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    shakota_sangatu

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    shakota_sangatu

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    12月に無料配布するノスクラ本のサンプルです。
    配布のため、部数は少量となります。無料配布という特殊な形での配布となるため、プロフにつけた🔞垢で告知致します。成人の方で、興味のある方は頒布時期だけフォローしていただけると、手配がスムーズに行えるので助かります。

    #ノスクラ
    nosucla.

    Gra Go Deo -Gra Geal Mo Chroi- お前という善を、ただの悲劇のままにしたく無かったのだ。

     その男のことを考える時、私の心はいつだって、200年という時を遡る。
     春には祭りを催す静かな村の、郊外に構えられた貴族の屋敷。かつて私はその屋敷で、大切な親友の子どもを預かり、その子の師匠として研鑽の日々を送っていた。
     その屋敷は、いくつかある拠点の一つでしか無かった。
     吸血鬼として、長き時を生きる我らにとって、一所に留まることは悪手でしかなく。食料である人間達のコミュニティに紛れながらも、昼の光を厭い生きる姿にいかに違和感を覚えさせないかは、吸血鬼としての力量にも比例していた。
     人間達は異端を厭い、一瞬の綻びが災禍を招く。大切な親友の子どもを預かっていた私が、その屋敷を一時の拠点に選んだ理由は、その村が戦禍や飢饉といった事象から遠い場所にあり、日が暮れてからしか顔を見せぬ住人への違和感を、「お貴族様だから」という簡単な暗示で丸め込める素直な気質の者達が多かったからだった。
     人間とは弱く愚かな存在である、戦禍や飢饉は略奪を生み、奴らは昼に静かな屋敷に足を向けるだろう。
     人間は異端を嫌うモノである、昼に物音立たぬ屋敷に少しでも違和感を覚えれば、奴らはそれを暴こうとするに違いない。
     人間など、徒党を組もうと敵にはなり得ないが、数で押し寄せられると煩わしい。それに、もしも教会の人間に言いつけようものならば……、信仰に盲目な狂信者共程に厄介で執念深いモノはなく。奴らは、我らを害そうとするだろう。
     そうなった時、もしも親友の子どもに奴らの魔の手が伸びたならば……。愛らしくか弱い子どもを、愚かな人間達が狙わない筈がない。
     嗚呼、少しでも害されることがあってはならない。
     大切な親友の、大切な大切な息子。私の命に代えても護りたい存在……、偉大なる真祖の血を受け継ぐ者。
     ドラルクを護り育てるため、私は万全を期したつもりだった。
     だのに。
     あの男は……、教会の息がかかった悪魔祓いと呼ばれる人間は。あろうことか、吹雪の悪魔と呼ばれる私の住処を、見つけ出したのだった。
     教会の悪魔祓い、吸血鬼の心臓を穿つ、黒き杭をその手に持つ男。
     執念深い教会の犬が、どのようにして吹雪の悪魔の隠れ家を見つけ出したかは分からない。
     たかが人間が、綿密に隠した筈の痕跡を見つけ出したのだと……。それだけで、その人間の悪魔祓いとしての実力が知れるというもの。
     自分達よりも優れた存在である吸血鬼を悪魔と断じ、愚かにもその命を奪おうとする悍ましい敵が。もしも、天敵である太陽の昇る時間に屋敷に踏み込んで来ていたならば、対策はしていたにしろ、多少なりと後手に回り大切なドラルクを危険にさらしていただろう。
     歴戦の悪魔祓いとは、そういう戦い方をするものだ。吸血鬼の眠る棺の蓋を開け、その心臓に杭をつきたてる。奴らが、そういった狡猾な戦い方をするものだと聞き及んでいたし、これまでに撃退した者達も例にもれずそうであったから。
     けれども、あの男は……。
     その悪魔祓いは、陽の沈んだ時分に、正門から堂々と入ってきたのだという。
     曖昧な表現を用いる理由は、その時不覚にも私は外出していて、屋敷にはか弱いドラルクしかいなかったから。
     そう、その時、私は屋敷に居なかったのだ……。あれほどに、親友の子を護ると誓っておきながら。
     慢心していたのだろうか……。わざわざ、我らの領域である夜に、門を叩く敵は居ないと。けれどあの男は、本来であれば人が息をひそめるはずの夜に、吸血鬼の屋敷を訪れたのだ……。
     ドラルク一人が、私の帰りを待っていた屋敷に。そしてか弱いドラルクは、無防備にも扉を開けて男を迎え入れてしまったのだという。

     あの時の事を思い出すと、今でも心胆を寒からしめる。

     幼いだけの吸血鬼など、悪魔祓いにとって、格好の獲物であるはずだった。その小さな身体を、禍々しい杭が何度凌辱しただろうかと。幼いドラルクが、何度その顔を恐怖に歪ませながら殺された事だろうかと。悪魔祓いの来襲を村人たちから告げられた時、屋敷に向かうまでの短い間に悪い想像が何度も何度も頭の中を駆け巡った。
     だからこそ、あれを見た時はわが目を疑ったものだ。
     悪魔祓いの男が、ドラルクの淹れた紅茶とクッキーで持て成されて。大人しくそれらを口にしながら、ドラルクの間断のない一人語りの供をしていたなどと。
     窓から乗り込んだ私の顔を見て、唖然としていた悪魔祓いの眼差し。手放されていた黒杭と、壮健な様子のドラルク……。そのような光景を、誰が想像できたものか。悪魔祓いの男が、吸血鬼の子どもに手を出さなかったなどと……。卑劣なはずの人間が、悪魔に温情をかけたなど誰が想像できるものか。
     夜に吸血鬼の居城に正門から乗りこんでくる悪魔祓いなどいない、そしていくらか弱いとはいえ吸血鬼の子どもに戦意を削がれる悪魔祓いなどいるものか。
     そのあり得ない行動を起こした悪魔祓いは、本来の目的である『吹雪の悪魔』である私を前にしても、予想だにしなかった行動を起こした。
    「あの子供は悪魔と言うにはあまりに無邪気で儚く…、そしてその身を案じて飛んできたノースディン。お前の顔も杭打つべき悪魔のものとは思えなかった」
     見逃してほしいという、心臓を差し出した私の頼みに対しての、悪魔祓いの答えはこうだった。ドラルクと出逢った悪魔祓いは、その骨身を成しているはずの教義にさえ疑問を抱いて、神に問うと言い切った。男の眼差しは澄んでいて、それらの言葉が、吹雪の悪魔である私に恐れをなしたわけではなく。逃げ出そうとしているだけの方便ではないのだと、はっきりと言外に告げていた。
     男の言葉が真実なのか、私は半信半疑だった。この夜の男の言動全てが、私達を謀るものかもしれないと最後まで疑った。たとえ背を向けて、男が私たちの前から去ろうとも、私が警戒を怠ることはなかった。
     人間は簡単に嘘をつき、都合のいいように物事を解釈し、簡単に意思を曲げて約束を破る。
     男が本当に、真実とやらを問うとはとうてい思えなかった。馬鹿正直に、そんなことをすればどうなるかなど、私でも簡単に想像することができたから。頭が冷えれば、男は再び私達を狙う筈だと思い込むことにした。
     だから、この夜のことは、ドラルクの今後の授業をよりよい物とするきっかけになったのだと。ドラルクが悪魔祓いを懐柔せしめたのだという、ただその功績だけに心を割くことにしたのだ。そうでなければ、疲れるし、肝も冷えた……。
     早急に屋敷を引き払い、村人の記憶を拭って、痕跡を消しきる……。そして、あの奇特な悪魔祓いのことは、二度と会わぬ者だと忘れてしまおうと。
     そうでなければ、私の心が漫ろになってしまう。このノースディンを、悪魔に見えぬと言ったあの眼差しを思い出して……。その中に、人間が持ちえぬはずの高潔さを見出してしまいそうになるから……。
     けれど私は、あの悪魔祓いを見つけてしまった。
     市でのことであった、杭も持たず、やつれていたが、私にははっきりと、その男があの悪魔祓いだと分った。
     あの、悪魔祓いは……。
     真実を教会に問い、破門されて流浪の身と成り果てた。忌み嫌うべきものとして教えられたはずの吸血鬼に心を見出し、心に生じた迷いをそのまま持ち帰ったのだと。
     その結果が、あのやせ衰えた姿だ。
     何もかもを失った男は、一つのパンすら売ってもらえずに窮している。
     教会に追われた身であるなど、言わなければいいものを……。異端を嫌う人間が、破門されたお前をどう扱うかなど想像できるだろうに。
     嘘をつけばいいものを、黙っておけばいいものを……。協会に、真実など問わなければよかったものを……。
     愚かな、悪魔祓い……。
     その姿は雑踏の中に消えて、私も男を追いかけようとは思わなかった。路傍の石と見捨てたわけではない、ただ手を伸ばすにはまだ、理由が足りなかったのだ。
     結局は人間であるその男を、あの時の私は迷いながらも、見過ごすことにした。どうしたいのか分からなかった、その表現が一番近しいものだったかもしれない。
     嘘をつかない人間など、居るはずがないと……。
     あの日の私は、雑踏に消えた、やせこけた背中を想いながらも、男から目を逸らすことにしたのだ。
     今思えば、あの時にもう、攫っておけばよかったのだ。

     けれど、私とあの男の帰着は200年前のあの山道の中で。

     ミミズクが運んだ下劣な手紙、見せつけられたあの男の善性。私よりよほど死の匂いが染みついた男は、その枯木のようになった細腕で握り締めた杖を手に、腹を減らした野犬の前に躍り出たのだった。
     悪魔祓いであった男は、吸血鬼を庇おうとした。
     野犬に噛みつかれ、傷まみれになり、瀕死になって、悪魔祓いが悪魔を庇った。
     死にかけたその男に、野犬がさらに牙を突き立てようとした所で、私は我に返って野犬共を追い払った。吹雪の力で山道は冬のように凍り付き、白霜が男の上にもうっすらと積もった。男を抱き上げれば、恐ろしいほどに軽かった。血はだくだくと溢れて、命の気配が急速に遠ざかって行っていた。──、それでも、満たされた、穏やかな顔で死を甘受しようとしている男の姿に、私はようやく目の前の男が真に善なる者だと知ったのだ。
     高潔だ。
     これこそが、まことに善なるものだ。
     そのようなものが、
     人間であってはならない。

     逃すものかと、私は思ったのだ。

     これほどに美しい、善なる者を。その命を。

     お前という善を、ただの悲劇のままにしたく無かったのだ。

     やせ衰えた皮に牙を突き立てて、その血肉に私の力を注ぎ込んだ。腸のはみ出した死にかけの身体は、やせ衰えてはいるものの無事な姿へと転化し……。
     けれども、男は目を覚ましはしなかった。
     男の身体は吸血鬼へと転化したものの、どれほど待とうとその目を開くことは無かった。軽い身体は軽いまま、命の気配がないまま、まるで人形のように私の腕の中に納まっていた。
     あの夜の慟哭を、私は今でも覚えている。
     あの憤怒を、あの激情を、私が忘れる事は無い。
     美しい男、嘘無き男。
     私の手から滑り落ちるように、目覚めを拒否した高潔な魂。
     その身体を棺に納めて、空を吹雪で染め上げながら。私は男を教会に安置した。
     最後は、寒さと飢えと痛みに苦しんだあの男が、最期まで殉じた神とやらの御許で穏やかに眠ることができるように。
     その程度しか、私にしてやれることはなかったから。

     嗚呼、愚かな悪魔祓い。

     愚かな愚かな、目覚めなかった私の血族。

     美しい魂、私のクラージィ。

     私の、吸血鬼としての生に陰りがあるとすれば、それはきっとお前という形をしていることだろう。クラージィよ、できれば私はあんな形で終わらせたくなかった。

     お前の『生』を、もっと見続けていたかった……。




     シンヨコハマの、とある冬の夜にて。

     氷笑卿と呼ばれるその恐るべき吸血鬼は、普段であれば縁遠いはずの吸血鬼用の自動販売機の前で神妙な表情を浮かべていた。彼が愛飲するようなAランクの血液からは程遠い、安価が売りの血液パック……。氷笑卿にはミスマッチな、パウチ状のそれを二個手にして……。
     ノースディンが向かおうとしているのは、これまた彼には不釣り合いな、とある集合住宅に面した公道の、仄かに明るい街灯の下。
     貴族然とした装いの吸血鬼は、人通りのまばらな現代の道路に舞い降りて、そわそわと落ち着かぬ様子だった。
     それもそうだろう、落ち着かぬ理由は、彼が待っているのは唯一の血族であるから。
     氷笑卿の唯一の血族、それは200年前に悪魔祓いとして対峙した、クラージィという名の男であった。
     クラージィ、黒き杭のクラージィ……。200年もの昔に、ノースディンが自ら転化させた男。転化してすぐに目覚めることなく、長い月日を棺の中で眠り続けたその男。
     クラージィが、何故シンヨコハマで目覚めたのか、詳しい理由は誰も分かっていない。ただ、ヨーロッパの教会に置いた筈の棺は、シンヨコハマに流れ着いていて。
     この地で目覚めたクラージィの世話をしたのが、200年前に彼をもてなしたドラルクだった。本人は、篭絡したという言い方を用いたが、確かにそうかもしれない。
     あの時、クラージィに疑問を与えたドラルクが、ふたたびクラージィと出会い。その人脈を駆使して、クラージィがシンヨコハマに暮らせるように手配したのだと。
     電話越しに、それらの情報を得たノースディンが、彼の所在を問い詰めたのは言うまでもなく。ドラルクから全力で煽られながらも、クラージィの住処を知ったノースディンが、夜闇を翔けて彼に会いに行ったのはつい先日のこと。
     200年前、見るも無残な姿にやつれていたクラージィは、多少なりとも身体に肉の付いた姿になっていて。最後に見たボロを纏った姿を忘れるほど身ぎれいになり、白いタートルネックという現代の衣装を着こなしていた。
     クラージィは、吹雪を纏って現れたノースディンに驚いたものの。すぐに、全てを受け入れた顔で微笑んで。己を転化させたのはお前だろうと、かつて何度もノースディンが夢に見た言葉を言ってのけたのだった。
     そう、ノースディンは何度も何度も夢に見た。
     あの日、目覚めることなく、棺に横たわったあの男……。クラージィが、もしも、目覚めていたならば、転化した我が身に気付いた時、いったいどんな言葉をノースディンに投げかけただろうかと。
     幾通りも見た夢の中で、もっとも魘された悪夢は、クラージィが転化した我が身を厭い、ノースディンに憎悪を撒き散らす夢だった。
    『よくも、私から、太陽を奪ったな』
     夢の中のクラージィは、怨嗟を込めた目でノースディンを睨み、その心臓に何度も杭を突き立てようとした。だから、こうやって本当に、クラージィとの邂逅が叶った今……。彼が呪いを抱いているのならば、ノースディンにはそれを受け止める義務があると思っていたのだ。
     けれど、クラージィの反応は違った。
     クラージィが、ノースディンに向けた言葉は『感謝』だった。200年前に転化させて以降、目覚めなかったからと棺に放置した吸血鬼に対して。ろくな同意を得ぬまま、その身を夜のともがらへと引きずり込んだ存在に対して。
    「あの夜、私を救ってくれてありがとう。」
     クラージィの言葉には、彼のその愛すべき善性が詰まっていて。だからこそ、ノースディンは言葉を失った。
     その美しい善性の眩さに、その魂の誠実さに。
     ノースディンは、心の底から、この男を吸血鬼という正しい在り方に導いてやれたことへの喜びを嚙みしめた。
     こみ上げる想いが、言葉を詰まらせて……。伝えたかった言葉を、いくつか飲み込ませた。その間にも、クラージィは言葉を紡いでいく。
     幸福そうに、愛おしそうに、人と吸血鬼が友となる街なのだと、シンヨコハマについて語る……。ノースディンにとってはトンチキな街は、クラージィにとっては安息の場所であるようで。
     人を友として生きているのだと、嬉しそうに言外に滲ませるクラージィの言葉に。ノースディンは、「誰が人間などと交わるものか」とは言い切れなかった。
    「さて、知らんね。悪魔祓いの目にはどう映るかな……、」
     悪魔祓いという言葉を用いた理由は、かつてのクラージィという男の在り方への敬意から。人の身で在りながら、高潔な魂を宿していた男への好ましさが自然と口をついて出た。
     ノースディンの言葉に、クラージィは確かに微笑んで……。「祈っている」と、邂逅を果たした男はそう言葉を紡いだ。まるで、二度と出会わぬかのように。
     それが、それが別れであるかのように。
     事実、ノースディンはそのあと、クラージィに置き去りにされたのだ。「タコパ」という人間達との約束を優先し、時を越えたノースディンとの邂逅を細やかな日常の幕間かのように消化して……。
     立ち去っていくクラージィの背中に、手を伸ばす度胸を、その時のノースディンは哀しいかな、持ち合わせていなかった……。けれど、この日の再会を、細やかな思い出にしてやるほど、ノースディンのクラージィに対する想いは浅いものでは無かったのだ。

     だから。

     だからノースディンは、腰が引けそうになる己に喝を入れて、わざわざ手土産まで持って、ふたたびクラージィの下を訪れていた。
     クラージィが通りそうな時間をリサーチして、贈答品として高級なブラッドワインを用意したくなる気持ちをぐっと抑えて。
     安価な血液パックを手に、集合住宅近くの公道で。
     全ては、もう一度会話がしたいがために。
     クラージィが通るまで、ノースディンはいつまででも、いつまでだって待つつもりでいた。
     恥を忍んで購入した血液パックと、オマケでついてきた血液パックを手に。街灯に照らされる、貴族然とした装いの美しい男。
     集合住宅が立ち並ぶ庶民的な街並みには似つかわしくない、吸血鬼の健気さを天が哀れに思ったのだろうか。
     待ち人は、買い物でパンパンになったスーパーのビニール袋を手に、道の向こう側から現れた。
     重たげな荷物を軽々と持ち、寒そうに肩をすくませたクラージィの姿に、ノースディンは思わず感慨深そうに目を細める……。200年前の、己の腕の中で目覚める事の無かった、やせ細った姿だけが脳裏に焼き付いていたから。その壮健そうな姿を、何度見てもまだ見慣れることができない。その無防備に歩いている姿を見ていると、生きているという実感と共に、今すぐにも囲い込んで全てから護りたくなる。
    「……、ノースディン?」
     胸中に生じた衝動を飲み込むため、そっと目を伏せたノースディン。その姿に気づいたのだろう、吸血鬼の聴覚は、クラージィの声を聞きとった。
    「何故、お前が此処に?」
     見れば、買い物袋を揺らして、クラージィが小走りにこちらへと駆けてくる所だった。
     何故、ノースディンが此処に居るのかと。信じがたそうな視線に、思わず腰が引けそうになるのを堪えながら。
    「奇遇だな……、」
     いくつかの言葉を捏ねまわして、紡ぎだせた言葉はそれっぽっちだった。奇遇なんて言葉で済ませられる筈がない、何故ならノースディンは目の前の男を待っていたのだから。女性相手であれば100の言葉を操れる氷笑卿が、クラージィの前では形無しになってしまう。飾り立てる事はおろか、本心すらうまく言葉にすることができない。
    「偶然、なのか?」
     対して、クラージィは「奇遇」という言葉を額面通りに受け取ったようで。住宅街に出没した高等吸血鬼を、ただただ訝しそうに見つめている。
     ノースディンが、己の心情に対して全くもって見当違いな言葉を発したなどと、その純粋な眼差しが気づく筈もなく。このままでは、再びすれ違ってしまいそうな。不甲斐ない予感が暗雲となり、シンヨコハマの空に雪という形をもって顕れる……。ちらり、ちらりと振り出したぼた雪は、ノースディンの心情に呼応したもの。
     けれど。
     無言で複雑そうな表情を浮かべるノースディンに対して、今宵のクラージィの対応は前回と違った。
    「寒そうだ、」
     かさりという音をたてて、手袋を嵌めたクラージィの手がノースディンの頬についた雪を払った。
     頬に当たった革の感触に、信じがたそうに目を見開いたノースディンに対して。クラージィは首をかしげながら、冬の景色に寒々しく埋没した吸血鬼を見つめる。
    「それにしては……、まるで、誰かを待っているようだぞ?」
    「嗚呼……、」
    「そうなのか。待ちぼうけか? ちゃんと、アポはとったのか?」
    「いいや……、」
     はっきりと己に向けられた問いかけに、気圧されたように不器用な返答をするノースディンが。ぎこちなく首を左右に振れば、クラージィは呆れたように眉を寄せて。
    「ちゃんと、約束しないと。現代人は時間に追われているというのが、オトナリサンのミキサンの格言だ」
    「……、わかった」
     クラージィの忠告に対して、ノースディンはぎこちなく頷いた。お隣さんという人間が、言葉の中に出てきたことに釈然としないものを感じながらも。自分を想っての言葉に、嬉しくなったことも事実で。
     クラージィから与えられた会話の糸口に、ノースディンの内心が上向きはじめたのだろう。
     うっすらと口ひげを蓄えた口端を上げれば、呼応するようにクラージィもにこりと笑った。……、そして。
    「では、私は、」
    「っ、」
     そういえば、偶然にも会ったという誤解は解かれないままで。だから、無情にもこの場を去ろうとしたクラージィに対し、ノースディンはあの時のように再び置いてけぼりにされるかのように思われた。
     けれど、長い時を生きた男はこの時ばかりは運命に抗ってみせた。
     己に時間を割いてくれたクラージィに、僅かに気勢を取り戻したノースディンは、手に握ったままの血液パックの存在を思い出したのだ。
    「待て、クラージィ」
     ノースディンは、クラージィを呼び止めた。そして、訝しそうに振り返った男に対して、ノースディンは手にしていた血液パックをそっと差し出して。
    「これを、お前に、」
     やはり、言葉を飾り立てることはできず……。
    「お前の為に、買ってきた」
     それでも、難儀な男にしては素直に己の気持ちを吐き出した。
     手は震えていないか、声は掠れていないか、無様で無いか。
     ハンターと対峙する時以上の緊張感を持って、プレゼントを手渡そうとしたノースディンに対して。
    「……、っ、それは、」
     クラージィの反応は、明らかに反応に窮した、戸惑ったようなものだった。
     クラージィの、その不思議な虹彩を宿した双眸が、ノースディンの顔と、手にした血液パックを交互に見た。
    「すまない、ノースディン」
     そして、申し訳なさそうに、若い吸血鬼の男は相手の名を呼ぶ。
    「私は、それは飲めないんだ……、」
     その、嘘偽りを感じない真摯で素直な言葉に。
    「は?」
     目が点になったのは、ノースディンだった。
     吸血鬼が、血を飲めないなどとそんなバカげたことがあるのかと。なんのために、恥を殺して、わざわざ安い血液パックを買い求めたというのか。
     シンヨコハマに舞うぼた雪が、やおら勢いを増した。
    「飲めないとは、どういうことだ?」
     思わず、緊張も何もかも吹っ飛んで、ドラルクに対する時のように素になってしまったノースディンに対して。
     クラージィは、申し訳なさそうに眉を下げた。
    「実は……、まだ赤い色に抵抗があって……。それより安価な、白い人工血液を服用している」
    「は?」
     ノースディンは、肩を怒らせて小さく唸った。
    「それでは、栄養が足りないだろう」
    「ああ。だから、ほら、」
     心配を通り越して、不機嫌さすら感じられる。地を這うような声に対して、クラージィは不思議そうにしながらも、手にした買い物袋を揺らして見せる。
    「こうやって、食べ物でも栄養を補給している」
     クラージィがぶら下げた買い物袋の中身が、独り暮らしの男の自炊用の食材であることまではノースディンにはわからなかったものの。人間の食事を忘れて久しい吸血鬼にとって、それっぽっちで若い吸血鬼の腹が満たされるのか半信半疑であった。
     ノースディンの深紅の目に、ゆらゆらと不安が揺れる。
    「……、ちゃんと、満ち足りているのか、健やかに暮らしているのか?」
    「もちろん、」
     僅かに言葉を探したあとの、ノースディンの問いかけに対して、間髪入れずクラージィは答えた。
    「人の親切に恵まれて、不自由ない満ち足りた日々を過ごさせてもらっている」
    「本当に? お前は困窮していても、清貧を美徳として過ごせる性質だろう。生活費などはどうしている……、」
     真摯なほどのクラージィの言葉を、勘ぐってしまうのは、彼がかつて無下にされながらも心の清らかさを捨てずに生きている姿を見ていたがゆえに。答え次第では、今すぐにも攫ってしまいそうなほど、険しい表情のノースディンに対して。流石元悪魔祓いと言うべきか、その気迫に、クラージィが臆することはなかった。
    「生活補助という制度を受けてはいるが、今は猫カフェで働いて細やかではあるが賃金も得ている」
     クラージィは、一度言葉を切った。そして、その不思議な虹彩を宿す目で、ひたりとノースディンを捉えて。
    「だから、大丈夫だ」
     はっきりと、そう言い切る……。ノースディンの中にある、クラージィへの言い表せぬ感情に気付いてもいないのに。高等吸血鬼が、その感情のままに動くことを制するように。理性の楔を打ち込む、言葉を紡いで。
    「確かに、吸血鬼らしくはないだろうが、それでも夜の住人として不自由無く過ごしているよ」
     笑顔と共に、ノースディンが感情のままに、攫うことを押し留めさせる。そんな、狡い言葉を紡ぐから。
    「……、……、」
     ノースディンは、肩の力をぎこちなく抜いて。何とも言えない表情で、長い長い息を吐きだした。
     そうやって、何重にも張っていた予防線ごと、気が抜けたことが、ノースディンにとって幸いだったのかもしれない。
    「私の子が、白い、人工血液なぞを飲んでいるとは……、」
     思わず天を仰いで、堪える様にぐっと目を閉じて……。いつもの皮肉気な言葉を紡ぐことができたから、それが一つの誤解を解く糸口となり得た。
    「他にも、居るんじゃないのか?」
     ノースディンの、あまりに悲観している様子に、クラージィは怪訝そうな表情を浮かべていた。
    「お前の血族で、人工血液を飲んでいるのは私だけなのか?」
    「っ、」
     その言葉に、ノースディンが思わず息を詰めたのは当然のことで。
    「……、いない、」
     しんしんと、心に吹きすさぶ吹雪の気配。思い出すのは、あの日の狂おしいまでの感情。
     吸血鬼に相応しい善性。転化してなお、目覚めなかった軽い身体。あれほど、己を憎んだ日は無い。あれほど、劣等感に苛まれた日は無い。
     あんな思い、二度とできるか───。
    「お前以外に、私が転化させた者はいない……、」
     押し殺した声で、言葉を紡いだノースディンに対して。
    「そうなのか、知らなかった……、」
     彼の苦悩を知らぬ男は、その内面に押し殺した嵐に気付かぬまま、無垢なまでに素直に言葉を紡いだ。
    「此処は、吸血鬼が多いから」
     そう言って、昼と夜が交差する街の冬空を、愛しそうに見上げる横顔。ノースディンが、この街の者達と同じように、人を友として生きているのだと信じて疑わぬ善良な男に対して。
     あの頃の善良さに増して、雰囲気の柔らかくなった、まろやかになったその魂が、再び苦痛に歪むことがあってはならないと。護らなければいけないという想いが、ノースディンの中でひしひしと増していく。
     もう二度と、お前という善を悲劇にするものか。
    「だから、お前が心配なんだ」
     その想いが、ノースディンの心を素直にさせた。
     その想いが、ノースディンの意思を強固にした。
     氷笑卿の名に相応しく、彼はクラージィの顎にそっと手を添えていた。
    「私には、親吸血鬼として、お前を見守る務めがある」
     古の血の吸血鬼らしく、威厳のある声で言葉を紡いで。
    「お前が何を言おうと、これからも、私はお前のもとを訪れよう……、」
     紡ぐ言葉に、畏怖さすら感じられるほど、その四肢に闇を纏って囁いたノースディン。……、彼が、その眼差しに魅了の力を込めていれば、きっと相手の心を奪っていたのだろう。
     けれど、クラージィに向けた言葉は、心を縛るものではなかった。
    「なんだ……、私に会いに来てたのか、」
    「っ、」
     だから、クラージィはくつりと喉を鳴らして、最初に「偶然」を装った男に苦笑いし。ノースディンは、その言葉にばつが悪そうな表情を浮かべた。
     場に、若干の沈黙が落ちる……。言葉を探すノースディンに対して、助け船を出したのはクラージィだった。
    「じゃあ、ラインを交換しよう」
    「なんて?」
     クラージィの言葉に、ノースディンから魔性らしい、息を呑む空気が霧散する。きょとんとした氷笑卿に対して、かつての悪魔祓いは困ったように笑いながら、コートのポケットからスマートフォンを取り出した。
    「お前は、アポも無しに、こんな風にずっと私を待つつもりなんだろう? 正直に言って、不審者と間違われそうだからやめて欲しい」
    「ぐ、」
    「それに、寒そうだし……、雪の中で長話をして、私は今とても凍えそうだ」
    「ぐぐ、」
     率直すぎるクラージィの言葉に、唸る事しかできないノースディン。そんな、畏怖も形無しな高等吸血鬼の姿に、クラージィはくくっと喉を鳴らしたあと。
    「ノースディン」
     スマートフォンを向けて、楽しそうな眼差しで己の親吸血鬼の名を呼んだのだった。
    「だから、ちゃんと、連絡をくれ」
     その言葉に、一拍おいて……。
    「嗚呼、分かった」
     そう言って、ノースディンは己のスマートフォンを取り出すと、慣れた手つきで操作を行った。
     ドラウスに教えるために、自らの勉強をしていて良かったと思いながら。
     心の中では、操作を間違えないかドキドキしていたのだが、表情だけは古の血の吸血鬼としての矜持で取り繕っていた。
     クラージィも、もともとの器用な性分のおかげか、現代の生活に馴染むのが早く、手早くスマートフォンを操作してノースディンを友達追加する。
     ぴこんっと、ノースディンのスマホに通知が来て、猫のスタンプが一つ、クラージィから送られてきた。
    「よろしく、ノースディン、」
     そう言って、和やかな表情を見せるクラージィ。
     200年前、その身を苛んだではずの飢えも無く、寒さも、痛みも無く……。
     人間達から、排斥された過去。その誠実さ故に苦しみとは取らなかったであろうものの、惨い扱いを受けた日々ももはや遠く……。

     その善性を、食いつぶすもののない世界に居る。

     そう、少なくとも今は……。
     ノースディンは、心の奥底にひとひらの濁を抱いて双眸を細める。
     長い長い時を経て、シンヨコハマという土地で目覚めた、ノースディンの唯一の血族。優れた善性の持ち主は、今は何者に脅かされることなく生活している。
     ノースディンにとってはトンチキなこの街を、人と吸血鬼が友となる街なのだと信じて。
     ならば……、ならば、今は見守ろうと思う。
     人間を友とすることを是としたわけではない、人との交友に共感したわけではない。夜に生まれ直したお前が、そうやって楽しそうに笑うのならば……。
    「クラージィ、」
     ノースディンは、穏やかな声で愛しい名を呼んだ。
    「私の唯一の血族、私にもお前の世界を教えて欲しい」
     囁けば、クラージィは柔らかな笑みを浮かべて『是』と答えた。嗚呼、クラージィよ、健やかであれ、永久に。

     もしもお前が再び搾取されるならば、私はヴィランにでもなんでもなってやろう。

     心に決意を込めながら、氷笑卿は微笑んだのだった。




     書を読み、使い魔たちの世話を行い、その日の記録を日記に書き残す。

     氷笑卿の優美な日常に、目新しい楽しみが増えたのはつい最近のことだった。
     夜の訪れと共に目覚めた主人が、何時ものように使い魔である自分達の食事を用意したのち、自身の糧である血液入りのグラスを片手に革張りの椅子に腰かけている。
     積年の付き合いが会話を必要とさせない、穏やかな沈黙が下りた食事風景。使い魔にとって不変だったその時間に、小さな変化が少しだけ加わっている。
     その簡単な食事の供に新聞を手にしていることが多かった主人が、最近はスマートフォンを手にして落ち着かなさそうに画面に視線を落とすことが多くなった。
     というよりも、一日を通して端末に触れることが多くなったような気がする。
     ブラックアウトしている無機質な端末が僅かに震えたり、通知が浮かんだりするたびに。ハッとした様子で画面に触れては、一喜一憂している有様である。
     本人は取り繕っているつもりのようだが、付き合いの長い自分達にはその喜怒哀楽は筒抜けだった。
     大体の場合、それらの通知は、彼が求めているものではないらしく……。もしくは、敬愛するドラウス様からの連絡だったりすることもあり、それはそれで氷笑卿はそのかんばせを朗らかにしているのだが。
     日に1回、または不定期に。
     望む人物からの連絡が入った時の、ノースディン様の反応は、さながら初咲きの薔薇を前にした初々しい子どものようで。喜々とした空気を背中に纏って、それでも表情だけは平静さを取り繕おうとしている所がお可愛らしかった。古き血としての威厳を損なわぬように、気を付けられているのだろうけれど、その眼はとても優しく嬉しそうで……。それはもう、画面の向こうにいる誰かに対して、使い魔が思わず嫉妬してしまう程に。
    「……、……!」
     食事の終わりに、僅かに震えた端末の相手は意中の人物であったらしい。いつもより早い時間の連絡に、目を大きくされたノースディン様は、グラスの底に残った血液を一気に呷って傍らのラウンドテーブルに置いた。
     そのまま、青い爪紅を縫った指先で画面を操作し始めたので、『私』もテーブルに登って覗いてみることにする。
     お行儀が悪いと怒られるかと思ったものの、ノースディン様はもうスマートフォンの小さな画面に夢中になっているようである。これではどちらが、お行儀が悪いのかわかったものではない。机に昇るのはマナー違反だが、可愛い使い魔の存在に気付かないのも『私』から言わせれば充分にマナー違反で。
     これはもう、件の相手が、使い魔を後回しにしてもやむなしの相手なのか確かめなければならないだろうと。
     グラスのコップを倒さないように気を付けて、主人の手元を覗き込む。

    ──にゃあ──

     使い魔である『私』、ノースディンが『レディ』と呼んで可愛がる『猫』は、サファイアブルーの目を大きく見開出で抗議の声を上げた。ブラッシングの行き届いた、真っ白い毛並みの、ふさふさの尻尾を膨らませて牙を出して唸る。
     表示されていたのは、ふくふくと肥えた灰色の猫が、幸せそうに腹を出してゴロリと横になっている写真。
     私という美猫がいながら、なにを主人は他の猫にうつつを抜かしているのかと。
     悋気を全面に押し出した鳴き声で、スマートフォンを覗き込む彼女に気付いたノースディンは。
     怒れる使い魔と、つい今しがた送られてきた画像を見比べて。
    「これは、違うぞ……?」
     言うべき言葉は間違ってはいなかったのだが、言葉が足りなかったせいで、さながら浮気現場を目撃された間男のような発言になってしまった。ノースディンの発言が、火に油を注ぐ結果になったことは間違いなく。
     牙を剥き出しに唸る不機嫌な使い魔に対し、ノースディンは困ったように眉を寄せる。見知らぬ猫に対し、怒りを露わにする己の猫。反応に困る主人に助け舟を出したのは、その修羅場を運んできたスマホの通知音だった。
     ピロン、という音と共に画面の中に新たな画像が追加される。明らかに人間の朝食と思わしい、一食分にしては豪快な量の食べ物の写真。──、再び、通知音。
    『よしださんのどすけべ、きのうのごはん』
     送られてきた、平仮名だらけの文面。使い猫は、残念ながらその言葉を読むことはできなかったものの。主人の反応からして、さきほどの他所猫は望んで送って貰ったものではないことが伝わったらしい。
    「私の血族が、目覚めた事は伝えただろう?」
     目をきょとんと見開いた使い魔に対し、ノースディンは微かに笑ったあと、困った顔をしてそう言った。

    『私の唯一の血族、私にもお前の世界を教えて欲しい』

     氷笑卿ノースディンが、彼の唯一の血族であるクラージィに対し、彼のシンヨコハマでの暮らしぶりを教えて欲しいと伝えてから、早いものでひと月あまりが経過しようとしている。
     その間、クラージィという男は、ノースディンとの約束通り、律儀に日々の気になったことや楽しいことを写真に撮り、まるで日記のようにノースディンへと送ってくれていた。
    『オトナリサンがつくったゆきだるま』
     雪が僅かに積もった日には、小さな雪だるまの写真を。
    『きょうのゆうごはん』
     自分で作ったのだろうか、安っぽい皿に並々につがれたカレーライスの写真を送ってきたこともある。
     そんな中で、クラージィがよく送ってくる写真が。
     猫。
     それは、お隣さんだという人間の、飼っている猫だったり、道端に居た野良猫であったり。
     とにかく、猫が好きらしい。人間時代のクラージィにとっては、猫は魔女に連なり忌まれる象徴だったろうに。
     そんな価値観、初めから持ち合わせていなかったのか。クラージィは、ことあるごとに猫の写真をノースディンに送ってきていた。
    「だから、お前の写真を送ってもいいか?」
     箱入り娘として蝶よ花よと育て上げ、自尊心がすくすくと育った美猫の使い魔に問いかければ、麗しの『レディ』はぷいっと顔を背けると、ラウンドテーブルから飛び降りて行ってしまった。
     誰が見るともしれないのに、気安く写真を撮られては困ると。
     分りやすく機嫌を損ねた使い魔が、僅かに尻尾を膨らませたまま猫用の扉から出ていくのを見送って。ノースディンは小さくため息をつくと、慣れた手つきでスマートフォンに文字を入力し始めた。
    『おまえが送った猫の写真で、使い魔が嫉妬した』
     ちょっとした愚痴のような、それでいてノースディンにしてみれば気やすい文章。ひと月の間に、歩み寄ることができた心の距離を表すような文面に対して。
     珍しく、今日はすぐに既読がついて。ピロンッと、返信が返ってきた。
    『つかいま? あるまじろ?』
    『猫だ』
    『ねこ!』
     クラージィの練習の為にと、日本語で合わせた文面は、クラージィが平仮名だらけなのに対し、ノースディンはあえて漢字も交えている。それでも、勤勉なクラージィはある程度の漢字の意味を拾えるようになっているらしく。猫という字を見て、笑顔のスタンプが送られてきた。
     大男が打っているとは思えない、可愛らしい文面に、ノースディンは微かに唇の端を上げる。
    『どんなねこですか? しゅるいは?』
    『白い猫だ。種類は知らん』
     その楽し気な内面をもっと表現すればいいのに、絵文字も無い淡々とした文章を返してしまう。人によっては、素っ気なさ過ぎて返事を止めてしまいそうな見てくれだ。
    『詳しいのか?』
     そのことを、気にはしているらしい。ノースディンは、もう一度文章を打ってクラージィに送った。
    『ねこかふぇではたらいてるから』
     今度は、ノースディンが続きの文章を考える番だった。
     クラージィの日常について、ノースディンは知りたいことが多すぎる。
     猫カフェでは、どんな仕事をしているのか。稼げているのか、それで食べて行けるのか。
     悪い客に迷惑をかけられてはいないか、店長がお前に理不尽なことを言いつけたりしないか。
     お前の善性が、踏みにじられるようなことが起こっていないだろうか。
     そんな事ばかりを考えて、気づけば返信を打ち込む手が止まって。──、文字を打ち込んでは、消すを繰り返していると。
     ピロン、通知音。
    『みたい』
     みたい……、見たい。わくわくと、期待した表情で猫の写真を待っているクラージィが見えるようだった。
     さてどうしようかと、ノースディンは口髭を撫でて考える。件の猫は、つい先程、機嫌を損ねて何処かへ行ってしまったばかりで。画像フォルダの中に、写真はあるにはあるのだが。勝手に送れば、彼女はとてもとても怒るだろうと。クラージィと同じく、大切な使い魔である愛猫のことを慮ったのち。ノースディンが、クラージィに向けて送った文面は。
    『うちに、見に来るか』
     既読はついた、けれどすぐに返事はこなかった。
     ノースディンは、そわそわと指先を動かす。
     クラージィを誘うのは、これが初めてだった。最初の再会の時に、タコパという人間達との予定で、クラージィに去られて以来。誘いたいことはあっても、あの日のことが頭を過ぎって躊躇してしまっていた。
     大切な血族に、連れなくされるのは心にくる。それが、クラージィだと特に……。全霊をかけて夜の世界に引き込んだ男だ、同じ熱量を返して欲しいとは言わない。
     けれど、ほんの僅かでいいから、特別が欲しい。
     これは、吸血鬼の本能なのかもしれない。大切なものに執着する、囲ってしまいたくなるこの気持ち。
     大切なモノは、宝箱の中に大切に大切にしまっておきたい。それが、この家だ。使い魔の猫と、雪だるまだけの閉じた世界。けれど、クラージィなら……。
     お前なら、招いても構わない。───、いいや、違う。

     お前も───。

     ピロン、通知音。
     ノースディンは、恐々と平仮名だらけの文面を見た。
    『にしゅうかんごの、げつようびなら、あいている』
     気づけば、止めていた息を……、ほっと吐き出す。
    『ならば、迎えに行く』
     表情と、内心とは裏腹に。打ち込む文面だけは平静さを保って、ノースディンは簡潔な文章をクラージィに送った。ややあって、通知音と共に、クラージィからokという絵文字と、頭をぺこりと下げる猫の絵文字が送られてきて思わず口元を綻ばせる。
     片手で口元を隠しながら、待ち合わせ場所をやり取りする。明らかに感情を抑えきれずはしゃいだ様子ノースディン……、そんな彼をじっと見上げて。
     雪だるまが、ことことと身体を揺らす。
     実は、最初からこの部屋にいた。
     はじめから最後まで、ノースディンの一喜一憂する様子を見守っていた。不器用な主人のことだから、声をかけてしまえば、取り繕おうとして何か余計なことをしてしまうだろうと。ずっと置物に徹していた、優秀で心優しい使い魔なのだ。
     雪だるまは、本当に久しぶりに見る、御主人の嬉しそうな表情を見上げて、再びことことと身体を鳴らす。
     吹雪から生まれて、偶然にも心を得た。その器用ではない愛情を知っているノースディン使い魔は。
     降り積もった雪の下から顔を覗かせる春の蕾のような、ノースディンの柔らかな笑みを見守ったのだった。




     シンヨコハマ、酷寒が滲む夜空に。

     夜の群青に紛れて、吸血鬼が空を飛んでいた。
     古の吸血鬼の移動手段として、空を翔ける方法は好まれる手段である。身体の一部を翼として、時には生身の身体のまま。念動力を用いて重力を操作する姿は、今でも人間達の畏怖の象徴とされる所である。
     その闇のような黒いチェスターコートをはためかせた吸血鬼にとっても、空を飛ぶという行動は息をするように造作もない行為の一つである所なのだろう。
     チェスターコートに、黒いシャボタイ。貴族然とした姿の吸血鬼にとっては……、通常の移動手段である飛行も今日という日においては少し違っていた。
    「っぅ、」
     夜の闇に、紛れる様に飛ぶ吸血鬼が二人……。平然とした表情で飛ぶノースディンに対して、繋いだ手を引かれるようにして彼の念動力で浮遊しているクラージィは。視線をさ迷わせ、時に眼下に広がる街の夜景を見下ろしては、無意識に繋いだ手に力を籠める。
     生まれて初めての、空中散歩に連れ出された男には。空の景色を楽しむほどの余裕はまだ無いようで、クラージィは必死になってノースディンの手を握り締め、軽自動車ほどの移動速度の空中飛行に耐えている様子だった。
     かねてより約束していた、ノースディン邸への訪問。
     待ち合わせ場所に、クラージィのマンションから目と鼻の先の、二人が再会した住宅街の道路を指定したノースディンに対して。移動手段を公共交通機関以外考えていなかったクラージィは、「どうして駅で待ち合わせをしないのか」と疑問を感じてはいた。
     もしかしたら、近所に住んでいるのかもしれない。駅に行くまでの、土地勘が無いと思っているのかもしれない。僅かに引っかかった疑問に、クラージィが自分なりの答えを出してしまわなければ、心の準備をする時間くらいは得ていたかもしれない。
     待ち合わせ場所に行けば、ノースディンはすでにクラージィを待っていた。ぽつんと街灯に照らされていたその男は、クラージィが「待ったか」と問えばゆっくりと首を左右に振った。そうして、ノースディンは徐に手を差し出して。
    「……、手を」
    「?」
     握手だろうかと、現代の文化に慣れてきたクラージィは、ノースディンの行為をそう思った。
     だから、クラージィはノースディンの手を取って……。白手袋越しに分かる冷たさに、少し目を見開いた所で。
     ふわりと、ノースディンの身体が浮いた。
     夜闇に吸い込まれるように、重力を忘れた男が空に昇っていく。
    「……?」
     ふわふわと、クラージィの身体も浮いていた。
    唖然としているうちに、高度はどんどんとあがっていって、みるみるうちに街灯の光が小さな点になる。ノースディンの黒いコートが風に吹かれてたなびく、クラージィの耳元ではひゅうひゅうと風が鳴る。
    「のーす、でぃん……?」
     クラージィが、ぎこちなく名前を呼ぶその間に。二人の身体は群青の空に飲み込まれ、仄かに訪れた春の温かさを知らない夜風が身体を包みこみ。
    「舌を噛まぬように」
     クラージィの手を大切そうに握りしめ、ノースディンは厳かにそう言った。
     くんっ、と身体が引っ張られて。スタッカートを刻むように、吹き寄せる風の感覚が短く激しくなって。
     クラージィは、もう空を飛んでいた。
     地上に在ってはよく見えない、いくつもの星の光を置き去りにしながら。
     心の準備をする暇もないまま、200年の眠りから覚めたまだ若い吸血鬼は、古き血の吸血鬼の規格外な能力を見せつけられたのである。

     体感にして、30分…いや、それ以上だろうか。

     風と共に瞬く間に流れていく夜の景色が止まったと思えば、ノースディンと共にクラージィの身体はゆっくりと下降しはじめた。
     そうして、最初に、ノースディンが、バレエの着地のように軽やかに地面に降りて。次いで、地面に足をつけたクラージィはフラフラとよろめいた。重力を思い出した身体は、上手く立っていることができずにつんのめって。こけるかと思った瞬間に、ノースディンに受け止められている。
    「大丈夫か?」
     成人男性を受け止めたノースディンには、見た目にそぐわぬしっかりとした体幹があるようだった。対して、クラージィは、青白い顔で浅く息をしながら。
    「ああ……、」
     息継ぎの途中に、漸く一言を絞り出して。それから、大地を踏みしめる待望の感覚に、無意識に全身に込めていた力を抜いたのだった。
     ノースディンに身を預けたまま、ぐったりと脱力するクラージィ。その身体は、緊張で忘れていた上空の凍てつく寒さを思い出して震えはじめている……。
     その、いっそう青白くなった頬に、白手袋を嵌めた指先が触れた。可哀想に、冷え切ってしまったクラージィの頬。そのこわばりを解すように、ノースディンは優しくクラージィを撫でたあと。
    「歩けるか?」
     問いかけられて、クラージィはゆるゆると頷く。そうして、ノースディンに預けていた重心を戻し、自らの足で地面を踏みしめて立った。よろよろと顔を上げたクラージィの視界で、庭園を仄かに照らす外灯の光が瞬く。
     闇の中に溶け込んでいるのは、庭を備えた広そうな屋敷。吸血鬼の目には昼のように映るそこは、クラージィの生まれ故郷を思い出すような、懐かしいヨーロッパの外観をしていた。
    「冷えたな、屋敷に入ろう」
     気遣う口調で、ノースディンはクラージィの背を押す。
     その深紅の双眸は、クラージィのことを心底から案じていて。言葉もなく、空へと連れ去った犯人と同一人物のものとは思えなかった。
     そも、アレ以外の移動方法を知らないかのような。
     電車も、バスも、タクシーも。人間が用いる、そういった選択肢などはなから頭に無かったのかもしれない。
     周囲の静けさからして、確かにこの場所は、クラージィが思い描く交通手段で簡単にたどり着ける場所ではなさそうだ。だからといって、飛行という移動手段は、人の中で生活しているクラージィにとっては予想もしない手段ではあったのだが。
    「恐ろしかったか?」
     なかなか歩き出さないクラージィに対して、ぽつんっと尋ねたノースディン。表情からは読み取りづらいが、その言葉からして反省していることは明らかだった。
     恐ろしい。
     向けられた言葉の意味を理解して、クラージィはひとつ瞬きをする。
     思い出すのは、先程まで我が身を包んでいた夜空の暗さ……。ぐんぐんと風を切る音に置き去りにされて、流星のように光る星々。眼下の街並みを踏む、魔法のようなひと時……。
     確かに、寒かった……。高いし、風は冷たいし、とても寒くはあったのだが。
    「いや……、なかなか、得難い体験だった」
     そんなノースディンに対して、クラージィは息を整えたあとそう言った。それが嘘偽りないことは、本人の性質からして明らかで。
    「だが、飛ぶなら飛ぶと、先に言っておいてくれるとなおいい」
    「……、分かった」
     ノースディンは、明らかに安堵した表情になった。
     すぐに、ふいっと顔を逸らしたため、その表情は見えなくなってしまったのだが。
    「行こう、我が屋敷へ」
     そう言って、歩き出す男の背中を見つめる。人との交流を是とし、それを望んで生きるクラージィにとって、人の生業に馴染まない移動手段をとったノースディンの行動は、僅かな引っかかりとなって心に残った……。
     まるで、友をとられまいとする子どものようだったと。

     クラージィは、己の手をぐっと握って離さなかった、ノースディンの掌の力強さを思ったのだった。




     仄かな光源を元に、橙色に浮き上がる室内。
     そこに満ちているのは、静かに薪を食む炎の温かさだ。
     自分一人であれば寒々しいままにしていた空間を、温めることを覚えたのは200年前に弟子ができてからだ。
     ついいつも、不肖という言葉をつけてしまうその弟子は、室内が寒いというだけで死んでしまう脆さで。飾りだった暖炉に薪をくべるようになったのは、その弟子のためだったのだが。使い魔に猫を迎えてからは、彼女が震えることがないように、冬の時期は薪をくべるようになった。
     パチリ、パチリと、薪の爆ぜる心地いい音が響く空間で、癖っ毛の背の高い吸血鬼が、スコーンを口いっぱいに頬張って栗鼠のような顔になっている。
     クラージィは、もきゅもきゅと唇を動かしていたが、口の中の水分が無くなったのか。傍らのティーカップを手に取り、会話の合間にだいぶん温くなった紅茶をごくりと口に含んだ。……、その紅茶は、そういう飲み方が勿体ないような高級茶葉が使われていて、そのスコーンも腕に寄りをかけた手作りの逸品なのだが……。
     まぁ、もてなされる側が美味しければ、それでいいのだと。
     かつてより、だいぶん寛容になった心でそう思いながら、ノースディンはもてなしを受けて幸せそうなクラージィの姿を好ましそうに眺めた。
    「んっ、あむっ……、ごくん!」
    「ゆっくり食べないか」
     ノースディンは、くつくつと笑った。クラージィの食事は、人間でいう健啖家という表現に相応しく。大口を開けて、がぶりとスコーンにかぶりつく様は、もてなした側からすれば見ていて気持ちが良かった。
     一口でクラージィの口の形の半月ができたスコーンが、もう一口で完全に口の中に消えてしまって。
     標準的な大きさのスコーンが、二口で吸い込まれていく様を観察していれば。ようやく、ひと心地ついたのか、クラージィは紅茶をごくりと飲んで。
    「……、む、すまない、」
     不思議な虹彩を宿す真紅の目が、ノースディンの視線に気づいて恥ずかしそうに視線を揺らした。
    「このスコーンが、とても美味しくて」
    「それは良かった、」
     ノースディンは、あえて一呼吸置き。
    「作った甲斐があるというものだ」
     あえて、もったいぶってそう言えば。クラージィは大きく目を見開き、感動した様子で残りのスコーンとノースディンを見比べる。
    「なんと……、これはお前が作ったのか」
    「ああ、」
    「流石、ドラルクの師匠だな」
     感心した表情で褒められれば、擽ったい気持ちになるのは当然のことで。面映ゆくなる衝動をやり過ごし、表面上は澄ました表情でクラージィの称賛を受け止める。
    「そうか……、」
    「あぁ、」
     ノースディンの返答に対して、クラージィは力強く頷いた。実に作り甲斐があると思うし……、あの時のドラルクのクッキーに劣らない味だったようでホッとする。
     嗚呼、口に合って良かったと。
     取り繕うノースディンの内心を見透かしたわけでもないのに、クラージィは心に触れるような柔らかな表情を向けてきた。
    「私の為に、ありがとう」
     あの日、飢えでやせ細っていた、恐ろしいほどに軽かった男が……。満たされた顔で、笑顔を浮かべている。
     それだけで、何か満たされるような感覚になり、ノースディンはうっすらと目を細めてつられた様に微笑んだ。
    「お前のためならば……、」
     こみ上げる想いは、一度呼吸を挟んで。
    「クラージィ、唯一の我が血族……。お前の為ならば、いつだって作ってやる」
     眼差しの奥に隠した愛しさを滲ませながら、まるで厳かな宣誓のように言葉を紡いだノースディンに対して。
     感情を取り繕いがちな男の、ありのままの素直な感情を受け止めたクラージィは、擽ったそうに頬を染めた。
    「そう言われると……、なんだか、」
     気恥ずかしそうに、真紅の視線がゆらゆらとさ迷い、紅茶の水面を見下ろして停止する。揺らぐそこに自分の姿が映ることは無いが、照れた顔をしていることは見なくても明らかで。
    「嫌か?」
    「嫌じゃない」
     伺うようなノースディンの問いに、クラージィはぶんぶんと頭を振った。それから、再び真っすぐにノースディンを見つめて。
    「私は、親子というものに疎いが……、お前が私を特別に思っているのだと、実感したというか……、」
     それは、先ほどの歌うような言葉を指して。唯一の血族という言葉に、感じるものがあったく、神妙な表情を浮かべるクラージィに対して。
     ノースディンの表情も、深く深く……、噛みしめるようなものとなる。
     思い出すのは、再会の日のやり取りだろうか。先約があるという理由で、200年にもおよぶ万感の想いを伝えきれなかった、二人の間に確実な温度差があったあの日があって……。
     ノースディンがクラージィに対して抱いている想い、その一部でも伝わったのかと思うと、これまでの苦悩が少し浮かばれるような気さえしてしまう。
    「そうか、伝わったならよかった」
     それでも、素直に感情を剝き出しにすることを苦手としている男は。なんてことない風を装ってそう言って、自らが飲むために淹れたブラッドティーを啜った。
     沈黙が、二人の間に降りる。けれどそれは重苦しいものではない、紅茶が香る心地の良い時間の流れだ。
    「あの街の、暮らしはどうだ?」
     パチパチと燃える薪の音に被せる様に、ノースディンは静かな調子でクラージィに尋ねた。
    「私は、お前が心配でならない」
     秘めたる感情まで言えたことは、ノースディンにとっては僥倖と言った所だろう。先のクラージィの言葉によって、ノースディンの感情が上向いていることは確かで。
     人間の女を口説くようなもったいぶった台詞回しでなく、直球で内心を言葉にするのはとても珍しいことなのだが。クラージィはもちろん、それを知る筈もない。
    「大丈夫だ、人々に良くして貰っている」
     何気ないクラージィの言葉に、ノースディンの目が僅かに曇る……。ノースディンにとって、人間という存在はさほど好感情を向けるものではないことをクラージィは知らないし。かつて襤褸を纏い放浪した男が、その人間達から受けた仕打ちについて、ノースディンが知っていることをクラージィが分かりうるはずもない。
    「住む家もある、糧もある、職もある……、私はこれ以上ないほど恵まれている」
     お前の善性が、再び食いつぶされることが無いことを。そう心の底から望んでいるノースディンにとって、クラージィの言葉は僅かな安堵と共に拭いきれない不安を与える。人間は平気で噓をつき、手の平を返す生物である。かつてのような対立は、現代において無いとはいえ。吸血鬼に対して悪感情を抱く人間は、まだまだごまんといるのだ。……。そう、シンヨコハマが、希少なだけで。
     シンヨコハマ……、吸血鬼の中でも、奇々怪々な者たちが集う魔都。遠き教会からか地へと流れ着き、ノースディンのあずかり知らぬ所で目覚めてしまった我が子。
     無垢な男は、あんなトンチキな場所を、素晴らしい理想郷のように思っている。
    「……、そうか、」
     その事実に、複雑な思いを抱きながらも。ノースディンは、クラージィの言葉に重々しく頷いた。
    「だが、何かあれば言うように。私が必ず助けになる」
     ノースディンが、師匠という肩書きを名乗る時のような。謹厳という言葉が似合う表情で告げれば、クラージィは呆けたように目を見開く。何を、そこまで案じるのか分からない。そう、読みとれる素直な反応だ。
    「……、そんなに、私は危なっかしいか?」
     暗に、大丈夫と、案ずるなという言葉を煮溶かした返答。小首を傾げたクラージィに対して、ノースディンは少しだけ言葉を口の中で転がした。人間は危険だ、などという言葉を言うつもりはない。代わりに、クラージィにも響きそうな、正当化しやすそうな返しをいくつか頭の中で組み立てる。
    「お前は……、言語も、何もかも違う、違う時代に放り出されたのだから、」
    「それもそうだが、」
     クラージィは、僅かに唇を曲げる。長い長い歳月を眠り、国すら違う場所で目覚めたクラージィは、まるで物語の登場人物のようだ。クラージィの表情を見れば、本人にもその自覚があるのだろうということが伺える。
     言語も違う異郷で、友を得てタコパに興じる。
     物語の人物にするなら、クラージィは、強かな方なのだろうが。かつての襤褸を纏う面影を知るノースディンにとって、クラージィはどうしたって庇護を置く存在になってしまう。
    「だが、だいぶ日本語も覚えたのだ」
     ノースディンの憂慮を、言語の不自由さと受け取ったのだろう。クラージィはそう言って、いくつかの片言の日本語を紡ぎ始める。
    「イラッシャイマセ……、ナンメイサマデスカ。トウテンハワンドリンク1時間制ニナリマス」
     それは、クラージィが勤めている、猫カフェでのやり取りなのだろう。無邪気に言葉を紡ぐ様からは、不自由な言語への苦痛などは感じられない。
    「他にも、必要な言葉はオトナリサンが教えてくれる」
     そう言って、目尻を下げたクラージィに対して、ノースディンはただ無言でブラッドティーを口に運んだ。
    「言葉も、何もかも違うが……、シンヨコハマは住みやすい街だ。親切な人もいる、居心地がいい。頻繁に、予想もしない事が起こりもするが」
    「───、そこが問題だろう」
    「確かに……、」
     苦虫を潰したようなノースディンの言葉に、くすくすとクラージィが笑った。暖炉の光に照らされた横顔は穏やかで、かつての殺伐とした空気は何処にもない……。
    「様々な吸血鬼に出会える、様々な人間にも出会える。彼らが、手を取り合い和気あいあいと過ごす夜が見られる……。かつて、夜は恐ろしい時間でしかなかったはずなのに」
     そう、悪魔祓いだったクラージィの顔はもっと厳めしかった。人間時代のクラージィとは、僅かな邂逅しかしなかったが。どの時も、眉間は固く凝り固まっていた。
    「お前には危なっかしく見えるのかもしれないが、私はとてもとてもこの時代を楽しんでいるぞ」
     だから、心配しないでほしいと。語り掛けてくる眼差しと、その彫の深い顔立ちから。強ばりをとったのが、ノースディンではなく魔都と呼ぶシンヨコハマの住人たちであったこと。それは、もはや変えようのない事実で。
     ノースディンの目の奥で、ゆらゆらと光が揺れる。
     暖炉の明かりを弾く、黄昏に似た紅は、どこか悔しそうにも見えた。

     氷笑卿を名乗る高等吸血鬼は、もしもを夢見ているのだろうか。

     200年前、もしもクラージィが眠りにつく事無く、転化が成功していて、吸血鬼として目覚めていたとして。
     この男に、この穏やかさを与えることができただろうかと。───、いいや、それは難しかっただろう。人間と吸血鬼の関係性が冷え込んでいたあの時代は、クラージィの心を固く凍えさせていたかもしれないから。特に激しく人間を厭っていたノースディンでは、クラージィを今のこのクラージィにはしてやれなかったはずだ。

     ならば、あの眠りは正しかったのだろうか。凍てつく棺に眠らせた、あの日の苦痛と絶望を必然とするか。

     炎の揺らめきが影を生むように、何処か仄暗い雰囲気を背負ったノースディンに対して、クラージィが小さく首をかしげる。
    「ノースディン?」
     はくっと、ノースディンは息をした。
     瞬きをして、動揺を悟られまいとする……。そんな、吹雪を纏いかけたノースディンに助け舟を出すように。

    ──にゃあ──

     白猫が、鳴いた。
     気づけば、猫用の扉から入ってきていたノースディンの使い魔である美しい猫が、絨毯の上で居住まいを正して主人とクラージィとじっと見上げていた。

    ──にゃん──

     もう一度、猫が誘うように鳴く。その子は、私に会いに来たのでしょうと。賢い猫は、そのアイスブルーの眼差しでじっとクラージィを見た。
     呆気に取られたノースディンの視界の端で、黒い影が勢いよく動いた。
    「ネコチャン!」
     黒い影、それはクラージィで。彼はぱぁぁっと表情を輝かせて、勢いよく絨毯の上にしゃがみこむと、ノースディンの使い魔に語り掛ける。
    「トテモ、トテモキレイなネコチャンデスネ!」
     背の高い大男が、猫を怖がらせないように縮こまって話しかけている。触りたそうに、けれど触ったら怒るだろうかと躊躇しながら。手を伸ばし、ひっこめて。
     夢中になって、猫に語り掛ける。
    「サワッテイイデスカ?」
     その問いかけに、使い魔は困ったようにノースディンを見上げた。つられて、真紅の目もじっとノースディンを見上げる。2対の眼差しに見つめられて、ノースディンは少し堪えたのだが。
    「ぷはっ、」
     その微笑ましさと、面白さに耐え切れず笑ってしまって。肩を揺らしながら、くくくっと堪える様に笑って。──、同時に、その背に滲んでいた仄暗さも霧散した。
    「……、クラージィ、彼女には、日本語よりも元の言語が通じる」
    「そうか!」
     ややあって、ノースディンがそう告げれば。クラージィは、ぱっと笑った。そうして、再び白猫に向き直り、真剣な表情で自己紹介を始める。使い魔が、普通の猫以上の知性を持っていることを教えていないが、分かっているのは、ドラルクの使い魔を知っているからだろうか。
    「触ってもいいだろうか?」
     クラージィの真摯な問いかけに対して、使い魔であるノースディンの愛猫は、僅かに品定めするようアイスブルーの目を見張った。はたして、クラージィを気に入るのだろうか。彼女の、その高すぎる気位に見合うかどうか……。静観しているノースディンの前で、白猫はすっと四つ足で立つと、差し伸べられたクラージィの指に鼻先を近づけて。
     すりっ、使い魔は額を擦りつけた。
    「おぉ……、ありがとう」
     クラージィは感動した様子で、頬をわずかに紅潮させていた。その掌は恐る恐る、けれども慣れた手つきで白猫の頬を擽ったと思えば、背を撫ではじめる。
     柔らかな毛並みが、青白い肌に懐いてゆく……。心地よさそうにゴロゴロと喉を鳴らす猫と、嬉しそうなクラージィの表情を眺めていれば、余計な感傷を忘れていくようで。大切なモノの傍で過ごすことができるひと時の、心満たされる感覚に浸ることができた。
     目に焼き付ける様に、戯れる使い魔とクラージィの様子を静かに眺めるノースディンはきっと……。この時間が続くことを望んでいるのだろうと、複雑な感情を宿した横顔から、読みとることができた。
     こんなに楽し気に白猫と戯れていても、クラージィの住処はきっとシンヨコハマなのだ。誰しも、己の原点となりうる場所があって、クラージィはそれを人と魔が入り混じるあの街だと定めてしまっているのだろう。
     それでも、願わくは、叶うのならばと、ノースディンは思う……。暖かな暖炉の温もりと、湯気を立てる紅茶、手作りのスコーン、美しい白い猫が寛ぐこの空間に。

     クラージィが、居てくれればいいのにと。

     ノースディンは、どれだけ取り繕おうと人間が嫌いだ。勿論、親友であり絶対であるドラウスが、人間と吸血鬼の融和を語るため表立ってそれを露わにしたことは無い。
     ドラルクが生まれ、そのの成長に合わせて、若干緩和した気がするが根本的な所は変わらない。勿論、ノースディンなりの人への歩み寄り方はある。氷笑卿の名に紐づいた魅了の能力がそれで、相手の心を操ることが衝突の無い人間との関り方なのだと割り切っていた。
     それでも、考えてしまう。ノースディンが唯一、人から転化させた想定外……、クラージィを前にすると。
     お前が、健やかであればいい、その善性が搾取されず、裏切られず、飢えることなくすごしてくれるのならば。
     望みは、ただ一つの筈なのに。お前の『生』を見続けること、それが願いである筈なのに……。欲してしまうのは、この空間に彼がよく似合っているからだろう。
     私の傍にいるお前も、夜の世界に映えて見える。
    「ノースディン、」
     猫を撫でていたはずのクラージィが、ノースディンを見上げて不思議そうに首をかしげていた。
    「どうした……?」
    「ずいぶん、楽しそうだからね、」
    「そうか……、うん。確かに、とても楽しい」
     ノースディンの言葉を反芻するように、クラージィは小さく頷いた。
    「とても楽しかった、また呼んでくれると嬉しい」
     そして、改めてそう言う。その言葉が、どれほどノースディンを喜ばせるか知らずに。
    「だが、ちゃんと住所を教えてくれ。空を飛ぶのは寒かった」
     しっかりと、クラージィは苦言を呈したのだが、ノースディンは内心の歓喜のままに、頷いてしまっていた。
    「次は、うちに遊びに来てほしい」
     その言葉の意味を深く考えることなく、ノースディンは幸福な気持ちのまま頷いてしまったのだった。





     次は、うちに遊びに来てほしい。

     クラージィからそう言われた時、ノースディンは小躍りしそうな程に喜びの中に居た。大切な物を自分の領域内に仕舞っておきたい男にとって、唯一の例外である存在が『また呼んでほしい』と言ったのだ。無二の宝が、自ら手中へと収まっていくことの充足感は例えようのないものであったことだろう。表情には出さなかったものの、満足感に浸っていたノースディンの耳には、その後に言われた言葉は全て都合のいい捉え方をして頭の中に入ってしまったのだろう。
    「だが、ちゃんと住所を教えてくれ。空を飛ぶのは寒かった」
     平素のノースディンであれば、つい吹雪かせてしまったかもしれない言葉も、住所を教えて欲しいという肯定的な部分しか捉えられず。ノースディンはその日のうちに、ラインを通じて己の住所をクラージィのスマートフォンに送ったのだった。
     そして、その次の言葉。
    「次は、うちに遊びに来てほしい」
     己の領域の内側へと吸血鬼を招き入れる、あまりにも無防備な言葉を受けて、ノースディンが感じたのが歓喜であったのは言うまでもなく。クラージィから招かれたのだという喜びのまま、ノースディンは舞い上がるような気持ちで頷いてしまっていた。
     表情に表さず、分かりにくく喜ぶノースディンの内面を察したのは、賢い使い魔である彼女で。白猫は呆れたように主人を見上げたあと、同じく楽しそうな空気を纏うクラージィを見上げてにゃあと鳴いた。
    「うん……、うちはペット可だから、君もついて来ても大丈夫だが……、あっ、違うのか。噛まないでくれ……、嗚呼、行ってしまった……、」
     クラージィの勘違いを嗜めるように、指をがぶりと甘噛みした白猫は。そのまま、クラージィの腕の中からするりと抜け出すと、離れて行ってしまう……。クラージィは、惜しそうに猫に手を伸ばしが、ややあって、気持ちを切り替えると立ち上がった。
    「ノースディン、」
     不思議な虹彩の真紅の目が、ノースディンを見つめる。
    「うちは狭いが、精いっぱいおもてなしをする」
     この言葉で、気づくべき要素は充分にあったと思う。
     人間達とは一線を画すようにして、ひっそりと過ごしているノースディンにとっての住まいと。人魔入り乱れるシンヨコハマで、その喧騒を楽しむように生きているクラージィの住まいの違い。
     けれど、ノースディンは、悲しいかな気づくことは無かった。
    「ふっ……、楽しみにしていよう」
     だからノースディンは、喜びを取り繕うようながらも、貴人らしい所作で頷いたのだった。
     すると、クラージィは微笑み、バックからスマートフォンを取り出して、空いている日付を確認し始める。
     予定にくまなくバイトを入れているクラージィの休みは少なく、それでも珍しく一週間後の店休日が空いているということでノースディンはその日に招かれることとなった。
     ノースディンは、浮かれていた。
     その後、寒さに気を付けながらクラージィを自宅に送り届けて……。
     スマートフォンで書き記すようになったその日の手記に、クラージィの家に招かれたことを書き記すほどには喜んでいたのだった。




     クラージィは、マンションに住んでいる。
     一人暮らしの一般人にとっては実に一般的な、風呂トイレキッチンが備え付けられた間取りの、世間一般で言う平均的な1DKのマンションである。
    「ノースディン!」
     住宅街近くの公道、寂し気な街灯の下。
     もはや、一番共通する待ち合わせ場所となった、血液パックを手渡そうとした場所。そこに音もなく降り立ったノースディンを出迎えたのは、安そうなダウンジャケットを羽織ったクラージィだった。
    「待たせたか?」
    「いいや、」
     問いかけに、柔らかく微笑むその彫の深い造作を見ながら。少し窮屈そうに身に纏っている防寒着を見て、今度、良い上着を仕立ててやろうと心の中で独り言ちる。
     200年前のヨーロッパの生まれにしては、すらりと背の高いクラージィである。きっとチェスターコートのような、体つきを生かす上着が似合うだろうと想像する。
     この時まで、ノースディンはまだまだ浮かれていた。
     クラージィはどんな家に住んでいるのだろうか、どのような家具が好みで、どんな土産ならば喜ぶのだろうか。
     まずは、スコーンは欠かせない。クロテッドクリームに、今回はベリーのジャムもつけてやろう。
     そうだ、紅茶も良い。私の気に入りの茶葉も用意して……。
     今日に至るまで、想像を張り巡らせ。よりによりをかけた手土産は、大きめのバスケットの中に納まっている。
     そんな、ノースディンを、クラージィは困惑気味に見つめた。
    「大きな荷物だな……、重く無いのか?」
    「私が非力に見えるかね?」
    「いや……、」
     まさか、それが手土産だと思い至っていないのだろう。クラージィは思案しながらも、ノースディンの言葉に納得したようだった。
    「では、行こう」
     クラージィに先導されながら、彼の自宅へと案内される。今宵は月が顔を覗かせる、雪も降らないような、晴れ渡った月夜だった。ノースディンが、感情によって呼び込んでしまう雪も、姿を見せないまま時が過ぎる筈で。
     けれどそれも、クラージィがマンションに辿り着いた時に移ろい始める……。
    「着いたぞ、此処の二階だ」
    「……、………、」
     辿り着いたマンションは、他の建物よりも建築年数が経過しているのか古びた見た目をしていた。当然ながらオートロック機能も無い、エレベーターもついていない。
     蛍光灯の明かりによって浮かび上がる、雨風によって薄汚れた階段をクラージィが迷いなく登り始めた所で。
     初めての子の家……、そこに招かれた幸福を噛みしめる親吸血鬼が、だんだんと表情を曇らせ始めた。
     高級な革靴が踏むには不釣り合いな、狭苦しい階段と廊下を抜けて。塗装が汚れた壁と扉が均等に並ぶ、共用部の廊下を三つ進んだ場所。
    「此処だ、」
    「……、………、」
     そう言って、クラージィが、ポケットから小さな鍵を取り出し、チープな鍵穴へと通した。鍵を入れてひねられた鍵穴からはカチャンという軽い音が響き。クラージィがその部屋の主であることを伝えてくる。青白い手が容易く捥げそうなドアノブをひねると、簡単に凹ませることができそうな薄い扉を開け放つ……。
    「わが家へようこそ、」
     そう言って、クラージィが微笑んだ時、ノースディンはただただ、目の前の空間に絶句していた。
    「お前の家に比べれば狭いが、精いっぱいのもてなしをさせてくれ」
    「……、………、ああ、」
     そう言って、クラージィはノースディンを誘うのに対して、ノースディンの返事はなかなか返されなかった。
     クラージィは、マンションに住んでいる。
     一人暮らしの一般人にとっては実に一般的な、風呂トイレキッチンが備え付けられた間取りの、世間一般で言う平均的な1DKのマンションである。
     クラージィの価値観としては充分な、雨風を凌ぐことのできる、寒さに震える事のない空間は。
     けれども、ノースディンから言わせれば、彼が住まう屋敷にも城にも及ばない、なんならドラルクの住む住居よりも手狭な空間で……。
    「嗚呼、靴は脱いでくれ」
    「……、………、ああ」
     呆然としながらも、狭い玄関へと入ったノースディンは、よろよろと靴を脱いで、クラージィに続いてゆく。
     土間と呼ばれるそこには、シューズボックスすらなく。
     明らかに安価な玄関マットの奥には、窮屈そうなキッチンと、ローテーブルと呼ばれるものが一つ。その奥は、きっと寝室なのだろう。中央が曇り硝子のようになっている木の扉に区切られた、馬小屋にも満たない空間には最低限の物しか置かれていない。
     冷蔵庫はある、キッチンには一人分のカトラリーも備えられている。けれども、それだけだ。ローテーブルの上の電気ポットも、草臥れた座布団も、背の低い小さな本棚もノースディンの目に敵う物ではない。
     たったこれだけで、満ち足りていると言うのか。
     ノースディンは、信じられない気持ちでクラージィを見つめた。
    「ノースディン?」
     ノースディンの表情に気付いて、クラージィが漸く訝しそうに名前を呼ぶ。どうした、寒いのかと。案じる様に呼びかけてくる男の善性に、ノースディンの心は当然ながらあらぶってしまう。
     もしも、私がお前を先に見つけていたらと。
     もしも、お前が私の腕の中で目覚めていればと。
     こんな、窮屈な暮らしはさせなかったのに、こんな最低限の暮らしで充分に満たされてしまうような、そんなお前を骨の髄まで甘やかしてやれたのに。
     この暮らしこそが、クラージィの望みなのだと、理解しようとしても、到底許容しきれるものではなかった。
     勿論、クラージィはこの街で迫害されているわけではない。
     パンを売ってもらえなかったことも、宿を与えられなかったことも、なけなしの金で買い得た物を返せと罵られたこともないだろう。
     雨風を凌ぐ住処と、糧を得て暮らすことの充足を。日々、神に祈りながら過ごしているのだろう……、無垢にも。
     善き魂、善き生き方だ。
     人間には相応しくない、美しい心持ちの存在。
     彼が望んで、此処で生きているのは分かっている。
     クラージィが望んだ暮らしだ、クラージィが人間達と交わる中で、紡ぎあげてきた空間なのだ此処は。
     けれど、ノースディンはどうしても、この狭く寒々しい空間を受け入れることができない。
     惜しい、惜しい、口惜しい……。惜しいことがいくつもある。その全てが、我が心胆を寒からしめる。
     クラージィが、この街で目覚めた時、すぐ傍に居たのがノースディンであったならば。例え、あの温かい屋敷に連れ去って、こんな最小限の幸福で満たされるようなことにだけはしなかったのに。
     きっと、別の生き方を与えられたはずだ。
     氷笑卿の手中で囲われながら、吸血鬼としての生き方を学べたのだ。竜の一族は、人間に好意的だから。だから、クラージィであれば、例えシンヨコハマでなくとも、夜の者たちと関わりながら、人と融和する世界を感じることができた筈なのだ。
     もしも、ノースディンが先に見つけていれば。
     元聖職者にして、氷笑卿の血族という……。その優れた血統を、他の吸血鬼達に披露できたはずなのに。
    「ノースディン、どうしたんだ、」
    「……、いや、」
     クラージィの問いかけに、ノースディンは平静を装おうとした。その内心には吹雪が吹き荒れていたものの、普段の研鑽の成果と言うべきか、表情が曇ってはいるものの、ノースディンは手にしたバスケットをクラージィに差し出すことができた。
    「土産だ」
     言えた言葉はそれっきり、立ったまま押し黙ったノースディンに対して、ずしりと重いバスケットを受け取ったクラージィは、大きく目を見開いている。
    「開けても?」
    「ああ、」
     ノースディンが頷けば、クラージィはバスケットをローテーブルの上に置き、バスケットの留め具を外して蓋を開ける。
    「これは……、」
     中に入っていたのは、手作りのスコーンが詰まった紙箱と、クロテッドクリーム、ベリージャムが積められた蓋つきの瓶が二つ。それに、ティーポットと、ティーカップが二つ、紅茶の茶葉が入った缶が一つ。品のあるティーセットは、イギリス製のもので……。ノースディンが、クラージィに贈ろうと、キャビネットに飾っていた物から選んだ代物だった。
    「……、もしかして、紅茶を、淹れてくれるのか?」
    「それもあるが、お前へのプレゼントだ」
     持ち帰るつもりだろうと勘違いしていたクラージィは、ノースディンの言葉に大きく目を見開いた。明らかに、受け取って良いのか戸惑う表情を浮かべている。
    「……、私が、お前の為に選んだ物だ。受け取らない方が無作法だぞ」
     クラージィが何か言うよりも先に、ノースディンははっきりとそう言い切った。まるで、拒むことを赦さないと言いたげな、高圧的な物言いにクラージィは少し困ったように眉を寄せる。
    「それはそうだが……、……、だが、私は気にするぞ」
    「気にする必要はない、」
     ノースディンは、頑なだった。
    「こういったものを、持っていて不都合はない……。お前は私の血族なのだから、」
     そう言いながら、気が高ぶっているのだろう。どこか感情的に、ノースディンは腕を組むと人差し指で左の二の腕をトントンと叩いた。ノースディンの不機嫌を、クラージィも感じ取って入るらしい。その不思議な虹彩を宿す真紅の双眸は、伺うように自分より濃い深紅の双眸を見上げている。この日の為に、ノースディンをもてなすために、ブラッドジャムプディングを冷蔵庫で冷やしていた男は。一体何が、ノースディンの琴線に触れたのか分からず困惑している様子だった。
    「確かに、私はお前の血族だが……、」
     何故それが、今関係するのだろうと。困惑する、クラージィに対して。
     ノースディンは、不意に目を細めた。
    「そう……、お前は私の血族なのだ……、」
     まるで自分に言い聞かせるように、言葉を繰り返したノースディンは、何か覚悟を決めた表情を浮かべている。
    「ノースディン?」
     思わず、伺うように名前を呼んだクラージィに対して、ノースディンはゆっくりと手を伸ばしてきた。
     例えるならば、それはかつてノースディンが、己の左胸に黒杭を突き立てて見せた時のように。
     触れ合いそうな距離間で、美しい男は真摯な眼差しをクラージィに向ける。
    「クラージィ、我が屋敷に来るといい」
     そう言って、クラージィを誘う……。甘さを感じるその声が、人を堕落させる魔性の物であったのならば、きっとクラージィはすぐにも手を振り払っていただろう。
     けれど、ノースディンの表情は真剣で、クラージィのことを案じていることが真っすぐに伝わってくる……。
    「こんな狭い所で、充足を感じるのはあまりにも幼い……。クラージィよ、人間と私達では流れる時間が違う、お前は私の血族なのだから、」
     堪えきれなかったのだ……、ひとつひとつの言葉からそんな懺悔するような想いが伝わってきた。ノースディンは、本当にクラージィを案じているのだと。
     人間との幸福が、お前にとって本当に幸いなのかと。その眼差しで、問いかけながら。
    「私の屋敷で、暮らしなさい、」
     それは、親が子に言い聞かせるような声だった。
     ノースディンが、複雑に感情を押し隠すことが上手いことをクラージィは知らないだろう。けれど、この時のノースディンの表情を見て取れば、言葉以上の深い感情をその内面に宿していることを感じ取ることができる。
     人間と私達では流れる時間が違う……。その言葉は、決して、肯定的な意見では無かった。ノースディンのうちにある、人間に対する嫌悪感の片鱗に触れるほどができるくらいの。
     それほどの、感情を向けられて……。クラージィは、ごくりと喉を鳴らす。
    「私は、」
     ややあって、迷いながら……。クラージィは、やはり真っすぐにノースディンを見つめた。
    「此処での生活を気に入っている」
     この言葉は、決して、ノースディンの意に沿うものではない。ともすれば、逆鱗に触れて、実力行使を受けるかもしれない。分かっていて、クラージィはそれでも、嘘偽りのない言葉を紡いだ。
     ノースディンが尊ぶ、その善性でもって。けれど、それこそが……、相手を魅了して服従させることができる。そんな吸血鬼の、理性に最も訴えかける方法だった。
     善性を向けられたが故に、裏切ることができない……。
     ぎりぎりの所まで、クラージィの意思を尊重しようとしていたノースディンの献身。
     それが、働いてしまうがゆえに、その意志を無視して連れ去ってしまうことができない。
     クラージィの家は、この街なのだと。
     此処を、己の居場所にしたいのだと。
     その眼差しで、言葉で伝えてくるクラージィに対して、ノースディンの表情が『無』になった。
     他者の感情を寄せ付けない、吹きすさぶ厳冬の夜のような触れ合う事の出来ない寒さ。
    「……、そうか、」
     ぽつりと、噛みしめる様に呟く。
     凍えた目をした男が、宿しているのは怒りだろうか。悲しみ、それとも憎しみなのか、踏み荒らされたあとの新雪のように、ぐちゃぐちゃとして形容しがたい感情を湛えた目に反して、表情はごっそりと弧削ぎ落とされてしまっていて。
    「ノースディン……、なぜ、」
     不用意な謝罪が意味を成さない事は感じていた……、それが逆に男を裏切るような気がして、クラージィはただただ目の前の男の名前を呼んだ。名前を呼んで、何故そんなに悲しむのだと言いかけた所で。
     ピンポーン
     呼び鈴が、鳴った。突然の闖入者に、深紅の目がゆっくりとドアの方を見た。その視線がそらされたことに少し安堵しながら、クラージィも真紅の眼差しを扉の方へと向ける。
     トントン……、控えめに、扉が叩かれる音がした。
    『クラさ~ん、』
     吸血鬼の聴覚が捉える、それは隣の隣に住む三木の声であり。彼は何か用事があって、クラージィの家を訪ねていることは明らかだった。
     トン、トン、トン……。再び、扉が叩かれる。
    『あれっ、いないかな?』
     そんな、困惑した声も聞こえてくる……。
    「あっ、」
     クラージィは思わず、玄関の方へと向かっていた。居留守を使うのは申し訳がない、そんな思考回路が働いたのだった。ノースディンの様子は気がかりだったが、だからといって三木を害するようなことはしないだろうという信頼があった。
     そう、ノースディンは信頼されているのだ。
     親吸血鬼として、唯一の血族として。クラージィの人間達に向ける親愛とは別の親しさがそこにはあったのだ。
     ただ、それを言葉にする前に、クラージィは扉の方へと向かってしまって……。
     ノースディンの表情は、もはや何も読みとることのできないものとなっていた。
    「ハイ、ミキサン!……、寒ッ!」
    「ははっ……、無事だった、」
     クラージィが扉を開けた時、ひゅうひゅうと吹きすさぶ粉雪を背に三木が立っていた。
     先ほどまでは降っていなかったのに……。吹き付ける夜風と共に細かく舞う白雪にクラージィが目を細める。
    「無事ッテナンデスカ?」
    「いや……、雪が降ったからね、」
     仕事終わりであろう三木は、クラージィの顔を見るとなぜか安堵した表情を浮かべる。ゆるりとクラージィを捉えた三木の目が伺うように、その背後へと向けられて。
     それから、大きく見開かれた。
     バサバサバサバサ!
    「ッ、」
    「ぅぉ、」
     クラージィの背後から、外に向かって羽ばたいたのは何匹もの蝙蝠の羽ばたき。室内から急に現れたそれが、人の形を崩したノースディンであることは間違いなく。
    「ノースディン!」
     クラージィの耳を掠め、三木を威嚇するように。飛び去った蝙蝠は、外の吹雪の中で一瞬だけ人の形を紡いだ。
    「待ってくれ!」
     その残像に手を伸ばし、追いすがろうとするクラージィを冷たく一瞥した後。また再び人の形を崩していく。
    「人間供と仲良くな」
     吹きすさぶ雪に紛れて、その感情の無い声が落ちてきた時。クラージィは漸く、この雪がノースディンの感情に寄るモノなのだと悟った。
     冬の最も厳しい時期も終わりにさしかかり、目覚めかけた命を拒絶するかのように凍てつく寒風。
     これを、生み出したのがノースディンで。
     ノースディンから染み出した寒さは、シンヨコハマを白く染め上げていることだろう。
     だから、三木は様子を見に来たのかと。
    「クラさん、大丈夫?」
    「……、ハイ、」
     遠く飛び去った蝙蝠の影を探すように目を細めるクラージィに対し、三木が案じる様に声をかけてくる。そんな、人間の友人に言葉を返しながら。クラージィは、険しい表情を浮かべてその手を強く握りしめたのだった。
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