草原にて 干し草の香りの風が、頬を撫でて吹き抜けて行く。
ざわざわと木々が揺れる音が心地よい。
ヒストリアの牧場は、他の場所とは少し空気が違うようで、嫌いじゃない。
だから調整日には、時々訪れるようにしてる。
私は木の柵に腰かけるように凭れて、天を仰いで大きく息を吸った。
「ミカサか」
背後から聞き慣れた憎らしい声が聞こえて、振り向く。
「リヴァイ兵士長」
私は柵に凭れるのを辞めて、左胸に拳を当てた。
一応上官なのだ。礼儀は通すべきだろう。
「女王陛下は外出中らしいな」
「はい。すぐに戻られると」
「そうか」
リヴァイが私の隣に立った。
馴れ馴れしい奴だ。
「ヒストリア...、女王陛下にご用ですか」
「まあ。大した用じゃねえが、たまに来てる」
「そう、ですか」
「調整日か」
「はい」
「そうか」
沈黙。
この男のことは嫌いだ。
私の目の前で、エレンに暴力を振るったからだ。
ひいてはエレンを救うための暴力だったことは理解しているし、彼が悪い人間ではないことも、分かっているつもりだ。
過去に、私が命令に背いたせいで、彼に怪我を負わせてしまったことがある。
しかし、彼は一言も私を責めなかったし、後に怪我の原因として私の命令違反を挙げることもなかったので、処分を受けることもなかった。
守られたのだろう。
それでも。
頭では理解していても、感情が追い付かないのだ。
この男に蹴り飛ばされた時のエレンの痛みや心情を思うと、気が狂いそうになる。同じ痛みを味わわせてやりたい。いつか必ず報いを。
そんな思いが、理性を凌駕してしまう。
「あ!兵長だ!ミカサもいる!」
遠くから少年の声が響いてきた。
昔のエレンに少し似ていて、私が気にかけている少年だった。
少年は転がるように草原を走って来た。
「へいちょー!勝負だ!」
少年はリヴァイの前に立ちはだかると、ファイティングポーズを取った。
「……俺はガキだろうと容赦しねぇぞ」
リヴァイは手首を回しながら少年の前にゆらりと立った。
真剣な形相である。
この男なら本当に本気でやりかねない。
すぐに動けるよう、体勢を整える。
「のぞむところだ!!」
少年はえい、とかやぁ、とかいう掛け声と共に、まだ短い腕で次々とパンチを繰り出した。
リヴァイはそれをヒラヒラとかわす。
大人げない奴だ。
「くそ、くそ!」
当たらないのがもどかしいのだろう。少年の掛け声に悔しさが滲み始める。
そんなとき、少年のパンチの一発がリヴァイの脇腹に当たった。
リヴァイが途端にバランスを崩し、しゃがみこむ。
「……てめえ、何しやがった」
脇腹を押さえ、絞り出すような苦し気な声で、リヴァイはそう言った。
まさか。
私は慌てて少年の手を見る。
ナイフでも隠し持っていたのかと思ったのだ。
しかし、何も持っている様子はない。
少年は嬉しげに拳を突き上げると、「よっしゃあ」と快哉の声を上げた。
「へへー! これで5連勝だ!人類最強も大したことねえな!」
「くそが……。さっさと行け」
少年は、「兵長、ミカサ、またな!」と叫びながら、また転がるように走って去っていった。
その後ろ姿を見送ってから、リヴァイに視線を移す。
リヴァイはしゃがんだ体勢のまま、少年の背をじっと見送っていた。
「……迫真の演技ですね」
「うるせえ」
リヴァイは立ち上がると、膝を手で払った。
鳥肌が立つ程意外だが、この男はどうやら子ども好きらしい。
「あのガキ、エレンに似てるだろ」
リヴァイの言葉に、ドキリとする。
「……はい」
「エレンも、あんなだったか」
「私が出会った頃のエレンは、既にもう少し大きかったですが……。そうですね。本当に、あんな感じでした」
私がそう言うと、リヴァイは目を細めた。
見たことのない程、穏やかな顔だった。
この男は。
「エレンが、お好きなんですね」
「はっ。お前程じゃねえが」
やはり、悪い人間ではない。
「……もう、ヒストリアが帰る頃です」
「行くか」
「はい」
この牧場を流れる空気は、やはり他の場所とは少し違うようだ。
そんなことを思いながら、私はリヴァイの隣を歩き出した。