Two of us10
パシオの大通りを、若いトレーナーが楽しそうに走っている。
小さなパートナーを連れて、楽しそうに走る彼らの中には、その首にオメガの証であるチョーカーを身に着けている者もいた。
少し前までは、勇気が出ずに首元を隠す服装を身に纏っていたその子が、周囲の目を気にせず楽し気にしていることには理由がある。
背中を、押してもらったから。
パシオで、──、それだけではない。パルデアで、ガラルで、その他の地方で。世界中のオメガを勇気づける、ある配信が行われたことは記憶に新しい。
【バース性で苦しまない世界を目指して】
このタイトルで投稿された動画に登場するのは、ベータであったはずの一人のベテラントレーナーだ。
燃える炎のジムトレーナー、ガラル地方のカブ選手……。ロマンスグレーの髪のその人物が、パシオの広いバトルコートに立つ姿から動画は始まる。
スマホロトムが自動撮影しているのだろう、自動で宙を飛ぶ撮影に移り込む空は青く、風はカブ選手の髪を揺らしている……。同じく風に揺れる襟から除く首筋には、スポーティーな衣装には不釣り合いな群青色のチョーカーがつけられていた。
最近は、ベータでも趣味で身に着けることがある、ファッションアイテムとして成立し始めたソレは。けれども、バース性という視点を通すと、どうしても目を引いてしまう。
「ぼく、なんと、オメガになりまして」
話の出だしは、何処かあっけらかんとした柔らかな口調で紡がれた。人によれば慟哭しかねない事態を、その壮年の人物はどこまでも穏やかに語り始める。
その証明にと、画面に映し出したのはバース性を表す診断書。大人はだいたい成長期に見たきりとなる、第二性の判定が示された証明書には『Ω』の文字が印字されていた。
偽装が難しい、特殊な紙に印刷される第二性の証明。
──、ゆえに、その紙は。この人物が嘘偽りのない真実を述べていることを表している。
「もともとはベータでした、けれど、暴漢によくない薬を使われてオメガになりました」
詳細は伏せると言いながらも、少しだけ開示された経緯は、背も凍るような恐ろしい内容で。けれど、その恐怖は、彼の穏やかな口調で軽減されていた。のちのち、薬ということも伏せた方が良かったのではないかという意見も出たが。一部で少し論争になっただけで、炎上することはなかった。
どれだけ隠そうと、貪欲な者はどうやればバース性が転化するのか調べたことだろう。
【オメガ転化薬】少し調べれば、その危険な薬に関する記述はネットで読むことができる。
打たれれば、死ぬか、無事に転化するか二択の禁薬。──、そして、その成功率は驚くほど低い。決して市販されている薬ではなく、所持もそれぞれの地方によって禁止されている劇毒だ。
そんな命に係わる劇薬を、暴漢によって打たれたのだというこの人は。
凛とバトルコートに立っていて、その身に訪れたという死の危機を感じさせることはない。何者かの手で、バース性を捻じ曲げられた……。耐えがたい現実への、絶望もそこにはない。
「ぼくは、現状を受け入れています」
どこまでも穏やかな声が、画面を通して再生される……。オメガ化というその現状の前に、その人の目には光があった。明るく燃える炎を想起させる、───温かな光だ。
バース性において、オメガとは、社会的に不利な状態に陥りやすい。その目にはやはり、唐突に歪められた未来への不安は無く……。毅然とした意志の光が、キラキラと輝いている。
遠きガラルの、エンジンジムのジムリーダー、カブ選手という、その人は。
「もちろん、ぼくに起こった出来事は赦されることではない。そのことには、強く怒っているよ……、」
胸元に掌を当て、厳かな口調でそう言った。それは、一瞬でもバース性の変更という事実に好色の目を向けた誰かを、牽制するかのように鋭い口調だった。スマホロトムが、ズームしてカブの顔を視聴者によく見せる。
画面越しでも、カブのその声と表情にはには迫力があった……。
「ただ、どのバース性だろうと、ぼくは変わらない」
そして、カブは高らかに宣言する。この配信を見る、視聴者全てに対して言い切るように。誇るわけでもなく、萎縮するわけでもなく。まるで、バース性など意にも介して居ないと言いたげに。ただ、人間にバース性があるだけで。その人の人生が、引きずられる必要などはないのだと宣言するように。
カブの顔をズームにしていたロトムが、少しずつフェードしていく……。そこには、ぎらぎらとした太陽の光をうけるバトルコートがある。
「今からどうか、ぼくのバトルを見て欲しい」
カブの肩にかけたタオルが揺れ、彼はゆっくりと歩き始める。それはエンジンジムで、トレーナーと相対した後の導線とよく似ていた。ポケモンバトルの前の、ルーティーンにも似た小走りで。
コートの片側に移動したカブが、中央を向き直れば……。
いつの間にか、反対側には、背の高い人物が一人佇んでいた。カブが見せようとするポケモンバトル、その相手に選ばれた人物に視聴者の目が釘付けになる。
パルデア地方出身者であれば、彼の正体が分かったはずだ。チャンプルタウンのジムリーダーであり、パルデアリーグ四天王でもある。いつもはバトルに積極的ではないはずのその人物が、平然とした表情でモンスターボールを構える。
エンジンジムのジムリーダーであるカブと、異例の肩書を持つポケモントレーナーのバトルは白熱を極めた。
ガラルのポケモンと、パルデアのポケモン。普段は交わらない地方のポケモンのバトルに、視聴者もまた沸きに沸いた……。炎タイプを繰り出すカブに対し、アオキはノーマルタイプを繰り出す。
パヒュートンvsウィンディから始まり、最後はムクホークvsマルヤクデへと。
やけどを得意とするカブに対し、まひやねむりなどの状態異常を付与してくるアオキの手持ち。どちらもトレーナーとしてベテランであるからこそ、そのバトルは一進一退の攻防を続ける。
カブのスマホロトムが、くるくると動いてバトルを配信する。
バトルの中で、カブは激しい指示を続ける。アオキのウォーグルと相対したエンニュートに対しては、空を舞うウォーグルに対し毒状態になるようにヘドロウェーブを指示する。
ネッコアラの転がるでコータスが敗れれば、ひでりの効果が残されたフィールドを舞台にキュウコンが華麗なだいもんじを決めて。ノココッチは、キュウコンに対してへびにらみをし、動きを鈍らせた状態でハイパードリルとだいもんじの一騎打ちになった。
そして、最後……。ムクホークvsマルヤクデ……。
「怯むなマルヤクデ!! かえんぐるま!!」
「ブレイブバード!!」
両者がぶつかり合い、激しい閃光と砂煙が舞う……。煙が晴れた時、高らかに勝利を宣言したのはアオキのムクホークであった。敗れたマルヤクデを、カブがボールに戻すものの、視聴者は誰もその敗北を謗る気にはならない。迫力のあるバトルだった、普段は決して見られない、ベテラントレーナー同士の、肉薄したポケモンバトルであった。
カブとアオキは見つめあうと、ゆっくりとコートの中央に歩み寄り握手を交わした。
スマホロトムが、カブの方へと近づいていく。バトルの余韻を表情に残し、タオルで汗を拭ったカブ。
その姿は、晴れ晴れと、堂々としていた。
「オメガだとか、ベータだとか、バース性で、ぼくは変わらない」
カブは言う、毅然とした表情で、人生に何の陰りもないという顔で。───、その姿に、配信を息を飲んで見守っていた、どこかのオメガが感嘆の息を零す。そこにいるのは、オメガである以前に、一人の立派なトレーナーであった。
彼は言う、変わらないと。バース性など、これっぽっちも気にならないと。気づけば、視聴者は何万人にものぼっていて、遠い地方からも固唾を飲んでカブを見守っている。
オメガになったという人物が、何を口にするのか興味を抱いている。
スマホロトムが、再びカブの表情をアップにして。画面いっぱいに、カブの優しい笑顔が映った。
「だからみんなも、バース性で人を判断したりしないで欲しい。アルファのために、オメガがいるんじゃない。オメガだから、できないということはない。どうか、それぞれのバース性を誇ってほしい」
それは、少しだけ長いスピーチだった。けれど、説教臭いと画面を止める者は居なかった。
燃える炎のジムトレーナー、ガラル地方のカブ選手……。その表情が、ふたたびキリリと引き締まる。スマホロトムがフェードすれば、バトルコートに凛と立つ全身が映し出される。
「みんな、バトルをしよう!」
彼は熱い言葉でそう言うと、天に向かって指を一本突き出すポーズを決めた。
……、その日、もっとも再生されることとなり、誰もが真似したそのポーズ。
【バース性で苦しまない世界を目指して】
パシオで、──、それだけではない。パルデアで、ガラルで、その他の地方で。それは、世界中のオメガを勇気づける配信となったのだった。
──、もちろん。
このスピーチで、世界が完全に変わるわけではない。それでも、パシオにいるひとりの幼いオメガは、カブの言葉に背を押された。
世界は、緩慢ながらも、少しずつ色合いを変える。人々の心が好転する、その一助になったならばと。のちに、カブはインタビューで、そう答えるのだった。
それは、パシオの片隅で……。
長い配信を終え、ポケモンセンターで一息ついた帰り道。気づけば時刻は夕暮れに差し掛かっていて、西の空には眩い橙色の太陽が地平に飲み込まれようとしている。
そんな、眩しい眩しい世界で、斜陽に照らされて地面に伸びるカブの影の隣には、同じくカブと並んで歩く人物の長い影が伸びていた。
「大騒ぎになってるね」
カブはゆっくりと、傍らの人物を見上げて語り掛ける。
お互いに、先ほどから着信が鳴りやまない……。その全ての連絡を、今だけは全て無視して、カブは今日の配信を手伝ってくれた彼に礼を言った。
「ありがとう、アオキくん」
そう言えば、彼……、アオキはゆっくりとカブを見た。
パルデア地方のジムリーダー兼四天王。異色の肩書を持つ彼が、メディアなどに顔を出さないことは知っている。けれど、今回の配信にあたって、カブが打診をすれば、一つ返事で頷いて、色々と手配を手伝ってくれた。
「ぼくのために、色々と手伝ってくれて、」
そう言う間にも、ポケットの中のスマホロトムが通知で震えている。それはきっと、アオキも同じはずだろう。自分と同じく連絡を全て無視して、平然としている横顔が面白くてカブは少しだけ笑った。
「怒られない?」
「……、気にしません、」
楽し気なカブの問いに、ややあって返答が返ってくる。社会人の姿をしながらも、どこまでも豪胆で、心臓に毛が生えているようなその態度はやはり格別だ。
「それに、カブさんのためなら、自分はなんでもしたい」
そして、どこまでもシンプルに。想いを伝えてくる、その姿勢も……。まっすぐに向けられた言葉は、カブの頬に夕焼け以外の赤さを生む。
誰かの特別として扱われることは、こんなにも心をむず痒くさせる。カブは思わず眉を下げて立ち止まれば、それを見ていたアオキも同じようにその場に立ち止まった。
「ほんと、アオキ君は優しいなぁ……、」
そらの赤さに染み入るように、カブがしみじみとそう呟けば。アオキは少し小首を傾げて、それから、何を思ったかカブの方に手を差し伸べる。
「貴方だからですよ、」
美しい夕焼けの中で、アオキはカブに対して言葉を紡いだ。
「貴方は、自分の、大切な人ですから、」
それはどこまでも優しい執着の言葉、カブの心を幸せにする魔法の言葉だ。
差し伸べられた手を見ながら、カブはゆっくりと目を細める。──、差し伸べられた掌と、仄かに優しく微笑んだ口元を見て。自分は、この男と番になったのだと、改めてその実感を噛みしめる。
あの日、カブがアオキに噛まれたあと。
生まれて初めての発情期を、カブはアオキと共に過ごした……。たくさんたくさん、アオキからの愛を受けて、全身を余すところなく愛された。
そのうえで、分かっていることがある。
──、カブの、まだ未熟な子宮に、命はきっと芽吹いていないと。
それは、この身がオメガだからか、本能と呼ばれるものがカブに訴えているのか。
ただ、不思議と、その確信はカブの中にあって……。
「──、カブさん?」
急に黙りこくったカブに、不思議そうにアオキが呼びかけた。ほんとうに、いつも平然としている彼は。こうやって、カブの微細な変化には、すぐに気づいて感情を動かしてくれて……。
───、それは、カブがベータであった時から。
普通という言葉にこだわりを持っていたアオキは、その実、本質的な部分ではどんなカブのことも愛してくれていた。現の夢に微睡む時も、オメガの本能に囚われた時も。
優しい男だと、カブはアオキを見て思う……。同時に、強い男だ、とも。
カブが心に抱えていた少女の呪縛すら平らげると言いきった、その強欲なまでの愛情をカブは心の底から愛おしく思う。
恋も、愛も、遠巻きにしていたはずの、自分がだ。人と関わることはあれど、深く交じり合うことなく生きてきた自分が。
なぜ、アオキだけが特別だったのか……。
運命だったのかもしれないと、カブは心の中で呟いた。
アオキは、運命の人だったのだと。この世界で、カブと共に歩んでくれる最良のパートナーとして、巡り合う仕組みになっていたのではないか。
それは、もしかしたら……、バース性のない世界だったとしても。自分たちは出会い、惹かれ合う運命だったのではないかと。
そんな答えの出ない空想を描きながら、カブは不思議そうにしているアオキに手を伸ばす。
「アオキ君、髪にゴミがついてる」
「え、」
「しゃがんで?」
カブの言葉に、アオキは大きく目を見開くも。その言葉に従うように、ゆっくりと頭を近づけてくる。カブは、アオキの髪に手を伸ばし、それから柔らかく目を細めた。
近づいてきた、アオキの貌をまじまじと見る。
白髪交じりの、後ろに撫でつけられた黒髪。太い眉毛に、時折青を弾く黒い双眸。整っているわけではないけれど、ふとした瞬間に艶をのぞかせるその顔立ち……。
「カブさん?」
好きだな、と、カブは思った。
そして、カブは、アオキの薄い唇に、自分の唇をそっとくっつける……。
雨の中では、熱を分け合った口づけを。今は穏やかな気持ちで、少しだけアオキを驚かせたいという好奇心から……。
唇を離せば、そこには目を大きく開いたアオキの顔がある。完全に不意を突かれて、反応もできていない素の表情に対し。
「えへ、ひっかかった!」
「……、っ、」
カブが、からからと笑えば、アオキの頬が少しだけ赤らんだ。それから、彼は少しだけ鋭い目になって。──、カブの身体は、その腕の中に抱き込まれる。
「愛しています、」
「────、うん、」
痛いほどに抱きしめられて、耳元で何度聞いても褪せない言葉を紡がれる。カブにとって、当たり前ではなかったはずの。アオキから向けられる、情熱の言葉を甘受する……。
──、彼の子どもが、欲しいとも思った。
彼と、家族を築きたいと思った。
自分は、ベータだったオメガだ。それに、齢のこともある。
こどもが孕めるかさえ分からない、この身が少しだけ呪わしくもあるが……。
……、チャンスがないわけではない筈。オメガになったのだ、きっとそれを望んでも構わない。
アオキは、カブを欲深くさせる……。その責任を、取ってもらわなければいけない。
「ふふふ、」
こんな、老いた男に本気になって、アオキという男は本当にかわいそうなのかもしれない。
けれど、絶対に、離してやらない。
「ぼくも、愛してるよ、」
思いを馳せる、それは遠いホウエンの森。幼い少女に悪意を向けられて、知らず心に傷を負ってしまった幼い自分。そんな過去ごと、平らげてくれる男の腕の中で、向けられる愛に答えながら。泣くこともできず、しょげかえっている少年の耳元に、カブはそっと声をかける。
ぼくは、かわいそうじゃないよ、と。
心の中で、ようやく、こどもが笑った。きゃらきゃらと、楽しそうに笑いながら駆けていく。──、彼らはきっと、もう二度と姿を現さない。
手を繋ぎ、二人は再び歩き出す。──、パシオの道を。
過去の追想と共に、夕暮れに吞み込まれていく二人の姿は、まるで幸福な未来を指し示すかのようにキラキラと輝いて見えたのだった。
【Fin】