【aoom】私に触れなさい「私に触れなさい」
彼女の声が、がらんとしたオフィスに響く。そこそこ上等だがくたびれた印象の拭えないスーツを纏った男は、小さくため息をついて目の前の彼女を見下ろした。
「どうしてですか」
「どうしても」
オフィスの豪奢な椅子に腰を下ろしたオモダカは、いつになく堂々としていた。この女性……トップチャンピオンであり、上司でもある彼女とは、少しづつ距離が近づいている。これまで仕事で出会った相手とはあくまでビジネスライクな関係を保ってきたアオキにとって、それは異様な関係だった。
「……と、言われましても」
コンプライアンスだのセクハラだのの概念は、仕事に忠実なアオキにとって今更言われなくても身についている。あくまで業務上の繋がりしかない上司の女性に、自分が触れるなど。社会的に許されるはずがない。
「どこでもいいですよ。アオキ、私に触れてみなさい」
「出来るわけないでしょう」
あくまで強情な彼女の態度に、アオキは深々とため息をつく。
実際のところ……彼女と、肌を触れ合わせたことがないわけではない。彼女からアオキに向かって肩だの背中だのに手のひらを添えられる機会は日に日に増えていたし、たわむれに手を握られたことすらある。
……その度に、胸のうちに湧くざわめきに、気がつかないふりをしていたというのに。
「出来ないわけないでしょう?」
オモダカが、強気な唇を開いて滑らかに声をあげる。凛とした声は、言葉は、いつもなら、有無を言わせぬ響きを持ってアオキに業務を命令するはずなのだ。なのに、今は。
「ねえ。お願い」
彼女の長いまつ毛に縁取られた大きな目が、アオキの揺れる目線を捉えた。いっそ、命令してくれれば楽なのに。今の彼女はまるで、身体の隅々まで撫でてと乞う麗しい猫のようだ。だから、困る。
「……じゃあ」
アオキは、意を決して手を伸ばした。乾いた手のひらが、彼女の身体に伸びる。彼女は、それを黙って待ち受けている。
どうしよう?化粧を施した女性の顔に触れるなんて、出来るはずがない。かといって、その豊かな髪を撫でるのも、恋人同士のようだ。首筋になんて触れた日には……ますます、この関係が決定的に壊れてしまう気がする。
アオキは情けなく手のひらを宙でゆらゆらと揺らしたあと、そっと、彼女の肩に手のひらを置いた。労うように、挨拶するように。どうか、この手のひらの熱が伝わらないようにと、祈りながら。
「……味気ないですね」
オモダカが、不満げに呟く。恐恐と置かれたアオキの手に、オモダカのそれが重なった。彼女の指のなんとしなやかなこと。彼女の手のひらの、なんと柔らかく熱いこと……。
「どこに触れてもいいと、言ったのに」
きりっとした唇が、少女のような拗ねた台詞を紡ぐ。そこまで聞いて初めてアオキは、かっと頬を赤らめた。
……彼女の柔肌を、思い描かないではいられなかった。どこに触れてもいいとまで言われてしまっては。