痴話喧嘩は犬も喰わない「恋人がいるのなら、こんな他人に気を持たせるようなことはしない方が良い」
ぱしり、と彼に伸ばしていた手を払いのけられる。彼の髪に付いていた木の葉を取るついでに、その髪を梳くように触れた瞬間のことだった。その拒絶に思わずえ、と声が漏れる。確かに馴れ馴れしいと普通なら拒絶されてもおかしくはない距離感だったかもしれない。けれどもそんなの今更だし、それに。
「俺と貴方って恋人ですよね……」
俺とミスルンさんは付き合っているのだから問題はないはず。え? 付き合っていたよな。
必死に過去の記憶を思い出す。数か月前に俺から好きですと告白して、彼も「うん」と頷いたはずだ。よし、ちゃんと合意は取れている。その後の手つなぎもキスも拒否されなかったから、よもや何かと勘違いしているという線もないはずだ。ミスルンさんだって今まで俺が触れることを嫌がるどころか、気持ち良さそうに目を細めていたじゃないか。それなのに、何で恋人であるはずの彼がまるで付き合っていないかのような発言をするのだろう。
どんなに頭を痛めて考えても答えは全く見つからない。そんな俺を放置して目の前にいるミスルンさんは普段よりも心なしかむっすりとした表情で、「それでは」なんて言ってその場を後にしようとするから、咄嗟に腕を掴んでしまった。
「なんだ」
「話し合いをしましょう。恐らく誤解が生じています」
「誤解など何もない」
「ありますって絶対!」
ある!ない!と平行線の言い争いを続ける。そんな悲しい戦いの最中に、突如明るく能天気そうな声が響いた。
「おいおい、お二人さん痴話げんかかよ!仲が良くて結構だけどこんな家の前でやるもんじゃないぜ」
「ちょうど良かった。この人の説得を手伝ってくださいよ」
「ゲ、何か面倒ごと?それなら私はお暇を……」
「フレキ、お前も話しに加われ。このままでは埒が明かない」
コソコソと逃げ出そうとしていたフレキだったが、直属の上司の一声に肩を落としてその場に居座る羽目になった。こうなったら楽しむしかないと覚悟を決めたのか、二人の顔を交互に見て「で、何で揉めてんだ?」と好奇心丸出しの質問を投げつけた。
「この人が俺には別の恋人がいてミスルンさんとは付き合ってないって言うんですよ」
「ええ~、隊長見てるこっちが胸やけするほどラブラブだったじゃんか」
「私も先日までは恋人同士だと思っていた」
黒い瞳がこちらを向く。その目の中にはどこかこちらを非難する色が含まれていた。しかし、と彼が口を開く。けれども次の言葉が出てくるまでには僅かな間があった。何度か口を閉じかけて、ようやく彼は次の言葉を発した。
「お前には美しいトールマンの女性の恋人がいると聞いた」
「絶対デマですよそれ!嘘八百のほら話ですって!」
「私もそう思ったが、目撃者が多すぎた。信頼のおける筋からの証言もある」
「お前、スゲー度胸あんな……。隊長を浮気相手にするなんざ並みの人間には不可能だぜ」
「だから誤解ですって!」
必死に否定するもののいまいち信用してもらえない。確かに今までそれなりに浮いた噂が立つこともあったが、誓って浮気はしていないのに。唇を噛みしめながら彼に信用してもらうための考えを巡らせる。
そうだ、まずは噂の確認だ。事実無根な噂話なのだから必ず矛盾点やおかしいところがあるはず。
「そもそも俺の恋人の噂ってどういうもの何ですか」
「お前が美しいトールマンの女性に骨抜きになっているという噂だ」
「具体的にはどのような女性で」
「身長は低く、髪は色素の薄い色、細身の体格で整った顔立ちの人だそうだ」
なるほど、低身長かつ色素の薄い髪で細身。そして整った顔立ちと。
「それ、ミスルンさんじゃないですか……?」
今のところ全ての特徴に当てはまっているし、カブルーが骨抜きになっている人物など彼しか思い浮かばない。もし彼相手ならカブルーは街中で相当浮かれた顔で共に歩いていたと思うので、そんな噂が立ったのにも納得がいく。そうに違いないと顔を輝かせて二人を見れば、何故か微妙そうな表情でこちらを見つめていた。その顔には「正気か?」と書かれてある。
「相手はトールマンの女性だって言ってたんだろ。全然違うじゃねえか」
「エルフは中性的ですし、トールマンから見ると性別の見分けがつかないんですよ。それにミスルンさんの耳は髪に隠れるので、ぱっと見だとトールマンの女性に見えてもおかしくはありません」
「嘘だろ、おい!隊長のどこをどう見たら女性に見えんだよ!トールマンは眼医者に行った方がいいぜ!」
「私のような体格でも女性に見えるのだな」
ミスルンさんはエルフの中ではかなりがっしりした体格なので、同族から見たらあり得ないという感覚なのだろう。まあ、俺も中年ぐらいの筋肉質な男性が他種族からは可憐な女性に見えますと言われたら信じられないとは思う。種族差による感覚の違いとは中々理解しがたいものだ。
「ほら!やっぱり誤解だったじゃないですか!」
「まだ他にも証言がある」
「何ですか。どうせ単純な誤解だと思いますけど」
「お前の恋人は笑顔の可愛い人らしい」
「じゃあ隊長じゃねえな」
「私もそう思う」
「諦めるの早いですよ!」
二人してうんうんと頷いている。俺の恋人はミスルンさんじゃないと決めつけにかかるのがいくら何でも早いだろう。もう少し俺を信用して欲しい。
「だって、隊長の笑顔なんてまともに見たことねえもん。多少笑えたとしても笑顔が可愛いなんて評価にはなんねえだろ」
「いや!この噂もミスルンさんのことですって!」
「カブルー、言い訳はせず男らしく振って欲しい。覚悟は既に出来ている」
「俺はまだ別れる覚悟出来てません!」
ミスルンさんの肩を掴んで激しく揺らす。心なしかいつもよりきりっとした表情の彼を見て悲しくなった。何で付き合って数か月で浮気を疑われて別れる覚悟を決められなくてはいけないんだ。あんなに愛していると伝えてきたのに伝わっていなかったのかと気分が沈んでいく。大きくため息を吐き出して、今回の誤解を解くべく重い口を開いた。
「ミスルンさん、俺といる時は割と微笑んでますよ」
「そうなのか?」
「はい、綺麗な微笑みを浮かべてます」
元々感情がないわけではないのだ。それを表に出力することが多くなかっただけで。付き合い始めてからはふとした瞬間に微笑みを見せてくれることも多くなってきていた。本人は恐らく無意識だろうなとは思っていたが指摘するのも野暮かと思って黙っていたツケがここに来るとは。
「貴方の笑顔は素敵だと思います。それは恋人だからという欲目じゃなくて、他人から見てもです」
だからそんな噂が立ったんだと思いますと告げれば、ほんの少し色づいた耳になったミスルンさんは「そうか」と答えた。ぴくぴくと耳が跳ねて上向きになっている。エルフのここは表情よりも雄弁だな、と愛おしさに浸っていると「目のまえでいちゃつくのやめろ」と思いっきり耳を垂れ下げたフレキに苦言を呈された。
「じゃあ噂の恋人は隊長なんじゃね」
「まだ私に当てはまらない特徴がある」
「ここまできたら全部聞いてやりますよ。何ですか」
「嫉妬深くて、甘え上手で、それでいてお前のことを深く愛している人がお前の恋人だそうだ」
これは酒場で酔ったお前が零していた言葉だ、と付け足される。その特徴を聞いてフレキはふんふんと首を縦に振ると、ぱちりと指を大きく鳴らした。
「こりゃ隊長じゃないな」
「私もそう思う」
「だからミスルンさんのことですって!」
「全然当てはまってないじゃんか。百歩譲ってお前のこと深く愛してるってのは認めるけど、嫉妬深くて甘え上手はどこ要素だよ」
「全部ミスルンさんの要素ですよ」
「カブルー、大丈夫だ。考える時間は十分にあった。気持ちの整理は付いたと思う」
「ほら、全然嫉妬せず潔く別れようとしてんじゃん」
「俺は全く気持ちの整理が付いてないので別れるのは保留にしてください」
別れそうになる流れを必死に押しとどめる。こんなところで二人そろって結託するのはやめて欲しい。
「まず嫉妬深いという点ですけども」
「うん」
「俺が他人と仲良くしてると転移術で飛んでくるじゃないですか」
「マジかよ、隊長……」
「あとしょっちゅうお前のマッサージがないと眠れないと言って家に来るよう誘ってきますよね。俺は甘えてるんだと思ってましたけど」
「隊長……」
「あと今回の件も、浮気してないのは分かってたけどそれはそれとして噂に妬いてましたよね」
「…………」
無言のままに無表情で立ち尽くす彼の姿に図星だったんだろうなと推測する。付き合って分かったことだが、存外彼は嫉妬深い。欲を取り戻しつつある彼は昔馴染んでいた嫉妬という欲も獲得したらしい。噂は噂でしかないと理解してなお嫉妬したから今回の追求劇が始まったのだろう。
「……お前にトールマンの恋人がいると聞いた時、私の中でかつて慣れ親しんでいた激情が一時的に湧き上がった。未だ欠けたものの多い私よりも、同じ種族の者と付き合った方がお前は幸せになれると理解しているのに」
彼は俯き、懺悔でもするかのようにぽつりと囁いた。
「幾度も疑えば、お前が私を見限るのではないかと思い試した」
今ならまだ別れられる、とミスルンさんは告げる。その耳は深く垂れ下がり、打ちひしがれたように時折動いている。
ああ、もう!本当にしょうがない人だ!
彼の細い身体に手を回す。びくりと強張った身体を抱きしめて背中を優しく叩いた。久方ぶりに欲求に振り回されて、随分と彼は遠回りしてしまったらしい。
「見限ったりなんてしませんよ。俺は笑顔が可愛くて、嫉妬深くて、甘え上手な、俺のことが大好きな恋人が好きなので」
「……そうか」
ミスルンさんの目元が緩む。そして控えめな、それでいて穏やかな微笑みをその整った相貌に浮かべた。やはり彼の微笑みは綺麗だな、と感慨を抱きながら自然と顔は彼の口へと吸い寄せられ──
「もう私帰ってもいいか?」
心底嫌そうな顔をしているフレキの言葉で我に返ったのだった。