割られたイースターエッグ「あなたが猫を観測したせいで、シュレーディンガーの猫は死んでしまいました」
あーあ。
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割られたイースターエッグ
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「僕はそんなに面白い人間かな」
「おうともさ」
カフェの一角。
生返事を返すのは、フードを目深に被って机に今まさに足を乗せようとしている男であった。
それを、絹よりも細く、雪よりも白い髪をした男とも女とも言えない者が受け止める。不機嫌そうに一、二度瞬きをして無名を見た神父は、まるで子供のわがままを受け入れるが如く仕方なさげに足を下ろした。
「僕が悪いみたいな顔しないでくれる?」
「その通りじゃんか」
「そんなことないよ」
「いーや、そーだね」
そういうと神父はまた手元のスマートフォンに目を落とした。周りの看板とは言語が違う、異国のアプリを立ち上げている。それを見て、また無名はため息をついた。どこまでゲームが好きなんだ、とでも言いたげに。実際、何度も口こそ出していたものの、彼がその非生産的行為を止めることはなかった。最早、そのため息は呆れよりも諦観に近い。
「他の人はどうしたの」
「道化だけ連れてきてる。愛羅は麗が見てりゃ暴走はしない」
「あの人、僕あんまり好きじゃないんだけどな…」
「アイツもそー思ってるから安心しな」
「よかった」
皮肉にもならない皮肉を返して、その白に似合わぬコーヒーを啜る。味は全くしないに等しかったが、それでも人間に見えるような動きができているのなら大満足だ。
彼らは今、イタリアにいる。
紛れもなく、神父ら双子と無名の故郷だ。
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「やあ」
「早くしろよ」
「こんにちわー」
兄はいつもとは違う、真っ黒なスーツを身につけていた。馴れ馴れしく隣に座る所を、今日は立ったままで話を進めようとする。
気を抜かないような珍しい姿に、神父は嘲笑の意味も込めて皮肉を口にする。
「葬式かよ」
「そうだぞ?」
「ハ!?なンで呼び出したんだよわざわざさぁ」
「事情があってだな…明日明後日はゆっくりできるから、とりあえず今日はお手伝いしてくれ」
「お手伝い?」
ひとつ無名がはてなを浮かべる。シルヴィオにしては珍しい喩え方であったので、疑問に思ったのだろう。それを聞いて、弟の方もじっ、と無名を見据える彼の目を見る。まるで見極める様に、その碧を掻き分けて、内側にある本質を掴む様に。…残念ながらそれはできなかった様で、ばちんと目が合った途端に目を逸らしてしまった。どうしても兄の目は好きになれない。瞳孔が全く動かない、何もかもを見透かした目だからだ。
シルヴィオは、無名に向き直って口を開く。
「この通り、俺は葬式に出ることになった。まあ、出なきゃいけない部類だから出なきゃいけないんだが…」
「人いたぶって楽しむタイプのバカが葬式ねえ」
「お前は黙ってろ!…ともかく、弟に今日どうしてもやりたい取引の方をやってもらおうと思ってね」
「替玉…ですか」
「その通り!」
取引、と聞いたところで神父が耳を塞ぐ。どうせこんな事だと思ったぜクソッタレ。
顔が同じ双子なら、情報さえ同じであれば片方の役割も果たす事ができる。仕事に忙殺されがちな兄がよく取る手段だった。それなのに、のこのこと疑問も抱かず神父がやってきたのは理由があった。
「……オマエ、コイツも連れてこいって……」
「え、僕?聞いてない」
「まあ理由も言ってないしな」
あっけらかんと当然の様に口にするシルヴィオは、おそらく人に対しての思いやりとか、そういうものがかなり欠けがちなのだろう。それは何も言わなかった弟にも色濃く受け継がれているが、そこはそれ。
困った様に首を捻る無名に、シルヴィオはまた笑顔を見せる。
「君はsinceroだからな」
「……それがどうしたんですか?」
皮肉がましく言う相手に、少し苛立ちながらも言葉を返す。
「こいつ1人じゃあ、ほぼほぼボロが出る。申し訳ないがこれも縁だと思って、愚弟の世話をしてもらいたいんだ」
ため息が響き渡る予想外の反応に、兄は目を白黒させた。
「…え、!?ダメか!??」
「ダメというか」
「そんなしょーもない理由でってか」
「しょーもないって!?」
お前人の顔分からないだろ、と弁明を繰り返すシルヴィオ。その必死さは時折弟が見せるような滑稽さとよく似ている。似ていないようでそういった細かな発見ができるのは、無名が彼らと会って良かったと思える一端である。見ていて飽きない、というのが本音だが。
「片方断りゃ済む話だろ」
「だからどうしてもやりたいって言ってたろ!!」
「日付を変えてもらっては?」
「絶対ムリだ!!あの人頑固だしちょっと話間違ったらキレられるしで大嫌いなんだよ!!」
「もっと行きたくなくなった、はークソ」
テーブルに伏せる神父がこぼす愚痴を聞いて堪忍袋の尾が切れたのか、シルヴィオは無名が飲んでいたコーヒーカップを持ち上げて彼の頭に傾ける。
多少温度が下がっているとは言え、熱いものは熱い。無名は、その動作を真顔で行うシルヴィオに恐怖さえ覚えた。いつものように甘えたがる兄の顔とは違い、その目は情を持たない深い深い碧であった。
「ィぁッッッッづッ!???」
彼の髪にコーヒーが染み込むと同時に、大きな悲鳴が響き渡る。カフェにいた人々は揃ってその音源の方を向いた。
案の定、神父はシルヴィオに食いかかる。
「オマッ何すンだよッ!!」
「言うことを聞かないとお兄ちゃんもっと怒るぞ」
「死ねよ!!!」
神父が力任せに大きく振りかぶって右アッパーを繰り出すが、シルヴィオは首を少し捻って避ける。すぐ様ボディに2発目が叩き込まれようとするが、それも簡単に受け止められる。こちらも我慢の限界が来たのか、言葉にできない怒りの罵声を叫んだ。
そんな様子を無名は、まるで全くの他人であるかの如く知らん顔をしている。慣れないケータイで道化に連絡をしつつも、腫れ物を触るかのように扱っていた。
神父は空いている左手で兄の頭を掴む。そして、思いっきり頭突きを試みる。低い唸り声と共にシルヴィオは身体を引き離したが、ダメージは大きかったようだ。額から流れ出てくる血はまさにそれを物語っている。
「やめろ」
「うるせェジジイと一緒に棺桶に放り込まれてこい!!!」
「怒るぞ」
「"怒る"ゥ?もうキレてるクセにまァだカッコぶってンですかァ〜??おにいちゃんは大変でちゅね〜」
煽りに反応して、シルヴィオは一歩足を踏み出す。
カフェの客は、これを観戦して楽しむ人間と、2人の剣幕に押されて縮こまる人間に別れていた。
先に動いたのはシルヴィオだった。
素早い動きで頭頂部の髪を乱暴に掴み、勢いよく床に叩きつける。バランスを崩した神父は倒れ伏すが、頭は地面に押しつけられたままだ。そこに、革靴で何度も、何度も何度も踏みつける。ガン、ガン、と人体が鳴らしてはいけない音が断続的に響く。
ずっと続くように感じたそれは、神父が脚を掴むことで終わりを迎えた。
掴んだ脚を、伏したまま神父は根本から引き寄せる。しかしそれだけではシルヴィオは動かない。振り解こうと脚を高く上げた瞬間、神父は足を地面に踏み込み、無防備なシルヴィオの足を体を180度回して蹴り飛ばした。もつれ込むように背中から倒れたシルヴィオに、乗り掛かって顔面にストレートを叩き込む。鼻血を流しながらも激昂した頭には十分すぎるほどの血が流れ込んでいるようで、固く握りしめた拳がまた一つ頬を殴った。
流石に止めるべきか、と流し目で双子の喧嘩を眺める無名。このままだとどちらかが死ぬまでやめない気もしてきたのだ。しかし、観客は相変わらず囃し立てる方と忌避する方とで、関わる気配は見られない。
そこへ、何度見ても見慣れない綺麗な紫が視界に映った。
小競り合い程度だと高を括って見に来た道化は、思った以上のガチ喧嘩に若干引き気味である。
「……これなんです?」
「見ての通りです」
「うわ、今の痛そ」
目を離した隙に、シルヴィオがまた優勢になっている。かがみ込んだ神父の顎を下から蹴り飛ばしていた。ガチン、と歯が勢いよく当たる音がする。
「…止めましょ」
「はあ…」
2人を落ち着かせるのに、そこから30分かかったのはまた別のお話だ。
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結局、神父は兄を手伝うことになった。
「めんどくせーーーーーーーー」
「また流血沙汰になったら困るのは君なんだから」
「そうですヨ」
ぐだぐだと恨みつらみを口にする彼に、無名と道化とで服を着せる。見慣れた青いジャケットを羽織れば、姿はぱっと見変わりのないシルヴィオであった。
「兄貴のフリ?『こんばんわ!俺と一夜をどうだい?』とか?」
「お前俺をなんだと思ってんだ?」
「実際そうじゃん」
「反抗期だなあ」
否定はしない、ということは色男であることは間違いない。お遊び癖が抜けないのはいつものことだ、と神父が兄を流し見ると、彼はひとつ苦笑いを浮かべてから申し訳なさそうに目を伏せた。
「これが今日やってほしいこと。覚えたら無名くんに渡せ」
「道化はどすんの」
「…不本意だが、俺の部屋に幽閉しておく」
「え〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!!!いいんですかァ〜〜〜〜!??!??」
悲鳴をあげて両手を頬に当てる道化は、その大袈裟な動きとは裏腹に喜色を孕んだ声である。おおかた人の私生活というものに興味があるのだろう。それが自分の事を語らないシルヴィオとあらば、なおさら断らない手はないはずだ。
ただし、道化は彼のことを知らない。知らなすぎたが故に、最悪な悲劇が起こることを悪魔は見抜けなかった。
それはまたおいおい分かること。今はハンカチをひらりひらり流してお見送りする姿を見ておこう。
「そんなァ、ワタクシ悲しいです〜!いってらっしゃいませぇ〜!」
「……あの人置いて本当にいいんですか?」
「大丈夫大丈夫!心配しないでくれ」
「はあ…」
そこへ、神父が一言声をあげる。
それは驚きと、焦りと、どうしようもない絶望を含んだ声だった。
「どしたの」
「お、お、お、オマエ、だからオレなのかよ!?」
「ああそうだ!扱いには慣れてるだろ?」
「アイツとコレとじゃちげーーよバカ!!!!」
珍しく、本当に珍しく動揺を隠さない神父に、無名は眉を顰めた。僕にも見せて、と一言断りを入れて、その紙を覗き込む。
無機質な日本語のフォントで書かれている中に、ひとつ。
タバコの脂で黄色くなった指先に、ひとつ。
見慣れたその名前が、ひとつ。
『瑛佳 帝』
「……これって」
「そうだよ」
何を隠そう、瑛佳家長男瑛佳麗。
彼の父親が、今回の取引相手であった。
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「よ」
「ぎぇッ」
ブローチの代わりの、ネクタイを締める。
「そんなキツくやんなくても」
「それくらい必要だよ」
「そうですか…」
ひとつ、ふたつ、喉を鳴らす。
声を出せば、雄弁で快活な兄のものと変わらない。
「瑛佳、帝」
「怖い?」
「アイツの親父だぞ」
それどういう意味、と問う前に彼は足を踏み出した。渋々、無名もそれに続く。
エレベーターのドアが開いた。吹き抜けになって、ガラス張りの壁が見えゆく。
夜のイタリアの街並みが見下ろせるビルの最上階は、相手が用意した会場であった。
「悪趣味」
「なんで?」
「人を見下ろしたいから上にしてる」
小声で悪態を吐きつつ、その悪趣味と称された男を探す。
「やあ!こんばんわ」
よく通る声は、本当に息子と聞き間違えてしまうほどそっくりだ。血の繋がりというのはどうしようもない呪いだと、何千回でも弟は思う。
「こんばんわ、エイカさん」
「君の名前は…なんだったかな」
「シルヴィオで構いません。遠い日本からわざわざおいで下さり、ありがとうございます」
「日本語が上手いね、言語学が得意なのかい?」
「弟が日本に居住しているので」
「なるほど」
座ってくれて構わないよ、と一言。
それを聞いて、彼はソファーに腰を下ろす。捨てられたと言っても、神父も生まれは裕福である。その遺伝子は多少ジャンクを刻みながらもその威厳を忘れてはいなかった。
その後ろに、無名は足を並べて立つ。真っ白なスーツに黒いシャツ、手袋も白に身を染めている。シルヴィオ曰く、『誠実ならば潔白であるべき』だ。
「そちらは?」
「手伝いです。何しろ、時間を忘れて話し込んでしまっても困りますので」
「ほう」
「ご心配なさらずとも、彼の名は『誠実』です。日本で言う名は体を表す、という事です。それに、彼は古い友達ですので」
「…不思議と、信頼はできそうだ。君も座ってくれ、足が疲れるだろうからね」
ありがとうございます、と硬くなった口を開く。
無名は帝にとてつもない緊張と、押し潰されそうなプレッシャーを感じていた。
そこにあるのは、友好でも、信頼でもない。
ただの、虚無。
利益しか考えない、虚無。
目の中にあるのは、空虚。
それは、獣の本能であった。
「(これ、麗さんと似てる空気…)」
どこか懐かしさを感じる、しかしその重苦しい雰囲気に苦しみながら、無名は神父の隣に腰を下ろした。
「では、早速お話を」
「ああ、そうだね」
そういうと、神父は自分のカバンからいくつか紙の束を取り出した。あたかも自分が作った様に説明を始めるが、作成者はシルヴィオである。
それを一つの澱みもなく、中身を理解した上で話を進めている。資料の内容から見るに、投資の話だろうか。
無名には何が何だかという感じだったが、そういえば麗も投資まがいの事をしていると話していたのを思い出した。親の受け売りか、ただの偶然かはさておき、似ているのはそれだけではなかった。
髪は墨より黒く、イヤーカフはキラキラとその金色を映し出している。瞳はそれに負けない明るい金で、麗をそのまま成長させたような姿形をしている。逆に言えば、この男も数十年前は麗のような姿をしていたのだろう。
「面白い提案だ」
「恐縮です。弁しか立たないので」
「そんな事ないさ、ねえ?」
そういうと、帝は無名に目を向ける。まさか自分に飛び火するとは思わなかったため、一つ跳ね上がったのち、何を言えばいいか分からずおろおろとするばかりである。
こいつ日本語不自由なんですよ、とカバーするように神父が口を挟む。それを聞いて、帝は考え込んでから、口を開いた。
「"彼は内実素晴らしい才能の人間だと思わないかい?"」
「あ、」
「話せるんですか」
「ここに来るまで大変だからね、簡単な単語だけだよ」
まあ言われても困るものは困るだろうけど、と笑えば、再び彼は資料に目を向け、それを見た神父もまた説明を続ける。
シルヴィオが苦手な無名はそっくりな弟の姿を見て、やっぱり地位のある人間は苦手だと感じた。
…少し経過して、説明は以上です、区切りの言葉が放たれた。
それを皮切りに、帝は拍手する。
「素晴らしいね!」
「恐縮です。ぜひご一考下さい」
「考える必要もない!ここまで来たら騙されたと思ってもいい。私は直感を信じる方でね」
「それは嬉しいお言葉です」
いつものように作り笑いを浮かべれば、感情がこもっているのかいないのか、若干微妙な声で返事をする。
この状況を神父はどう思っているのか、ただの猫には想像もつかない。
「私にも君より少し下の娘がいてね」
神父が、わずかに、ほんのわずかに身構えた。
それは。
それは、聞いてはならない話を聞くように。
それは、開いてはならない本を開くように。
「交通事故に遭ってね、嫁ぐことさえできなかったよ。君のような夫が欲しかったなあ」
「ご愁傷様です」
「もう2、3年前だからね。気にしないでくれ」
「 お嬢様も嘸かし素晴らしい資産家になられたでしょうに」
「そうだね、こう言っちゃあなんだが、私の娘だからね!」
ははははははは。
笑い。
嗤い。
神父の目は、兄と同じ、深い深い碧に染まっていた。
---
「クソが!!!!!」
「まあまあ」
「死ね!!!クソ!!!!死ね!!!!死ね!!!!」
接待が終わった後、神父は胃の中から蟲を吐き出すように、何度も何度も暴言を吐いていた。
「ンだよアイツ!!!なーーーにが『私の娘だから』だよバーーーーカ!!!!勝手に殺したのはテメーだろ死ね!!!!これだから上流階級はよォ!!!!!」
「俺にまで飛び火ってるんだが…」
「殺す!!!あい、ッつ、ぜったい、殺す!!!!!」
だん、だんっ、と重量感を感じる音が響く。足を何度も床に打ちつけて、どうしようもない怒りの衝動を無理やり発散させているようだ。
珍しい荒れように、ただ無名はたじろぐだけであった。
「殴るぞ」
「殴れよ!!!ーークソ!!!胸糞わりーーあのスカし野郎!!!!」
「よし」
そういうと、机に突っ伏せて駄々をこねるような神父の頭を思いっきり殴り飛ばした。机のネジが軋む音がする。痛みに唸る弟を他所に、兄は無名にひとつ声をかける。
「少し面白いことになったな」
「…面白くはないかと……」
「いいや?面白いぞ。食事に呼ばれた」
「はああああああああ!!???」
しっかり聞いていた神父が驚きのあまり椅子から転げ落ちた。更なる痛みへの悲鳴を後ろに感じながら、シルヴィオは話を進める。
「えらく気に入られてしまってな、断るわけにもいかないし」
「アイツどのツラ下げて飯食おーなんて言えたんだよクソ!!!」
「これはまた、何というか…」
「板挟み、だな」
鼻で笑う兄をきっと睨みつけて、神父は椅子を立て直す。
無名は、この険悪な雰囲気の中でどうすることもできず縮こまるばかりだ。
「どうする?俺が行ってもいいぞ」
「ゼッテー会わねーから」
「うん」
だけど、このままではいけないとも思っていた。
「ワンチャン麗にまで伝わっちゃうかね」
「さあな。俺はそこまで管理できないぞ」
「うげ、めんどくせー」
現状維持が一番怖いことを、彼は知っていた。
「じゃ、オレ帰るから」
「あの」
口を開いた。
沈黙と同時に、何かが砕けて飲み込まれる感覚がした。
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「本日はお呼び頂き」
「ああ!そんな堅苦しい事言わなくても!私自身のプライベートだよ、気軽に行こうじゃないか」
「恐縮です」
オレンジの照明は、まさに酒場を彩るには最適なものであった。
庶民街の一角、すっかり夜に染まった空は満点の星を湛えている。わざわざ帝がここに呼び出した理由は大方「庶民を眺める」か、そんな所だろうと神父は思考の端で考えた。相変わらず兄の様な作り笑いとも言えない笑顔を浮かべる彼に合わせ、自分も席につく。
「私が払おうか。何でも頼んでいいよ、新しい門出だと思って」
「でしたら、同じものを頂きたいですね」
「ハハハ !堅苦しいというよりかは、日本の作法を無理矢理真似しているのかな」
そういうと、彼はオーダーをする為に店員を呼んだ。澱みないイタリア語で話す姿は、どこか麗の面影を感じる。見栄を張っているというよりかは、自信過剰なのだろうが。
一通り注文を終え、店員が厨房に戻った辺りで、神父は口を開く。
それは、神父が考えた言葉ではないのを、帝は知らなかった。
「ひとつご相談がありまして」
「おっと?何かな」
「どうしても瑛佳さんに会いたいと、どこかから嗅ぎ付けたらしい友人がいるのですが」
「ほう!いいじゃないか、ぜひ呼んでくれ」
「ありがとうございます」
そう言うと、神父は携帯に目を向けた。ひとつふたつフリックでメッセージを送れば、返事を待つことなくそれを仕舞う。
そこへ、先にワインが運ばれてくる。準備が容易い赤色は、安物のそれであることを悠に示していた。
「質には元より期待してないさ」
「そうですか」
「ただ、飲めるならいい。飲めれば飲めるだけいい。私のモットーは、いいものではなく多いものだ」
ドアが開く。ちりんちりん、とベルが鳴る。店員がその客を案内しようとしたが、先客がいると断ってしまった。
「来ました」
「お!楽しみだなあ」
「こっちだ、レイ!」
帝は一瞬、動揺したような仕草を見せた。
『レイ』と呼ばれた者は、その声に反応して、緩慢でありながら雄弁に、優雅に神父の方へ歩いていく。
人混みを乗り越えて、彼の姿が露わになった。
「…………なんで」
「お知り合いでした?」
神父は、隠そうともせず意地悪い声で帝に呼びかけた。そんな事にも気付かないまま、彼はずっと『レイ』の方を見ている。
それは。
紛れもない、『瑛佳麗』であった。
彼はそこに立ったまま、微動だにせず、しかしずっと帝を見据えている。その堂々とした態度はまさに父親たる彼そのものであり、また息子の麗である事に間違いない。
一度そう思ってしまったのだから、
そう見える他ない。
あなたが彼を『瑛佳麗』と認識したせいで、シュレーディンガーの猫は瑛佳麗になってしまいました。
お前のせいだ、
あーあ。
無名は、この提案を思いついた時、とてつもない不安に襲われていた。
というのも、作戦に関しては2人の方がずば抜けて適正である。それに、レイ、と呼ばれて帝が麗を思い浮かべるという可能性は高くなかった。確証もなかった。
否決されると信じ切っていたその案は、あっさりとOKを貰ったのだ。
理由は「それで見返せるのならそれがいい」。神父の私怨が主だったが、それでシルヴィオも文句はなかった。そもそもシルヴィオは作戦の本質、もとい無名の事をよく理解していなかったが、弟がOKを出すならそれでいいと踏み切ったらしい。
次に課題となったのは、麗ではないとバレてしまうのではないか、という懸念であった。
そもそも演技に関しては無名は全く以て無知である。麗の頭の回転の速さもなかなかのもので、それを無名が模倣できるなんてことはまずあり得ない。
「あ、いいヤツいるじゃん」
神父の一言で、事態は解決した。
「ネエここマジで何もないんですけどォ!??空!!なんですか!?ここホントにお兄様の部屋ですか!!?!?」
「俺の所有してる部屋だ。使ってるとは言ってない」
「サイテー!!!!!!」
悲劇を知らない、と少し前に綴った通り、彼は私生活を覗くどころか部屋の埃を数えて暇を潰していた。
「演技?別にイイですけど」
事の発端を話した後、交渉は成立。
無名はじっくりみっちり、演技が何たるかということを叩き込まれた。
「一瞬でも麗さんに見えればいいんですネ?」
「はい」
「なら目線に入るまでは少し屈む。歩幅は大きく、ゆっくりと歩きましょう。目線に入ったことが確認できた時点で顔を上げる。しっかり胸を張る。堂々として、何も言わない」
「何も言わない?」
「ハイ。ああいう人はそれが一番圧があるんです」
それにアドリブなんて素人ができるわけと至極当然の事を言われて、なんだか腑に落ちないような、それを道化に言われたくないというような、そんな気を覚えつつ個人レッスンを終えた。
そうして、今に至る。
「(これでアイツは、無名の事を麗だと思い込む)」
だからなんだという話?
笑わせんな、オレがそこまで考えてないと思ってんのかよ。
「…麗」
「御子息でしたか?」
「……あ」
「いや、そんな事ないですよね!だって瑛佳様は娘がおふたりなんですよね?
で、お姉様の方は交通事故でと!他人の空似ですよね〜!」
「いや」
「信用商売で嘘をついたのか?」
音を変える。声色を変える。
彼にとっては麗は無名にしか見えていない。勿論、動揺するはずもない。
更に言うなら、
「ウソをつくのも大概にした方がいいですよ、お父さん」
そもそも、彼は兄である。
恐怖に恐れ慄く帝を見て、無名は少し眉を下げた。それが演技なのか、はたまた、狭苦しい社会にいた麗への同情なのか。
それは定かではないが、ともかく、悲しそうな顔をした。そして、酒場の出口へ踵を返す。言われた通り悠然と、何もなかったようにそこを後にする。
「麗、行かないでくれ、俺が悪かった、」
その言葉の方向を、金色の目が捉えることはなかった。
瑛佳帝は息子の後ろ姿を、ずっと、ずっと見つめていた。
---
「見たかよ!??アイツのボーゼンとしてる顔〜〜!!!ギャハハハハ!!!!3日はこれでTwitterやらなくても生きれるわ!!」
「うるさいよ」
次の日、神父はひとりソファーに転がって何度もこの笑いを繰り返していた。相当にスッキリしたようで機嫌も良く、なんとかデータ量も今月内に収まりそうであった。電話なんてされたらたまったものではない。
「麗サンのお父様、そんなに顔似てました?」
「はい、まるで麗さんを大人にした…もう少し落ち着かせた感じの」
「言い換えなくても。まだまだ子供ですヨ、あの人」
こちらはこちらで、どこからの大人目線で会話を繰り広げている。きっと本人がいれば激昂していたであろうが、逆に言えば本人がいないからこそこの作戦が可能であり、またこういう話もできたのである。
「やあ!調子はどうだいかわいい弟ちゃん」
「フツー」
「わーーーーーーんみんなーーーー弟が俺のこと否定しないよーーーー!!!!!!」
シルヴィオがドアを勢いよく開けて神父に抱きつくが、それすらも拒む様子はない。
流石におかしいと思い顔を上げるシルヴィオだが、神父はいつも通り、その澄んだ青をぱちくりと瞬かせるのみである。それを見て考えるのがバカらしくなったのか、シルヴィオは再び弟を愛でる動作を続け始めた。
彼の取引はおしゃかになる事もなく、ビクビクされながらもかなり良好な関係を続ける事になったらしい。
ここはイタリア、彼らの母国。
ただの神父とその兄に、契約を交わした悪魔のいる部屋。
無名は、ひとつ瞬きをした。あの箱の景色は、どこにも見当たらなかった。
何年、何十年、変わりようのない機械と箱の中に閉じ込められていたのが、今となっては外を広々闊歩している。それは彼にとって、何かを変えた証拠なのだ。
そして、今日も。
「君、お兄さんにたまには甘えてやってもとか思ってるの?」
「ハ!?ちげーーーし」
「またまた〜〜」
「あしらうのもめんどくさいんだよ!」
「ほんと〜〜??」
「ホントーーー」
あなたがこの世界を観測したから、この世界は生まれました。
ありがとうございました。
また、変わりようのない世界の、
目まぐるしく変わりゆくどこかで。
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4/30
sincero
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お誕生日おめでとう!(書き終わり4/27)
瑛佳麗のお父さん、出す予定はうすうすあったんですけど、もっと古臭い人間だと思ってたら案外そんなことなかった。
・無名くんはシュレシュレの猫なので、一度そう見せてしまう=思い込ませればそうという風に変化することができます。
これを利用して、神父くん(実行したのは兄だけど)は無名くんを麗くんと思わせたんですね。
・神父くんがやけに帝さんにキレてたのは、麗に対しての無意識下の怒りです。理由を聞いても「何となく」で終わらせられそう。
・最後神父くんが兄に反抗しなかったのは、きまぐれと血の繋がりってものはある程度大切にしてやりたいと思ったからです。あんまり意味はありません。
・余談ですが、道化を持ってくるのはマジで偶然でした。書いてる時は道化忘れられオチ担当にしようと思ってたんですが、まさかこんな形でハマるとは……いやはや
翌日、彼らは帰宅の便に乗る。
無名が空を見下ろせば、そこには海があった。
真っ青で、どこまでも続く様に見える海。
それは、彼が箱の中にいる時には見れない光景であった。
イースターエッグ。
彼はまさに、隠し機能。
世界というOSの中に、人間というプログラムが生み出したバグなのである。
だけど、今こうやって生きている彼が、生き物でないと思えるだろうか。
彼は、生きていると、生きてもいいと観測されたのである。
殻を破った鳥は、空へ。
そして、知らない世界を知るのである。
それこそ、イースターエッグのような楽しみに。
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世間からしてみては無名くんのような猫の存在はイースターエッグと呼べますが、無名くんにとっては世界そのものがイースターエッグです。
これからものんびり、生きていってね。愛してるよ!
お粗末様でした。