扉を突き破った男は、床にしたたかに叩きつけられた衝撃で息を吐き出した。げほげほとせき込みつつも、痛む体に鞭をうって上半身を起こし、部屋の扉から少しでも遠ざかろうと床の上を這う。ああ、いや、本当に遠ざかりたいのは扉などではないのだが。
自身の呼吸音に紛れて、蝶番がきしむ音と、靴音がかつんと聞こえた。それは一定のリズムで徐々に近づいてくる。ゆったりとした、余裕のある歩き方だ。
乱れる息を必死になだめて、薄暗い部屋の中を見回すが、檻、檻、檻。隠れられそうな場所はありやしない。しかも檻の中からぎらつく殺意が向けられていることに、いまさらながらに気が付いた。下手に近づけば、鉄棒のあいだからなにが飛んでくるかわかったものではない。
ふと、気が付くと靴音が止まっていた。廊下から差し込んでいたはずの光が、さえぎられている。床に落ちた自分の影に、誰かの影が覆いかぶさっていた。恐る恐る振り返る。
緑の目が男を見下ろしていた。ひ、と思わず悲鳴が漏れる。
人が部屋と廊下の境目に立っていた。黒い髪に緑の目、少年から青年へと変じる過渡期にいるような男だった。冷徹な表情にもいとけなさが目立つが、その白い肌には似つかわしくない赤い雫が飛び散っている。男をこんな目にあわせた張本人だ。
「な、何も知らないんだ。俺はただ、頼まれてものを運んでいるだけで……っ」
弓を持つすらりとした指が動いたことに気が付いたら、もう口は止められなかった。生き残るにはこうするしかないという思い込みのまま言いつのる。
応えは脳髄を揺さぶる衝撃であった。勝手に視界が傾ぐ。意識を保っていられたのは、そこまでだった。
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床に倒れ伏した男が気絶しているのを確かめて、ゼイは部屋のなかを改めて確認した。どうやら目当てのものではないようだが、密輸に関係しているのは間違いないらしい。
乱雑に置かれた檻はほぼ空だったが、中身が入ったままのがひとつだけあった。よほど暴れたのか、檻の周囲には血が飛び散っている。運搬が不可能だと判断されて、ここに放置されていたのだろう。
檻の中の足枷を付けられて鉄棒につながれた動物の姿に、ゼイは軽く眉をしかめた。
同族の死体を守るように覆いかぶさり、赤い狼がうなる。そう大きくはない。まだ幼体だろう。ちらと脳裏をよぎるのは、雪の上に散らばる血痕であった。小さく息をついて、まとわりつく過去を記憶の底にしまう。
周囲を見回すと、鍵の束があった。檻にあるタグと同じナンバーの鍵があることを確かめる。
「いいか、今から開けるから、大人しくしていろ」
どうせ意味はないと思いつつ、声をかけながら鍵を開ける。
しかし予想に反して、子狼はおとなしかった。牙をむき出しにしてうなりはするものの、嚙みついたりひっかくような素振りは見せなかった。足枷を外すために後ろ足に触れた際には、反射的に蹴ろうとしたようだが、途中で無理やり止めたのが分かった。総じて大人しいといってもいいだろう。少なくとも今日ゼイが黙らせてきた人間よりも手間がかからない。
子狼を自由にした後、ゼイはもうひとつの鍵に手を伸ばした。先ほどの様子からして、置いていくつもりもないだろう。狼の亡骸をつなぎとめている足枷も開錠し、自身がつけていたマントを外して亡骸を包んだ。子狼が心配そうにそばをうろつく。
「大丈夫だ、俺が持って行きはしない。外で埋葬しよう」
ゼイが亡骸を抱えて歩き出すと、子狼が後ろ足を引きずりながらついてくる。
できるだけゆっくりと歩きながら、ゼイは外を目指した。
密輸組織の施設から十分離れた場所で、ゼイは狼の亡骸を下した。子狼が布越しに亡骸に寄り添って、くぅんと悲し気な鳴き声をあげている。
それをよそに、ゼイは素手で土を掘り始めた。本来のふるさとがどこかは知らないが、鉄格子のなかで朽ち果てるよりも、大地に還るほうがよほど良いだろう。
掘った穴のなかに亡骸を横たえて、土をかぶせていく。同族の亡骸が土に覆われていくのを、子狼はじっと見つめていた。
簡易的な墓を作り終えて、ゼイはなんとなく子狼の頭を撫でた。赤い毛皮は血と泥でごわついていた。作業中、邪魔をすることもなく大人しくしていた子狼がなんだか哀れであった。結局のところ、今も人の都合に振り回されているだけだろうに。
「賢い、良い子だな。よく頑張った」
じっと見上げてくる子狼の目が、まあるい月のようであると、その時気が付いた。
ぱちくりと瞬いて、子狼が不思議そうにしている。ゼイは柄にもないことをしたと手をひっこめようとしたが、子狼の体から力が抜けて、くたりと倒れる。緊張の糸が切れたのかもしれない。よっぽど疲れていたのだろう。
そこでゼイは先ほどからあえて考えなかった問題に向き合った。
この子狼はどうすればいいんだろうか、と。
毛布を敷いたバスケットの中で子狼がすやすやと寝息を立てている。ごわごわだった赤い毛皮は、ここ数日のゼイの努力によってふわふわになっている。
知り合いに打診をしてみたが、拾った人が面倒を見るべきという言葉と共に、子狼の世話に必要そうなものを一式渡されたゼイは、とても、かなり、非常に渋い表情をしながら、結局は自分のもとで子狼の面倒を見ている。
正直なところ、とある麻薬を扱っている組織を探るため、単身各地を飛び回っては殴り込みをしているゼイは、負傷している動物の世話にまったく向いていないのだが、一度拾ってしまったのだからしょうがない。
警戒心の強い姿を見ていたものだから、そうそう懐かないだろうと思っていたが、そうでもないようで、子狼は素直にゼイについてまわるようになった。
ゼイが座っていると当然のように膝にあがりこんで、読んでいる資料をのぞきこんだりもする。
そうなるとゼイも分からないだろうと思いつつも、つい資料の内容を説明してやったりした。狼の顔でも「良く分からないが分かった」ような表情をしているのは、案外分かるものなのだな、と今後の役に立たなさそうな知見を得た。
まあ、ちょこんと座って大人しくしている間はいいが、長時間資料を読んでいると飽きるのか、紙を奪い取ろうとしてくるのはいただけない。口でくわえられたらよだれまみれになるし、足で踏まれると皺がよる。どれだけ憎かろうが、いや、憎いならば余計に情報は大事なのだと説いたら、多少は我慢が続くようになった気はした。というより、話しかけられているというのが大事なのだろう。些細な事も子狼に読み聞かせる形にしたら、子狼は膝の上で大人しく座り続けた。
資料を読み終わった後は、森につれていって好きに走り回らせるようにしたので、運動量が足りないということもないはずだ。子狼は日に日に元気になっている。別れの時は瞬く間にやってくることだろう。別れが惜しくないといえば嘘になる。
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「おい」
「うわあ、ボス! おひさしぶりいったぁ!」
ごん、と容赦なく頭に拳骨を落とされて涙目になったリュシカに、ゼイは深々とため息をついた。
チンピラやヤクザがたむろする裏路地に似つかわしくない、コミカルな悲鳴だ。
「ボスと呼ぶのをやめろ。あといい加減、俺を理由にして盗みを働くな」
「えー、またまたあ。悪徳貴族がため込んだ私財を没収してみんなのために使う。義賊ってやつでしょ!? 俺たちにも手伝わせてください!」
「馬鹿を言うな。そもそも俺はそんなことはしていない」
ゼイがしてきたことと言えば、犯罪組織の拠点に乗り込んで石化で敵に動く隙を与えずボコボコにしたり、まっとうに裁けそうにない悪人を縛り上げて証拠ごと警察の前に放りだしたりくらいである。
待て、もしかして証拠ごと持って行ってるのがそう思われているのか?そんな馬鹿な……。しかし馬鹿だからな、こいつら……。なんとも言い難い気持ちでゼイは言葉を飲み込んだ。頃合いか。いい加減、やり方を変えるべきなのだろう。
ゼイを追いかけてこんな治安の悪い地域にわざわざくる思春期の青少年もいるらしい。良くない見本になるのは本意ではない。
「あ、そういえばボス、最近知り合ったやつがいて、紹介したいんですけど」
「俺はお前たちのボスじゃない」
「まあまあ、まあまあ。おーい、ハークト」
「なんだい、僕になにかよ、う……」
リュシカに呼ばれてきたのは、赤い髪の青年だった。優し気な面立ちで、ゼイよりも背がずいぶん高い。首の裏でくくられた長い髪はまるでしっぽのようで、ゼイはふと数年前に別れた子狼のことを思い出した。
「なあ、ゼイ」
「帰れ」
「やだ。なあってば、ゼイ。俺、ハークトっていうんだ」
「知ってる」
薄暗い路地裏を足早に歩く。すれ違いざまに財布を盗もうとする手癖の悪い腕を叩き落とす。後ろからついてきているハークトが感嘆の声をあげた。見世物ではないんだが。
出会った日から、なにが面白いのかハークトという名前の青年は、ゼイの後ろをちょこまかとついてまわるようになった。自分よりも図体が大きい男が後ろをついてくるのは妙に圧迫感があった。
ゼイが裏路地に踏み入れると、当然のように顔を出す。どうやって気が付いているのか聞いても、「……匂い?」などとふざけたことを言う始末だ。実際嗅覚がかなり鋭いようなので、ただの事実なのかもしれないが。
「知ってるなら名前で呼んでくれよ」
妙に甘えた声で言うので、ゼイは眉根を寄せた。ハークトが何を考えているのか、どうにも理解できない。
ハークトはどうにもちぐはぐな男だった。知識はあるようだが、いまいち常識が身についていない。
ある時、ゼイの走り書きのメモをいきなり覗き込んで読み上げた後、得意げにゼイを見つめてきたりもした。読めた!褒めて!と言わんばかりの笑顔だった。かつて面倒を見た子狼を想起させるそれに、つい反射的に褒めそうになったが、ゼイは逡巡したあと他人のものは勝手に見てはいけないと教えることを優先した。ハークトは相当ショックを受けたようで、数日沈みっぱなしだったので、後から一応理由を探して褒めておいた。ちなみに字は読めるが、書けないらしい。手に何かをもって細かい作業をするのが苦手なようだった。
「……ハークト」
「なに!」
ぴん、と元気に立つ赤い毛の狼耳を幻視した。
元気に返事をしたハークトに向き直る。
「いいか、こんなところに出入りするのは良くない」
「ええ?」
「ろくでもないやつしかいないし、それに……リュシカの誘いに乗るのもやめておけ」
「どうして? 親切なやつだよ。俺がゼイに賢いって褒められたことあるの信じてくれたし」
「お前を褒めた覚えはないが。リュシカが親切かどうかと、その行いの良い悪いは関係ない」
「そうなんだ。でもゼイもここにわざわざ拠点を作っているでしょ」
「…………分かった。俺もやめる」
もともと潮時とは思っていたのだ。妙に抜けた男がゼイについてまわることで、流されて悪事に手を染めるのは受け入れがたいことであった。かつての子狼に似ているのもいけない。
「え!」
「だからお前ももうここに来るんじゃない。いいな」
「じゃあ、ゼイはどこにいくの」
「騎士学校だ」
「へー、どんなところ?」
「お前もついてきていいところだ」
ついでに一般常識と倫理も叩き込んでもらえ、とゼイはため息をついた。