キスとろくでなし「ねえ、リヴァイってさ、キスしたことあるの?」
ハンジ・ゾエの出し抜けな質問に対して、リヴァイは思い切り顔をしかめて見せた。
夜の兵舎の、リヴァイの私室である。
潔癖なリヴァイは基本的に私室に人を招くことを嫌うが、ハンジは比較的抵抗なく受け入れることができる数少ない一人だった。
その日も、ふらりと遊びに来たハンジと二人、テーブルを挟んで杯を傾けあう流れになった。
ハンジはからからと笑い声を上げると、
「教えてくれたっていいじゃん、長い付き合いなんだしさあ」
と、よく分からないことを言った。
長い付き合いなのは確かだが、それがキスの経験を申告せねばならない理由になるのか。
憮然と酒をあおるリヴァイを見て、ハンジはしばし考える素振りをしたあと、
悟ったように優しい顔をして言った。
「いいんだよリヴァイ。なにも恥ずかしいことじゃない」
「童貞じゃねぇ」
「違うの?」
リヴァイは心底嫌そうにハンジを見たが、ハンジが意に介する様子はなかった。
「あはは、しかし想像できないなあ。彼女ってどんな子だったの?」
「あ?」
「ん?」
「誰だって?」
「彼女だよ。ああ、ごめん、ひょっとして彼氏だったのかな。とりあえず恋人。いたことあるんでしょ?」
そこで初めてリヴァイは、肉体経験の有無と恋愛経験の有無はほぼイコールであるという一般常識に気付き、舌打ちをした。
そして、話をそらすことに決めた。
「お前は、どうせ生まれてこのかた日照り続きなんだろ」
「あのねえ、失礼だな。こう見えてもそれなりの経験はしてきてるよ。兵団では女性兵士はもてるからね。今はこんな立場になっちゃったからあれだけど、訓練兵時代なんてそりゃあもう」
「それはお前がもてたんじゃねぇ。お前の穴がもてただけだ」
「ひっどいなぁ!」
10代20代のうら若い男など大抵が性欲の権化である。穴があれば突っ込みたがるものだ。
リヴァイ自身もかつてはそんなうら若い男だったのだから、手に取るように分かる。
そして、地下街の酒場には、若い男とみるとすぐにしなだれかかるような女がたくさんいたのだ。
--ろくでもねぇ。
心底そう思う。
しかし、狂暴な性欲に支配されていた上に、多少自暴自棄にもなっていた若き日のリヴァイに、
目の前に差し出された餌を押し退ける程の自制心はなかった。
当時から潔癖であったリヴァイは、事が終わった後、猛烈な嫌悪感と共に何時間もシャワールームに籠る羽目になり、心底後悔したものだった。
二度とこんなことはしないと心に誓っても、しばらくするとまた嫌な性欲が沸き上がってくるのだ。
今思い返しても溜息しか出ない。
こんな自分が人類最強だの英雄だのと持ち上げられているのだから、人類も大したものではないとリヴァイは思う。
「ていうかさ、私はキスの話をしてたんだよ。何でセックスの話になってるのさ」
そういえばそこはイコールではなかったのかと、リヴァイは心底げんなりした。
「ハンジよ、もうこの話はやめよう」
「だね。君にろくな恋愛経験がないのはよく分かったし」
ハンジが憐れみの瞳でリヴァイを見る。
意味不明な敗北感と腹立たしさを誤魔化すため、リヴァイは杯の酒を全てあおった。
「でもそういえば、私もキスなんて久しくしてないなぁ」
--俺も最後にやったのはいつだったか。
一瞬そう考えた後、精神衛生上思い出すのはやめておくことにして、リヴァイは無言で自分の杯に酒を注いだ。
「あー、久しぶりにキスしたくなったなぁ。ねえリヴァイ、キスしない?」
ハンジの唐突な申し出に、リヴァイは眉根を寄せてハンジを睨み付けた。
「なんだって?」
「キスしようって」
「俺とお前がか」
「他に誰がいるのさ」
「馬鹿か。お前酔っぱらってるだろ」
「えー駄目?」
「......」
駄目か、と聞かれると駄目と答える理由も特に思い付かない。
「私とキスするのは嫌かい?」
不思議と、嫌という訳でもなかった。
リヴァイはまじまじとハンジの顔を見る。
口もとには笑みが張り付いているが、目は真剣そのものである。
「本気か」
「もちろん」
ハンジの唇を見る。
赤く艶やかで、意外に綺麗だとリヴァイは思った。
そして、流されつつある自分に気づく。
このまま流されたらどうなる。仕事がやりづらくなるだろうか。
二人とも大人だ。遊びでする1回のキスだけではそれほど影響はないだろう。
ないはずだ。
強いて流れに逆らう必要もない。
リヴァイはそう判断して、ゆっくりと椅子から立ちあがり、テーブル越しに手を伸ばしてハンジの頬に触れた。
すると、ハンジの体が驚いたようにビクリと震えた。
「何だメガネ、びびってんじゃねぇか」
ハンジは、先程までの張り付けたような笑みを忘れ、少し怯えたような顔をしてリヴァイを上目使いに見ていた。
頬や目の縁が真っ赤に染まり、瞳が潤んでいるように見えるのは、酒の影響だろうか。
「びびってないさ」
ハンジは小さな声でそう言って、目を閉じた。
こんなハンジは見たことがない。
動揺する自分を感じて、リヴァイは小さく舌打ちをした。
「眼鏡取るぞ」
ハンジの眼鏡をそっと外し、テーブルに置く。
ハンジは硬く目を閉じ、テーブルの上で拳を握りしめて、固定されたようにじっとしていた。
顔は真っ赤に染まっている。
--経験があるってのは嘘なんじゃねえか?
そんなことを思いながら、再びそっとハンジの頬に手を触れる。
男の皮膚とは明らかに違う、滑らかで柔らかい肌。
久しぶりの感触に、リヴァイは心拍数が高まるのを感じた。
--落ち着け、相手はハンジだ。
頬に這わせていた指の先が耳に触れると、ハンジが少し眉根を寄せた。
「んっ、耳、くすぐったいよリヴァイ」
小さく震えた声だった。
--ああ、クソ。
理性が揺らぐ。
あの性別不詳の変人であるハンジが、こういう時にはこんな顔をするのか。
リヴァイはハンジの後頭部に手を回すと、自分の方に引き寄せるようにして一気に唇を重ねた。
柔らかく、暖かい。久しぶりの感触。
ハンジの体がビクンと震える。
リヴァイは唇を食むように動かすが、ハンジの唇は硬く閉じている。
--この野郎。
リヴァイは再びハンジの耳に指で優しく触れる。
すると吐息と共に、唇から力が抜けた。
そのすきに、少し乱暴に舌を侵入させる。
「ん...」
ハンジは身じろぎするが、強く抵抗する様子はない。
リヴァイの舌の動きに応えるように、ハンジの舌がおずおずと動く。
久しく忘れていた欲求が、腹の底からぐらぐらと沸き立つのをリヴァイは感じた。
乾きを癒すように、むさぼるように、舌を動かす。
手は、ハンジの頬を、耳を、髪をまさぐる。
吐息が混ざる。
すべてを忘れそうな恍惚感と、狂おしいような衝動に溺れそうになる。
硬く握られていたはずのハンジの手は、いつしかリヴァイの髪を撫でていた。
--テーブルが邪魔だ。
ハンジをもっと抱き寄せたい。かき抱きたいのに、テーブルを挟んでいるせいでできない。
--駄目だ。
リヴァイの髪を撫でていたハンジの手を優しく掴み、
唇を、ゆっくりと離す。
ハンジは、熱に浮かされたような顔で呆然としていた。
目は潤み、唇は濡れてより赤みを増している。
もっと、もっと、もっと...。
そんな子供じみた衝動が、まだリヴァイの体を支配している。
--駄目だ。
溶けかけた理性を呼び起こし、リヴァイは溜息と共にどかりと椅子に腰かけた。
杯の酒を、一気にあおる。
「......リヴァイのエッチ」
同じく我に返ったらしいハンジが、恨みがましい目でリヴァイを見ながら呟くように言った。
まだ目が潤んでいる。
「何言ってやがる。キスしろってせがんだのはお前だろうがクソメガネ」
「こんなエロいキスしろなんて言ってない!私は普通のキスをだな」
「キスなんざ普通こんなもんだろうが」
「......このろくでなしめ。どうしてくれるんだよ」
「あ?」
ハンジは自分の両頬を両手で覆って、消え入るような小さな声で言った。
「もっと、したくなっちゃっただろ」
--殺し文句か。
せっかく奮い立たせた理性が完全に萎れたのを看取りながら、
リヴァイは思いきりテーブルを押し退けた。