水平線に沈む恋2 ウェスタニア皇国の第二王子ロナルドは、優秀で勤勉な海兵としても知られている。
曰く、妾腹の生まれでありながら、皇国の王子として地位を与えられた恩義に報いるため。ロナルド王子は幼いうちから士官学校で学び、学校を優秀な成績で卒業すると、レッドバレッドと呼ばれる皇国の海兵隊の将官に任命された。
ウェスタニア皇国の海竜のシンボルに三ツ星の紀章、鋭い眼光に周囲を威圧する黒い士官正装。
重巡洋艦を率い、時に神秘とも戦闘を行う勇ましい中将殿。そう呼ばれる皇国の王子が、今宵だけは白い装束に身を包んでいる。
明度の異なる白色で豪奢な刺繡があしらわれたスッとした上下と。頭にはマリアヴェールを被いて、静かに目を閉じて俯いた目元には波を思わせる菫色の文様が施されている。
普段が『動』のイメージであるとするならば、沈黙を孕んだ『静』の気配を宿して佇んでいる……。
打ち寄せる波の音が聞こえる荘厳な回廊、その先には古の気配が滲み出る洞窟の入り口。
そこは、ウェスタニア皇国において斎場と呼ばれる神秘の場所。
かつて国を興した際に、王族たちを助けたとされる海の王を祀る場所。
普段は閉じられているその場所が、今は何かを招き入れるように門が開かれている。
そう、斎場は、待ち人を迎え入れるために、普段は内に秘めた神秘を解き放っているのだ。
無機質な空間が、求めているのは、純潔の装束を纏う君。
白い衣装を纏った王子ロナルドは、海の王を祀る斎場に向けて、かの存在の花嫁となるために静かに佇んでいる……。
それは、今宵、神秘なるものに嫁ぐために。
ウェスタニア皇国では、海上での安全と戦の加護を得るために、見目麗しい海兵をひとり、海の王を祀る斎場と呼ばれる場所に贈り、その花嫁として生涯の純潔を捧げさせる風習がある。
ロナルドが、その花嫁に選ばれたのは、それは王の策略故に。
妾腹の王子が、子孫を残さないように。後顧の憂いを減らすため、ロナルドを人外への生贄に選んだのだと。
ありもしない、姿を見た事も無い海の王……。いくら後顧の憂いを断つためといえ、王子の地位にあるものを迷いなく選ぶあたりに、王のロナルドに対する扱いはぞんざいと言えるだろう。
けれど、本人は、その務めに真摯に向き合っているようで。白い衣をまとったロナルドは、静けさの中に凄絶な美しさを宿して洞窟を見つめていた。
時刻は夕暮れ、太陽に熱された空気が、昼間の温度を忘れてゆく。冷たさと暗がりが、沈黙に寄り添うように回廊に影を落として。
まるで、それが合図であったかのように。
真っすぐに伸びた回廊の先に開かれた洞窟の入り口、その門に描かれた文様を簡略化したような模様を目元に描かれたロナルドは。小さく息をつくと、洞窟に向かってゆっくりと歩き始めた。
カツン、カツン、荘厳な回廊に、白いブーツの踵が鳴りはじめる。
誰も居ない回廊を、ロナルドはゆっくりと進んでいく。これが婚礼であるならば、見送るべき親族が居るべきであろう。事実、優しい兄と妹は、最後までロナルドが『供物』になることに反対していた。
それを押し切ったのは、他ならぬロナルド自身だ。
自分が国の、兄の役に立つのならばと。心を砕いてくれる兄妹のためにと、ロナルドはか二人から伸ばされた手を振り払って此処に来た。心を閉ざすように、マリアヴェールを被ったロナルドは、誰にも見送られずに儀式の場へと自らの意思で歩いてきたのである。
彼に衣装を着せたメイドたちの嘲笑も、彼に化粧を施した者達の冷えた眼差しも。──、足を止める理由にはならない。
誰かの役に立つならと、そんな健気な思いで、ロナルドはいよいよ回廊を抜けて、海の王を祀る洞窟へと足を踏み出す。
洞窟の中は、人工の明かりが無いにも関わらず、岩の輪郭がわかるほど仄かに明るかった。
足をもつれさせないように、ゆっくりと中を進んでいく……。洞窟は天然の巌でできている筈なのに、蝙蝠や鼠といった生物の匂いはおろか、虫の羽音のような気配すらない。
それどころか、ほのかに、潮の匂いがした。
「───、っ、ぁ、」
ゆっくりと、ゆっくりと、周囲を窺うように進んでいたロナルドの目に飛び込んで来たのは、岩に囲まれた青く輝く美しい水面。
きっと、海に繋がっているに違いない。潮の匂いがする、その美しい水面は、ウミホタルでもいるような、ほのかな光を放っていて……。洞窟の中を、うっすらと照らしていた。
水面の傍には、腰かけられそうな椅子と、洞窟に場違いなベッドがひとつ。
『花嫁』が一晩過ごすために用意されたのだろう、それらは事前に整えられたのか埃一つ落ちていなかった。
静けさを纏っていたロナルドの目に、僅かに困惑の色が揺れる。
その椅子に腰かけていいのか、それとも一晩立ち尽くして夜明けを待つべきか。悩んでいるロナルドの耳が、くすくすと笑う誰かの声を拾った。
「誰だ!?」
思わず声のした方を振り返る、その手が、普段であれば腰に佩いている剣を探して。自分が丸腰であることに気付き、焦ったように踏鞴を踏んだ。
「あぁ、怖がらないで」
すると、声は柔らかな声でロナルドにそう語り掛ける。声は水面から聞こえていて、気づけば凪いでいた水面にさざ波がたっていた。
その姿が仄かに輝く波間の中から、ゆっくりと浮かび上がる。
「偉いねぇ、ちゃんと一人できて」
ぽちゃん、ちゃぽんという水滴の音を纏った。濃紺から紫紺にグラデーションを描く、海色のローブを纏った誰かがそこに居た。
ローブの奥の暗がりから、隠しきれない強大な人外の気配が零れ落ちる。
それは、当然のように、岩場へと上がってきた。フードの奥に光る赤色はそれの眼だろうか、その眼差しに射抜かれて立ち尽くしたロナルドに向かって。
「私の花嫁」
愉しそうな口調で、その存在は、ロナルドに向けて呼びかけた。傲岸に、不遜に、王子であるロナルドを、己の花嫁だと表すその存在は、きっと……。
「……、うみの、おう?」
そう、それはきっと、王家が祀る海の王に他ならず。ロナルドがそう呼びかけると、海色のローブの存在は微かに首を動かして首肯した。
「君達は、我が一族をそう呼ぶよね」
「───、一族?」
「そ、私達一族」
国が信仰する存在曰く、海の王とよばれる存在は複数であるらしい。
波間から現れた海の王の下半身は、人の形で無くうねうねとしたいくつかの触手の塊であるようだった。海の王と呼ばれる人外はゆっくりと水面から上がると、ひたひたとロナルドの方へと近づいてくる。
白を纏った花嫁は、不安そうな顔をした。
「あの、」
「なぁに?」
ロナルドは、おずおずと、自分を見下ろす存在を見上げて問いかける。
「花嫁は、一人で足りますか?」
海の王が複数であるならば、彼等に捧げる『供物』は一つで足りるのかと。もしかすると、自分だけでは足りなかったのかもしれない。そんな不安と焦燥が、ロナルドの目にはありありと浮かんでいて。
「──、───、あぁ、」
海の王は、正確にロナルドの戸惑いを読みとったようだった。
彼はゆうるりと笑うと、二本の触手でそっとマリアヴェールを持ち上げる。
「大丈夫、花嫁は一人でいいとも」
ほっと息をつくロナルドを、赤い光がじっと見つめていた。
「言ったでしょ、私の花嫁って」
「っ、ぁ、」
ロナルドは、安堵の色を浮かべた。本当に存在していた海の神秘、この得体の知れない存在に嫁ぐのが、自分だけで済むのだという安心感。
不安より、恐怖よりも、犠牲が自分一人でいいのだと。自己犠牲に、奉仕に、安堵する人の子の顔を、赤い光りはじっと見つめて。
「君の、名前は?」
「…………、ロナルド、」
問いかけに、花嫁は素直に答えた。そして、喩え貪られてもいいように、身体から力を抜いていく。
喰われると思ったのか、それとも、淫猥な夜が訪れると思ったのか。無垢に、表情を綻ばせる……。どちらにしろ、ロナルドは、ひどく、無防備だった。
純白を纏った男、そのマリアヴェールを、触手がぱさりと落とした。───、菫色の文様が描かれた頬に、ひんやりとした感覚が這う。
「ロナルド君……、じゃあ、」
ゆっくりと近づいてくる、海色のローブの奥にある、人間の顔の輪郭。薄っすらと見える赤い口に気づいて、ロナルドはゆっくりと目を閉じる。
そのまま、喰われてもいいように。──、たとえ首から食いちぎられても無防備で居られるように。
間違っても、抵抗しないように。──、海の王の不興を買って国に災いを招かないように。
まるでキスを待っているかのように、ちょんと上を向いた花嫁に向かって。
「おしゃべり、しようか」
「へ、」
海の王は、楽しそうにそう言った。その朗らかな口調に、ロナルドはきょとんとした顔で目を開けたのだった。
勇ましい軍人の横顔でも、義務を背負った花嫁でもない、無垢な青年の表情に。──、人外も、嬉しそうに笑う。
「あ、やっと緊張とれた?」
「え、あ、えっと、」
「いや、ほら。私ってばスマートな紳士だからね、いくら花嫁だからっていきなり手を出したりしないって。まずは、お互いを知るところからだよね。ということで、好きな食べ物から教えて欲しいなぁ」
「え、……、えっと、オムライス?」
「なぁに、それどんな食べ物?」
「えっと、卵と、ご飯が……、」
矢継ぎ早に尋ねられて、ロナルドはしどろもどろになりながら答えた。完全に毒気を抜かれたロナルドの表情は、さきほどよりずっと少し幼く見えて。顔を赤らめながら、質問にひとつひとつ応えていく姿は雛鳥のように愛らしい。
好きな食べもの、好きな時間、本の話、仕事の話……。気づけば、請われるままに、自分のことを話していくロナルド。そのうち、ロナルドは何故か懐かしい気持ちになった。
昔も、誰かと、こんなふうに、会話をしていたような……。
幼い頃の、懐かしい思い出。セピア色の記憶に、この存在が居たような気がして。
そんなくすぐったい気持ちになりながら、ロナルドが海色のローブから覗く赤い光を覗き見れば。薄っすらと見える顔の輪郭は、楽しそうに笑っている気がした。
「───、ドラルク」
「どら、るく?」
「私の、名前」
海の王は、そう名乗ると。触手でゆっくりと、ロナルドの心臓のあたりを撫ぜた。すると、温かな何かがそこに広がって、服越しに青い文様が肌に刻まれたのが分る。
くらりと、急激な眠気がロナルドを支配した。
魔法の眠りに、堪えきれず、崩れ落ちそうになる。
「ロナルド、我が花嫁、──、」
かくんと傾く身体を、ひんやりとした触手が抱き留める。遠のいていく意識の中、ロナルドはローブの奥に隠されたドラルクの顔を見た気がした。
「約束を、思い出して」
赤い目に、高い鼻。顔色の悪い、ほっそりとした人の顔。そんな見目をした誰かを、いつかどこかで見たような気がする。
あれは『 』だと、どこかで誰かの声がする。
おぼろげなそれは、自分の記憶だろうか。
いつか、どこかの、黄昏の、海辺で。
同じように潮騒に佇んでいた誰かの、笑い声が聞こえたような気がした。