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    sirokuma594

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    sirokuma594

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    人間嫌いの吸血鬼が棺を凍らせるまでと、凍らせてからの話。
    CP要素はほとんどなし。

    #ノスクラ
    nosucla.

    心がわり「父よ、あなたのいつくしみに感謝してこの食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、私たちの心と体を支える糧としてください」

    平坦な声でドラルクが食前の祈りを述べる。ノースディンが注意するか否かの境界線上で行儀悪く振舞う癖は、親元に帰るまでにどうにか矯正しなければとノースディンは考えている。

    「……あのねぇ、アホ師匠。こんなん毎回言う意味あるんです? どうせ私たちしかいないし、私たちの食事って」

    ドラルクは飽き飽きといった顔でワイングラスの台座を指で挟み、テーブルの上で丸く揺する。

    「これじゃん」

    グラスの中に注がれているのは、まごうことなき人間の血液だ。あんたの悪趣味に付き合わせないでくださいよ、と顎を上げるドラルクに、ノースディンは動じず自らのグラスを口に運ぶ。

    「馬鹿弟子。お前が人間との食事でも完璧に振舞えるなら、こんな訓練は要らないんだがな。習慣づけないと本番でやらかすぞ」
    「ヒゲヒゲと違って要領いいんで! ってか牛乳ないし。取ってきまーす」
    「おい、このくらい割らずに飲め」

    ノースディンの言葉を無視して、ドラルクはキッチンへと向かった。ふうとため息をつく。ノースディンは椅子の背に体重をかけ、ダイニングの窓に目をやった。
    吸血鬼の一日は始まったばかり。しかし人間の一日はそろそろ終わる時間帯。春になり日は長くなったが、いつもなら町はランプの油を惜しんで暗くなりだす頃だ。それが今日ばかりはかすかな明かりが寄り集まって、上空の雲をオレンジに照らしていた。

    (そういえば今日は祭りがあるんだったか)

    ノースディンは窓の方へ足を進める。祭りの喧騒が気になるのではない。侵入者除けのまじないが酔っ払いにでも壊されたら事だ。
    この屋敷は無人ということになっている。悪魔祓いが来た後、心変わりした男が教会から本隊を連れてくるかもしれないと考え、ノースディンはドラウスに使い魔を送った。ドラウスは二人の身を大層心配し、町と館に厳重なまじないをかけていった。町に住む者はノースディンとドラルクに関する記憶を保持することができなくなり、館を見たものは『この館は無人だ』と信じ込むようになる。恐ろしい技術が必要な暗示を町全体にかけた男は、打って変わってメソメソと泣きながら息子を抱きしめた。

    「ああドラルク……! 怖かっただろう、恐ろしかっただろう! 大事な時に守れなかったパパを許しておくれ……」
    「いやお茶しただけですけど。でもまあ? 融通の利かないヒゲが真正面からぶつかってたらケガしてたかもしれないし? 感謝してくださいよセンセイ」
    「調子に乗るな。人間程度、瞬きの時間があれば凍らせられる」
    「ノースディンも! 私の注意が足りなくてすまない。一族の土地からは離れていた方が安全かと思ったが、かえってノースを孤立させてしまった。今はローマにも『目』を入れているから大丈夫なはずだ」

    子犬のように眉を下げスンスンと泣きながら、畏怖すべき竜の一族の次期当主は帰っていった。本来ならば二人を保護したい所だが、今は本拠地である東欧の方がきな臭く危険なのだそうだ。人間好きの御真祖様は対峙を望まず、力の弱い一族を保護するためドラウスは奔走している。

    「そんなもの、人間を殺してしまえば解決するだろうに」

    ドラウスの前では決して言えない独り言をつぶやく。そしてノースディンが戦火を離れた場所で子守をしているのは、その本音が薄々親友にも伝わっているからなのだろう。
    お人よしのドラウスは、ノースディンが人間の排斥を望んでいるとまでは知らない。しかし人間を快く思わない事情についてはよく知っている。彼を吸血鬼に迎えたのはドラウスなのだ。

    「ん」

    ノースディンは階下を見て眉を上げた。門の近くに人影がある。門には鍵がかかっているし、暗示の影響で人間には館内の様子は見えないはずだ。

    「……念のため、見てきておくれ」

    にゃあ、と使い魔が鳴く。影のように潜んでいた愛猫はしなやかに駆け出した。窓から背を向け、椅子に座る。そういえばドラルクが戻らない。

    「……あいつ、牛乳だけ飲んで部屋に帰ったな」

    ため息と共に眉間を揉み、ノースディンは目を閉じた。指を組み集中すれば、すぐに使い魔と視界が共有される。



    視点より高く生えた草の根をかき分けて使い魔は進む。気配を悟られないよう器用に草むらに隠れた使い魔は、鉄の門の向こう、門柱の下に浮浪者のような男が座っているのを見た。ぼろ布を着て木の杖を抱きしめている。長躯をまるで吹雪に吹かれたように丸めているさまは、今にも死神に手を引かれそうだった。

    (わざわざ森を越えてきたのか? 物乞いなら町の方へ行けばいいだろうに)

    ノースディンはほとんど男に興味をなくしていた。この死にかけの男に、館の暗示を壊すだけの力はない。ノースディンが目を開けようとした時、石のようにうずくまっていた男が動いた。杖にすがるようにして立ち上がる。ふらつき、億劫そうによろめき歩く男の横顔には、あの日の悪魔祓いの面影があった。

    (何をしに来た。復讐か?)

    男の姿は間違っても教会からの使命を帯びているようには見えない。ノースディンたちを『祓う』ことが出来ず仕事を失ったのだろうか。少し興味が沸いた。

    悪魔祓いとは、元来異教徒を改宗させる際の役職だ。彼らの神を受け入れずに反抗する者を、教会は悪魔憑きと呼んだ。悪魔の祓い方は、穏やかに寄り添い教義を説くことから、磔にして火にかけることまで多岐に渡る。
    改宗を受け入れなかった者の中には、銀の十字や川での洗礼を拒んだ吸血鬼もいた。吸血鬼はそこから教会に発見された。吸血鬼の超能力が今までの不可解な事件の原因だったことがわかると、教会はより武力に特化した悪魔祓いを置くようになった。危険な吸血鬼から人々を救うためであり、間違っても魚やパンやぶどう酒を無尽蔵に産み出せる吸血鬼が見つかってはならないからだった。

    ノースディンの心には試すような気持ちがあった。ノースディンの短い人としての生において、神の不在は強く心に刻まれている。男の姿は神の祝福からは程遠く見えた。いかにも敬虔そうだった男は、教会に見捨てられ何を思ってここに来たのか。
    使い魔に命じて男の後をつけさせた。猫の足の方がよほど早く、気付かれないようによりも追いつかないようにする方が難しいありさまだった。

    男はかろうじて倒れることなく町にたどりついた。夜に抗うようにランプを灯し、楽器を鳴らして人間が踊っている。酒に酔い、場に酔い、きゃあきゃあと騒いでは笑い声が上がる。暗い森の中を歩いてきた男はまぶしげに目をしばたかせた。喧騒の中から一人の女が慌てたように駆けてくる。あばたの散った顔を心配そうに歪め、どうしたんだいアンタそんななりで、と声を上げた。男は答えようとしたようだが、木枯らしのような音が喉から出ただけだった。
    男の困窮した様子を見て、女は祭りの席へと男を連れて行った。人々の足の下を猫がすり抜けついていく。酒場前に置かれた長机は、すでに出来上がった酔いどれで占められていたが、真ん中の席だけ空いていた。女はそこに男を座らせ、好奇心を隠さず身を乗り出す酔いどれたちの前から酒の入った水差しと大皿を取ってきた。
    男は前に置かれたぶどう酒とパンに大きく目を開いたようだった。男はパンに手を付けそうになり、ピタリと止まって、戒めるように固く両手を組んだ。こうべを垂れ、食いしばった歯の間から枯れた声でぼそぼそと何事かを呟いた。

    「父よ、あなたのいつくしみに感謝してこの食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、私たちの心と体を支える糧としてください」

    男が切実なことは誰の目にも明らかだった。
    いきものは食べねば生きられない。吸血鬼もそれは同じだが、血液という糧はワイングラス一杯で一日体を動かすことができる。ひもじいことの辛さはもはや遠い記憶だ。しかし飢えの苦しみが、人間のあらゆる尊厳を押しのけうるとノースディンは知っていた。男の信仰が今なお形骸化したハリボテではないことは、一定の驚きを以って受け止められた。

    男は努めてゆっくりと食事を行った。それが克己心によるもので、本当はパンにかじりつきスープに口をつけて飲み干したいのだということは明白だった。同じ机にいた人間が、どういうわけでここに来たんだい、と好奇心をみなぎらせ尋ねた。その頃にはノースディンも、町人と同じくらいの興味を持って男の言葉を待っていた。

    男は乾いた唇をぶどう酒で湿らせ、わずかに芯を取り戻した声で話し始めた。長い巡礼の旅。もはや神の家の扉をくぐることが出来ない男の話を。
    酔った町人が目を丸くし、ほおともはあとも言えないような息を吐く。嘘でもなんでもつけるだろうに、馬鹿正直にまあ。町人の目はそう言っていた。

    「世渡りの下手な旅人もいたもんだね」

    ノースディンは椅子から背を浮かせた。嫌というほど聞きなれた声が男の隣から聞こえたからだ。金髪の吸血鬼はさも善良そうな笑顔で酒席に紛れ、固い黒パンの薄切りを温められたぶどう酒に浸して男へと回していた。
    やがて宴席はお開きになり、男は先ほどの女と今日の宿について話し出した。男の肩を叩き席を立った吸血鬼に、ノースディンは使い魔の口を借りて話しかけた。

    「何を企んでいる」

    金髪の男は猫を見下ろし、目を細めた。しー、と子供にするように小さく言って、足取りも軽く森の方へと歩いていく。この町にいるものはノースディンとドラルクに関わるものを記憶できない。使い魔の猫もだ。ノースディンの使い魔は誰に見とがめられることもなく、金髪の吸血鬼の足元を警戒もあらわについていく。

    「下手なことをすれば氷漬けにするぞ」
    「やだやだ、ヒトを猫と話す変人にしないでくれる?」
    「お前が何の企みもなく私の城下に来る訳がない」

    金髪の吸血鬼はそれには答えず、ヒヒ、と笑った。祭りのランプを背に、吸血鬼と猫は山道へと出た。人の目には暗い夜の森だが、吸血鬼にとっては何ということもない。腐れ縁の男は迷いなくノースディンの館への道を辿っていく。猫は尻尾をピンと立てたまま、一度後ろをちらと振り向いた。

    「……おい、厄介事は御免だぞ」

    人間の視界であれば絶対に捉えられないほど遠く、吸血鬼であっても気を張っていなければ気付かない距離だった。草木の影に隠れる狩人のように、先ほどの悪魔祓いが距離を保って後をつけている。その距離と気配の殺し方を見れば、悪魔祓いがこちらを吸血鬼として認識していることは明白だ。金髪の吸血鬼を見上げれば、彼は唇を吊り上げたまま上機嫌に呟いた。

    「私はさ、羊に見放された羊飼いは転職したらいいと思うんだよね」

    なにを、とノースディンが問う前に事態は起こった。
    使い魔の優秀な感覚はいち早く危険を察知した。命じるより早く近くの木に駆け上がり、木の葉の陰から地面を見下ろす。使い魔を見失ったらしい金髪の男はキョロキョロと辺りを見渡したが、やがてぎくりと身を固くした。
    ぐるぐる唸る音と土に爪が食い込む音。子供ほどの大きさの野犬の群れが、爛々と獲物を狙って包囲を狭めている。

    「……助けてくれたりしないかな?」
    「朝日が出るまでには回収してやる」

    金髪の男は冷や汗のにじむ頬を引きつらせ、へらりと笑った。ノースディンは返事の代わりに鼻で笑う。忌まわしい催眠以外は人間並みの力しか持たない男だ。野犬に襲われれば無事では済まないだろう。とはいえ古き血の吸血鬼がその程度で真の死を迎えることはない。こんなものは、灸をすえることにもならない程度の意趣返しだ。

    「逃げなさい!」

    だから二人の吸血鬼は、凛然と叫んで飛び込んできた人間に驚いてしまった。
    少し前まで歩くことすらおぼつかなかった人間が、粗末な樫の杖を振るって野犬の前に飛び出す。人間は金髪の吸血鬼をかばっていた。杖が当たった犬はぎゃんと鳴き、群れを傷つけられた犬は逆上して男に襲い掛かる。野犬は男を噛み、男はそれを必死に振り払う。背後の吸血鬼をかばうために、振り払う向きを考え無理に力をかけたのがわかる。

    悪魔祓いが吸血鬼のために戦っている。
    いや、吸血鬼のためではないのだろう。目の前に危機に陥ったものがいて、自らの身を捨てれば助けられることに気づいたから、ぼろぼろの体で戦っている。男の隣人愛は、もはや人間と吸血鬼を分け隔ててはいない。おそらくそれだけだ。肉を裂かれる苦痛の中にあって、憑き物が落ちたような顔で杖を振るう男を見てノースディンはそう思った。


    教会の尖峰にしてはどうも馬鹿正直だ、というのが男の印象だった。
    彼は吸血鬼にも子供があり家族があり生活があることを知って、悪魔として祓うことに葛藤を抱いたようだった。だからノースディンはそれを利用した。魅了を使わずとも人の心を操ることはできる。男を揺さぶるために、吸血鬼にも家族の情があることをわざと強調して戦わずに追い返した。
    もし人間と吸血鬼が真正面から殺しあえば、当然勝つのは吸血鬼だ。しかしそうして人間との戦端を切った時、真っ先に傷つけられるのは幼く弱いドラルクだろう。男と言葉を交わしたのは、竜の一族を、か弱いドラルクを、それを庇護しようと奔走するドラウスを守るための打算だった。

    たとえば男がどこか遠くで野垂れ死に、あの時の悪魔祓いは破門にされたらしいと聞いていれば、ノースディンはたいして気にも留めなかっただろう。頑として吸血鬼を悪魔と扱いたい教会も、保身を知らない悪魔祓いも、人間らしく愚かなことだと笑っただろう。
    しかし今、ノースディンの目には血まみれで戦う悪魔祓いが映っている。死の淵にあってなお、他人を生かすために退かない人間が見えている。先ほどの宴席で、男がクラージィと名乗ったことがなぜか思い起こされた。覚える必要のない名前だ。これから死ぬだろう者の、悪魔祓いの、人間の名前など、ノースディンには必要ない。「ノースは真面目で賢い」どうしてかドラウスに吸血鬼としての生き方を教わっていた頃を思い出した。「でも無理に賢くあらなくてもいいんだ。やりたいように生きればいい。ノースのやりたいことは、俺が親として支えるさ」頼りないかもしれないけど、と付け足し頬を掻いたドラウスの言葉が、今更になって意味を持つ。

    ノースディンは、人間にも子供があり家族があり生活があることを思い出してしまった。吸血鬼は悪魔ではなく、人間は悪魔ではない。
    ノースディンは窓を開けた。吸血鬼は夜空を駆けた。たとえ厄介なことになろうと、手の届く所にいる死にかけのお人よしを、助けたくなってしまったからだった。





    ノースディンがたどり着いたとき、すべては終わっていた。
    山間の獣道は踏み荒らされ、至る所に血が散っていた。野犬も吸血鬼もいない。地面には死にかけの人間が横たわっている。

    男は中空をぼんやり見上げ、口を開けたまま不自然な呼吸をしている。こうなった人間はもう死神に手を引かれている。人間の医者に連れて行ったところで助からない。ノースディンは春泥にぬかるむ地面に膝をつき、意識があるかも怪しい人間に話しかけた。

    「このままではお前は死ぬ。まだ生きたくはないか、命を繋ぎたくはないか」

    どこも見ていない目が緩慢に動く。音の出る方を追いかけただけの、動物的な反応だった。ノースディンは焦れていた。男の表情からは生きる気力が感じられなかった。

    「やり残したことはないのか。愛しいものはないのか。憎いものはいないのか。執着はないのか。一つでもあるなら、答えろ。生きたいのなら、答えるんだ。」

    答えたならば助けてやれる。人間には助けられない死の淵であっても、吸血鬼であれば呼び戻す術がある。ノースディンはその生き証人だ。お人よしの吸血鬼に救われた元人間は今、お人よしの人間を救うことができるただ一人の吸血鬼としてここにいる。

    「私は、」

    血の泡がごぼりと喉で鳴った。伸びた髪の間から、焦点の合わない悟ったような瞳がのぞく。ノースディンは唇を噛んだ。地面が霜づきだすのを感じ、努めて平静を保つ。強い自制心こそ長い生涯で育んだノースディンの武器だったはずだ。ゆっくりと息を吐き、暴れる吹雪を自らの心の中だけに押しとどめる。己の力が救いたいものを死に突き落とす最後の一押しになるなど、ノースディンには耐えられなかった。

    男の喉が震える。助けてくれという言葉を待って、ノースディンは縋るように男の顔を見つめた。



    「私は、あのシスターの、胸に抱かれるまで、死ねない……!」



    「「は!?」」

    ノースディンは思わず素っ頓狂な声を上げた。馬鹿げたことを言った男自身も同じように驚いたようだった。ノースディンはすぐに気づいて舌打ちをした。あたりを見渡すが、憎たらしい金髪の姿はない。
    男は口を閉じようとしたようだったが、手を動かす力もなかった。まるで考えたことがすべて口から出てしまうかのように、まとまりのない言葉が垂れ流しになっている。

    「寒い、腹が減った、喉が渇いた、さっき飯を貰ったのにまだ飢えている! 傷が痛い、ああ、ああ……!」

    男は子供のようにくしゃりと顔を歪めた。先ほどまでの悟りはもはや男の目から失われた。そこにいるのは超然とした精神性の聖者などではなく、ただ己の心に背くことのできなかった愚直な人間だった。

    「……あの男、最後まで余計なことを……!!」

    ノースディンは毒づきながらも、握ったこぶしから力の抜けるような安堵を得た。もはや能力の暴発に気を遣うこともない。人間も吸血鬼も馬鹿にしたような男の催眠術は、疑うまでもなくその者の心の底をほじくり返す。
    弱くなっていく喘鳴を聞きながら、ノースディンは横たわる男の背と膝に腕を差し込み、自らの膝の上に抱えなおす。ぐったりとされるがまま持ち上げられた男の耳元で、鈍くなった聴覚でも聞こえるようにはっきりと告げた。

    「……だが、どんな邪魔が入って、何の仕業だろうと、お前はまだ生を選んだのだ。受け取るがいい、クラージィ」

    クラージィの固い首筋にノースディンは牙を立てた。





    「人間を吸血鬼にするって難しいよねえ。人間の方は、がぶっとやればすぐ転化すると思ってるみたいだけどさ」

    そこまで言って、金髪の吸血鬼は大きく身震いした。吹雪から身を守るように首をすくめ、赤くなった鼻をすすりながら地面に視線を移す。呼吸すれば肺から凍り付く吹雪の中心では、まだ年若い吸血鬼が氷像を抱えたまま呆然としていた。

    「何回も噛めば成功率は上がるけど、それだって絶対じゃない。ま、そんなの君の『お父様』が一から十まで教えてくれただろうけど。ドラウスも君も、馬鹿みたいに真面目だもんなあ」

    男はヨルマを名乗り、竜の一族の若き狼に近づいた時のことを思い出していた。
    真祖に次ぐ力を持ったお人よしの吸血鬼は、ヨルマに俺の親友を紹介したいと言った。番犬のようにドラウスの横に立つ貴公子然とした青年は、猜疑心を隠さずにノースディンと名乗った。
    ノースディンは人間あがりとは思えない早さで吸血鬼社会に馴染んだ。親であり親友であるドラウスに合わせて容姿も変え、今では竜の一族の中でも顔役に近い扱いになっている。だからもうきっと、彼が二百歳そこそこの若造であることを意識する者はほとんどいない。

    「坊や、グールになりそうで慌てて凍らせたのかい? 自分の時は一発ですぐ転化したのにどうしてって。あのクソジジイの直系ってのはヤだねえ。普通だったら不可能なことでも当たり前みたいに出来ちゃうんだから」

    男がノースディンに一歩踏み出すと、吹雪が厳しさを増した。金髪の吸血鬼は黄色い外套の前をきつく閉め、声を大きくして話しかける。

    「その彼、どうするつもりなんだい」
    「……お前に言ってどうする」
    「弔う気なら棺ぐらいは買ってきてあげるさ。私が連れてきたんだし」

    ノースディンはそこで初めて、自分へ声をかける男の顔を見た。とむらう、と言葉を知らない子供のように繰りかえす。彼は再び腕の中の人間の死体を見やり、一度、二度と瞬きをした。
    嵐が止んだ。ようやく楽になった呼吸に、黄色い外套の吸血鬼はほうと息をついた。雪の積もった外套をはらって顔を上げれば、ノースディンは凍り付いた人間を抱きかかえながら立ち上がる所だった。氷笑卿はいつも通りのすまし顔で男を笑う。

    「誰がお前なんぞにたかるか」
    「まあまあ、そう言わず。だって君、町に棺買いに行っても気が付いてもらえないじゃん」

    金髪の吸血鬼は懐から出した銀貨を見せるように指で弾いた。冬に巻き戻った雪山に、キンと小気味よい音が鳴る。春の雪解けにぬかるんでいた森は、再び静謐な氷の下に閉ざされた。

    「棺に寝かせてあったかくしとけば、意外と三日くらいで目が覚めるかもしれないしね」
    「面白くない冗談だ」

    ノースディンは棺を廃教会に運んだ。後日ドラルクを迎えに来たドラウスには、ついぞ何も告げなかった。これが一つ、ノースディンにとって区切りと呼ぶべき事件の顛末だった。






    「いやぁ、終わった終わった。お前も飲むか?」
    「……なんだそれは」
    「温タピ。最近近所の喫茶店とコラボしてるんだ。人気のフレーバーティーをミルクティ用にブレンドしてもらった。香りに合うように、タピオカも黒糖じゃなく蜂蜜で味付けしてあるんだぞ」

    新横浜公園の広場では、追いかけっこの景品の分配のために参加者が賑やかに騒ぎ立てている。その喧騒を見下ろす陸橋の欄干に腰掛け、イシカナは隣に浮くノースディンへも紙コップを突き出した。ノースディンは不服そうに顎を上げたが、イシカナが手を引っ込めないので渋々黒い蓋付きのそれを受け取った。

    「もう『不滅の炎』よりタピオカ屋としての方が通りがいいんじゃないか、お前は」
    「は? 商売なめるなよ。そう簡単に名前が通るなら苦労しないわ。そういうお前も弟子のおかげでケツホバの方が通りがいいぞ」
    「あの馬鹿弟子が」

    イシカナはタピオカのカップから口を離し、心底嫌そうに顔を歪めたノースディンを見て唇を吊り上げた。

    「お前は真面目な坊やだったのになあ。いい生徒が、慕われるいい師匠になるとは限らないらしい」
    「……吸血鬼にも向き不向きがある」

    ノースディンは紙コップを両手で持ち、眼下の大騒ぎを眺めた。ノースディンの赤い目には眩しすぎる電灯の下で、人間も吸血鬼も混ざり合い、小突きあったり笑いあったりしている。
    図々しく景品をたかりに来る連中をなんとかさばこうと、ドラウスが人混みに揉まれながら声を張り上げているのが見えた。その陰でこっそり景品のゲームを手に入れようと手を伸ばしたドラルクは、同居している退治人に蹴り飛ばされて死んでいた。

    ああいった場所はノースディンには向かない。ノースディンの力は人間と交わって暮らせるほど無害で弱いものではなく、その災害のような力を完璧に制御しうるほど強くもない。
    ノースディンは学んだのだ。努力を惜しむ気はないが、己の力が及ぶ範囲は決まっている。
    ノースディンは暖かな暖炉の火にはなれないが、それを守るための峻厳たる氷雪にはなれた。脆く幼い弟子のための雪壁として、偉大なる竜の意志を貫くための氷の牙として、ノースディンは対立の時代を陰に日向に立ち回った。その果てにたどり着いた二十一世紀で、人間と吸血鬼はようやく隣人としてぎこちなくも暮らし始めている。
    よかったと思っている。ノースディンは人間が嫌いだ。それでも人間にも家族はおり、全ての人間が唾棄すべき塵芥というわけではない。数百年かけて築かれた薄氷の上で、ようやく外の世界を知った不肖の弟子が人間と楽しく生きているなら、積み上げてきたものに価値はあったのだろう。
    ただ、ノースディンはその団欒に入るべきではない。それだけだ。

    「温タピっつってるだろ。冷める」

    イシカナは非難を帯びた声を上げて指先を動かした。ノースディンの手元に小さく火の粉が散り、再びカップが蓋から湯気を吹きだす。

    「お前なあ、タピオカの再加熱ってデロデロになるから難しいんだぞ。私がタピオカと炎を同時に操れるからこその芸当だ。今のうちに早く飲め」
    「イシカナ、お前は」

    赤い髪の吸血鬼は首を傾げた。イシカナの炎は強力だ。たとえノースディンの力が暴発しても、イシカナであれば解決することができるだろう。それでもこの吸血鬼は、人間と交わり暮らしているのだという。

    「……器用だな」
    「ふん、もう一度は温めてやらないぞ」
    「それに変わった」

    イシカナはかつて、吸血鬼とも人間とも距離を置いて生きていた。ノースディンのように己の能力に思うところがあるからではなく、個人の性質としての根無し草だとはすぐわかったが、それでもノースディンはイシカナにほのかな同族意識を抱いていた。
    ノースディンの身の程知らずへの報いは、今も廃教会の中で眠るように凍り付いている。己の慢心や怠惰を感じると、ノースディンはいつも凍った棺の様子を見に行った。永遠に醒めることのない眠りに就いた人間を思い、自らの未熟を強く戒める。あの春の山で抱いた大きな絶望はノースディンを駆り立て、同時に能力の制御ができないことに対する深い恐怖を刻み付けた。牙を立てた肌が不自然に冷たくなっていくあの感覚! それゆえ強大な火炎を宿したイシカナがこの町で受け入れられていることに、ノースディンはかすかに裏切られたような感情を覚えていた。
    イシカナは涼やかな瞳を丸く見開き、ふは、と愉快げに笑った。

    「馬鹿だなぁ、ノース。生きてるんだから当たり前だろ」

    赤い髪をさらりと耳にかけ、イシカナは軽やかに欄干の上に立った。カランと小気味いい靴音が響く。

    「化石みたいな吸血鬼だろうと、生きてりゃ変化するもんだよ。諸行無常だ。私も、お前も」

    イシカナはあっけらかんとノースディンを見下ろした。未だに口をつけられていない紙コップを指さす。

    「また冷めてるぞ。特別だからな」

    かつて煉獄の炎にも例えられた吸血鬼は、タピオカミルクティーと周囲の気温を少しだけ温めて夜空へ帰っていった。
    ノースディンは黒い蓋をしばらく見つめ、小さな飲み口を開けた。スマートフォンが尻ポケットで震えたので、片手で取り出しRINEの通知を開く。

    『アホヒゲ』
    『私が使ってた能力の扱い方とかの教科書ってまだあんたの家?』

    実に珍しく、メッセージの主はドラルクだった。ノースディンが下の広場に目をやれば、鬼ごっこ会場はもうほとんどの者が撤収していた。教科書、教科書と遠い記憶を探る。

    『まず礼儀の勉強をし直しなさい。』
    『教本は私の書斎にある。今日の事で学び直そうと言うのなら良い心がけだ。』
    『学んだ所であんたら全員おじいさまにボコボコにされてただろうが』
    『今度うちに全部郵送しといてください』
    『カビの生えたマナーブックはいらないんで抜いといて』

    「簡単に言う」

    うち、というのはあの事務所なのだろう。書斎の底から当時の教本を引っ張り出し、国際郵便で送る手間を考える。ノースディンは眉を顰めた。
    ドラルクが当時の本を何に使うのかはわからないが、十中八九くだらない理由だろう。とはいえドラルクからの頼み事など珍しいのも確かだ。言う通りに送るのは癪なので、うんと分厚い最新版の礼儀作法の本を入れて送ってやろうか。
    画策しながらノースディンは、温かいカップに口を付けた。牛乳と蜂蜜の匂いだ。わざわざ入れた日本語キーボードでフリック入力をしながら、少しずつ飲みなれない液体を嚥下していく。久方ぶりに口にする人間の飲み物は甘かった。
    小春日和の今日、暖かな夜風が頬を撫でたことに、ノースディンはまだ気づいていない。
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    sirokuma594

    DONE200年物のメッセージボトルがようやく退治人の元に流れ着いた話
    #ドラロナワンドロワンライ一本勝負 (@DR_60min)よりお題「海」で書かせていただいたものです。
    純情inボトル、onペイパードラルクが初めて手紙を書いたのは、8歳の時の海辺でのことだった。

    流れる水の傍というのは、吸血鬼にとって昼と同じくらい恐ろしい。虚弱なドラルクであれば尚更だ。人間の子供であっても海の事故は多いという。当然、心配性の父母はドラルクを海になど連れていきたがらなかった。

    「おじいさま、あれはなんですか?」
    「手紙。瓶に入れてどこかの誰かが流したの」
    「てがみ! よんでみたいです」

    偉大かつ子供のような祖父の腕に抱かれ、ドラルクは海辺の綺麗な小瓶を指差した。夜の砂浜に動くものは二人の他になく、曇り空の果てから真っ黒な水が唸るように打ち寄せる音だけが聞こえていた。
    ドラルクは祖父に似て好奇心が旺盛だった。血族には内緒の二人きりの冒険にも当然付いていく。手紙入りの綺麗な小瓶も当然欲しがった。祖父はキラキラと期待に満ちた孫の顔を見て、裾が濡れるのも構わずにざぶざぶと波打ち際を歩いて行った。祖父の大きな手の中に収まった透明な丸い瓶を見て、ドラルクはさらに目を輝かせた。
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