クシェル 昔から子どもなんて大嫌いだった。
煩いし、汚いし、言っていることも要領を得ない。だから子どもを可愛いだなんて、一度たりとも思ったことがなかった。
地下の娼館に身を落としてからは、死んでゆく子どもを大勢見た。
多くは赤ん坊。そして幼児。あちこちでころころと大勢生まれては、病気や事故でまたころころと大勢死んでゆく。ありがたみも何も、あったもんじゃなかった。
私は御免だ。絶対に御免だ。子どもなんて要らない。どうせ、絶やさねばならぬ血なのだ。
そう思って、生きてきた。
◆
孕んだ。
そう直感したのは、胸に向けて伸びてきた客の手を、咄嗟に身を引いて避けた時だった。
客に触れられて悦いと思ったことなど一度たりとてなかった。しかし、悦がるふりをする事くらい造作もなかった。快楽に落ちる馬鹿な女を客に演じて見せるのが、私の仕事なのだから。
それなのに。
腹の底から沸き上がる本能的な拒否感を叩き伏せながら、いつものように、何人もの客をあしらった。
その翌日から、猛烈な吐き気と倦怠感に襲われるようになった。
起き上がれず、何を食べても吐き、水を飲むのも難儀だった。
直感は、確信に変わった。
腹の中に、ままならぬ何かがいる。
私を内側から支配しようとする何かだ。
ベッドに横たわりながら、恐る恐る下腹に触れてみる。
じわりとした温かさが、冷えた手に染み込んだような気がした。
堕ろさねば。
安全に堕ろすには高い費用がかかるが、有り金で足りない分は、何日か詰めて働けば、何とか工面できるだろう。
そんなことを思いながら、その日はうつらうつらと、少しだけ眠った。
そして翌日から、必死で働いた。
時に吐き散らし、時に失神しながら、体に鞭打って働いた。
そうしていると時々僅かに出血したので、このまま流れてくれと祈ったが、祈り空しく出血はすぐに止まった。命というものは存外しぶといものだと思い知る。
懸命に私にしがみつく命を絶やすための労働は、ただただ、空しかった。
「オランピア、あんた、腹でも痛いのかい」
ある日、娼館の控え室で、同僚のローラにそう声をかけられた。
「別に。どうしてだい」
「さっきから腹ばっかり擦ってるし、顔色だって悪いじゃないか。下痢止めなら持ってるけど売ったげようか」
「いらないよ。何ともないもの」
慌てて腹から手を退けながら、私はそう言った。
下腹に手を遣るのは、ここ数日ですっかり癖になっていた。
ローラは煙草に火をつけてぷかりとふかすと、「ふぅん」と呟くように言う。
煙の匂いが、吐き気を誘う。私は咄嗟に顔を伏せ、口に手を当てた。
「……あ~、なるほどねぇ」
わざと私の顔に煙を吹き掛けて、ローラはにやにやと笑った。
「……何だい。喧嘩売ってんのかい」
「おお怖っ。違うよぉ。もっと別のものを売ってやろうかと思ってさぁ」
灰皿で煙草を捻り消すと、ローラは私の肩に腕を回して密着してきた。
体臭とヤニの混ざった匂いに、私は思わず顔をしかめる。
私の耳のすぐ横で、ローラはべたついた声を出した。
「子流しの薬さ。必要なんだろ?」
思わず、眼を見開く。
「あたしもこの間お世話になったばっかりでさ。余ってるのがあるんだ。十でどうだい」
それなら、どうにか払える。しかし。
「駄目だね。その薬が本物だって確証が、一体どこにあるんだい」
「疑り深い女だねぇ。それじゃあ、最初は五でいいよ。無事に子が流れたら、残りの五を払っとくれな」
「五でも多いよ。三じゃなきゃ乗らない」
「なら、この話は無しだ。せいぜいあくせく働いて、闇医者に高い金払うんだね」
思わず、舌打ちが漏れる。
「……分かったよ。四でどうだい」
「仕方ないねぇ。四・五に負けてあげるよ」
私が溜め息をついたのを見て、ローラはにやりと笑った。
「今日の仕事終わり、金持ってあたしの部屋においでな」
ローラから買った薬は、いかにも毒々しい赤色をした錠剤だった。
私は片手に水の入ったコップを、もう片手に錠剤を持って、自室のベッドに腰かけていた。
「……次はきっと、金持ちの奥方さんの腹ん中に行くんだよ」
下腹に向けて、そう呟く。
そして、腹の子に声をかけるのは、これが初めてだと気付いた。
自分の中に、自分のものではない命がある。
それはこうしている間にも鼓動を刻み、刻一刻と成長を続けているのだろう。何の疑いも迷いもなく、この世に生まれて来る日を信じて。
温かな母親の腕に、抱かれる日を信じて。
コップの水に、小さな波が立つ。
手が震えているのだ。
「……馬鹿な」
私は何を迷っているのだろう。
こんなドブの臭いに満ちた世界に、子を産み落としてどうするというのだ。
父親が誰か見当もつかない。健康な子が生まれるとも限らない。まともな世話も出来ないだろうし、産まれたところですぐに死んでしまうかもしれない。
第一産んだところで、まともに愛情をくれてやれるとも、思えない。何せ私は、昔から子どもなんて大嫌いなのだ。
私は大きく息を吐くと、震える手で錠剤をゆっくりと口に入れ、コップの水で飲み下した。
錠剤が、するりと喉を滑って落ちてゆくのが分かる。
「ごめん、ね」
そう呟いた声は、酷く震えていた。
さあ、これで、あとはベッドに横になって、薬が効くのを待つだけでいい。
効いてくると、もしかしたら酷く痛むかもしれない。今のうちに、少しでも眠っておくべきだろう。
薄い毛布を肩まで被って、体を丸めて、眼を閉じて。
そんなことを考えながら、気が付くと私は、持っていたコップをかなぐり捨てて、自分の喉に指を突っ込んでいた。
今日こそ。明日こそ。まだ間に合う。堕ろそう。堕ろさねば。
そう思っているうちに、腹が膨らみ始めた。
まだ服で誤魔化せるし、客にも肥えたのだと言えば誤魔化しがきく。そう思っていた。
「ボテ腹を抱く趣味はねぇ」
その日、馴染みの客に、そう言われた。
「はぁ? 何言ってるんだい。ちょっと太っただけさ。いいから早く」
「馬鹿が。見りゃ分かるんだよ、気色悪ぃ」
客はそう言って私を蹴り飛ばし、金を投げつけて帰っていった。
悪くない客だと思っていた。
金払いが良いばかりではない。始終無言で事を済ませて帰っていく客も多い中、その男は、軽妙な語り口でよく笑わせてくれたし、よく私を褒めてくれた。口先だけと分かっていても、嬉しいものは嬉しかった。
訳の分からない迫害によって住み家を追われに追われ、ついに家族もばらばらになって、一人生き延びるために地下に身を落とした。娼婦として性と尊厳を浪費する日々のなかで、唯一、人として扱われているような気分にさせてくれるのが、その客だった。
だから、柄になく、私は傷ついたのだ。
その日はそれ以上客を取る気にならず、体調が悪いと言ってすごすごと部屋に帰った。
ベッドに潜り込んで体を丸めると、涙が一筋ぽろりと流れた。
情けない。
心底そう思った。
まだ、間に合うだろうか。
堕ろそう。
明日、仕事を休んで、医者に行こう。
大金が必要かもしれないが、借金でも何でもすればいい。
明日こそ、絶対に堕ろそう。
零れ落ちる涙と共に、そう思った。
その時だった。
ひくり。
ひくりと、下腹の中心で、何かが動いたような気がした。
筋肉が小さく痙攣する時の感覚に、それは、とてもよく似ていた。
そっと、下腹に手を当てる。
気のせいだろう。
それこそ、筋肉が不随意に小さく動いたとか、腹の中の空気が動いたとか、そういったことだろう。
溜め息をつきつつ寝返りを打つと、蹴られた肩の辺りが鈍く痛んで、また情けない気持ちが込み上げる。
じわりと、目に涙が浮かんだ。
すると再び、ひくりと、腹の中が動いた。
「……嘘」
仰向けになって、下腹に手を当てる。
ひくひく、ひく。
それはまだ、手に振動が伝わる程、大きな動きではなかった。
しかし、今度は確かに、動いているのが分かった。
ひく、ひく、ひく。
「……泣くなって、言ってるのかい」
そんな筈はない。それは分かっている。
それでも、そんな言葉が、押さえきれずに口から漏れた。
一人だと思っていた。
悲しいのも、苦しいのも、辛いのも、私だけだと思っていた。
しかし今は、これ以上ないほど近くに、私ではない人がいるのだ。
私と生命を共にした無二の存在が、腹の中にいる。
私はもう、一人ではなくなった。
そんな事に、今更、気付いた。
「……そっか。私が苦しいと、あんたも、苦しいのか」
こめかみに向けて、涙が流れる。
私が失神しながら客に抱かれていた時も、客に蹴り飛ばされた時も、この子は、私と共に苦しんでいたのだろう。
それなのに、まだ乳の味さえ知らない我が子に、私は血まで流させてしまった。
「あんたには、それでも、私しかいないのにね」
そう言った自分の声は、情けない程に上ずり、掠れていた。
「産むよ」
数年振りに会った兄は、私のその言葉に、これ以上ない程顔をしかめた。
「馬鹿言ってんじゃねぇ。堕ろせ。産み月まで半年近くあるなら、まだ間に合うだろうが。金ならどうにかしてやる」
血の染みで汚れたトレンチコートのポケットに手を突っ込んで、兄、ケニー・アッカーマンは私を見下ろしていた。
私はベッドに腰かけて、そんなケニーを睨み付ける。
「うるさいねぇ。もう決めたんだ。産むったら産むよ」
「クシェル。てめぇはそんなに馬鹿だったか? こんなクソみてぇな世の中に、ガキなんざ産み落として何になる。俺やお前みてぇな可哀想なガキが、また一人増えるだけだろうが」
私はケニーを一瞥すると、ふん、と鼻で笑って見せた。
「この世はクソだし私と兄さんが可哀想なのは本当だけどね。そりゃこの子には関係のない話だよ。この子だけは絶対、私が守る。命がけで、いや死んだって、絶対に守り抜いてやる」
「娼婦やりながらか」
「そうだよ。悪いかい」
腹の底の汚泥から沸き上がるような、ケニーの溜め息が響く。
「分かったら帰ってよ。兄さんと話すことはもうない」
じっとりとした目で私を見ると、ケニーは「馬鹿が」と呟いて、私に背中を向けた。
しきりに動く腹の子と共に、去って行くケニーの後ろ姿を見送った。
私は若くて、愚かで、自分勝手だった。
それ故だろう。確信があったのだ。
この子はきっと大丈夫。強くて、勇敢で、誰よりも優しい子に育つ。
そんな馬鹿みたいな、楽観的な確信が。
赤子が産声を上げたのは、十二月二十五日の真夜中のことだった。
その瞬間、朦朧とした意識の中で、薄暗く湿った部屋に、まばゆい光が満ちたのを、確かに見た。
きっと幻覚だったのだろう。それでも、この子が祝福されていることを確信した。
羊水に濡れ、よく分からない白いもので汚れた我が子を抱き上げる。
空を掻くように手を動かしながら、けたたましく泣き続ける赤子は、黒髪の、大きな眼をした男の子だった。
顔の横に赤子を抱き寄せる。温かな吐息が、頬にかかった。
愛しい。愛しい。なんて愛しい。
そんな想いと共に、私は心に決めていた名を呼んだ。
「リヴァイ」