キスの日の話「今日は、キスの日だそうだ」
ウイスキーの入ったグラスを傾けた後、エルヴィン・スミスは愉快げな顔をしてそう言った。
夜半の団長室である。ナナバとハンジとリーネ、そして、俺とエルヴィンとミケ。
その場に居たのは、そんな代わり映えしないメンバーだった。
「初耳だが」
俺がそう言うと、エルヴィンは方頬だけで笑って、「先月制定されたばかりだからな」と言った。
「へえええ。何? キスの日ってどういう日?」
眼を輝かせてそう問いかけたのはハンジである。
「夫婦や恋人同士でなくとも、任意の相手とキスができる。もちろん、相手の合意があればの話だがな」
「うえぇ、何だそれ」
ナナバがそう言って顔をしかめた。
「え、嫌? 面白そうじゃん」
そう言ったのはリーネだ。
ろくでもない予感がして、俺は少し身を固くする。そんな俺を見て、ミケが鼻を一つスンと鳴らした。
「そこでだ。今から一つゲームをしようと思う」
エルヴィンはそう言って笑みを作った。
「わーい! やろうやろう! 勝った人が負けた人にキスとかそういうのだよねえ?」
ナナバが「え? 逆じゃないの?」と呟くと、「どっちでも同じに思えるが」とミケが返した。
「まあ聞け。ゲームと言っても何一つ頭は使わない。まず、皆、室内の思い思いの場所に立って、全員で目隠しをする。そして十秒間、適当に場所を移動する。それからがスタートだ。目隠しをしたまま手探りをして、最初に行き当たった人間が、運命の相手だ」
確かに、団長室はそれなりの広さがある。そんな遊びも可能だろう。しかし。
「馬鹿くせぇ。男同士で当たったら地獄だろうが」
「しかもそれさぁ、皆がちゃんと目隠しをしてるかどうか、確認のしようがなくないか?」
「それもまた、このゲームの面白い所だ」
俺とリーネの言葉にしたり顔でそう言って、エルヴィンは立ち上がった。そして、カップやグラスが収納されている棚の下の開きから、薄手の布を出してきた。
「古いシーツを裁断したものだ。洗濯してある。安心しろ」
主に俺を見ながらそう言うエルヴィンを、睨み付ける。
「……おい。お前ら本気でやるのか」
一枚一枚布を手に取る皆に向かって俺がそう言うと、「なかなか良い余興だ」とミケが応えた。
基本的に、ミケは乗りの良い男である。
「まあ、皆がやるっていうなら」
布を手にソファから立ち上がりながら、ナナバが言った。言葉のわりに行動が早い。乗り気なのだろう。
リーネがそんなナナバを見て、
「私とミケがキスする羽目になっても恨まないでよ?」
と、笑って言った。ミケとナナバは公然の仲である。ナナバは、にやりと唇を歪めた。
「いいよ。むしろちょっと興奮する」
そんなやり取りを聞いて、ハンジがからからと笑った。
「俺やミケがハンジと当たっても、暴力は無しだぞ」
笑うハンジを眺めていた俺の首に、唐突に腕を回し、エルヴィンがそう言った。その横でミケが小さく笑う声が聞こえる。
俺は舌打ちをした。どうもエルヴィンは、俺がハンジに惚れているものと決め込んでいる節がある。
エルヴィンの腕を振りほどきながら、俺は横目でエルヴィンを睨み付けた。
「俺とハンジは何でもねぇと何度も言っただろうが。ただ成り行き如何によっては、てめぇに暴力を振るわない保証もねぇな。クソが」
「楽しめる時は楽しめよ、リヴァイ」
ミケがそう言って、俺の背を叩く。
「てめぇは、よく平気だな」
「俺とナナバは趣味が同じだ」
「変態が」
ミケが愉快げに鼻を鳴らすのを尻目に、俺は布を手に取って部屋の壁際に移動した。
地下は、闇で満ちていた。
だから、視覚に頼らず、気配を読んで行動や判断を行うことに、俺はここにいる誰よりも慣れているだろう。
しかしながら、気配は混ざる。限られた空間に六人がひしめくこの状況は、気配を読むのになかなか過酷である。
それでも、徹底的に誰かとぶつかるのを避ける事くらいは出来るだろう。
その戦法でいくか。
げんなりとそんな事を思いつつ、ふと、ハンジに眼をやる。
ハンジは、俺とちょうど対角線上の壁際に立っていた。気楽そうな顔で、隣に立つリーネに何やら冗談を言っているようだ。
そして視線がぶつかると、ハンジは俺に向かって全開の笑顔と共に、投げキッスをしてきた。
もやりと、心中に澱が舞い立った。
──能天気な顔をしやがって。
──お前は平気なのか。
咄嗟にそんなことを思う自分自身に、衝撃を受ける。
俺とハンジは、何でもない。
先程エルヴィンに放った言葉を、俺は何度も反芻した。
「総員、目隠しの準備!」
エルヴィンの真面目腐った号令が部屋に響くと、皆何となく周囲の様子を窺いながら布を折り、目隠しの準備を整えはじめた。
──皆がちゃんと目隠しをしているかどうか、確認のしようがない。
先程のリーネの言葉が、頭をよぎった。
外してやろうか。
そしてわざと、誰かにぶつかるのだ。
布を折りながらそこまで考えて、誰にぶつかる気だと自問する。
「ねえ、私目隠ししなくてもさぁ、メガネ外せばほとんど見えないよ?」
メガネを内ポケットにしまいつつ、そんな阿呆な言葉を発しているあの女の顔が、どうあっても脳裏に浮かぶ。そんな自分が信じられなかった。
ハンジとは、よく話す。
入団当初からやたらと付きまとわれているうちに、いつしか絆され、話をするようになった。
何かとハンジの世話を焼くのは、小汚ない人間に付きまとわれることに耐えかねたからで、つまり汚れた部屋を掃除するのと同じ感覚である。
相手がハンジでなくとも、俺は同じことをするだろう。
そう。
ハンジが俺の側に来るから、相手をする。
自分の苦痛を低減させるために、世話を焼く。
それだけだ。
それなのに。
──あえて、他の女にぶつかってみるのはどうだ。
そんな歪んだ思考に、徐々に脳内が侵食されてゆく。
ナナバに、リーネに、キスをする俺を見て、ハンジはどんな顔をする。
「総員、目隠しをつけろ!」
エルヴィンの声に、皆がおずおずと布を目に当てる。
正直なところ、目隠しをどうするか、腹を決めかねていた。
たかがゲームといえど、親しい仲間相手に後ろ暗い事をするのは、今後の為にも良くないだろう。
とにかく怪しまれるのを避けるため、一旦は普通に目隠しをすることにして、俺は後頭部で布を結んだ。
「皆、目隠しは出来たか?」
エルヴィンの声に、皆が口々に「ああ」「出来た」「出来たよお」と答える。
「これから俺が十秒数えるから、ゆっくりと動いて居場所をシャッフルする。ちなみに、この十秒の間に誰かとぶつかっても、それはノーカウントとする。速やかに離れるように。いいな」
エルヴィンが、ゆっくりと数を数えはじめた。
呼吸音、布擦れの音、そして、足音。
部屋の中に、人の動く気配が満ちる。
俺は無意識に、ハンジの気配を探していた。
しかし、やはりこの状態では、特定の人物の気配だけを察するのは難しい。
その時、カツンと何かが転がる音と、「あ、ごめん」というリーネの声が不意に響いた。
執務机の横に置かれた、小さなごみ箱にぶつかったのだろう。
これで、リーネの位置はだいたい捕捉できた。目隠しを外さずとも、捕まえることが出来るかもしれない。
エルヴィンが十を数え終えたのは、その直後だった。
醜く歪んだ好奇心に突き動かされて、リーネのいるであろう方向に、俺は爪先を向けた。
手を前に出し、探る。
先程捉えた、リーネの気配を追う。
しかしすぐそこに、似たような気配が複数あるのだ。女性陣は皆、身長や体格がよく似ていた。畢竟、気配も似てくるのである。
リーネの気配はすぐに、他の気配と溶けて、混じってしまった。
──クソ。
ひとまず、人の気配の薄い方向へと、俺は撤退を余儀なくされた。
そして、ここに来てようやく、思い至る。
俺がこうしている間にも、ハンジはエルヴィンに、あるいはミケに、捕まっているかもしれないのだ。
俺が他の女とキスをする可能性があるということは、ハンジも他の男とキスをする可能性がある。
分かりきっていた筈のそんな事実が、何故か今さら、圧倒的な現実感を持ってのし掛かってきた。
一瞬で、総毛立つような嫌悪感に襲われた。
それは、嫌だ。
心の底から、真っ直ぐにそう思った。
それはだけは絶対に嫌だった。
じわじわと、足先から焦りが駆け上がってくる。
そして、そんな自分に、再び目眩がする程の衝撃を受けた。
ハンジとよく喋るのは、ハンジがつきまとうから。
ハンジの世話を焼くのは、自分が不快だから。
それだけだ。
それだけだった筈だ。
脳内で必死に言い訳をはじめる自分を、足蹴にして押し込める。
そんな葛藤をしている猶予はない。
まさに今、こうしている間にも──。
その時俺はほとんど無意識に、目隠しをむしり取っていた。
腕を強く捕まれたのは、その直後のことだった。
心臓が、跳ね上がるように高鳴る。
至近距離を通過する複数の気配と己の動揺によって、接近する気配に気づかなかった。
勢い込んで、目隠しから解放された瞼を目を開ける。
すぐそこに、見慣れた大きな鳶色の目があった。
人差し指を立てて唇に当て、耳まで真っ赤に染め上げながら、ハンジは柔らかい顔で笑った。
「誰かと当たった者から目隠しを取れ」
エルヴィンのやけに固い声が、部屋に響く。
周囲を見ると、執務机の横でナナバとリーネが、そして、書架の前でエルヴィンとミケが、並んで突っ立っていた。
先頭を引き受けたのはナナバとリーネだった。
二人はやりすぎという程に、濃厚なキスを披露した。三十秒ほど経過した時、流石にハンジが止めに入った程だ。
次はエルヴィンとミケである。
逃げ口上を捏ね回そうとするエルヴィンの唇を、ミケが力強く奪う様は圧巻であった。
それが済み、俺とハンジが身を固くしたのと、他の四人が揃って立ち上がるのは同時だった。
「さて、続きをしに行こうか、リーネ」
そんなナナバの言葉に「それは、流石に良くない」とミケが言う。
「そっちも続きやればいいじゃん」
リーネの言葉にエルヴィンが「冗談でも止せ」と力無く言った。
「ちょっと、ねえ! 私たちはいいのかい?」
ソファから立ち上がってハンジが言うと、四人はドアの前で揃って振り返った。
「お二人で、ごゆっくりってことだよ。ヤボは嫌だからね」
ぞろぞろと退室してゆく一同を、俺は呆然と見送った。エルヴィンが去り際に、俺を見て口の端で笑ったのは、見間違いではないだろう。
「ねえ。これって、嵌められたのかな」
ハンジはそう言いながら、再びストンとソファに腰を下ろした。
「……エルヴィンには読まれてたな」
夜半の団長室に、俺とハンジだけが取り残されている。
隣に座るハンジの顔を見ることが出来ず、俺は自分の爪先辺りを凝視していた。
「……目隠し、外してたね」
「お前もな」
へへへ、と小さく、ハンジが笑う。
「外しちゃったよ。駄目だって思ったんだけどさ、つい」
「……何で外した」
「んー……」
ソファに投げ出していた俺の手に、ハンジの手が重なった。
「君は……? 何で?」
「……さあな」
ハンジの手を、ゆっくりと握る。
「君でも、こんなに手汗かくんだね」
「うるせぇ。てめぇも同じだろうが」
からからとハンジが笑う。
指を組むように俺の手を握りながら、ハンジは覗き込むように俺を見て、言った。
「多分、目隠しを外した理由も、同じだよ。君と」
俺は「はっ」と小さく声を出すと、空いた方の手でハンジの後頭部を掴んだ。