傘をさす 窓の外から聞こえてくる雨音が消えた。いっそ気付かないでくれたなら良かったのに、私と同じだけ優れた彼の耳は律儀にそれを拾い上げてしまった。
触れ合っていた唇が離れ、頬からその手が退かされるのを寂しく思う。体温を感じなくなるのはいつも寒くて寂しい。私はこんなにも名残惜しいのに、彼は違うのだろうかと――そんな意地悪なことを考えてしまって、いけない思考だと小さくかぶりを振ってその思考を払い落とす。
濡れた唇を肉厚な唇が舐めるのに目がとまってしまう。レオナくんの舌は私の物よりも肉厚で、ネコ科だからか少しざらざらしていて、体温も少し高い。
私の物とそんなにも違うからか、舌同士が触れ合うと、なんだか無性にドキドキする。ぬるりとしたその舌に口の中を蹂躙されて、引きずり出された私の舌に牙の先が触れると、もうどうにでもしてくれとすら思ってしまう。けれど、今のところそれ以上まで触れてくれたことはない。
……いっそ、他の音が何も聞こえないほどの豪雨が三日三晩と降り続いてくれたなら、触れてくれるかもしれないけれど。しかし魔法で管理された寮空間でそんな異常気象があれば間違いなく魔法石の不具合か妖精の仕業となって、サバナクローの寮長であるレオナくんも、ポムフィオーレの副寮長である私も、事態の解決に駆り出されて忙しく走り回ることになるだろう。
だからきっと、そう思ったって現実にそんなことは起こらない。それを物足りなく思ってしまうのは、私が強欲すぎるのだろうか。彼に暴かれたいと、深くまで求められて、彼でいっぱいになってしまいたいと欲している。
本来獲物を捕らえる狩人であるはずが、その牙を突き立てられてもいいと思ってしまっているのは、きっと私が彼のことを愛しているからだろう。
あぁほら、そんなことを考えている間にレオナくんは私の傍から離れてしまった。本棚から持ってきた本を開いて、素知らぬ顔で読書を始めている。私も名残惜しさを振り払うように立ち上がって、そういえばと寮生から連絡が来ていたことを思い出してスマートフォンを取り出した。
備品の在庫の場所を返信しながら窓の外を見る。雲は薄く、途切れ途切れの隙間からは青空が見えた。これから晴れていくだろう。また雨が降ることは無い。それを惜しく思う。
レオナくんを見た。尻尾は平然と揺れていて、頬杖をついて読書にいそしむ姿は威厳があって美しい。じっとその横顔を見つめていれば、当然それに気付かないわけがなく、私の方を見たレオナくんは鬱陶しいと言うように眉間に皺を寄せた。
「そういう取り決めだろうが。ンな顔で見るな」
「パードン。お詫びにお茶を淹れても?」
勝手にしろ、と言ってレオナくんは再び本に目を戻し、私は立ち上がると部屋に備え付けられている簡易キッチンへと向かう。そこの棚に収容されている、私が持ち込んだティーセットを取り出しながら、今日は何のお茶を淹れようかと考える。
大体いつも、同じ流れだ。どれだけ熱いくちづけを交わしていたとしても、雨が止んだら終わってしまう。レオナくんは本を読んで、私は紅茶を淹れる。
レオナくんは雨が降る間しか私に触れることを許さない。彼からも、私からも。頑なに、頑なに。
恋人という関係になった時からそうだ。触れていいのは雨の降る間だけだと、彼は先に告げた。彼は取り決めと言うけれど、実質的には一方的な通告だったろうに、あれは。思い出してくすりと笑う。
私は、それが彼のおそれから来ることを知っている。レオナくんは露悪的な口調を選んで使い、怠惰で諦め癖がついてしまっているけれど、その根本は繊細だ。
強力なそのユニーク魔法を、彼が何よりも恐れ、疎み、その威力を理解していることを知っている。レオナくんが私に触れないことが、彼の最大の愛であることも知っている。
恐ろしいんだろう、キミは。ふとした瞬間にユニーク魔法が暴走して、私を殺してしまわないか。
魔法は絶対ではない。どれだけ優れた魔法士でもオーバーブロットする可能性があるように、様々な要因でもしもは起こる。レオナくんのユニーク魔法が暴走し、彼の意思に反して周囲に牙を剥くことを一番恐れているのはレオナくん自身だ。
あらゆるものを砂にしてしまうレオナくんの「王者の咆哮」は、そのメカニズムとしては吸湿・乾燥に近い。ゆえに、彼のユニーク魔法は水中や湿度の高い中ではその威力がぐんと落ちる。ほとんど使えなくなると言ってもいい。彼が雨の中に限定するのは、そのためだろう。
どれだけキスがしたくても、彼の体温を感じたくても、その先へいきたいと思っても、そこでやめてしまうのはレオナくんが私を傷つけたくないと思っているからだと知っているために、彼の「取り決め」を覆して無理を強いることは出来ない。
「お待たせ。今日はフルーツハニーにしたよ」
「ん」
ティーセットを持って戻れば、レオナくんは私の方を一瞥して一度頷いた。仕草自体は素っ気ないが、今まで下がっていたらしい尻尾が上機嫌に持ち上がるのが見えて、愛おしさに胸が暖かくなる。
……我慢しているのはお互い様、というわけだ。それが分かっていれば、それで十分。
「……って思えるぐらい私の理性は強くないんだよ、薔薇の騎士〜〜……」
「ハイハイお疲れ。その呼び方は辞めてくれ?」
机に突っ伏した私に、慣れたように笑ったトレイくんがぽんぽんと帽子越しに頭を撫でてきた。私はガーデンテーブルの冷たさを頬に感じながら、はぁと息を吐く。
「心を砕いてくれていることも、それだけ大切に失いがたい物だと思ってくれていることも嬉しいけれど、でもそれはそれ、これはこれ……私自分勝手かなぁ、トレイくん……」
「いや、まぁそういうお年頃だしな。何もおかしくないと思うぞ、ルーク」
トレイくんはクッキーをサクサクと食べながら言う。この音からしてチョコチップクッキーだ。そうかなと私はくぐもった声を出しながら、また一つ息を吐く。
部活の時間、こうして悩みの相談というか、不安を吐露してそれを聞いてもらうようになったのは少し前から。私が話す時もあるし、トレイくんが話す時もあるし、他の誰かがひょっこりやってくることもある。他言無用、防音完備、オクタヴィネルへの売却不可の弱音吐きスペースだ。
まぁ食えと差し出されたクッキーを受け取り、体を起こして齧る。香ばしい小麦とチョコレートの甘さ。セボン、と零してサクサクしたクッキーを頬張る。これは紅茶がよく合う味だ、さすがは薔薇の騎士。また腕を上げたらしい。
「サバナクローだと特に雨も少ないからなぁ。ポムフィオーレの方が雨の時もあるんじゃないか?」
「我がポムフィオーレは彼にとっては匂いがキツいんだ。校内だと誰かに見られる可能性が高くなるし、校外でもパパラッチがいるかもしれない。彼が気を休められる場所というのはあまり多くなくてね」
「あぁ、そういえば他の奴らには秘密だったな」
ひとつ頷き、紅茶で喉を潤す。美味しい、程よい渋みがレオナくん好みだ。あとで茶葉を聞こう。
「これ以上、レオナくんに不快な思いをさせたくないんだ。パパラッチなんて言語道断さ。そもそも誰かに見られていたらおちおちキスも出来ない」
「ホテルとかに行くにしたって未成年の学生じゃあなぁ……もう卒業を大人しく待ってからって方が賢いとは思うが……」
「あぁ薔薇の騎士、頭ではそう分かっているんだ! けれど私の心は、そんなに待てないと駄々をこねるのさ」
呼び方、と苦笑混じりに言って、トレイくんはティーカップを傾けた。私は紅茶の水面に視線を落とす。少し落ち込んだ顔をした私が映っている。
……自分が、とても浅ましく、わがままで、自分勝手な男のように思う。触れないのも、触れたがるのも、そのどちらも愛なのだからタチが悪い。
「うーん……そうだな……いっそ一緒にシャワーでも浴びておけばどうだ? 雨が降らないなら自力で濡らすしかないだろ」
「……そうだね、ちょっと今度、シャワー浴びてるところに突撃してみようかな。最悪の場合骨は拾っておくれ」
「嫌だ。ラギーかジャックに頼んでくれ」
即答だった。それが何だかおかしくて、私は肩を揺らして笑いながらクッキーの山に手を伸ばす。つまみ上げたのはチェス盤を模したアイスボックスクッキーだ。ほろほろした食感がちょうどいい。
寮長室備え付けのシャワールームは使ったことがない。今度シャワーを使っているタイミングで突撃してみよう。
羞恥心は勿論ある。あと多分すごく怒られる。プライベートな空間に踏み入るんだ、私ならとても驚くしやめて欲しいと言うだろう。入ってきたのがレオナくんだったら……違うだろうけれど。
レオナくんもそうであることを願う。私は紅茶を飲み干して、その茶葉がどこの何かを早速尋ねることにした。
ざあざあと降りしきる水音がする。これがきっと雨だったなら、傘を差そうものなら他の音がほとんど何も聞こえないぐらいになっていただろう。
頬に、服に、手に、熱い雨が降り注いでは伝い落ちる。前髪を伝い落ちてきた水が鼻梁を辿って落ちていって、口の中にお湯の味がした。その味を拭うように、レオナくんの舌が私の舌を撫でる。ぞわぞわと、背筋を気持ちよさが伝った。
服を着たままシャワールームに入ってきた私に、最初は呆れた顔をしていたレオナくんも、私がどうかと願えば断る理由がなかったのか、私の手を引き寄せてキスをしてくれた。
一度キスをしてしまうともっと欲しくなって、私はレオナくんの首に両手を回して、レオナくんは私の腰と後頭部を捕まえて、舌を絡ませるような深いキスに夢中になった。
人工的な雨は取っ手を引き上げなければ止まない。だから、周囲の音に耳をそばだてる必要も、空気の変化を気にする必要もなくて、目の前にいるいとしい人だけに意識を集中させられた。
折角の至近距離でその瞳が見られるからとキスする時も開けたままの目のすぐ傍に、同じように私を見つめるレオナくんの深いサマーグリーンの瞳がある。それが熱を孕んで私を見ていることがただただ嬉しかった。
あぁ、本当はレオナくんも、ずっと私に触れたいと思っていてくれたのだろうか。雨を気にすることなく、思う存分味わいたいと、思っていてくれたのだろうか。
嬉しくなって、濡れたレオナくんの髪を撫でると、レオナくんはぐるると喉奥を鳴らして微かに笑ってくれた。私の舌に彼の牙が触れて、あぁ、もうこのままどうにでもしてくれと、どうにかなってしまいたいと……思う。
ふは、と僅かな隙間で息継ぎを。頬に熱い吐息がかかって、擦り寄せられた鼻先から雫が伝い落ちる。
「このまま……最後まで、しようか?」
無声音で囁く。レオナくんはそれに笑みをこぼして、濡れた手が私の腰を撫でた。
「やけに性急だな。一つずつ楽しめよ」
「寝具を濡らしたくはないだろう? 風邪だって引いてしまう。……それとも、はしたない私はお嫌いだったかな」
ご機嫌をとるようにリップ音を鳴らしながら頬にキスをすれば、ぐるとまた喉奥を鳴らす。これは気分がいい時の音だ。
「嫌いではねぇな。……触れたいと思ってたのはお前だけじゃない」
「なら」
「バカ、すぐ出来るかよ。色々準備がいるだろうが」
咎めるように鼻先に甘噛みされて、その牙の感覚にぞくぞくした。それでも惜しくて、首の付け根のところを手持ち無沙汰に指先で撫でていたら、レオナくんは舌打ちを一つして、聞き分けの悪い子供に言い聞かせるように私と額を合わせた。彼の髪が額に張りつく感触がする。
「そっちがその気なら、お望み通り抱いてやるために丁寧に丁寧にしつらえてやるよ。どこかの誰かさんが、人のシャワーブースに突撃してまで求めたんだからなァ」
「雨が長く降らないのがいけない。それなら、人工的に降らせるしかないだろう? ……未来までは、待てなかったんだよ」
「ハッ、狩人は待つのが得意だったんじゃないのか?」
「狩人はね。どうにも、恋人のキミの前では、私はルーク・ハントというただの18歳の人間らしい」
きっとキミと接する時だけは例外なのだと付け加える。困ったことにねと。私たちは狩人と獲物だったはずなのに。王族と平民だったはずなのに。そういう立ち位置の全てを無視して、その手を取りたいと、抱き締めて抱きしめられたいと思ってしまう。
「雨を理由にしたのはキミだろう? 獅子の君。だから私は傘を放り投げてきたんだ。たとえ傘の中で聞く音がいっとう美しいとしても、それよりキミの心音を服越しに感じる方が愛おしく感じたからね」
「ルーク……」
レオナくんは私の頬を撫でて、それから少しばかり呆れた顔をして、
「まどろっこしい。直球に言え」
「キミとキスとかその先とかがしたい」
「言えるんじゃねえかよ。いつでもそのぐらいシンプルに物を言え」
むぎゅ、と鼻をつままれた。レオナくんは濡れた前髪をかきあげて、あ、その仕草はとても素敵だ。ボーテ。引き締まった体の輪郭が素晴らしい。水も滴るいいボーテ。目を輝かせて見上げる私に、レオナくんの尻尾が私の足を叩いた。
「とりあえず服脱いでこい。なんで着たまま入って来たんだ」
「ちょっと恥ずかしくてね」
「シャワールームに服着たまま入ってきてお湯浴びる方が変だろうが。のぼせても知らねえぞ」
軽い会話をしながら、いそいそとボタンをはずしてブラウスを脱ぎにかかる。その間にレオナくんはシャワーのお湯を止め、シャンプーを手に出して髪を洗いだした。泡がかからないように入口の方へ移動しつつ、レオナくんに言う。
「伝えておくと、キミの配慮をないがしろにしたかったわけではないよ。雨の間しか触れないというキミの取り決めが、私を大切にしたいというキミの愛情だったのは十分に理解している。それでも私の欲が勝ってしまっただけで……」
「いい、分かってる。配慮だの愛だのを否定せず受け止めながら、それを踏まえて自分らしいことをする……お前は前々からそういう奴だろうが」
私の言い訳を遮って、レオナくんは振り向かないまま言った。ブラウスを脱いで壁際に置きながら後ろを見れば、その尻尾が上機嫌に揺れているのが見える。
「お前のそういう部分は理解したうえで恋人してんだ、この程度で俺が蔑ろにされたとも思わねえよ」
「獅子の君……!」
「感動するのはいいからさっさと脱いでこい」
「いや、ちょっと体に張り付いて脱ぎにくいから手伝ってほしい」
「知るか、自業自得だ」
ははは、とレオナくんが声を上げて笑うのが嬉しくて、私もくすくすとつられて笑った。今度の部活の時はトレイくんの愚痴か相談か弱音を聞いてあげることにしよう。
あれだけ嘆いておきながら、いざ行動に移すと簡単に満たされて、この世で一番幸福な気がしてしまう。我ながら安直なものだ。しかし愛ってそういうものだろうか?
「ねぇレオナくん、愛しているよ。今まで出来なかった分、思う存分キミのことを抱き締めても?」
「あァ、いいぜ。のぼせて倒れない限りはな」
泡を洗い流し終わり、ぴょいんと上がる尻尾の愛らしいこと。私は横着して魔法を使い服を脱いでしまって、私の方を振り返って見ていたレオナくんが手を広げてくれたことに嬉しくなって、勢いよく彼の腕の中に飛び込んだ。
ぴちょん、と落ちた水滴が音を立てる。雨上がりばかりに聞くその音に邪魔されないハグは幸福で、濡れたまま触れ合った体は熱くて、空にかかる虹を見た時のような清々しい心地がした。