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    im1208nm

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    im1208nm

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    間に合わなかったリ誕話

    クシェル 昔から子どもなんて大嫌いだった。
     煩いし、汚いし、言っていることも要領を得ない。だから子どもを可愛いだなんて、一度たりとも思ったことがなかった。
     
     地下の娼館に身を落としてからは、死んでゆく子どもを大勢見た。
     多くは赤ん坊。そして幼児。あちこちでころころと大勢生まれては、病気や事故でまたころころと大勢死んでゆく。ありがたみも何も、あったもんじゃなかった。
     私は御免だ。絶対に御免だ。子どもなんて要らない。どうせ、絶やさねばならぬ血なのだ。
     そう思って、生きてきた。

     ◆
     
     孕んだ。
     そう直感したのは、胸に向けて伸びてきた客の手を、咄嗟に身を引いて避けた時だった。
     客に触れられていと思ったことなど一度たりとてなかった。しかし、悦がるふりをする事くらい造作もなかった。快楽に落ちる馬鹿な女を客に演じて見せるのが、私の仕事なのだから。
     それなのに。
     腹の底から沸き上がる本能的な拒否感を叩き伏せながら、いつものように、何人もの客をあしらった。
     
     その翌日から、猛烈な吐き気と倦怠感に襲われるようになった。
     起き上がれず、何を食べても吐き、水を飲むのも難儀だった。
     直感は、確信に変わった。
     腹の中に、ままならぬ何かがいる。
     私を内側から支配しようとする何かだ。
     ベッドに横たわりながら、恐る恐る下腹に触れてみる。
     じわりとした温かさが、冷えた手に染み込んだような気がした。
     
     堕ろさねば。
     安全に堕ろすには高い費用がかかるが、有り金で足りない分は、何日か詰めて働けば、何とか工面できるだろう。
     そんなことを思いながら、その日はうつらうつらと、少しだけ眠った。

     そして翌日から、必死で働いた。
     時に吐き散らし、時に失神しながら、体に鞭打って働いた。
     そうしていると時々僅かに出血したので、このまま流れてくれと祈ったが、祈り空しく出血はすぐに止まった。命というものは存外しぶといものだと思い知る。
     懸命に私にしがみつく命を絶やすための労働は、ただただ、空しかった。
     
    「オランピア、あんた、腹でも痛いのかい」
     ある日、娼館の控え室で、同僚のローラにそう声をかけられた。
    「別に。どうしてだい」
    「さっきから腹ばっかり擦ってるし、顔色だって悪いじゃないか。下痢止めなら持ってるけど売ったげようか」
    「いらないよ。何ともないもの」
     慌てて腹から手を退けながら、私はそう言った。
     下腹に手を遣るのは、ここ数日ですっかり癖になっていた。
     ローラは煙草に火をつけてぷかりとふかすと、「ふぅん」と呟くように言う。
     煙の匂いが、吐き気を誘う。私は咄嗟に顔を伏せ、口に手を当てた。
    「……あ~、なるほどねぇ」
     わざと私の顔に煙を吹き掛けて、ローラはにやにやと笑った。
    「……何だい。喧嘩売ってんのかい」
    「おお怖っ。違うよぉ。もっと別のものを売ってやろうかと思ってさぁ」
     灰皿で煙草を捻り消すと、ローラは私の肩に腕を回して密着してきた。
     体臭とヤニの混ざった匂いに、私は思わず顔をしかめる。
     私の耳のすぐ横で、ローラはべたついた声を出した。
    「子流しの薬さ。必要なんだろ?」
     思わず、眼を見開く。
    「あたしもこの間お世話になったばっかりでさ。余ってるのがあるんだ。十でどうだい」
     それなら、どうにか払える。しかし。
    「駄目だね。その薬が本物だって確証が、一体どこにあるんだい」
    「疑り深い女だねぇ。それじゃあ、最初は五でいいよ。無事に子が流れたら、残りの五を払っとくれな」
    「五でも多いよ。三じゃなきゃ乗らない」
    「なら、この話は無しだ。せいぜいあくせく働いて、闇医者に高い金払うんだね」
     思わず、舌打ちが漏れる。
    「……分かったよ。四でどうだい」
    「仕方ないねぇ。四・五に負けてあげるよ」
     私が溜め息をついたのを見て、ローラはにやりと笑った。
    「今日の仕事終わり、金持ってあたしの部屋においでな」

     ローラから買った薬は、いかにも毒々しい赤色をした錠剤だった。
     私は片手に水の入ったコップを、もう片手に錠剤を持って、自室のベッドに腰かけていた。
    「……次はきっと、金持ちの奥方さんの腹ん中に行くんだよ」
     下腹に向けて、そう呟く。
     そして、腹の子に声をかけるのは、これが初めてだと気付いた。
     自分の中に、自分のものではない命がある。
     それはこうしている間にも鼓動を刻み、刻一刻と成長を続けているのだろう。何の疑いも迷いもなく、この世に生まれて来る日を信じて。
     温かな母親の腕に、抱かれる日を信じて。
     
     コップの水に、小さな波が立つ。
     手が震えているのだ。
    「……馬鹿な」
     私は何を迷っているのだろう。
     こんなドブの臭いに満ちた世界に、子を産み落としてどうするというのだ。
     父親が誰か見当もつかない。健康な子が生まれるとも限らない。まともな世話も出来ないだろうし、産まれたところですぐに死んでしまうかもしれない。
     第一産んだところで、まともに愛情をくれてやれるとも、思えない。何せ私は、昔から子どもなんて大嫌いなのだ。

     
     私は大きく息を吐くと、震える手で錠剤をゆっくりと口に入れ、コップの水で飲み下した。
     錠剤が、するりと喉を滑って落ちてゆくのが分かる。
    「ごめん、ね」
     そう呟いた声は、酷く震えていた。
     さあ、これで、あとはベッドに横になって、薬が効くのを待つだけでいい。
     効いてくると、もしかしたら酷く痛むかもしれない。今のうちに、少しでも眠っておくべきだろう。
     薄い毛布を肩まで被って、体を丸めて、眼を閉じて。
     そんなことを考えながら、気が付くと私は、持っていたコップをかなぐり捨てて、自分の喉に指を突っ込んでいた。

     
     今日こそ。明日こそ。まだ間に合う。堕ろそう。堕ろさねば。
     そう思っているうちに、腹が膨らみ始めた。
     まだ服で誤魔化せるし、客にも肥えたのだと言えば誤魔化しがきく。そう思っていた。

    「ボテ腹を抱く趣味はねぇ」
     その日、馴染みの客に、そう言われた。
    「はぁ? 何言ってるんだい。ちょっと太っただけさ。いいから早く」
    「馬鹿が。見りゃ分かるんだよ、気色悪ぃ」
     客はそう言って私を蹴り飛ばし、金を投げつけて帰っていった。
     
     悪くない客だと思っていた。
     金払いが良いばかりではない。始終無言で事を済ませて帰っていく客も多い中、その男は、軽妙な語り口でよく笑わせてくれたし、よく私を褒めてくれた。口先だけと分かっていても、嬉しいものは嬉しかった。
     訳の分からない迫害によって住み家を追われに追われ、ついに家族もばらばらになって、一人生き延びるために地下に身を落とした。娼婦として性と尊厳を浪費する日々のなかで、唯一、人として扱われているような気分にさせてくれるのが、その客だった。
     だから、柄になく、私は傷ついたのだ。
     その日はそれ以上客を取る気にならず、体調が悪いと言ってすごすごと部屋に帰った。
     ベッドに潜り込んで体を丸めると、涙が一筋ぽろりと流れた。
     情けない。
     心底そう思った。
     まだ、間に合うだろうか。
     堕ろそう。
     明日、仕事を休んで、医者に行こう。
     大金が必要かもしれないが、借金でも何でもすればいい。
     明日こそ、絶対に堕ろそう。
     零れ落ちる涙と共に、そう思った。
     その時だった。
     ひくり。
     ひくりと、下腹の中心で、何かが動いたような気がした。
     筋肉が小さく痙攣する時の感覚に、それは、とてもよく似ていた。
     そっと、下腹に手を当てる。
     気のせいだろう。
     それこそ、筋肉が不随意に小さく動いたとか、腹の中の空気が動いたとか、そういったことだろう。
     溜め息をつきつつ寝返りを打つと、蹴られた肩の辺りが鈍く痛んで、また情けない気持ちが込み上げる。
     じわりと、目に涙が浮かんだ。
     すると再び、ひくりと、腹の中が動いた。
    「……嘘」
     仰向けになって、下腹に手を当てる。
     ひくひく、ひく。
     それはまだ、手に振動が伝わる程、大きな動きではなかった。
     しかし、今度は確かに、動いているのが分かった。
     ひく、ひく、ひく。
    「……泣くなって、言ってるのかい」
     そんな筈はない。それは分かっている。
     それでも、そんな言葉が、押さえきれずに口から漏れた。
     
     一人だと思っていた。
     悲しいのも、苦しいのも、辛いのも、私だけだと思っていた。
     しかし今は、これ以上ないほど近くに、私ではない人がいるのだ。
     私と生命を共にした無二の存在が、腹の中にいる。
     私はもう、一人ではなくなった。
     そんな事に、今更、気付いた。
    「……そっか。私が苦しいと、あんたも、苦しいのか」
     こめかみに向けて、涙が流れる。
     私が失神しながら客に抱かれていた時も、客に蹴り飛ばされた時も、この子は、私と共に苦しんでいたのだろう。
     それなのに、まだ乳の味さえ知らない我が子に、私は血まで流させてしまった。
    「あんたには、それでも、私しかいないのにね」
     そう言った自分の声は、情けない程に上ずり、掠れていた。


    「産むよ」
     数年振りに会った兄は、私のその言葉に、これ以上ない程顔をしかめた。
    「馬鹿言ってんじゃねぇ。堕ろせ。産み月まで半年近くあるなら、まだ間に合うだろうが。金ならどうにかしてやる」
     血の染みで汚れたトレンチコートのポケットに手を突っ込んで、兄、ケニー・アッカーマンは私を見下ろしていた。
     私はベッドに腰かけて、そんなケニーを睨み付ける。 
    「うるさいねぇ。もう決めたんだ。産むったら産むよ」
    「クシェル。てめぇはそんなに馬鹿だったか? こんなクソみてぇな世の中に、ガキなんざ産み落として何になる。俺やお前みてぇな可哀想なガキが、また一人増えるだけだろうが」
     私はケニーを一瞥すると、ふん、と鼻で笑って見せた。 
    「この世はクソだし私と兄さんが可哀想なのは本当だけどね。そりゃこの子には関係のない話だよ。この子だけは絶対、私が守る。命がけで、いや死んだって、絶対に守り抜いてやる」
    「娼婦やりながらか」
    「そうだよ。悪いかい」
     腹の底の汚泥から沸き上がるような、ケニーの溜め息が響く。
    「分かったら帰ってよ。兄さんと話すことはもうない」
     じっとりとした目で私を見ると、ケニーは「馬鹿が」と呟いて、私に背中を向けた。
     しきりに動く腹の子と共に、去って行くケニーの後ろ姿を見送った。

     私は若くて、愚かで、自分勝手だった。
     それ故だろう。確信があったのだ。
     この子はきっと大丈夫。強くて、勇敢で、誰よりも優しい子に育つ。
     そんな馬鹿みたいな、楽観的な確信が。
     
     赤子が産声を上げたのは、十二月二十五日の真夜中のことだった。
     その瞬間、朦朧とした意識の中で、薄暗く湿った部屋に、まばゆい光が満ちたのを、確かに見た。
     きっと幻覚だったのだろう。それでも、この子が祝福されていることを確信した。
     羊水に濡れ、よく分からない白いもので汚れた我が子を抱き上げる。
     空を掻くように手を動かしながら、けたたましく泣き続ける赤子は、黒髪の、大きな眼をした男の子だった。
     顔の横に赤子を抱き寄せる。温かな吐息が、頬にかかった。
     愛しい。愛しい。なんて愛しい。
     そんな想いと共に、私は心に決めていた名を呼んだ。

    「リヴァイ」

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