おや、と目を覚ましたばかりのラインハルトは隣でちまこく丸まっている子供を見て瞬いた。ラインハルトの腕を抱え込み、水銀のような色艶の長い黒髪にくるまるようにして、すよすよと寝息をたてている子供。見る限りではおそらく、五、六歳といったところだろうか。昨晩共に寝台に入った男は、断じてこのようなちいさな子供ではなかったが。
そこで一度考えるのを打ち切って、ラインハルトはまじまじと子供を見た。
まあこれはこれで合ってはいるのかもしれない。普段のなかなか人の神経を逆なでする言動で気づきにくいし、本人も自覚があるとも思えないが、おそらくその精神はとても幼い。
しかしどうしたものかととくに起きる様子のない子供の頬をつっついても、むうとむずかるような声をあげるだけだった。ことこういった現象についてはこれが一番詳しいが、本人がこうなってしまった以上、自力で解決できない可能性もある。
とりあえず、と子供に抱き込まれた腕を引き抜いて体を起こすと、うう…と呻きながら、ぺち、ぺち、となにかを探すように子供のてのひらがシーツの上をさ迷い始めた。なにかを抱え込んでいたいのかと枕を渡して見ると、ぎゅっと抱き締めた後、ぽいと捨ててまたてのひらをさまよわせる。感触が気に入らなかったのだろうか。まあどうしようもないし、とラインハルトは放っておくことにした。
身なりを整えつつ、ついでに子供が着れそうな服がないかと探しても見るが、まあ当然見つからない。そのままにしておくわけにもいかない。買いに行くしかないだろう。
長い髪をそのままに出掛けるのは不便なことも多いので、かるく三つ編みに結う。かるくとはいったが長さと量でそこそこ時間はかかる。手入れの面倒さもあって若い頃のように短く切ってしまうことも考えたが、結局長く伸ばしたままだ。出掛ける前に子供の様子を見てみると、顔をしかめて広い寝台の上を転がり回っていた。しかしそれでも起きる気配はない。寝やすい場所でも探しているのだろうか。まあ普段は眠っているのを見ることも少ないのだ。ゆっくりと眠れる良い機会だろうとラインハルトは静かに出掛けることにした。
「けーもーのーどーのー!!!」
子供用の衣服が入っている紙袋を片手に玄関のドアを開けた途端、びゃんと飛びついてきた小さな影を反射的に避ける。べちょと通路の床に這いつくばったこどもが、のたのたと手をついて体をおこして振り返り、じとじととした視線を向けてきた。子供らしいまるい額が赤くなっている。
「なんだ、カール、もう起きたのか」
床は汚いぞ、と首根っこをつかんで子供を持ち上げると、ぷらんとぶらさがったままううだかうぐだかと、幼さが勝ってあまり恐ろしくない唸り声をあげた。じたじたと暴れるので、おろしてやるとぎゅうと足に抱き着いてくる。頬をぷくりと膨らませて、全身で不満を訴えてくるが、私がなにかしただろうか。買い物に出かけていただけなのだが。
部屋の中に入り鍵をかけても、足から離れる様子はない。さすがに歩きづらい。
色々と決着がついたあと、なにがどう転がったのか、この男とまるで普通の友人のようにルームシェアをすることになった。この男と来たら、既知感からの脱却を果たしたためか、妙なテンションで女神に絡んではどろどろに溶けて帰ってくるので、それはそれで面白いなあと眺める日々を送っていたら、まあ今回の件が起きたのである。溶けた部分を回収しきれなかったのだろうか、とずいぶん小さくなった男を眺める。
「さすがにそれでは動きにくいだろう。子供用の服を買ってきた。着替えてくると良い」
紙袋を差し出すと、うぐりとうめいて子供は紙袋をにらみつけた。ぶかぶかのままのほうがいいのだろうか。まあ普段そういうところあるものなと以前の影法師というべきなのか、浮浪者じみた格好をしていたことを思い出す。
無理矢理に持たせようとしても、足に引っ付いて離れないのでとてもやりにくい。しかたがないか、とちいさな頭を何度か軽くたたいて離れさせ、しゃがみ込んで膝をつく。
「よし、両手をあげろ」
「むう、ひとりでも着替えられるのだが。はいどりひ」
ついさっきまで全身で着替えるのを拒絶していたのはどこの誰なのだろうな……と若干呆れつつも、手際よく着せていく。一度洗ったほうがいいとは思うが、それまで何も着ないわけにもいくまい。ほかのを洗濯している間は我慢してもらおう。
何を買えばいいのか分からなかったものだから、フォーマルなものをとりあえず買ってきたのだが、まあそうわるい選択でもないだろう。半袖シャツのボタンをとめてやり、ハーフパンツをはかせ、ベストを頭からかぶせて髪をとりだしてやり、最後に胸元に黄色のリボンで大きめのちょうちょをつくってやれば、子供はぺたぺたとリボンの具合をたしかめはじめた。
残りの衣服を洗濯機にでも入れようとすると、あわてて子供が後をついてくる。
「別にリビングでまっていてもいいのだが」
「わたしのことはお気になさらず」
そういいつつ、人の髪先を握って離さないのはやめてほしいものだ。
結局スタートボタンを押すまでぺっとりと引っ付かれてなかなか面倒だった。
「それで、なぜそんなことになったのかは分かっているのかな、カール」
回り始めた洗濯機を後にしてリビングに戻り、ソファに並んで座る。戻るついでに作ったココアが入ったマグカップを両手で持ち、ちまちま口をつけていた子供が顔を上げると、口周りにココア色のひげができていた。笑ってしまいそうになるのをこらえる。
「うむむ……それが私にもなんとも……」
ぎゅっと眉根をよせて悩んでいますと全身で表しているが、口元にひげができたままなので、私としては笑いをこらえる際に声が震えないようにするのが大変だった。
「では変に悩んでも仕方あるまい。私としては元の予定通り出かけるつもりだが、卿はどうする?」
私個人の用事ならともかく、知り合いと約束していたことなので守れるなら守りたい。
こどもはマグカップを持ったまま、とても衝撃を受けた様子で私を見上げた。
「この状態の私を置いていくおつもりで……!?」
「特に不都合はないのだろう」
「大ありだとも! よく見ろハイドリヒ、不都合しかないぞ!」
慌てて机の上にマグカップを置いた後、精いっぱい細い両腕を伸ばした。
「うむ、体は問題なく動くようだな」
「大きさが問題だと言っているんだが!?」
「言ってないだろう」
「今言った!」
「よしよし、わかったわかった。しかしいきなりすっぽかす訳にはいかないのはわかるだろう」
面倒くさくなって、こどもをひょいと持ち上げて自分の膝の上にのせて、ココアで汚れている口元をティッシュでぐいぐいと拭く。口を開こうとするたびにぐいぐい拭いていると、むぐー! と抗議の唸り声があがった。
「なら私も行く!」
「卿がそうしたいなら私は別にかまわないが、本当にいいのか?」
「わ! た! し! も! い! く!」
「だから私はかまわないと言っているだろうに」
ひしっとしがみついてくるこどもの背をぽむぽむと叩くと、服を握りしめる手の力が若干緩む。
意固地になっている気がするが、しかし忘れていないだろうか。今日はつまりこどもになってしまった男のこどもともいえる存在に会いに行くのだが。
首をかしげたくなるが、本人はといえば背を撫でているうちに落ち着いたのか、私の膝を陣取ったままふふーんとご機嫌そうにマグカップを手に取っていたのだった。