猫被り 場所は銀座、某デパート前。2人の男女が人待ちをしていた。
「今向かっているそうです」
「置いてくか?」
「それはそれで後が面倒になるのでは」
「確かに」
男女、家入と七海は揃ってため息をついた。今日は社会人となった七海の息抜きと称して飲みに行こうと五条が集合をかけたのだ。当の本人が遅刻であるがいつもの事と二人は諦めていた。遅刻常習犯である五条だが、それはいつも数分のこと。そうかからずに来るだろう。七海が家入に今日行く店について確認しようとした時、後ろから声がかけられた。もちろん五条ではない。
「あれぇ? もしかして七海くんじゃないかい?」
「! 三井様、ご無沙汰しております」
声をかけてきたのはいかにも成金と言った風貌の男だった。家入はその風貌と口元にのみぎこちなくうっすらと笑みをのせた七海の反応に顧客だろうと察する。
「本当だよ。次の時には私がノウハウを色々教えてあげるって言ったのに、なかなか来てくれないんだから」
「申し訳ありません。社内での業務に追われておりましてなかなか同行が叶わず」
七海はそう言って頭を下げた。男は七海の肩を叩き頭をあげさせる。
「ああ、いや。怒っているわけじゃないんだよ。新人は覚えることも戸惑う事も多いだろうしね。ただ君は優秀だと聞いているから早く私の担当もしてもらいたいんだけどねぇ」
「いえ、三井様の担当が変わるわけでは」
「大丈夫、大丈夫! 君のところの社長とは懇意にしていてね。私が頼めば簡単に変えて貰えるよ」
「それはご容赦ください。先輩の顧客を奪うわけにはいきませんので」
「もちろん彼には別の得意先紹介してあげるよ。顔は結構広いんだ。私は君を気に入ってしまってね。つれないことを言わないでおくれ。君だって私のような大口顧客がいて損は無いだろう?」
男の手が七海の腰へと添えられる。うわ、きもっ。家入は心の中で吐き捨てた。男の目的がこの数分だけでよく分かる。顔を顰める家入とは対照的に七海は顔色を変えず淡々と対応をする。
「ありがたいお申し出ですが、私はまだまだ未熟です。三井様の資産をお預かりするほどの技量がありませんので申し訳ありません」
「だから教えてあげるって言ってるじゃないか。私も長く運用してるからねぇ。投資に詳しい知り合いも多い。業務中忙しいならプライベートでどうだい? もう少しお互い知り合ってからと思っていたんだけれど、君の誠実さなら安心して誘えるよ。どうだい、七海くんはフレンチとか好きかな?」
「大変申し訳ないのですが、私は公私は分けて考えておりますので遠慮させて頂きます」
「まだ先輩に遠慮しているのかい? 義理も果たすから気にしなくていいと言っているのに七海くんは少し硬すぎるね。顧客の取り合いなんてよくある事だよ。もっと気楽にいこう。彼から何か言われたのなら私に言ってくれれば注意しておくし」
「七海、そろそろじゃない?」
七海の手を握り必死に口説く男の言葉を遮って家入が声をかけた。七海はもちろんこの好機にのる。注意のそれた隙をついて男の手から逃れて身を引いた。
「家入さん、すみません。三井様も申し訳ありません。担当云々の話はまた別の機会に。今日は連れがおりますのでこの辺りで失礼させて頂きます」
「いや、こちらこそ気づかなくてすまないね。七海くんの連れだったのか……」
七海だけを見ていた男の目が家入へと向けられる。じっとりとした蛇のような視線に家入は辟易する。文句でもつけてやろうかと口を開きかけた家入。しかしそれを遮るように七海がサッと前へと割って入る。
「それではこれで」
「一つだけ聞いてもいいかな?」
今度は男が七海の言葉を遮った。七海は嫌な予感しかしない質問に応えたくはなかったが先輩の顧客、しかも社長とも懇意にしている大口顧客を無視する訳には行かない。
「なんでしょうか」
「綺麗なお嬢さんだけれどまさか、七海くんの恋人かな?」
「いえ、学生時代からお世話になっている先輩です」
「本当に?」
「ええ。三井様に嘘を申し上げるようなことはいたしません」
「そうかそうか! なら良かった。安心したよ」
男は探るような視線から笑みへと変え、懐から取り出した名刺に何かをメモし始めた。
「邪魔をしてしまって悪かったね。それじゃあ話はまた今度。プライベートの番号を書いたからこちらに電話してくれるかい」
差し出された名刺に七海は吐き出したいため息を飲み込んで手を伸ばした。その時後ろから別の手が伸びてきてそれを奪い取った。そして七海の肩に手が回される。
「へー、IT企業の社長さんなんだ。ビジュアルまんまじゃん」
「な、何をするんだ君は! 七海くんから離れなさい! いっ、一体なんなんだ!」
男は文句を言うがすっかり腰が引けている。何せ突然現れたのは白髪にサングラス、高身長な七海をも超える体格を持つ大男だ。しかしうろたえるのは男のみ。家入も七海も驚きはしたが直ぐに呆れたような視線を向ける。
「五条さん……」
「遅いんだけど」
「まぁまぁ。ナイスタイミングでしょ?」
「8分の遅刻です」
「ごめんて。それより、……」
五条の視線が男を射抜く。普通に会話を始めた彼られに男は目を丸くしていたが、視線を向けられ体を固くした。
「知り合いなのかい?」
「大変失礼致しました。この方も私の先輩でして」
「七海ぃ、違うだろ?」
「はい?」
七海は言いたいことが分からず訝しげに五条を見返した。五条は目が合うとニヤリと笑う。あ、まずい。七海の脳がそれを判断して止めに入る前に五条が口を開いた。
「オマエの彼氏、だろ?」
「なっ」
七海は絶句する。そんな話は七海自身初耳だ。この二人にそんな関係はなかった。何を言い出すのかと問い質す前に目の前の男がわなわなと震えながら声を上げた。
「まさか……七海くん、本当なのかい?」
「いえ、それは」
「本当に決まってんだろ。なぁ? 硝子」
「そうだね。良かったなぁ、七海。カレシが助けに来てくれて」
「家入さんまでっ」
ふざけないでください、と主張しようと振り返ってはたと気づく。ここは銀座の一等地、某デパートの入口付近。平日だったためか混雑するほどではないが、それなりの人通りがある。端によって話していたとはいえ、目立つ容姿の男たちのやり取りに好奇の視線が集まっていた。
「最悪だ……」
小さくこぼして項垂れる七海。誤解を解くのは諦めてもうなんでもいいから早くこの場を立ち去りたいと思っていた。そんな七海を尻目に五条が話し出す。
「遠目からもおっさんが七海狙ってんのはわかったんだけどさぁ、悪いけどコイツもう僕のものなんだよね。ちょっかい出さないでくれる? 仕事に口出す気はないけど、プライベート持ち出されたらほっとけないよね。七海も迷惑してるの分からない?」
そう言って五条は手に持っていた名刺をグシャリと握りつぶした。それを見て男は憤慨する。
「なっ、彼氏だかなんだか知らないが失礼じゃないかね! 私は七海くんのところのクライアントなんだ。やり取りして何が悪い!」
「別に投資の話は勝手にすればいいけど、お前が今してたのは仕事の話じゃないだろ。七海も今仕事中じゃないし」
「五条、ちなみに担当は七海じゃないらしい」
家入が後ろから補足情報を入れる。
「ふーん、なら尚更七海関係ないよね。七海、こいつとは今後関わるな」
「そういう訳にはいきませんよ」
「そうだ! そんな簡単な話じゃないんだ。私がいくら預けていると思っているんだ! 私は社長とも懇意にしている。このまま報告して、契約を切ったら困るのは七海くんなんだぞ。七海くん、こんな顔だけの男辞めておいた方がいいんじゃないか!?」
七海の言葉に勢いづいてまくし立てる男。家入のみならず周りで聞き耳を立てていた周囲の人々からも軽蔑の視線が向けられるが気づいていないようだ。
「七海くんに罪はない。お前が今すぐ謝ればこの事は不問に」
「いくら?」
男の謝罪要求を五条が遮った。
「私はさっさと無礼を謝れと言っている。一体何なんだ」
「何って、いくら投資してるか聞いてんだけど」
「それを知ってどうすると言うんだ」
「面倒だな、七海、とりあえず3億ぐらい預ければこいつの分補填できる?」
「え、ええ。おそらく」
突然ふられた七海は驚きながら答える。男も突拍子もない発言にあっけに取られていた。
「もっと必要ならまた言って」
「良いんですか」
「恋人守るためなら安いもんでしょ」
「巫山戯たことを。そんなすぐバレる嘘をつかれてもな、はは……」
男が乾いた笑いをこぼす。3億をぽんと出すなんて信じられないがあまりにも堂々たる五条の様子に否定しきれない、そんな様子だ。五条はそれを見てポケットから財布を取り出した。そして中から出てきたのはブラックカード。周りから小さなどよめきが起こる。五条は驚愕する男に勝ち誇るように笑ってやった。
「悪いけど、顔だけじゃないんだよね。僕」
勝敗が決まった。男はそれ以上の反論が見つからないのか、パクパクと言葉なく口を開け閉めしていた。そんな男に声をかけようとした七海の肩を抱きながら男にくるりと背を向けた五条。
「ちょっと、五条さん」
「さっ、お店行こ。遅くなっちゃった。僕お腹ペコペコなんだよねー」
「五条が遅れたせいなんだけど」
「え、今回は僕のせいだけじゃないよね?」
「まっ、待て!」
そのまま七海の背を押して立ち去ろうとする五条達に男がまだ諦めきれずにすがる。
「もー。しつこい男は嫌われるよ?」
「こんな若造にバカにされてこのまま引き下がれるか! そうだ。ブラックカードがあるからなんだって言うんだ。億単位を簡単に動かせる証拠にはならんだろ。親のスネかじりのボンボンが適当言っていきがるんじゃない。七海くんと付き合っているのかも怪しいものだな。七海くんはお前が来たところで全く嬉しそうじゃない。それどころか嫌そうにしてるじゃないか!」
男の主張に五条は目を瞬かせる。腕の中にいた七海をじっと見つめて、それから家入へと問いかけた。
「嫌そうにしてる? いつも通りじゃない?」
「いつも通りうざそうにはしてるな」
「ひどっ」
七海はややこしくなるから辞めてくれと思いつつどうにかため息を飲み込んだ。
「三井様申し訳ありません」
「七海くん、やっぱり違うんだろう? 私に嘘は言わないと言ったじゃないか」
男は七海に縋るような目を向けた。七海はその期待を打ち砕くようにキッパリと言い切った。
「もちろん私は嘘を申し上げておりません。しかし、五条さんが十分な資産をお持ちなのは事実です。頼るつもりはありませんでしたが、五条さん自身がそれでいいと仰ってくれるのなら受けるつもりです。我社との契約については三井様のご判断におかせ致します。それと、五条さんと私の関係はお伝えする必要のないことですので。失礼致します」
「そういうこと。じゃあね~」
再度丁寧に頭を下げた七海は踵を返して歩き始め、五条と家入も後に続く。残された男ががっくりと肩を落としていた。そんな男の元に五条が突然思い出したように戻ってきた。
「可哀想だから教えといてあげる。七海を綺麗で従順なだけのわんこだと思ってたら大間違いだよ。あんたの前じゃ猫かぶってたから。多分あんたの好みとは違うんじゃない? アイツ口悪い時もあるし、怒らすとやり返してくるし、手が出る時もあるんだよねー。でも、なんでもないって顔しながらスネたり、気を許すと甘えてくれたり可愛いとこもあるんだよね。あんたに見せてた猫被りと違って、僕の前では本当に可愛い猫ちゃんなわけ。だから諦めてね」
可哀想だから好みではないと伝えに来た。ということであったが男からすれば自分の方が七海の本当の姿を知っていると言うマウントでしか無かった。
「~っ、くそっ」
悔しそうに吐く男に五条は満足そうに笑い、七海たちを追って銀座の街並みへと消えていった。
※※※
「五条さん、何を話してきたんですか」
七海は追いついてきた五条に苦々しく顔をしかめながら言う。ご機嫌な五条の姿に不安を覚えていた。
「七海はあんたのタイプじゃないからやめとけって教えてあげただけだって」
「嫌な予感しかしない」
七海は今度こそ盛大にため息をついた。そんな七海を見て家入が励ますように肩を叩く。
「まぁ、鬱陶しいおっさんと縁が切れてよかったじゃないか。実際困ってただろ?」
「まぁ。OJTの一環で先輩の取引先に同行させていただいたんですが、何故か随分と気に入られてしまって」
その時のことを思い出した七海の顔が歪む。
「単純にオマエの顔とか態度があのおっさんの趣味だったんでしょ」
「辞めてくださいよ、考えたくもない。私個人の顧客ならともかく先輩のクライアントですから。無下に扱うことも出来ず困っていたのは事実です。助かりました。やり方はともかく、ありがとうございます」
「どういたしまして。契約書類とかのことは後日でいいよね?」
五条の言葉に七海は眉をひそめた。まさか先程の話が本当だとは思っていなかったのだ。
「本当に契約してくださるんですか?」
「あいつの契約分逃すと困るんでしょう? 良いよ。というか、それでなくても預けて失敗したとしても別に困らないし、七海が面倒みてくれるなら普通に契約していいよ」
ジュース買ってきてとでも言うようなノリで億単位を簡単に出すと言える五条。七海と家入は顔を見合わせた。
「昔からだけど、五条の金銭感覚はズバ抜けて狂ってるよね」
「そう? 事実困んないし」
「事実でも普通はもう少し悩むものですけどね」
「もう、普通とか常識とかどうでもいいって~。とにかく、近いうちに契約書類高専まで持ってきてよ」
「高専、ですか」
七海は今更高専へと足を踏み入れることに少しだけ抵抗を感じていた。あそこから自分は逃げ出したのだという負い目があった。
「そ。普通は入れないけど七海なら問題ないでしょ。なんか言われたら僕の名前出せばいいし。僕がめちゃくちゃ忙しいのはオマエも知ってるだろ」
「それは、まぁ」
七海は五条の多忙を十分に理解していたし、こちらの事に巻き込んだ結果でもあり足を運ぶのは当たり前だとは思う。しかし二つ返事を返すことが出来なかった。そんな七海の背を家入が押す。
「卒業生が母校を訪れるのはそんなにおかしな事じゃない」
「家入さん……」
「久しぶりにお前が顔出したら学長や伊地知も喜ぶんじゃないか?」
家入から七海へ向けられた笑みはとても優しいものだ。七海の心が軽くなる。
「そうそう、伊地知とか今日も来たがってたもんなぁ。あいつ七海大好きだし」
「今日伊地知が来れないのはお前がスケジュール無視してまとめて祓った事後処理のせいでもあるからな?」
「いやいや、元々無茶ぶりしてきたのは向こうだから。今月休み無しとか労基違反だよ? 自主的に早く仕事終わらせて1日くらい休み作ったってバチは当たんないよ」
賑やかに話し続ける先輩達の背中を見て七海は思う。先輩に恵まれていたのだと。
今回のことは突然五条からかかってきた電話で決められた。『何その声。七海いつにも増してくらくない? たまには息抜きしなよ。しょうがないなぁ。五条先輩が奢ってやるからその日空けとけよ』七海の返答もまともに聞かずに一方的に決められた予定だった。一方的に決められた事に当初はイラッとしただけの七海だが、後々気づいた呪術師の繁忙期に良いのだろうかと思ってはいた。だがやはり良くなかったらしい。五条はいつも強引で無茶を言うことも多いが、それだけではなかった。分かりにくい優しさも今の七海にはちゃんと理解できる。くまが色濃く出ている家入も多忙な中時間をつけてきてくれたのだ。そして心配する素振りを見せずとも、必要な所で言葉をかけてくれる。そんな二人は分かりにくくともちゃんと後輩の事を気にかけてくれていた。七海は仕事を初めて以来、日々仕事に終われて本当に金のことだけを考える日々だった。今回の困り事でさえ本人が言っていたようにいくらの損失になるかが問題だったのだ。会社では利益が最優先。もし五条のカバーがなければ七海は今頃あの男に嫌々付き合わされていただろう。久しぶりに触れた先輩たちの気遣いに七海は胸が温まるのを感じた。七海が二人へ感謝を述べようと顔を上げた時、ちょうど店へと到着した。珍しく家入を先に通した五条。七海は不思議に思いながらも五条の待つ入口へと近づく。すると五条が突然七海の肩を抱き、耳元で囁いた。
「もう一個の方も真実にしてもいいよ?」
「なんの事です?」
突然五条の言うことが何を指すのか分からず七海は聞き返した。五条は答えずに笑みを深くする。そして。
ちゅっ。
視界を埋め尽くす五条の顔と、すぐ側で聞こえたリップ音。離れてなお残る熱と感触に、七海はキスをされたのだと理解した。一気に顔が熱くなる。
「何するんですかっ!」
「あっはっは、顔真っ赤! お前感情顔に出ないように見えてわかりやすい時あるよね~。僕の前ではそのまま猫被んないで居てよ」
「巫山戯ないでください! 見直して損しました!」
「え? なに? 五条さんに惚れ直したって?」
「言ってません。どうしてそうなるんですか」
「ちょっと、何入口で騒いでんの?」
七海の小言が始まる前に中から怪訝そうな家入が顔を出す。
「いーや、なんでもない。ただ七海は可愛いやつだって話」
「は?」
訳の分からない家入に答えるでもなく、五条は楽しそうに店の中へと消えていく。
「なんだったの?」
「聞かないでください……」
「何かわからないけど、嫌な事は酒を飲んで忘れるに限るよ、七海」
「そうですね」
家入と共に五条を追いながら、七海は熱を覚ますように深い深いため息を吐き出したのだった。