「戀う」 心の中に積み重なった、小さな箱がいくつもあるとして。
それは、幼少の頃に捨て去った想いの残像であったり。押し殺した憂いや、怖れや、願望や……。
与えられる筈だったぬくもり───、ことば───、やすらぎ───。
…………、味、香り、温度─────。
抱きしめられる───、まもられる───、慈しむ────。
ほほえみ。
安堵。
充足感。
─────────、■ ──イ──────。
あの頃、欲しかったもの、その全て、全て全て全て全て全て──────。
押し込んで、閉じ込めた、埋めた、忘れ去った。
捨て去ったはずの『 』を、隠していたはずの、恥だと思っていたはずの。
神々の王であるうえで不必要としていた【無様】であるはずの自分の姿を閉じ込めた。
押し込んで、蓋をして、穴を掘られて埋められてしまった。
────、小さな箱がいくつもあるとして。
そんな、神さえも忘れていたはずの具象を、砂漠に落ちた小さな珠を見つけたかのように拾い上げて
「きれい」
そう言って、その空に似た色の目を綻ばせた。………、うっとりと微笑んだ、お前が悪い。
「かっこいい」
無様だと思う姿を、とても格好がいいと……。この姿は、何も劣るものではなく。
美しいものなのだと、まっすぐに告げた、迷いないお前の声と言葉が。
今まで注がれてきた、あらゆる賛辞よりも色づいて見えたのだという。
想いを、言葉にすることはできなかった───。けれど、お前は変わらなかった。
雨を降らせなくとも、悪を滅さなくとも。お前はオレを───『 』───してくれたから。
だから、これはお前の務めなのだ。
荒れ地に転がっていた、泥だらけの珠に、躊躇いなく手を伸ばすように。───、無様なオレを称賛し、是としたお前は
埋めていた、忘れていた、埋もれていた箱を掘り起こしたお前は。
何を言わなくとも、何を知らなくとも。
──────、どうか、オ レ を 、ア ■ せ…………。
言い訳をするならば、藤丸立香は多忙であったのだ。
突如白紙化した地球に現れた重力波、対応するためのサーヴァントたちの育成とそれに必要なリソース集め。
カルデアにおいて、基本的にマスターに休みは無い。
特異点の解消のあとには、二日ほどの休養が与えられることはあるものの。人理修復という旅の最前線であるノウム・カルデアに、本当の意味で休息が訪れることはほとんどない。
それでも、うまくやっていた方だと思う。
対話を求めるサーヴァントがいれば、なんとかスケジュールを調整し。時に悪事をたくらむサーヴァントがいれば、鉄拳制裁でそれに対処して。
世界各国の英雄が集うカルデアで、問題が起こらないことはまずない。多忙なルーティン・ワークを熟しながらも、立香はそれでも少しのゆとりをもって日々を過ごしていたのである。
いつだって、不測の事態が調和を崩す。
観測された、微小特異点……。小さな歪みも、放置してはのちの人理に悪影響を及ぼすことがある。選抜されたメンバーと共に、その微小特異点を攻略するのが人類最後のマスターの務めで。
攻略に、長い時がかかったわけではない。ただ、その後のバイタルチェックや、報告書の作成に追われてしまっただけだ。
───、これについては、立香は悪くない。
その間にも、新しい装いを纏ったサーヴァントたちが押し寄せてきて、その対応はしていた。
───、これは、少しだけ立香も悪かったかもしれない。
つまり。
とどの、つまりだ。
──────、どうか、オ レ を 、ア ■ せ…………。
その夢から跳ね起きた立香が目にしたのは、自分を見下ろす二対の無機質な眼差しだった。
グリーンとピンク、目に鮮やかな色彩でありながら、立香の姿を映す眼は冷ややかだ。
すでにバクバクと早鐘を打っていた心臓が、これ以上ないほどに跳ね上がる。
彼らからの言葉は無い、声が不要だと思えるほど、彼等の主の心はもう夢を通してみてしまった。
彼等の主の望みを叶えるため、自律的に動く神性。
ヴァジュラ達からの、無言の圧力を受けながら、立香は着替えもそこそこにマイルームを飛び出してしまう。
マイルームの構造は精緻だ、たくさんの魔術に秀でたサーヴァントがいるなかで、立香がその気になれば、望むサーヴァントの以外の入室を不許可にすることができる。
防犯の意味も兼ねて、普段は必ずサーヴァントがいた藤丸立香の部屋……。その部屋に立香以外がいない理由と、無防備な寝室にヴァジュラたちの侵入を許した理由と同意だ。
今現在。
藤丸立香のマイルームに、入室することができるのは彼らに神性を分けた主のみ。
大切な大切な、美しいその神に。特異点に行く前の立香は、なんと声をかけた?
手を伸ばして、両手でその顎を包み込んで。その長い前髪をかき分け、そっとキスを捧げて。
【じぶんのへやで、いいこでまっててね】
冗談めかしてそう告げた人間に、神の恋人としての位置を与えてくれたその神は。
じろりと睨みをきかせ、不機嫌そうにしながらも頷いてくれた。
───、だから、あの神は待っている。【いいこ】で、立香が迎えに来るのを待っている。
───、思うものか、たかが人間の言葉を、神がそこまで尊重してくれるなど。きっとそのうち、あの美しい不遜な態度で、遅いと怒りながら部屋にやってくるものだと思っていた。
あの神が、そんな心の柔い部分まで、自分に赦してくれているなんて知らなかった。
「っ……、ヴァジュラ……! 人払いよろしく……!!」
深夜なのに、走って、走って、走って。たどり着いた一つの部屋の前に立ち、無言でついてきた彼の従属神にお願いをする。
すると、二神は不機嫌そうな、それでいて麗しい笑みを浮かべて。
「二度とすんなよ──?」
「不敬千万です」
きっちりと釘を刺しつつも、立香のお願い通りに扉を守ってくれるのだろう。きっと、そう、中にいる彼らの主が、満足するまで……。
「……、…………っ、」
立香は扉に向き直り、意を決して固い金属でできた表面をノックした。入室の許可を告げる声は聞こえない、もしかしたら、開けた瞬間に天罰だと雷を落とされるかもしれない。
そのほうが、まだマシかもしれない。
──、だなんて。頭の片隅で何かが囁くのは、かの神の感情の色を知ってしまったから。
夢を通して、立香に慟哭を告げた、麗しい神は。はたして、つれないことをした、たかが人間の立香を詰ってくれるのだろうか。
────、はたして。
横にスライドして開いた扉の向こう側、そこに広がっていたのは真っ暗闇だった。
明かり一つない空間だ、ただ立香が扉を開いたせいで、外から入った明かりが僅かに床に放り捨てられて転がった杯の陰影を浮き上がらせている。
むせかえるような酒の匂いがする、室内は打ち捨てられた物達でごちゃごちゃとしているようだった。
そんな、捨てきれない物が放置された。まるで、心象風景のような黒が渦巻く空間に……、立香は一歩足を踏み入れる。
ややあって、背後で自動扉が閉まり、室内は再び闇に包まれた。
その、質量すら感じる黒に向かって、立香は息を吸い込むと。
「……。……、ただいま、インドラ」
その言葉を、口にする。
それは、この闇のどこかにいる、あの神が待ち望んでいるはずの言葉。
声にされたわけではない、けれど、待ち望んでいるのだと、あの夢からひしひしと伝わってきた───。
パキッ。
───、音がした。
幻聴が聞こえるほど、闇の中で鮮やかに空が開いた。
黒に浮かび上がったのは、きれいなきれいな夜明けの青色。目覚めの光によって白んだ空に似た、うつくしいうつくしい宝石が二粒……。
闇の中で、パチリと光り……。
「りつか」
それは、鮮やかな赤い口を開けて、白い舌を動かして声を上げる。
あとは闇だ……、うつくしい青と、鮮紅色以外何も見えない。
───、いいや、違う。
黒の中に、より暗い輪郭の人型が浮かび上がっている。
それは、立香など簡単に縊り殺せそうな、くろいくらい人型で。
青と赤だけが光るおぼろげな輪郭のまま、重力を感じぬ動きでゆっくりと立香の方に近づいてくる。
立香の身体が、黒に包み込まれる……。
「やっと、かえったか、」
それは、鬱屈とした声を上げた。夜の闇より、空を覆う曇天より、どんよりとした暗澹としたものだ。
鬱蒼とした、森の中に潜む獣みたいだ。まるで、自分の色を忘れているみたい。
形を定かにしない、黒い輪郭のままの神、夜ではない、黎明とも黄昏ともつかない。ただただ暗いナニカに立香はこわごわと触れる。
「ただいま、インドラ、」
立香がそう声をかければ、黒色はふるりと揺れた。形を取り戻すのかと思いきや───、立香の視界を覆ったのは、星屑の光のような、乳色の長い長い薄い灰白色。
自分に垂れ下がる蓄光する長い絹糸は、いつも見ていたインドラ神の髪と同じ色のもの。けれどもその長い髪は、内側にパチパチと紫電が弾けている。
「りつか」
食べられそうと、そう思った。
西の果てに誘われそうな、雷鳴にも似た、不思議な音だったから。
「りつか、」
音に、再び名前を呼ばれる。
鯨の鳴き声は、こんな音なのかもしれない。頭の片隅で、そんなことを考えながら。藤丸立香は、このインドラであるはずの色彩を備えた黒色に、遅くなったことへの謝罪をしようとして。
「おれは、いいこだったか?」
落ちてきた言葉に、零れそうなほどに目を見開く。
立香より高い位置から落ちてくる、キラキラとしていてベールのように長い乳色の髪と。空と同じ色をした澄んだ二粒と、口の形をした鮮紅色。それ以外、黒でおおわれて、曖昧になって、形を忘れて、声だけは鬱々とした……。
神様の問いかけが、そんな、あまりにも細やかで、祈りにも似た、泣きたくなるような音だったので。
【じぶんのへやで、いいこでまっててね】
自分が放った言葉に後悔しながら、藤丸立香はそっと、きらきらとした二粒の空色に手を伸ばして。
「うん───、いいこだよ、インドラ」
優しく、目尻を撫でながら……。努めて明るい口調で、そう答えた。
「ほんとうか、」
「うん、」
「そうか、」
ぽろん、ぽろんと、空から雨が降ってくる。
立香の指を伝って、きらきらと虹のような粒が降るのはとても綺麗だ。
それきり、それきり───、神は雨を零すだけ。
神は責めない───、そのかわり、輪郭を忘れたままの、黒い影のような、おぼろげな、多腕のような手を伸ばして、立香をきつくきつく抱きしめる。
だから立香も、そこにあるはずの身体をぎゅっとぎゅっと抱き返した。
「遅くなって、ごめんなさい」
「───、────、」
「……。怒ってくれていいのに」
「──、─────、」
恋しい神を待たせたこと、健気に待たせたてしまったと。罪の意識から、神罰さえ望んでそう言ったのに。
神が───、ゆっくりと首を傾げたのがわかった。
「おまえののぞみを、かなえられたのに?」
長く伸びた髪が、さらりと音を立てる。シャラシャラと擦れあう、まるで体鳴楽器のような音。
「いいこの、おれが、のぞみなのだろう?」
「────、っ、」
綺麗な音でそう言われて、立香の涙腺が決壊した。
「そんなことない!!」
不甲斐なさと、申し訳なさと、様々な感情でぐちゃぐちゃになりながら。自分を包み込もうとする黒色を、自らぎゅうぎゅうと抱きしめて叫ぶ。
「怒っていいし、いいこじゃなくていいよ!!! 何を言ったって、何をしたって……、インドラのこと大好きだよぉぉぉ!!!!!!」
その、絶叫に対して……。
返事は、一呼吸置くようにして返された。
「ほんとうか?」
それは、小さな問いかけで。その声は、雷鳴に似た音よりもずっと、立香の知るインドラの声に似ていた。いつも聞きなれた、綺麗で色っぽい声だ。
腕の中の黒色が、ほんの僅かに質量を増す。茫洋とした定まらない何かではない、感情を感じる問いかけに立香はくしゃりと笑って。
───、力強く、頷いた。
「どんなインドラも、俺にとっては、初めて恋した、たったひとりの、大切なひとだよ」
輪郭を失った神が、怖くないわけではない。立香を包み込むように長く伸びた星色の髪も、宝石のような空色の二粒も、このまま攫われてしまいそうないくつもの黒い影の腕にも。
畏れを抱いていないわけではない、それでも、立香は恋をしているから。
「さみしい」
暫くして、光る口はそんなことを言った。
「さみしい」
「りつか」
「さみしい」
「さみしかった」
「りつか───、りつか、立香、」
繰り返し繰り返し繰り返し、立香の名前を呼んだ【 】は。
「おまえは、おれを敬わなくてもいい」
すこしずつ、すこしずつ、人に近い発声を思い出し。
「───、だから、」
朧げだった輪郭線を、ゆっくりと明らかにして。
立香が腕を回していた黒が、人間の腰の形になったところで。
「オレを、忘れることは、ゆるさない」
僅かに光を纏った、人の形をした美しい雷が。すんっと、立香の肩口に顔を埋めてそう言った……。
「うん、ごめんなさい……、」
そう言って、胸板に頬を寄せた立香を。インドラは、その両腕で強く抱きしめる。黄昏とも黎明ともつかない闇は消え去り、黒を塗りつぶした明瞭としなかったものは、いつもの恵体へと収まっている。ただ、長く伸びたままになった白い髪が、立香の背に絡むようにして床と擦れていて。
「お前のせいだ、」
立香の視線に気づいたのか、インドラは呻くようにそう言った。
「こんな、無様な姿………、」
他者が聞けば竦みあがりそうな、不機嫌を絵にかいた声だ。
そんな、インドラに───。
「うん、綺麗だよ……、」
優しく笑って頬を寄せた立香に対し、インドラは、髪の隙間から覗く暗褐色の頬を、僅かに桃色に色づかせたのだった。