死なせないことだけを選ぶなら、このままバデーニさんを連れ出すのが一番確実。そう思っているけど、でもこの家が火事でなくなってしまったら大変だ。おばさんはとてもびっくりするだろうし、すぐに帰ってこられないくらい遠い距離を、大丈夫かなってどきどきしながら急いで帰ってくることになる。火事が起きて、すぐ通報することが出来ても、何も燃えなくて焦げないっていうのは難しい。
    「ねぇ」
     できれば、本当に欲張りだとは思うけど、バデーニさんもバデーニさんのおうちも守りたい。学校だったら消火器とかあるけど、家だからないだろうし、あったとしても場所を知らないし、燃えた火をすぐ消すのは難しいかもしれない。
     俺が賢くないのは昔から分かってる。こういう時、どうしたらいいって、本の主人公のようにすごい考えが浮かぶことはない。何もちゃんとした答えが見つかってないのに、そうしたいってぼんやりと思ってるだけだ。それがとても歯痒い。
    「オクジー?」
     そうだ、火事を見た時のことを思い返せば、どこが一番燃えて焦げていたか分かるんじゃないか。道路に面した窓は一階も二階も割れていたけど、駐車場に面した奥側の窓は割れていなかった。壁の黒さも、道路側の方がひどかった気がする。玄関も蹴破れるぐらいになっていた。この家で道路に面した部屋ってどこだったっけ。おばさんの部屋だったか物置だったか本の部屋だったか、とりあえず俺は入ったことのない部屋だと思う。おばさんがいない間に探検したいって言って見て回るのは変かな、変だよな、いつもバデーニさんの部屋かリビングで遊ぶばかりだし。でも本の部屋ならどんな本があるか気になるとか言えば入れて貰え
    「オクジー!」
    「ふぃまへん!」
     大きな声で呼ばれて、反射的に謝った声は隣から伸びてきた手が頬を掴んだので、すごくかっこわるい変な声になった。目だけをそっちに向ければ、眉間に皺を寄せたバデーニさんが俺を睨みつけている。
    「呼んでるんだけど。無視しないで」
    「ふぃまへん、ばえーいはん」
     考え事に夢中になりすぎていた。謝ればバデーニさんは手を離してくれたけど、睨んだままお菓子に手を伸ばしている。急いでそれらしい理由を言わないと、えぇと、えぇと。慌てているからか喉が渇いて、俺はコップに手を伸ばして、水を一口飲んでから、言う。
    「か、火事の夢を見て」
     シンプルに言うことにした。もちろん、「火事でバデーニさんが死んじゃって時間が戻ったからそうならないようにしに来ました」なんて言わない。言うわけがない。言えるはずもない。でも夢から覚めたみたいに時間が戻ったのは本当だし、そこで火事を見て動揺してるのも本当だ。
     俺は嘘が得意じゃないから、こっちの方が良い。
    「バデーニさん一人でお留守番だから、そんな時に火事になったらどうしようって不安になって、来ちゃいました」
    「心配性」
    「すいません」
     呆れた顔をしたバデーニさんに謝る。バデーニさんは急に絡んできた犬を見る時みたいな顔で俺を見て、ソファの背もたれにもたれかかりながら言った。
    「火を使う予定もないから大丈夫だよ。コンロは使わないし、暖炉も季節じゃないし」
    「でもほら、火事のニュースとか聞いてると、色々あるから。充電器のバッテリーとか、コンセントに埃が溜まってとか」
     俺がそう言えば、バデーニさんはちょっと納得したような顔をした。
    「あぁ、確かにそうかも。あとは外で落ち葉を焼いてたらとか、タバコの不審火とか、水の入ったペットボトルとか」
    「うん、だから……」
     言葉が途切れる。バデーニさんは少し首をかしげていたけど、俺が勢いよく立ち上がると驚いて目を丸くした。「オクジー?」と呼ばれて、俺は玄関の方を見る。
     そっか、家の中だけに原因があるわけじゃない。この家は俺の家と違って歩道からすぐのところに玄関がある。俺は思わず駆けだしていた。バデーニさんが驚いて名前を呼んだ気がするけど、なんて言ったらいいか分からなくて、何も返事が出来なかった。
     玄関から飛び出して、すぐ横を見る。歩道と家を区切る柵と家の壁の間にはプランターがあって、濃いピンクの花が咲いていた。葉っぱを掻き分けて見るが、たばこの吸い殻とかはない。まだ落ちてないのか、違うところにあるのか。
     一回柵の外側に出て、下を探す。吸い殻はない。違ったか、それともまだなのか。
    「オクジー、どうしたの?」
     バデーニさんが出てきた。今度は靴を履いていたので、それを取りに行っていてちょっと時間差があったらしい。俺は柵を掴んで体を起こしながら、頭の後ろを掻く。
    「すいません、えっと……家に入る前に、なんかこの辺に変なのあった気がして、急に気になって」
    「なんだそりゃ。ちょっと変だよ、オクジー。寝ぼけたままうちに来たの?」
    「は、はは、そうかも……猫とか、ビニール袋とか、そういうのの見間違えだったかな」
     乾いた笑いしか出ない。バデーニさんは俺の隣までやって来て、「何もない」と退屈そうに言った。柵に引っ掛かっている葉っぱを指先で摘まんで、その辺にぽいと捨てる。
    「まだ帰らないなら、何か本でも読む?」
    「あ、えぇと」
     バデーニさんは家の中に戻ろうとする。どうしよう、と考えながら周りを見ようとした俺は、ちりんとベルを鳴らされてそっちを見た。向こうから来た自転車のおじさんだ。俺が柵に寄って道を譲れば、おじさんはそこを通り抜けていく。
     俺はその人の、こっち側の片手の指の間に、たばこが挟まっているのを見た。おじさんの背を追えば、おじさんはその片手を顔の方に持っていっている。まだそれなりに長さもあったから、吸っている途中なんだろう。道に落ちている吸い殻には、短いのから長いのまである。ポイ捨てする悪い人もいれば、うっかり落としてそのままにする人もいるんだろう。暗くなってくると、どこに落としたか分からなくなる人も多いだろうし。
    「オクジー」
    「あっ、うん、はい」
     扉を中途半端に開けたバデーニさんが俺を見ていた。俺はそちらに行こうとして、足を止める。
    「えっと、本も気になるけど、バデーニさんのお昼寝を邪魔しちゃってたこと、思い出して。もう帰るよ、変な理由で起こしちゃってごめん」
     俺の言葉に、バデーニさんは片方の眉を上げた。あんまり想像してなかった答えだったのか、俺と、家の中を見て、「そう」と言う。
    「じゃあ、僕また寝るから。あんまり心配ばっかしてると、ハゲるよ」
    「うっ、ハゲるのは嫌だ……」
     頭のてっぺんを両手で押さえながら言えば、バデーニさんはおかしそうに笑った。扉を大きく開けて、ひらひら手を振る。
    「じゃ、おやすみ。また明日ね」
    「うん、おやすみなさい、バデーニさん。また明日、感想を聞かせて」
     俺が手を振り返すのを見て、バデーニさんは家の中に入る。すぐに鍵を閉める音とチェーンをかける音がした。きっと、お母さんから戸締りに気を付けるように言われたんだろう。俺はもう一度柵の周りを見て、空を見る。夕方の空だ、少しだけ暗くなって、夜が滲んできている。今が何時で、火がついてからあれだけ燃えてしまうのに何分くらいかかるのかは分からないけど、あの時間は過ぎたはずだ。俺はゆっくり歩いて、時々振り返りながら、家に帰る。
     家の庭の前で、最後に振り返る。火はどこにもない。俺は安心して息を吐いて、芝生を踏みつけながら玄関に向かった。「ただいまぁ」と言いながら家に入れば、お母さんが「おかえり」と返してくれる。
     家の中は晩御飯のいい匂いがしていた。



     罰、なのだと思う。
     何が罰か。バデーニさんがひどい死に方をすることが。
     何の罪か。かつて、守ることが出来なかったことの。

     前の俺が、あの古びた村で大きな穴を掘っていた頃。聖職者のバデーニさんの雑用係をしていた頃。死ぬ前。人を殺す仕事をしていた頃。ヨレンタさんに字を習っていた頃。
     聖職者のバデーニさんを殺したのは俺だった。地動説と彼を引き合わせた。きっかけを作った。どちらかだけでも生き延びることに賭けようと言って、時間を稼ごうとして、でも出来なかった。祈りまで貰って、聖職者を三人殺して、それだけだった。
     バデーニさんは逃げきれなくて、それどころか俺の目を守るために大切な本や資料を差し出すことになった。俺が守るつもりだったのに、俺のせいでバデーニさんの大切なものを差し出すことになってしまった。
     バデーニさんは、俺の本を残そうとして、予防策を仕掛けてくれたのに、あの時の俺に出来たことと言えば、あの人を一人で処刑台に立たせなかったことぐらいだ。あの人に痛い思いをさせなかったことぐらいだ。
     絶対に綺麗だと言い切れる星空を覚えている。バデーニさんが全てをなげうって、守ってくれた景色。最期の瞬間も、俺は満たされていた。幸せを感じすらしていたと思う。俺はあんなにひどいことをしたのに、罪に気付かず、何かを償うことも、贖うこともせずにいた。

     だから、これはあの時の俺が放置していた罪を、清算するための罰なんだと思う。俺の目の前でバデーニさんが死ぬのは、あの時バデーニさんの前で俺が頬を裂かれたのと同じだから。バデーニさんはあの時に大切なものを差し出して罪を償ったから、今記憶がないんだろう。もう償う必要がないから。でも俺はまだ償っていないから、記憶があるんだろう。
     そう思っている。
     答え合わせは、いつか俺も死んだときに、きっと神様がしてくださる。

     昔、聖職者様が言っていた。すべては神様が定められていると。生き方も、死に方も。神様がそうあるようにお決めになられたのだと。
     だからきっと、「時間が戻る死」というのは正しくない死に方なんだ。だって、それを回避すれば時間は戻らない。
     この先、どこかに、神様が定められた正しい死が、「戻らない死」がある。
     そこまで、バデーニさんを連れて行く。守る。
     そうしたらきっと、俺たちは二人で天国に行ける。

     昔の俺は、生きている間に希望がないから、早く天国に行きたいと思っていた。でも、今の俺が「天国に行きたい」と思っているのはそれが理由じゃない。
     前だって、バデーニさんと……地動説と出会ってからは、天国に行きたいとは思わなかった。最後の最後は地獄にだって行けるとすら思っていたけれど。でもあれは地上も美しくて、生きるのが楽しくて、死後の世界に救いを求めなくていいと思っていたからだ。今の俺の心情とは、少し違う。

     あの日、時間を稼ぎに行こうとした俺に、バデーニさんは祈りをくれた。天国に行けますようにと神様に祈ってくれた。聖職者の仕事としてじゃなく、きっとあの人個人として。だからきっと、神様はあの祈りに応えて、俺を地獄に落とす前に、こうして罪を償って天国に迎える機会を下さった。
     だから、だ。
     だから、俺は今、天国に行こうとしている。
     あの人の、あの日の祈りに応えるために。
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